鏑木さん雑感 / 木村荘八
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や取沙汰に呼ぶ時は、「鏑木さん」または「矢来町」である。かういふ相手方のひとのいつとなく互ひの中で出来る呼び名は
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等々に始まる鏑木さんの個性はいつも清々しく美しいもので、築地明石町の絶唱を始めとして、近年の慶喜公もよければ、哥妓図も
のものにはそんな「汚ない」ものは一つも無い。明石町の秀人の如き、如何に綺麗な澄み渡つたものだらう。その人には手
た両腕のわき、乳や、胸のあたりにも、恐らく明石町の人は、汗をかいてゐない程だらう。
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見かけないやうだけれども、明治末の年頃はまだ盛んに東京の下町界隈にあつた、「移動図書館」風な貸本屋といふもの、学校
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「なじんだ」鏑木さんの度合ひは、もしかすると、上野以前の方が濃やかなものがあつたかもしれない。
知つてゐる。これは時経つにつれてぼくも亦上野の人間となつた関係から、ある時は口幅つたく批評なども申しつゝ
ぼくは勿論後に「上野」へ登場された場合の鏑木さんを知つてゐる。これは時
、私はさしゑの出のせゐでせう、どうも上野の出品ものといつたやうな仕事よりは、さしゑ風のものがかき
のまゝ、その画道の正しきを以て虚心平気に、只上野の山の絵ではない新聞のさしゑを描いたゞけの、平淡な
に注意しておくのは、「石井鶴三」は元々の上野出立ちからこゝに新規にさしゑの現役線へ従事した、大正度の
れた方もあつて、広業、鞆音などの、その後「上野の仕事」に転じて大名を走せた作家が、その一つの時期
胎動時代からかけて、やがて文展を機会として、「上野」といふ一つの格式、卑近にいへばその「ホン絵」のあり
した時代があつた。絵画史風にいへば、まだ上野の山が却つて盛観を兆さなかつた、胎動時代からかけて、やがて文展
渡るさなかの、さしゑ界から最後のバトンを受け継いでまつすぐ上野へ駈け込んだ選手――といつて良い立場の方に当るのである。
その中の、鏑木さんは丁度「さしゑ」時代から「上野時代」へとバトンの渡るさなかの、さしゑ界から最後のバトンを受け継い
それもなにも別段殊更に上野の駈け方を俄かに稽古された、いはゆる「駈け出し」なんぞでは
たわけである。やがて時が変ると、石井鶴三が「上野」から「さしゑ」スクールへ派遣された代表選手となつたやうに
をかしないひ方をすれば「さしゑ」スクールから「上野」へ派遣された、代表選手だつたわけである。やがて時が変る
偲ばれて、頭が下がるばかりだ。その後のたうたうたる、上野へ只ポスター・ヴァリューだけに絵を出品する下賤の風などは、鏑木さん
鏑木さんの先生水野年方さんが始めて上野へ作を問はれるために仕事を精進された模様を鏑木さんに聞く