両国界隈 / 木村荘八
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橋の対岸は本所区で橋を渡ると元町になり、回向院がある。この川沿ひの北は藤堂屋敷と云ひ馴らした百本杭のところ
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新柳町に新柳亭あり、昼夜義太夫をきかせ、生稲、千代川の料理、待合茶屋は柳橋に連なり、元柳町この辺は到処芸妓街にて、
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両国界隈
「……両国の広小路に沿うて石を敷いた小路には小間物屋、袋物屋、煎餅屋など種々な
嶺氏はわれわれ組が西両国だつたに対して、一人だけ東両国党だつた)、お互ひに昔住んでゐた土地のなるべく昔の一軒々々の家々の有
吉田白嶺氏も談合に参加した。白嶺氏はわれわれ組が西両国だつたに対して、一人だけ東両国党だつた)、お互ひに昔住んでゐた土地の
欄干の装飾模様に瞠目しつゝ、やがてこれなんかゞ中期両国の装飾風を後に伝へる、ほとんど唯一に近い文献になるものではないかと考
くは本間国雄氏の絵本「東京の印象」(大正三年版)で両国の絵を見て、この欄干の装飾模様に瞠目しつゝ、やがてこれなんかゞ中期両
るものだ。僕は両国界隈に悠遊したつもりでも、それは両国吉川町(ぼくはそこで生れた)を中心として東は隅田川を隔てゝ両国橋の対
は、所詮狭い地域を天地と考へて悠遊するものだ。僕は両国界隈に悠遊したつもりでも、それは両国吉川町(ぼくはそこで生れた)を中
両国界隈図
完全に少年期をすごしたので――ぼくは十七歳までこの両国界隈を天地としてゐた――少年期の終り時分にはいふまでもなく足もこの圏
はしかはしして鍵の手に廻ると、殆んど日の目を見ずに両国広小路へ出られたが、その両側は互の家がぎつしり背中合せで、ぼくの家は
大平といふのは、両国広小路に店を開く絵草紙店の版元であつたが、途中その職場の窓をすれすれ
いふ通りがあつた。方位からいへば横山町筋と平行する両国寄りの裏通りの一つで、東西に走り、われわれ子供はこれをトラヨコ町と呼
つた暗い道をうねうねつたはつて行けば、トラ横町より両国寄りにもう一筋先きの横町(加賀屋横町)の、桃太郎団子のところへ出る。
両国広小路の現況
店。さて浅草橋最寄には消防署派出所の火見櫓は高く、両国郵便電話支局、いろは第八番の牛豚肉店、栽培せる楊柳数十株点綴する間、
寿司と下戸上戸も舌鼓せむ。金花館といへる勧業場は、両国館と相対峙し、隣は大黒屋とて新板ものを売出す絵草紙店。さて浅草橋最寄
光亭も近く、楼船にて遊客は浮かれぬべし、吉川町には両国餅、同汁粉店は名代にて、紀文堂の煎餅、柳橋亭のてんぷら、松寿司と下戸
薬商の看板、四方商舗が和洋酒類罐詰、ならびて勧業場両国館、落語席の立花家福本、新柳町に新柳亭あり、昼夜義太夫をきかせ、生稲
一般に「両国界隈」は刊行本によれば上述のやうに記してあるのが常だが、横町の名まで
埋立て市店を開き葭川町と称し其の後今の字に改む、西両国西広小路にあり、両国橋旧位置の西に当れる地を称す。」
業銀行東京支店、五番地。古矢カマ、八番地(産婆)。両国恵比寿屋本店、九番地(餅汁商)。紀文堂、九番地(煎餅商)。」
元柳町に接するを以て、芸妓屋軒を列ねたり、表通りは両国広小路にて商家殷賑を極む。いろは第八支店、一番地(牛肉豚肉販売店)。
れた人の、この材料であつたならば、さぞやすぎ去つた両国界隈の面影は見る見るこゝに丸彫りに浮び上つたらうに。――心残りである
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伊勢家柳島カネ。評議員、花家福井トキ、同桝徳の家岡山うた子。それから平の芸妓が同町内で二番地から十番地まで順
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理事長、栄家酒井千代。理事、伊勢家柳島カネ。評議員、花家福井トキ、同桝徳の家岡山うた子。それから平の芸妓が同町内
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「……路地はいかに精密なる東京市の地図にも、決して明らかには描き出されてゐない。どこから這
なものは却々編輯の難しい仕事である、と。一般に東京案内の類で見ても、例へば、両国橋の側面から大写しに
なかつたことである。ぼくは本間国雄氏の絵本「東京の印象」(大正三年版)で両国の絵を見て、この欄干の
四十四年版)、それから雑誌「方寸」に拠つた諸家の東京写生等にそれが芸術的でもあればまた文献としても貴重の作品
馬東海道旅行さしゑ、明治四十一年版)、中沢弘光さん(東京印象記さしゑ、明治四十四年版)、それから雑誌「方寸」に拠つた
である。ぼくは少し聚めて見ると、小杉放庵さん(東京四大通さしゑ、明治四十年版)や平福百穂さん(牛と、ろ馬
てあるし、明治になつてから東陽堂版の「新撰東京名所図会」も、材料に対して忠実であつたから善本が出来上つ
が面白く、近ごろのものでは織田一麿や川瀬巴水の東京版画に、文献と芸術価値を兼ね備へたいゝものがある。
これでも困ると思はせる作例が多い。ワーグマンやビゴーの東京風物の写生は、結局類例の少ない、粗に流れず、密に堕さぬ
「東京案内、一名遊歩の友」と題する明治二十七年版の絵本に、わかりよく
張りて夜市を開く」(明治二十五年三月発行『新撰東京名所図会』より)
「東京案内」に現はれる公文書風の説明ながらこの本は東京市役所の蔵版ものだ。別に大正二年八月の出版もの「日本橋繁昌
これが明治四十年四月出版の「東京案内」に現はれる公文書風の説明ながらこの本は東京市役所の蔵版ものだ
多いのはこれでたちまち判然とする。東陽堂の「新撰東京名所図会」第二十七編、日本橋の三には(明治三十三年十二月発行
出版業)。金花館、三番地(勧業場)。横浜勧業銀行東京支店、五番地。古矢カマ、八番地(産婆)。両国恵比寿屋本店、
元柳町は吉川町の隣りの町であるが市役所の「東京案内」に、
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「横山町辺のとある路地の中」とあるのは、浅草橋から見て西へ、馬喰町の四丁目から一丁目へかけての片側と
両国橋の対岸に及ばず、北は神田川を隔てゝ浅草橋を越えて、瓦町に及ばない。両国橋の対岸は本所区で橋を
これへは小さいころから行き馴れたものゝ、平素は、浅草橋を渡つて瓦町まで進入することは滅多になかつた。(瓦町には
また神田川を境界として浅草橋を渡れば浅草区になり、その大通りは茅町、瓦町、須賀町……
対峙し、隣は大黒屋とて新板ものを売出す絵草紙店。さて浅草橋最寄には消防署派出所の火見櫓は高く、両国郵便電話支局、いろは第
「両国橋及浅草橋真図」模写
「両国橋及浅草橋真図」は、丁度ぼくの扱はうとする限りお誂へに写した井上
騒動の時に(明治卅八年)、この三角原と浅草橋とが「戦場」となつて人を橋向うへ渡すか渡さぬかの、
にアーク燈の柱の下へ行くと(学校は図の浅草橋のすぐ袂だつた)、きまつて三寸ほどの、黒い丸い棒が
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な物好きが小十年はかゝるといつたあんばいで、銀座通りの写真は腐る程あつても、横山町となるとばつたり少なくなり、
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の商品なり商法が、その貫祿を稍々大にすれば、上野や京橋筋に散兵線を敷いた「仲通り」的商法となるだらう。
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須賀町……といつた順序で北進して蔵前から浅草に向ふ。ひと頃島崎さん(藤村子)の住んでをられた新片町はこの
また神田川を境界として浅草橋を渡れば浅草区になり、その大通りは茅町、瓦町、須賀町……といつた
柳橋芸妓屋、事務所、日本橋吉川町一〇、電話浪花、略。浅草、略。理事長、栄家酒井千代。理事、伊勢家柳島カネ。評議員、花家福井
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瓦町、須賀町……といつた順序で北進して蔵前から浅草に向ふ。ひと頃島崎さん(藤村子)の住んでをられた新片町
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一方、自分の区内(日本橋区)の天地は、これも今思へばほんの狭小にすぎず、南は
蔵版ものだ。別に大正二年八月の出版もの「日本橋繁昌記」に従ふと、当時の戸数が読める。
○ 柳橋芸妓屋、事務所、日本橋吉川町一〇、電話浪花、略。浅草、略。理事長、栄家酒井千代。理事
する。東陽堂の「新撰東京名所図会」第二十七編、日本橋の三には(明治三十三年十二月発行)、吉川町の「概況」と
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伊セ家、竹二国家、山桜家、松新丁字、松恵比寿、増田、福の家、喜久家、秀栄家、梅福の家。
支店、五番地。古矢カマ、八番地(産婆)。両国恵比寿屋本店、九番地(餅汁商)。紀文堂、九番地(煎餅商
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一般に東京案内の類で見ても、例へば、両国橋の側面から大写しにした姿ならば何の本にでもその図が
神田川を隔てゝ浅草橋を越えて、瓦町に及ばない。両国橋の対岸は本所区で橋を渡ると元町になり、回向院がある。
で生れた)を中心として東は隅田川を隔てゝ両国橋の対岸に及ばず、北は神田川を隔てゝ浅草橋を越えて、瓦町
われわれ子供はこれをトラヨコ町と呼んでゐたけれども、両国橋に向つて右側の両国広小路(大通り)に、手前が居酒屋、向うが命
「両国橋及浅草橋真図」模写
が、絵の右端に遠くパースペクチブになつて消え込むところが両国橋、そのつき当りに大きく回向院の屋根が見えて、その並びの最右端に
「両国橋及浅草橋真図」は、丁度ぼくの扱はうとする限りお誂へに写し
其の後今の字に改む、西両国西広小路にあり、両国橋旧位置の西に当れる地を称す。」
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なり商法が、その貫祿を稍々大にすれば、上野や京橋筋に散兵線を敷いた「仲通り」的商法となるだらう。更にこれ
にあるものと思つてゐると、役所の都合で隣り町の京橋区木挽町五丁目三番地といふところへ「職権ヲ以ツテ」変更したと
やうに、徴兵検査の時分家をして以来、それは京橋区采女町一番地にあるものと思つてゐると、役所の都合で隣り町の
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は隅田川を隔てゝ両国橋の対岸に及ばず、北は神田川を隔てゝ浅草橋を越えて、瓦町に及ばない。両国橋の対岸は本所
また神田川を境界として浅草橋を渡れば浅草区になり、その大通りは茅町、
の名に改む。里俗元と表町裏町の称ありたり。神田川北を流る。」――かう説明される土地である。
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(ぼくはそこで生れた)を中心として東は隅田川を隔てゝ両国橋の対岸に及ばず、北は神田川を隔てゝ浅草橋