東京の風俗 / 木村荘八
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して、段々「山の手」へ、御成門、神谷町、箪笥町、氷川町、新坂町、青山御所、片町、市ヶ谷本村町、加賀町、牛込北町、肴町、江戸川
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市ヶ谷本村町、加賀町、牛込北町、肴町、江戸川の大曲、富坂、春日町。これで元の本郷三丁目「かねやす」までの起点へもどる。この
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、向柳原、両国橋と円周は南下しつゝ、浜町、箱崎町、永代橋と、起点へかへる。
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内藤金右衛門、大野清兵衛など大番頭衆として、これが番町に住む。御鷹匠は隼町に住む。矢は悪魔を払ふ良材であると
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、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」を半周して、段々「山の手」へ、御成門、神谷町、
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。昔の東京――を問はず、日本全国、中国、満洲にも――はんらんした。例へば「仁丹」の、ひげをはやした
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を徒士で行く条件からの見つもりだといふ。博士曰く「丸の内へ一里半離れたところでは、活発な都市生活を営まうとするに、
丸の内から見てそこまでが「江戸の内」といふ川柳子のうがちは、故主兼
かつた商家筋であるし、山の手は名だたる武家町で、丸の内本丸の外廓を成してゐる。
時は飛ぶが丸の内に草蓬々として「三菱ヶ原」のあつたのは、久しく明治の景物画
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武蔵野、即、その上の江戸の土地を呼んで、月が草より出でて草
三菱ヶ原がすつかりコンクリートで埋まつた時に、――さしもの武蔵野も、その最後の一草まで、こゝで遂に新時代の姿に衣更へを
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十二、袋井通りで見附けられ、浜松の、木陰で舞坂まくり上げ、こちや渡舟に乗るのは新井宿。
、帆をあげて、扇開いて、舞坂の、こちや浜松越えて見附けらる。
地となつた土地柄で、一ころは徳川家康に従つて浜松から東下して江戸城の工事に従つた大工の棟りやう十人が拝領し
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まんねんや、鶴と亀との米まんぢゆう。こちや神奈川いそいで保土ヶ谷へ。
十七、思ふ心の神奈川や、川崎を、通れば、やがて六郷川、こちや大森小幡で鈴ヶ森。
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で神田川を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」を半周して、段々「山の手」
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の社殿を造営した時、これに堪ふる腕の工匠が鎌倉には見当らなかつたところから、特に宮大工を江戸の浅草から呼寄せて造営に
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六、登る箱根の御関所で、ちよいと捲くり、若衆のものとは受取れぬ。こちや新造
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なり、榊原康政は池ノ端向ヶ丘に住み、井伊は和田倉門、酒井は大手土橋口、城内西北に内藤金右衛門、大野清兵衛など大番頭衆として
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秀吉と家康とがいはゆる関東の連れ小便をしながら、小田原城を見下ろす山の上の談笑で、江戸移駐を秀吉がすゝめ、家康が受けた
天正十八年(西暦一五九〇年)の七月六日に、小田原城攻略成り、その十三日に家康の関東移封が発表されて、その旗本家人
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風景を残した明治画壇の逸才であつたが、当時横浜にゐた英人のワーグマンに絵の教へを乞はうと、志を立て
で、有島さん(生馬氏)の父上あたりは――横浜の税関長を奉職された――その行動を監視するためにワーグマンの足跡
をも貴重愛惜した。洋紙を獲ようがためには、横浜まで出かけて商館から、舶載して来たものゝ荷物の包み紙を乞ひ求め
尽し、英語会話編を編んだり新約全書の翻訳など行ひ、横浜にユニオン教会を建てゝゐる。思ふに博士の連れて来た建築工に依つ
て来た建築工に依つて建てられたか、あるひは当時横浜にゐた建築家に依つて建てられたものであらうが、それが純日本家屋
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試みに縮尺四万分ノ一の大東京地図の上で、宮城を中心に本郷三丁目までの直線を計つて見ると、これが曲二寸一分
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六、岡崎通りて藤川の、流れなる、赤坂越えて御油までも、こちや吉田、二タ川、白須賀へ。
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「本郷区」を改正して「文京区」としたのは、大森・蒲田を合せ
記録に依ると、本郷のあの辺は明治廿年左右までは一帯に雑木山と竹ヤブが多か
めくが、もともと森川町は「江戸の外」である。「本郷もかねやすまでは江戸の内」といふ寸尺から計れば、ゐなかだ
場合との開きの、四分のところに、例へば本郷でいへば、例の「かねやす」から東へ数町の、切通坂
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十八、お前と私は草津縁、ばちやばちやと、夜毎に搗いたる姥ヶ餅。こちや矢橋で大津の
、近江路や、まのゝ浦風身にしみて、こちや草津、石部の水口へ。
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を半周して、段々「山の手」へ、御成門、神谷町、箪笥町、氷川町、新坂町、青山御所、片町、市ヶ谷本村町、加賀町、牛込北町、肴町、
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花の藤沢過ぎかねて、神の露、ちゞに砕いて戸塚より、こちや保土ヶ谷までの物思ひ。
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芸で、はなしかの雷門助六が立つて踊る高座のお江戸日本橋は、「桑名の殿様」と共に、一芸のものだつた。派手な
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それはとにかくとして、桜田門から半蔵門あたりへかけて曲折する堀にのぞむ城に、石垣のない、青草の柔かな
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を中心に四通八達の道路を修正したのは、ローマが西欧大陸を定めるとまづ地域全体に渉つて道路を通したのと似
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四、往来をまねくをばな咲く、野尻より、亀山、庄野、石薬師。こちや追分行くのは四日市。
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片町、――龍土町、青山墓地、神宮外苑、台町、若松町。円周は北進して、早稲田南町、山吹町、江戸川、清水谷町……と、地図の
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打過ぎて、日坂の、小夜の中山夜泣石、こちや菊川渡りて、袖ぬらす。
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のに、俗史のいふ、秀吉と家康とがいはゆる関東の連れ小便をしながら、小田原城を見下ろす山の上の談笑で、江戸移駐
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実用主義の双へきと見て然るべきものだらう。家康は江戸城の堀を相するに当つて、その西に面する方角には堅固な石垣を築き上げる
柄で、一ころは徳川家康に従つて浜松から東下して江戸城の工事に従つた大工の棟りやう十人が拝領した――これが湯島
江戸城修築も本腰にこれにかゝつたのは文禄元年(西一五九二年)の三
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三、六郷あたりで川崎の、まんねんや、鶴と亀との米まんぢゆう。こちや神奈川いそいで
十七、思ふ心の神奈川や、川崎を、通れば、やがて六郷川、こちや大森小幡で鈴ヶ森。
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ましてこの道中唄には、先づ江戸から京へと「上り」があると同時に、向うからの「下り」も
徳川氏は覇業を達成すると、慶長八年に江戸の大土木を起し、日本橋もこの時その名と実の出来た歴史となつ
徳川氏が、覇を成すや、土木を盛んにして江戸を中心に四通八達の道路を修正したのは、ローマが西欧大陸を
昔は夜ともなれば、相当暗かつたものらしい。江戸に至つては、さらに暗かつたらう。御府内の「暗さ」がうなづけなければ、
なつて現はれ、そのわきに句が入れてあつた。「江戸の気に今日はなりけりのりの味」と。のりやの広告ででも
十四、江戸のうち、そと
と、帝大のまん前もすつかり田舎めくが、もともと森川町は「江戸の外」である。「本郷もかねやすまでは江戸の内」といふ
江戸の外」である。「本郷もかねやすまでは江戸の内」といふ寸尺から計れば、ゐなかだ。
を聞いたことがあつたが、昔の都会生活、「江戸」では、中心地から一里半のところを、東西南北共に、自ら「場末
したものだといふ。それで「かねやすまでは江戸の内」の寸尺が出て来るのだが、「一里半」とし
丸の内から見てそこまでが「江戸の内」といふ川柳子のうがちは、故主兼康友悦の、場末に稀な
してぐるりと円を描くと、この円の中が「江戸の内」といふわけではないが、本郷三丁目より地図の上で右回りに東
ならぬ切通坂ながら、これがためし斬り、抜打ちの名所で、江戸の親知らずだつたといふ。さういふ「江戸の外」が半径四分の開き
の名所で、江戸の親知らずだつたといふ。さういふ「江戸の外」が半径四分の開きの中にある。
橋は古くは元禄年間、初めてこの位置に架橋された江戸の大橋で、Y字形橋脚の木橋は、明治初年に架け替へになつた
せんさくすれば、必ずゆかりの深い根のあることは、「江戸」の名が、「入江のあるところ」といふ義に基くといふのも
からかへりみれば、江戸氏なる豪族あつたがために「江戸」の名があつたと逆説してもよい程の、この「土地」と
うと考へるわけである。徳川時代から明治へかけての江戸・東京の市邑ともあらう区域は、思ふにそれが古くは江戸氏が占め
氏が占めた範囲であつたらう。江戸氏は徳川氏が江戸を居城としてからはこれをはゞかつて、改姓して喜多見氏と称し
た場合に当つた。それから見ると、徳川時代の「江戸」はなほ「草」の一部分だつた。
家康は慶長八年に征夷大将軍となり(西一六〇三年)、江戸は天下の覇都となつた。天正十八年入国より数へて十四年目
武蔵野、即、その上の江戸の土地を呼んで、月が草より出でて草に入るとなしたのは
」は相当古くからこの土地に生活したもので、現に江戸(東京)には、これに随伴する芸術文化こそ少なけれ、縁起の古い神社仏閣
工匠が鎌倉には見当らなかつたところから、特に宮大工を江戸の浅草から呼寄せて造営に当らせたといふ史実の残つてゐるのは
当らせたといふ史実の残つてゐるのは、当時江戸に、然る可き「文化」の備はつた実証と見ることが出来る筈である
いふ)、わびしいことは、わびしい土地柄だつた。水戸から江戸に移り住んだ先住の佐久良東雄がいつたといふ「身は都に住めど
と推するものもあつた、けれども、一人として「江戸」とは考へるものがなかつたのに、俗史のいふ、秀吉と家康と
をしながら、小田原城を見下ろす山の上の談笑で、江戸移駐を秀吉がすゝめ、家康が受けたといふ。とに角この「移駐」のこと
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パリへ行くと今でも「猫の首くゝり横町」などといふ古い名
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九、江尻つかれて気は府中、はま鞠子、どらをうつのかどうらんこ、こちや岡部で笑はゞ
花染の、衣物の裾を振りはいて、こちや鞠子府中の賑ひな。
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で焦るゝ金ヶ谷で、思はずも、花の女郎衆は大井川、こちや二八ばかりの投げ島田。
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のは明治以後は――聞くことも少なくなり、雑曲ながら関西の「京の四季」こちらの「夕暮」「海晏寺」などと並んで、
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てゐるが、その中のこん棒片手の巡査の像や、江の島の茶店の女中の面影などは、浅井先生を更に縦に掘り下げたやうな、
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といふ古い名が町に残つてゐるさうである。何故東京も両国のトラや横丁であるとか、だいち、ぐんだいなどといふ名を、少しは残さな
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をよこぎつて赤羽橋、飯倉片町、――龍土町、青山墓地、神宮外苑、台町、若松町。円周は北進して、早稲田南町、山吹町、
さかりで、丁度その年の九月廿日が、団十郎を青山墓地に葬る秋雨の日であつたが、あくる日の廿一日から、読売新聞紙
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線をかすめて、勝鬨橋から浜松町、大門と上陸し、芝公園をよこぎつて赤羽橋、飯倉片町、――龍土町、青山墓地、神宮
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識らず訓へられ、導かれたのである。霞ヶ関の日比谷公園寄りにある海軍省などは、何は無くとも、諸外国に新興日本の「
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いつても、現在の形になる前の赤煉瓦だつた上野の博物館を知らぬ人はなからうし、又丸屋根はその後変つたといつても
その遺品を、時々上野の博物館にかけ替へで出てゐるのを見る時、ぼくなんかは身につまされ
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し、神社には、芝神明、神田明神、平河天神、湯島天神、山王、烏森稲荷、築土八幡、角筈の社、五条天神……等
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つていよいよなくなつてしまつた、日本橋、京橋、あるひは下谷、浅草などといふ一廓に限られるだらう。人体で云へばほんの爪先き
「切通し」は古く下谷から湯島台へと通路を切通したところから来た名だが、元禄
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――今さらぼくが喋々するまでもない――今では京都を西京といふ人も、その習慣もなくなつたやうだが、この「
ともあらうものが、たつた百円の月給で、わざわざ京都から東京の国民新聞へ出て来る(明治廿三年)などは、どう
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やばちやと、夜毎に搗いたる姥ヶ餅。こちや矢橋で大津の都入り。
夕つげ鳥に送られて、こちや、名残をしくも、大津まで、こちやえ、こちやえ。
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たといふ)、わびしいことは、わびしい土地柄だつた。水戸から江戸に移り住んだ先住の佐久良東雄がいつたといふ「身は都
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はでに演つたものが、座敷芸の場合には、「深川」「坊さま二人で」の件りなどさへ、たゝみ一畳と動か
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の正門前を左へはいつたところだ。――この文京区の一角は、こんどの戦災に焼け残つた。
「本郷区」を改正して「文京区」としたのは、大森・蒲田を合せて「大田区」とやつた
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文京区」としたのは、大森・蒲田を合せて「大田区」とやつた愚案に比べれば、良い方だつたが、ぼくは、相当
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東京の風俗
一、東京「パースペクチヴ」
が昔、そのころ東京日日だつた今の毎日新聞へ、東京繁昌記の画文を寄せて、「新古細句銀座通」=しんこざいく
亡友岸田劉生が昔、そのころ東京日日だつた今の毎日新聞へ、東京繁昌記の画文を寄せて、
、自分の絵と文とで書くけれども、掲題の「東京の風俗」を僕は「パースペクチヴ」で書くつもりである。「バーズ・アイ
編輯部から嘱されて「東京の風俗」といふものを、その岸田の轍に学び、自分の絵と
――東京「バーズ・アイ・ビュウ」ならば材料を広く横にとらなければならない
場合は、文意の基づくところを多少考証めかして、在りし東京の一断面を水平線上の焦点距離へ成るべくカツチリちゞめて見たい意味
の方が多い位である。元の山の手一帯から新「東京」へ編入された旧郊外地帯の大部分にかけて、文字通りさつぱり「
極く狭いものだけれども、されば「東京」も今の大東京となつては、どれ程知つてゐるかといふと、実は却つて知ら
しか知らない、眼界の極く狭いものだけれども、されば「東京」も今の大東京となつては、どれ程知つてゐるかといふ
神田の八丁堀界隈だけのことゝなる。ぼくも日本中で東京だけしか知らない、眼界の極く狭いものだけれども、されば「東京」も
東京といつても「お広うござんす」こといふまでもなく、これをたゞ
「ぼく」の東京はさういふ知らない部分で一杯である。それも上からの「バーズ・
ふ料簡は、持合せない。――が、兎に角、私の東京は、狭い上に、剰さへ、大変化をした。
いふ古い名が町に残つてゐるさうである。何故東京も両国のトラや横丁であるとか、だいち、ぐんだいなどと
、ふところ勘定抜きといふ自由奔放はやれないから、思へば東京生活も、昔は「やりが迎ひに来た」もので、美術館から
なつたやうだが、この「西京」こそは、新「東京」に対して、明治初年ごろに庶民の間で旧都を呼びならした、昔
東京がいつ帝都となり又「東京」といふ名になつたか、といふことは、衆知の八十年来
東京がいつ帝都となり又「東京」といふ名になつたか、といふ
東京もその発音は正規の読み方をされずに「とうけい」とな
第二には、その数々の歴史から見て面白い――東京有数の記念物だつたが……これについては項を改めて書くことに
を見ても、沢山ある秀れた安治(号探景)の東京名所絵の中で、優作の一つと考へられる、駿河町の、今
を立つたならば、さぞ足許の暗いことだつたらう。一体東京も、昔は夜ともなれば、相当暗かつたものらしい。江戸に
かういふ東京の漆黒は、幸か不幸か、われわれ年輩のものは、初めてこんどの事件
も明治もそのころほひは、遊士樗牛をして、東京にゐてさへ、夜空を仰いで「月夜の美感」について考へさせ
これが大正、昭和になると、東京では殆んど「月」は、あるひは月夜は――その美感を関知出来ない
東京の町は昔暗かつたやうである。明治も深くなつて、末年に
清水定吉は明治廿年代の東京の大盗であつたが、捕縛の後、裁判所で白状していつたこと
ならぬ。米僊が国民の「百円記者」になつて東京へ招かれた、これと同じ年に、浅草公園には、十二階が
あらうものが、たつた百円の月給で、わざわざ京都から東京の国民新聞へ出て来る(明治廿三年)などは、どうして
道がひどくぬかつてゐたといふ。それにも拘らず東京は大した人出で、そのためにヒル過ぎになると、さしもぬかつてゐた
この五月初め(昭和廿二年)に東京鉄道局が主催して、主として鉄道各駅の構内に人目を誘
の現品もそれぞれ駅に等級を示して張出されたから、東京の人の、眼にされた方もあつたらう。
年代記風な意味があつた。試みに思ひ給へ。昔の東京――を問はず、日本全国、中国、満洲にも――はんらんした
何かしらんホツとしたやうな心持がした。昔の東京の朝は、五月のさはやかな風の中を、金魚屋であると
大阪資本を思はせ、カフェーが一軒づつ増えるたびに、東京は関西方の東漸勢力に押される気色を見せたものである。
その各戸のなかの造作、畳建具に至るまで、広く「東京」といふ観点から見ての文献ものとなる。立つたまゝで骨董価値
今試みに縮尺四万分ノ一の大東京地図の上で、宮城を中心に本郷三丁目までの直線を計つて見ると、
以上はつまらない机上の思ひ付きの「東京地図円周遊び」のやうなものではあつても、前の二寸一
。鮮斎永濯ゑがくところの肉筆「はんした」で、東京名所それぞれの極く忠実な、実地写生に成るものだ。明治も廿年と
鶴三のところへ近ごろある本屋さんが、草稿のまゝの「東京名所」ともいふべき、四十七枚とぢの木版下絵を届けたが、
てゐるうちに、その橋クイ橋脚に関する示唆の、「東京の風俗」にかけて、小さからぬものゝあることを感じた。
、「天うつ浪」の連載がはじまる前の月から、東京には有楽町、神田橋と、新橋、品川間に、馬車に代つて、初めて
な問題を出しても見たいと思ふものゝ、一ころは東京に、「コンドルさん」をしのぶ記念――否、記念といふよりも、
ものだつた。ああその遺品さへも、今は現にこの東京で、手に入り難い。
――その後はどうなつたらうか。東京のかう壊れない前は、浜町公園に行くと、園内に誰しも何だら
その後変つたといつても、まさかニコライ堂を知らない東京に住む人はあるまい。――これもコンドルさんが建てたものである
、およそ赤煉瓦の古風なしつとりしたものは此の東京でコンドルさんならざるはなかつた。
ある。帝劇の出来るとうに廿年も前に、われわれの東京に劇場を備へたいと心されて、その完全な設計図も引いてくれ
、と志を代へたのであつた。それで清親の東京風景版画が残つたといはゞいへ、またこの人にして、油絵をより
卑近にいへばポンチ絵の開祖、歴史風に見れば数々の東京風景を残した明治画壇の逸才であつたが、当時横浜にゐた
のはかへつて良いことだつたかも知れない。最後に東京には、上野の西郷さんを初めとして、数品が残り、特に
戦争中は東京のいろんな建物が軍事用に使はれ、帝劇なども情報局の表札をかけて
参謀本部の建物は戦災につひえたものの中での、東京で惜しいものゝ一つだらう。殊に建築の内部の壁の装飾や、
考へるわけである。徳川時代から明治へかけての江戸・東京の市邑ともあらう区域は、思ふにそれが古くは江戸氏が占めた
その草全体を、初めて一括して一つの名――東京――の下に統率した場合に当つた。それから見ると、徳川
東京は後に市区を拡張して大東京となつたが、その時の膨脹した姿こそ、その昔この土地に
東京は後に市区を拡張して大東京となつたが、その時の
この江戸氏の古跡は今でいふ「東京丸の内」の中にあつたに違ひなからうといふけれども、全然いん滅して
相当古くからこの土地に生活したもので、現に江戸(東京)には、これに随伴する芸術文化こそ少なけれ、縁起の古い神社仏閣は
暮れてからは行けないところで、夏の日中などは、東京一の、虫のよく捕れるところだつた。
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、東京繁昌記の画文を寄せて、「新古細句銀座通」=しんこざいくれんがのすぢみち=と題する戯文をものしたこと
出て……もちろん、見物人は遠近挙つて毎夜銀座に雲集し、これは当時の三枚続きにも残るやうに、町の
電燈、いはゆるアーク燈である。その二千燭光のものを銀座の大倉組の前に点火したことは(明治十五年)――わざわざ
もいへば綱ッ引の人力や馬車に乗つて、銀座の新聞街を、肩で風を切つて行つた豪勢なものだが、
の問題が街の実地の俎上に乗つて来て、銀座の露店では率先して(昭和廿二年五月三日、新憲法施行
か云つた家の、軒の横がきの広告――また、銀座の洋服店大民の飾窓に、大礼服の、始終それがぐるぐる廻つ
・サインの始めは静止的で却つて人目を引いた。やがて銀座に引続いて大規模のカフェーが出来るやうになると、これは何れも派手な
へた時分にも、デパートといふデパート、その他、浅草、銀座、人形町……あたりの衣類店が、一斉にベニ赤ッぽいべらべらした
先生は笑ひながら、これを今でいへば、いろんな交通機関で銀座へ出るまでの時間、ざつと一時間――といふところを、ぐるりと
木村さんの今のおすまひは」とぼくに向つて「銀座まで出るのに何分かゝります?」
が、今同じぼくの家から、中野、鍋屋横町の近く銀座へでようとするには、どうもがいても「足」を、一時間半
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の上からする場合は、栃面屋弥次郎兵衛も熟知するところは神田の八丁堀界隈だけのことゝなる。ぼくも日本中で東京だけしか知らない
数へられたといふし、神社には、芝神明、神田明神、平河天神、湯島天神、山王、烏森稲荷、築土八幡、角筈の
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いよいよなくなつてしまつた、日本橋、京橋、あるひは下谷、浅草などといふ一廓に限られるだらう。人体で云へばほんの爪先きぐらゐの
になつて東京へ招かれた、これと同じ年に、浅草公園には、十二階が総工費五万五千円を以つて出来上つた。
を訴へた時分にも、デパートといふデパート、その他、浅草、銀座、人形町……あたりの衣類店が、一斉にベニ赤ッぽいべらべら
れたに拘らず、あの一角は焼けなかつた――いはゞ浅草の観音様よりも、火事運の良かつた土地柄といはなければなら
名物浅草のりの次第や観音堂の由来の古譚をくり返すまでもない。
鎌倉には見当らなかつたところから、特に宮大工を江戸の浅草から呼寄せて造営に当らせたといふ史実の残つてゐるのは、
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ぶりに区名が変つていよいよなくなつてしまつた、日本橋、京橋、あるひは下谷、浅草などといふ一廓に限られるだらう。人体で
二、お江戸日本橋
「お江戸日本橋……」といふ道中うたが伝唱される。これもその後は――
、はなしかの雷門助六が立つて踊る高座のお江戸日本橋は、「桑名の殿様」と共に、一芸のものだつた。派手
お江戸日本橋の道中うたは、本文通り日本橋を朝明けの七ツ(四時)に立つて、高輪へ来てちやうちん
お江戸日本橋の道中うたは、本文通り日本橋を朝明けの七ツ(四時)に立つ
一、お江戸日本橋七ツ立、初上り、あゝこりやこりや。行列揃へて、あれわいさのさ
下り」を作り添へたものかもしれない。「お江戸日本橋」とは人がいつても、「花の都は……」では
七ツにしても八ツにしても「お江戸日本橋」から立つのが定となつた。
基本として三十六町一里の塚を四方へ作り、日本橋からの東西南北を東海道、中仙道、その他甲州街道、奥州街道、下総街道……
達成すると、慶長八年に江戸の大土木を起し、日本橋もこの時その名と実の出来た歴史となつてゐるが、翌年(
「お江戸日本橋七ツ立」を持つて廻るけれども、七ツの午前四時にあすこ
走る手もあるまいが――ぼくは少年の頃に、日本橋通りを馬車で通ると、街のある家の軒先きに横書きの文字があつ
木も素地よりは黒で塗つたものが多く、一時の日本橋、柳橋、両国橋、永代橋など、皆これでないものはない。と
そして「お江戸日本橋」中心の諸計を立てたのである。
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は「やりが迎ひに来た」もので、美術館から上野の山下まで下りるにも車を拾つたものだし、頼まずとも町
が主催した、名画展(フランス絵画展)の如き、上野にあれだけの人垣を築いたことは、絶後ではないかも知れない
この春の上野は引続いて各展覧会の盛況を極めたことだつたが、かゝりもかゝるが
いつても、現在の形になる前の赤煉瓦だつた上野の博物館を知らぬ人はなからうし、又丸屋根はその後変つたといつ
良いことだつたかも知れない。最後に東京には、上野の西郷さんを初めとして、数品が残り、特にさうえらんだわけ
その遺品を、時々上野の博物館にかけ替へで出てゐるのを見る時、ぼくなんかは身
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二、恋の品川女郎衆に、袖ひかれ、のりかけお馬の鈴ヶ森。こちや大森細工
十八、酔ひも鮫洲に品川の、女郎衆に、心引かれて旅の人、こちや憂を忘れ
前の月から、東京には有楽町、神田橋と、新橋、品川間に、馬車に代つて、初めて電車が通りはじめてゐる歴史であつた
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それはとにかくとして、桜田門から半蔵門あたりへかけて曲折する堀にのぞむ城に、石垣のない、青草
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にも、デパートといふデパート、その他、浅草、銀座、人形町……あたりの衣類店が、一斉にベニ赤ッぽいべらべらした染地の
の原、こゝで神田川を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」を半周して
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た。これを繰り返して何度も吹き鳴らし、東京駅を出て、お茶の水へ来るまでつゞいた。前ならばやがて検査といふ年ごろの者たちだらう
省線電車でお茶の水から水道橋のところ、野球場の片わきに、昔は砲兵工廠の本屋だつた古風
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御成門、神谷町、箪笥町、氷川町、新坂町、青山御所、片町、市ヶ谷本村町、加賀町、牛込北町、肴町、江戸川の大曲、富坂、春日町。これ
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、「下町」を半周して、段々「山の手」へ、御成門、神谷町、箪笥町、氷川町、新坂町、青山御所、片町、市ヶ谷本村町、加賀町、
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川を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」を半周して、段々「山の手」へ
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湯島新花町、秋葉の原、こゝで神田川を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」
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と、佃島の川寄りの線をかすめて、勝鬨橋から浜松町、大門と上陸し、芝公園をよこぎつて赤羽橋、飯倉片町、―
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中に展かれた大隈氏の学園で、こゝから西へ高田馬場へ騎行すると、昔は将軍臨幸のやぶさめが行はれた。今風にいへ
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、竹町、向柳原、両国橋と円周は南下しつゝ、浜町、箱崎町、永代橋と、起点へかへる。
その後はどうなつたらうか。東京のかう壊れない前は、浜町公園に行くと、園内に誰しも何だらう?と思ふ、西洋のお
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がはじまる前の月から、東京には有楽町、神田橋と、新橋、品川間に、馬車に代つて、初めて電車が通りはじめてゐる歴史で
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うつ浪」の連載がはじまる前の月から、東京には有楽町、神田橋と、新橋、品川間に、馬車に代つて、初めて電車が通り
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省線電車でお茶の水から水道橋のところ、野球場の片わきに、昔は砲兵工廠の本屋だつた古風な赤
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区名が変つていよいよなくなつてしまつた、日本橋、京橋、あるひは下谷、浅草などといふ一廓に限られるだらう。人体で云へば
丁度そのころ、京橋の角に点ぜられたゼネラル・モーターズの大広告燈は、文字と絵が
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で右回りに東へと湯島新花町、秋葉の原、こゝで神田川を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留
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半径で永代橋へぶつかる。そのまゝ同じく円を描くと、永代橋から南へと、佃島の川寄りの線をかすめて、勝鬨橋から浜松町
寸一分が四分延びて、二寸五分半径で永代橋へぶつかる。そのまゝ同じく円を描くと、永代橋から南へと、佃島
柳原、両国橋と円周は南下しつゝ、浜町、箱崎町、永代橋と、起点へかへる。
十五、永代橋とその橋脚
てその方が有難い)特徴となるもので、ぼくはその永代橋図を見てゐるうちに、その橋クイ橋脚に関する示唆の、「東京
塗つたものが多く、一時の日本橋、柳橋、両国橋、永代橋など、皆これでないものはない。と、いふのは、これは、
はすまさぬ新工夫の人々があつたことゝ思はれる。永代橋も、所詮はそのグループの、気鋭斬新な人々が渡したことだつたらう。
当時その係りの人から聞いたことがあつた。昔の永代橋の人も同じ橋脚と、水瀬の関係をにらみ合はせて、さぞや
そこで一先づ押へたものと思はれる。――後の永代橋は震災後、復興して架橋するに当り、橋の重量をつつた橋上の
永代橋は川筋の潮入りを直接控へた水瀬の難かしいところと聞くが、橋クイ
永代橋は古くは元禄年間、初めてこの位置に架橋された江戸の大橋で、
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下町に転じて、不忍池、上野町、竹町、向柳原、両国橋と円周は南下しつゝ、浜町、箱崎町、永代橋と、起点へかへる。
は黒で塗つたものが多く、一時の日本橋、柳橋、両国橋、永代橋など、皆これでないものはない。と、いふのは、