街頭から見た新東京の裏面 / 夢野久作 杉山萠円
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た。不義者に同情し、心中に共鳴し(これは大阪の方が本家かも知れぬが)、野合を讃美する芸術が流行し、
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雷門をくぐって、観音様の前を左へ行くとすぐにわかる。
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たとえば、丸の内やその他各区の各方面の往来の到る処に行われている道路工事が、
下町に来てまっ先に眼に付くものは、丸の内に並んだ大建築である。そこに暴露された鉄筋コンクリートの悲哀である
というので、腕に撚をかけると、ここ東京の丸の内、日本丸の機関部という、堂々青天を摩する大建築を並べた。その中
、又は最新式の丸潰れや半壊れのすき間すき間を、丸の内一面にバラックが建て込んでいる。
以下の安バラック式で、何の事はない、目下の丸の内は、西洋式の大建築と日本式のゴチャゴチャした小店を詰め込んだ、極端
とにもかくにも、日本の中心の、その又中心の丸の内で仕事をする人達が、こうした安物で養われていることは、
同様で、表通りよりは新開地式であるが、それでも丸の内のソレより数等上である。今春あたりから粋な横町辺に並んだ格子
警視庁の人事相談所が丸の内のどこにあるか。どんな組織になっているか。そんな事はここには
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よりも多いのは無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の
一方に青山あたりのバラック民は敷地が陸軍省のものなので、市役所から立ち退きの日
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外神田の河岸近くの一帯は、あの大火に不思議に焼け残ったのであるが、その
亀井戸が最も多く、その次が浅草付近で、その次が外神田から巣鴨という順序である。又犯罪人が住んでいる場所は、第一番
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松平――花のお江戸か八百八町――昔にかわる武蔵野の、原には尽きぬ黄金草――土一升に金一升、金の生る木
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はいえ、古い「江戸ッ子」も居るには居る。ただ北海道のアイヌ人が、日本人に圧迫されて次第に衰滅して行くように、
呉服屋や老舗のシッカリしたバラックがチラホラとまじっている。北海道あたりの新開町でもこれ位の処はザラにありそうに見える。
あっし等あ、ふだん北海道に出かけている皮商人ですがネ。ちょうど北の方の千島、カムサツカ、北海道
皮商人ですがネ。ちょうど北の方の千島、カムサツカ、北海道の山奥あたりから引き上げて来る熊の皮屋から皮を仕入れて、あと月の
には二十八通りあって、価格もいろいろあるが、これは北海道の羆の皮だ。こんな立派な皮で、この通りお上の検査済みの刻印の
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神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町あたりの彼等の昔の巣窟を探検して見ると、どう
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した都市計画を遂行する役人を押し立てて、とうとう今のロンドンを作り上げた。
にだけ都合よく、進取的なプロ階級にとって不愉快極まるロンドンが、如何に新しい英国の発達を妨げたことであろう。
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が馬鹿にしていた賤しい武人が天下を取って、鎌倉を中心にして、反ブル的な剛健質朴な武人の文化を作った。
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眼まで診察してやる義務はない……と。今に親米になったらどうするだろうと思うが、そんな事は構わない。目下の人気さえ
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「富士と筑波の山合に、流れも清き隅田川」
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の画家を集めて裾模様の展覧会を遣ると、一方では西陣の腕ッコキ連を呼び出して友禅染の品評会をやるといった調子である。
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居るが、彼等は大抵下町に居る。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町あたりの彼等
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多いのは無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の江戸ッ子
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の事、そこの、公園に関する図を引く腰弁に、松戸の園芸学校の卒業生が居た。今の荒川公園なぞはその男が図を
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した大文字の正札式は浅草ばかりではない。神田、本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの一流どころに
数が震災前よりもすくないようである。変だと思って本郷、神田辺へ行って見ると、居るには居るが、それでも震災前より
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出た。秋の日と、赤トンボの流るる東京郊外から、牛込の宿まで帰りながら考えた。そうして思い切ってこの筆を執りはじめたこと
大文字の正札式は浅草ばかりではない。神田、本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの一流どころにもポツポツ
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記者はこうして、九月初めから十月半までの東京市中を、縦横むじんにあるきまわった。蜘蛛手掻く縄十文字に見てまわった
東京市政界の裡面に、何者か知らず大きな卑怯な事実が動き流れていることは
そのために東京市中をテクる腰弁の群れは、殆ど全部が雨天の時に長靴をはくよう
俄雇いの人夫を駆り集めて、九月の十日前後から東京市中にバラ撒いて、ドシドシ補修工事を開始した。それを記者は十四日
「こうして大いに東京市内の風紀を改善するのです。彼等がもし醜業を営んだことがわかれ
知れぬ。しかし東京市政の裏面を語るには、二人の東京市に対する告別の辞に註釈を加えるのが一番早道である。二人の言葉を
て、ムッとする位新しい東京気分を作りつつあるので、東京市はまるで生れかわって、古い江戸ッ子は絶滅したかとは思われる位である
何とかして東京市内に居る江戸ッ子の行衛を探る方法はないかと考えた末、納豆売り
いっても江戸ッ子が一番よけいに逃げ込んでいるのは、東京市内の各所にある市営の避難民バラックである。しかもここには江戸ッ子のあらゆる
か、又は経済上、精神上なぞのいろんな原因が手伝って、東京市外の最近の発展は驚くばかりである。二里三里の遠方から来る労働者は
東京市内に自動車が驚く程殖えた事、その流行や、ガソリン、運転手なぞの事
死体や罪人を別として、東京市内の人間を運ぶ自動車の種類がザッと四ツある。第一は自家用自動車で
先ず東京市内の大商店の広告をいろいろ見比べて見ると、第一に信用戦で暖簾
の全市に拡がっただけが昔と違うのである。東京市中の最大と称する以下の商店は全部が全部、広告戦の人呼び戦と
これを要するに、以下述べたところで東京市内の中流以下の商店の広告が如何に平民化しているか……否、
商店の広告が如何に平民化しているか……否、東京市内の商売振りが如何にバラック気分に充たされているかが容易にわかる事と
震災後、東京市中到る処に軒並べて(法螺ではない)出来た安飲食店や弁当屋、
生活にしろ住宅生活(すくないようで案外多い)にしろ、東京市内ならばダリヤの一鉢、市外ならばコスモスの十四五本も植え
なぞいうので、東京市内が次第に落ち付いて来た程度を説明している。
しかしこれは、東京市内の各署が若い巡査をドシドシ採用したり、震災を機として烈しい異動
次に面白い統計は、東京市内に於ける犯罪者の捕まった場所と、犯罪者の住所である。ここにその
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軒並みさ。おれはそのあとですぐに辞表をタタキ付けて九州に来たが、あとで聞くと、間もなくおれの課長も首をチョン切ら
「おめい、どこだい。フン九州か……感心に喰い方を知っているな。どうだい、一ツ、
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という意味で、福岡市のお医者様でこんな事をやったら、忽ち仲間外れにされそうな広告
特に九大を有する福岡市のために書き添えておく。
の広告法である。この方面の智識に暗い記者は未だ福岡市でこの種のものを見た事がないから、バラック式の一例とし
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海舟翁は、幕末の遺臣で、大勢に押されて江戸城を官軍に渡したとはいえ、新政府の連中の腹の中はちゃんと見すかし
ドン底に近づいた彼等の無気力さが、維新の時、江戸城を安々と官軍に明け渡してしまったのである。勝安房は彼等の無力
していたから、あんな手段を執ったのである。江戸城明け渡しは徳川国の滅亡であると同時に、江戸国民が亡国の民たる事実
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ているものならば、それ等をゼイロクと罵り去って、玉川上水に尻を使い、天下の城の鯱を横眼に睨んだ江戸ッ子は、正に
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源氏や北条氏を首石にしたのと違って、江戸に生れた平民の文化は、正真正銘、日本全国の寄り合い勢で作ったものに
彼等が「江戸ッ子」という集団を作って江戸の町々に根を卸して、最早どんな偉い人様が来ても彼等の
「江戸は何でも日本一だが、遊びの場所も日本一であった。上は芳町
江戸を呪う隅田川
れるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると
江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味がある
ほかに問題にせねばならぬのは、徳川幕府が江戸に於ける軟文学の流行をそれとなく奨励したことである。幕府は、
それとなく奨励したことである。幕府は、参覲交代で江戸に集まって来る諸国の武士を意気地なくするために、こんな方法を執ったと
隅田川が、その青黒い不可思議な力で、如何に江戸の住民に魅入っていたか。その川あかりが、如何に江戸ッ子を罪の
それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいの
「鐘一つ売れぬ日も無い江戸の春」
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に落ち付いたり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、又は深川、本所、千住あたりの乞食長屋に入りまじったりしている。そうしてそのほかの大部分
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……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力や菊……扨は又、歌沢の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳
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震災後、東京市中の道路は恐ろしく悪くなった。日比谷公園前の近江の湖を初めとして、新しい東京八景が出来ているが
日比谷公園のバラックの中に、子供二人を持った二十七八の婦人があっ
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記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあとで見に行った
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日光、京都、奈良そのほか日本の古美術や名所古跡に感心し、ゲイシャガールに涎を流し、
文化は先ず蘇我氏や藤原氏なぞいう貴族の手で、奈良や京都、浪華なぞを都として開かれた。それは勿体ぶった
ところを代表したのがこれ位のところで、紀文や奈良茂の昔語りよりも大分落ちるようである。
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日光、京都、奈良そのほか日本の古美術や名所古跡に感心し、ゲイシャガールに涎を
京都人が日本人の上品さと意気地なさを代表し、大阪人が日本人の
先ず蘇我氏や藤原氏なぞいう貴族の手で、奈良や京都、浪華なぞを都として開かれた。それは勿体ぶった、優に
の友禅だ。しかも最新流行の埃及模様と来ている。京都の織元で織り上げたところで疵が出来たから、こうして切って売る
式がバラック以来の流行である事は間違いない。先年、京都で或るお医者様がビラを配って大問題になった事を考えると
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に座ると間もなく、彼の大変災に出会った。高知の富豪の子で、人格者で、大男で、文芸趣味に造詣が深く、
ここに於て記者は、高知の富豪のお坊ちゃんと生れた永田氏が、東京を去るに臨んで
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時代は違っても、仏蘭西を亡ぼすものは仏蘭西国民、わけて巴里ッ子の「無自覚」である。英国の倫敦ッ子に於ける関係も同様で
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ソバ屋へ這入って見たが、ツユの味なぞは福岡あたりのよりおいしいと思った。薬味のネギの中に古葉と新葉とある
福岡あたりの電車は、小さな停留場を無闇に殖やして、お客を拾うことに腐心
押し及ぼされて来ることは無論で、時と場合では、福岡あたりでは滅多に見られぬ、釣り皮の奪い合いまで行われるようになっ
次はタキシーだの何かいう貸自動車と辻待ち自動車で、福岡のメートル自動車と同様なものである。賃金は東京の真中から端までが
運転手は電車のような制服を着た男で、車掌は福岡あたりの女学生と寸分違わぬ姿の若い女である。どっちが真似た
した物価調べなぞは抜きにして、東京の物価を福岡のソレと比較すると、牛肉が二倍、鶏が三倍、野菜や
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御定連は無いと云った方が早いくらい。しかも鰻は千葉から来るのだと、団扇片手の若い衆が妙な顔をして答えた
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、彼等は大抵下町に居る。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町あたりの彼等の
江戸ッ子としては少し品が落ちる。北の方から深川方面のは寧ろ貧民に近い方で、芝の金杉方面のは貧民では
江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、これは江戸ッ子
のバラックに落ち付いたり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、又は深川、本所、千住あたりの乞食長屋に入りまじったりしている。そうしてその
深川のセメント、安田邸、日本ビールなぞいう大建築がチラリホラリとしているだけ
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万世一系のミカドの居ます東京――。
黄色人種中最高の民族のプライドを集めた東京――。
僅か五十幾年の間に日本をあれだけに改造した東京――。
日本でモテたり、流行ったりするものの大部分はここからはじまる東京――。
ここの黄色いホコリを吸わねばならぬことになっている東京――。
と人類文化の最も高い方面を代表しているところもある東京――。
その東京が一撃の下に殆ど全域にまではたきつぶされたという事は、日本
更にその一度たたきつぶされた東京が、どんな腰付きで、どんな表情をして起き上るかということは、全
記者が震災一年後の東京を見に行ったのも、この意味に外ならなかった。
震災後初めて東京に行く人は、先ず品川駅に着くとホームの雑音にまじって、
しても新しいには間違いない。この塩梅では震災後の東京は余程新しくなっているであろう。交通巡査に自動人形を立たせ、市長
は考え、考えては見ているうちに、現在の新しい東京の裏面が次第に次第に見えすいて来た。あっちこっちで見たり聴いたりし
記者はこうして、九月初めから十月半までの東京市中を、縦横むじんにあるきまわった。蜘蛛手掻く縄十文字に見て
東京は如何に甦えりつつあるであろうか。秩序、真面目、光明、穏健といっ
いう言葉で片付けてしまいたいが、それすら出来ない程に東京の現在は意外な状態にあるのである。
知らぬ健全な地方の人々の頭を刺戟して、「東京がそんな風ならおれ達だって」といった調子に地方堕落の素因を
の人々に悪い影響を与えはしまいか、又はまだ東京を知らぬ健全な地方の人々の頭を刺戟して、「東京がそんな
。この中にある醜い事実や例証やが、さなきだに東京を唯一無上の都市と思っている地方の人々に悪い影響を与えはし
これを発表するのは、新しい東京の前途に希望を持つ人々に対して、あまりに残忍な仕打ちであるばかり
前、記者があらゆる讃辞を以て報道した震災直後の東京の人心は、かく短時日の間に、かくも浅ましく堕落し果て得るもので
あった。果してこれが東京の真相であろうか。かように東京のすべてが浅ましく恐ろしく見えるのは、記者の感違いではあるまいか。たった
の眼と耳を疑ったのであった。果してこれが東京の真相であろうか。かように東京のすべてが浅ましく恐ろしく見えるのは、記者
は、記者が自身の観察力に対する疑いであった。東京の裏面を見て驚いたと同時に、記者は自分の眼と耳を
こうした記者の最後の気弱さは、記者を東京市役所、警視庁、その他二、三の官庁に押し遣って、それぞれの当局者
はしませんが、全国地方の各新聞が一斉に『東京を救え』とでも書き立ててくれたら、いくらか刺戟になるでしょう。新聞
書いて下さい。東京の新聞にはいくら書いたって駄目です。東京のものが読んだって、堕落し切っているんですからちっとも感じはし
あなたの見た通りを地方の新聞に大いに書いて下さい。東京の新聞にはいくら書いたって駄目です。東京のものが読んだって、堕落
ていた。見かけだけ美しくて、内容の乱れ腐れて行く東京を見ながら、どうする事も出来ない人々のダラケタ頽廃した哀愁がこもっ
救いに来たって、木乃伊取りの木乃伊になってしまうよ。東京に一日も居れあ、大抵田舎が馬鹿臭くなるからね。アハハハハハハ」
「『東京を救え』も面白かろう。しかし大抵の奴が東京を救いに来たって、木乃伊取りの木乃伊になってしまうよ。東京に一
「『東京を救え』も面白かろう。しかし大抵の奴が東京を救いに来たって、木乃伊
人の門を出た。秋の日と、赤トンボの流るる東京郊外から、牛込の宿まで帰りながら考えた。そうして思い切ってこの筆
ないところもあるからである。唯これに依って、新しい東京の裏面が如何に浅ましく、悲しく、奇怪なものであるかということを読者
ジャンジャンジャンジャンジャン、「東京市長の辞職……」
「大道良太氏東京電気局長に就任と共に市長永田秀次郎氏の辞表提出云々」
「只今東京市長の椅子を去るのは実に遺憾千万である。殊に市街の整備を
東京市民の大部分は皆驚いた。そうして変に思った。
が市区改正の大事業……言葉を換えて云えば東京の改造……否、寧ろ日本文化の中心改造という大仕事を眼の前
寝ころんでも愉快に生涯を送れる身分でありながら、七面倒臭い東京の市長になって、兎も角も利欲に眼をくれず、どっちかといえ
市長永田秀次郎氏は、後藤新平氏のあとを受け継いで東京市長の椅子に座ると間もなく、彼の大変災に出会った。高知
東京市長永田秀次郎氏は、後藤新平氏のあとを受け継いで東京市長の椅子
名もバタバタと辞表を出して椅子を離れたので、東京は首無し死体どころではない。首から上が抜けてしまって、一時
奥歯に物の挟まったように叮嚀で、何だか「東京市長になるのは一大の恥辱です」という、恥辱の二字を光栄
」というような意味の宣言書を、新平の名前で東京中の新聞に発表されてしまった。「お前の旦那になってやる
度まで持って行くと矢っ張りことわられた揚句、「余が東京市を愛するのは、市長となって愛するよりも、市民として愛し
それはまあいいとして、最後に前の東京市長、今の日露政治ブローカー後藤新平の処へ持って行くと、一度
こうしてやっと東京市の首が出来て、市民も新聞もヤレヤレと云っているうちに、
恐れ多くも中村東京市長の御裁可書が、内務省と市役所との間で一時行衛不明に
て来る。前の東京市長永田秀次郎氏も、今の東京市長中村是公氏も、それから電気局長の大道朝臣もみんな後藤系
ここで又一つわからない事が出来て来る。前の東京市長永田秀次郎氏も、今の東京市長中村是公氏も、それから
東京市政界の裡面に、何者か知らず大きな卑怯な事実が動き流れている
と東京市民が相手にしなくなればなる程、彼等市政の黒幕連は勝手
こうして東京市民の頭は、刻一刻と東京の市政に対する興味を喪って行く。否、現在では、愛市心
こうして東京市民の頭は、刻一刻と東京の市政に対する興味を喪って行く。
、今昔の感に打たれざるを得なかった。今に東京の市政は、漢語の本家本元の支那のようになりはしないかと
折しもあれ、東京市長更迭に際して、こんな古めかしい漢語芝居が行われつつあるのを見て
いずれにしても、事実上、東京の市政はこうして次第に暗黒化されて行くのである。
を見ると、こんな風にトンチンカンに見える。ところで街頭から東京市政の裡面を見るには、新聞にたよるほかは、テクシーで見て
往来で買った新聞を通じて東京市政を見ると、こんな風にトンチンカンに見える。ところで街頭から東京市政の
側の提案か知らぬが、事実から推して見ると、東京市の道路工事は、都市計画なんぞはどうでもいい、復旧も復興も
それを東京市民はアッケラカンと立ち止まって見物しているのである。
た。日比谷公園前の近江の湖を初めとして、新しい東京八景が出来ているが、それは皆、往来に山や谷や湖や
震災後、東京市中の道路は恐ろしく悪くなった。日比谷公園前の近江の湖を初めと
そのために東京市中をテクる腰弁の群れは、殆ど全部が雨天の時に長靴を
て行く自動車の笛、雨の音、叫び声なぞいう修羅場が東京市中到る処に展開された。行って、実際に見た上で
こんな悪道路が東京市中の大部分を占めているのを打っちゃって、アスファルトや木煉瓦の上等
工事を見て、すっかり引っくりかえされてしまった。これも、東京市政裡面のダラシなさを暗示する、一つの太き材料ではあるまい
舌を捲いて感心した。その感銘は一年後の東京市の道路工事を見て、すっかり引っくりかえされてしまった。これも、東京
。それを記者は十四日頃やっと気が付きながら、流石東京と舌を捲いて感心した。その感銘は一年後の東京市の
俄雇いの人夫を駆り集めて、九月の十日前後から東京市中にバラ撒いて、ドシドシ補修工事を開始した。それを記者は
昨年の震災直後二三日の中に、東京市中の道路という道路は皆、人と車馬の混雑で穴だらけに
今から十何年前、東京市に初めて都市計画に関する課が出来た当時の事、そこの、公園
た)に過ぎないが、ここで考えて行くと、大東京の改造が如何に困難なものであるか容易に推察されるであろう。記者
「こうして大いに東京市内の風紀を改善するのです。彼等がもし醜業を営んだこと
な運動をした、その背後と正面には抜け目のない東京市政の有力者が立っていたというのだから、大抵察しが付く
、それにしても、こんな事にまで結び付けられ易い、東京の或る種の市会議員の平生の素行が忍ばれるではないか。火の
して来ると、東京の前途が思い遣られる。同時に、東京を中心とし、頭脳として生きて行かねばならぬ、未来の
同時に、こんな事実を見たり聞いたりして来ると、東京の前途が思い遣られる。同時に、東京を中心とし、頭脳として
ここまで観察して来ると、東京市政の裡面はハッキリとした焦点を作って読者の眼前に現像さ
、身体のこやしになること受け合いだそうである。殊に永年東京に住んでいると、こんなイカものが喰えるようになるらしいので、江戸
ところが東京市政でつかう砂利や石炭や鉄カンを喰うと、文化のにおいがして
目下の東京は、大仕かけの復旧から復興へと、全力を挙げねばならぬ時機
東京の市会議員は多少に拘らずこれがたべたいにちがいはない。この際、
「東京の市政はこのままにしておくとすっかり堕落し切ってしまう。第一
「東京市もたまには腰弁を雇って意見や指導を仰ぐ必要がある」
喰いをしたり、折に詰めて持って帰ったりする。東京市の真実の主人たる市民は、そのお流れを頂戴するために高い税金
東京市という一家の家令たる市長が知らぬ間に、台所で議員と吏員
そうでない。何等の利害関係なしに見ていると、東京市の腐敗荒廃を救い得る唯一の道は、このお坊ちゃんと腰弁の
、高知の富豪のお坊ちゃんと生れた永田氏が、東京を去るに臨んで述べた「遺憾」という言葉に同情し、又一介
しか思えないのである。しかもこのお坊ちゃんと腰弁の東京に対する「遺憾」を裏書するものが、かくの如く夥しく、到る処の
二人の言葉を記者が読んでみると、どうしても東京に対する捨てぜりふ、も一つ進んで罵倒の言葉としか思えないのである
知れぬ。しかし東京市政の裏面を語るには、二人の東京市に対する告別の辞に註釈を加えるのが一番早道である。二人の
言葉で救われようと思うのは非常識かも知れぬ。しかし東京市政の裏面を語るには、二人の東京市に対する告別の辞に註釈
日本の首都東京の市政の腐敗堕落が、政界の一お坊ちゃん永田氏、又は一
白日青天の下に此の如く無残に曝し出されている東京市政の破綻を見て、無限の感慨に打たれざるを得なかった。
。同時に日本全国の市政にあずかる人々は、この意味で東京を模範としようと努力していないとも限らぬであろう。研究に
自治制の欠点(うま味)を最も多量に持っているのが東京市なので、或る意味から見れば流石は日本の模範都市と云えるで
東京はちょうどそうなりつつある。
。恰も東京の裡面に何者かが潜んでいて、東京を出来るだけ永く復興させまい。いつ迄も暗黒状態に置いて、自治制を
ではその復旧すらも容易に行われそうにない。恰も東京の裡面に何者かが潜んでいて、東京を出来るだけ永く復興させ
素っ破抜くと、大抵は皮肉か憎まれ口になる。「新東京の裏面」の一篇もまたこの例に洩れない。
ねばならぬ。ことにその大部分の罪は、震災以前の東京市民、わけても吾が敬愛する「江戸ッ子」諸君が負わなければならぬこと
原因はどこにあるかと見まわして来ると、その罪は東京市民が負わねばならぬ。ことにその大部分の罪は、震災以前の東京
「江戸ッ子」というのは、つまり生え抜きの東京人で、吾が大和民族の性格の生ッ粋を代表していると云わ
ものと云えよう。その大和民族の精華たる江戸ッ子の故郷たる東京の市政が、どうしてこんなに腐敗して行くのか。
に名高いあの江戸ッ子の潔癖と義侠心は、こうした東京市政の腐敗堕落を見て何とも感じないのか。天下の旗本を
東京市政頽廃の裏面にはいろんな原因がかくれているであろうが、堀切前市長管掌
いて行われない事実が、東京では最も甚だしい。つまり東京人は、大和民族の実際上の無自覚性を、最も極端に発揮して
これがわかっていて行われない事実が、東京では最も甚だしい。つまり東京人は、大和民族の実際上の無自覚性を
否、これは疑問でない。明白な事実である。新東京の秋深きところ、十字街頭の見聞と所感が、自らここに落ちて来る
東京のバラック町をウジャウジャあるいている人間を、大別して二つにわける。
の刑事、有名な芸術家や選手なぞと心安ければ、現代式東京人としては申し分のない資格が付く。況んや女優と片言でも話
から押寄せて……又は前から居残って、新しい東京の気分を作りつつある連中で、江戸前の風味なぞはあまりかえり見ない
、手早く云えば、「江戸ッ子」というよりも「現代東京人」と云った方がわかり易い。震災後各地から押寄せて……
て、ムッとする位新しい東京気分を作りつつあるので、東京市はまるで生れかわって、古い江戸ッ子は絶滅したかとは思われる位
こんな連中がバラック町を横行して、ムッとする位新しい東京気分を作りつつあるので、東京市はまるで生れかわって、古い江戸ッ子は
次第に衰滅して行くように、彼等も現在の新しい東京人に押されて、衰滅の一路を辿っていることは疑われぬ。
記者は新しい東京人の裏面を研究する茲に、順序として古い江戸ッ子の末路を
記者は所要で東京に行くうちに、かなり江戸ッ子や江戸通の知人が出来た。そのため
に嬉しかろう。日本はどんなに強い美しい国になるだろう。早く東京へ行って、文化的自覚の洗礼を受けて、『江戸ッ子』になって
ないのか。ことに地方の青年少女たちは、死ぬ程東京を恋い焦れると同時に、一日も早く『江戸ッ子』になりたがっている
した政治をすることだと思う。田舎を嫌って、東京の新知識にカブレて、ルパシカを着て、カフェーで威張っている連中のアタマ
のだ。田舎者は『江戸ッ子』を崇拝すべからず。東京は大和民族の大きな事務所、又は勉強所に過ぎないので、そのほか
東京に初めて出て来て往来をあるく人を見て、真先に眼に付く
東京のことなら俺に聞けというような態度をしているものは、彼
、江戸ッ子の智識階級をすっかり冷固まらしているから、東京の市政が如何に腐敗していても、彼等には何等の刺戟
は、こうして青白く、つめたく、浅い光りを放ちつつ、東京市中をさまようているのである。そうして田舎者を魘えさしている
。そうした大どこの旦那衆や親方たちの御蔭で東京に帰って来て、新しい、又は昔の商売をやっている江戸ッ子
も飼っておくからという連中は、もうとっくの昔に東京目抜の通りに帰って来て、古いのれんの蔭から盛に芽を吹い
まま居据ったのもあるであろう。そんなのが、どれ位東京に引っ返して来て、どんな風に散らばって、どんな生活をしているか
資格を持っているのだから、焼け死んでいない限り、東京に帰って来ているに違いない。そんなのは今どこに居るか。
はないだろうし、調べてあるにしても、昔から東京に居る人間を江戸ッ子と見てある位のものなら何にもならぬ。
何とかして東京市内に居る江戸ッ子の行衛を探る方法はないかと考えた末、
いっても江戸ッ子が一番よけいに逃げ込んでいるのは、東京市内の各所にある市営の避難民バラックである。しかもここには江戸ッ子
あらかたわかった。勿論極めてあらかたではあるが、彼等の東京市に対する価値や権威を考えて見るには、これで充分である。
震災後、東京では救護事業が一渡り落ち付いて来ると、間もなく労働紹介や身上相談
即ち生っ粋の江戸ッ子はもとの処に帰っていない。東京郊外の空地の多いところのバラックに落ち付いたり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、
このほか東京近所の各府県、又は遠国に逃げ去ったままのものもあろうが、
た田舎っペイは、この一年の間に潮の如く東京市を眼がけて押寄せて来た。実に素晴らしい勢であった。
――安ッポイ、甘ったるい、毒々しいものに満足して、ドンドン東京の繁栄を作るべく働き始めた。
に横溢させている。彼等の御機嫌を取るべく、東京市中到るところに流れ出て来た浅草趣味、又は亜米利加風――安
になって引っ込んでいる間に、ドンドン彼等の趣味を東京市中に横溢させている。彼等の御機嫌を取るべく、東京市
よいところで、同時に住みにくいところともなっている。これは東京が江戸の昔から諸国人の集まりであるのに原因していること云う
すべてのつき合いが何となく現金式である。そこが又東京の住まいよいところで、同時に住みにくいところともなっている。これは東京が
東京に住んだ人は知っているであろう。壁一重向うは赤の他人
な馬力をかけても、この滔々としてみなぎり渡る新しい東京人の勢力には到底敵うまい。
いつまでも、みっともない家で塞いでいるわけに行かぬ。東京の恥、日本の恥だ。無理なことをせぬように何ヶ月前
から、そんなに困ることはあるまい。東京市民の税金で東京市民のために作った公園だから、そういつまでも、みっともない家で塞い
で家賃も高価くないから、そんなに困ることはあるまい。東京市民の税金で東京市民のために作った公園だから、そういつまでも
は真に口先ばかりであったか。彼等は真に東京の文化を背負って立つものではなかったか。彼等の腸は昔
、最早疑う余地はないであろう。彼等はその故郷たる東京市の市政がどんなものか、その選らむべき候補者がどんなものでなければ
同様にこうした彼等の無知さが、東京市政を今日の如く腐敗さしたことは、最早疑う余地はないであろう。
しかし「新東京の裏面」を語るには、どうしてもこの点を明らめねばなら
れることである。純粋の江戸ッ子……すなわち永年東京に居るもので、地方に親類を持っているものは極少数であると
親類が少いということである。日比谷を初めとして東京市内各所の避難バラックに逃げ込んだ避難民の中で、江戸ッ子が一番多いに
あることは、近頃の学問でよく問題になっている。東京ばかりでない、世界各国の都市がみんな間違いなくそうなって行くのだそう
昔円車が歌った隅田川――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔も今も江戸ッ子の滅亡を呪う
東京の中にはいくつも掘割がある。その橋や石垣、柳の下に
現代式の新東京人
ッ子」、すなわち「現代式東京人」が寄り集まって「新東京の新生面」を作りつつある。
そのあとへ新しい「江戸ッ子」、すなわち「現代式東京人」が寄り集まって「新東京の新生面」を作りつつある。
「バラック」という言葉は珍らしくなくなった。東京に行った人は飽きる程見ているように、バラック生活、バラック趣味、
、「サスガ東京」とすっかり感化されてしまう。「新しい東京人」が出来上るといった順序である。
でハイカラで……といった調子で、「サスガ東京」とすっかり感化されてしまう。「新しい東京人」が出来上るといった
新しい東京に来る人も何より先にバラックが眼につく。すべてがバラック式…
恐ろしいもので、こうして東京人の精神的生活の裏面には、チャンと「バラック」の感じが反映し
生れかわった彼女……「東京」は新しい「バラック」の着物を着てシャンシャンシャンとあるいて行く。どこへ
昔の東京の眺めは何となく奥床しいところがあった。彼の青黒く影絵のように
請合付きのものが、曰く「内外ビル」、曰く「東京会館」、曰く「有楽館」、曰く「丸ビル」、曰く「郵船ビル
アメリカへというので、腕に撚をかけると、ここ東京の丸の内、日本丸の機関部という、堂々青天を摩する大建築を並べた
東京会館は腰を抜かした。
その中にも飲食店は東京の安ッポイ処を代表していると云っても差支えない。カフェー、すき焼
が、こうした安物で養われていることは、「東京の裏面」に現われた興味ある現象と云ってよかろう。
震災前まで東京の空は、次から次に建った大建築のために高く高く押し上げられる
このにおいは、震災直後の東京を見た人たちの鼻に死ぬまで付いているのだそうで、云う
記者が今度東京に来た初めに、「鍛冶橋から日本銀行へ行く河岸をあるいて見ろ、
建築から、バラック以下の避難小屋まで見物したわけで、東京のバラックを批評するには充分と思われるから、ほかは略する。
ある。まだこの外に、いろんな特徴を持ったバラックが、東京市の内外一面に拡がっていることは云うまでもないが、しかしこれで
以上述べた処は、東京の中心の通りから、被服廠あたりまでのバラック振りである。まだこの外
只、東京の内外を通じてあれだけ猛烈な勢で建てられたバラックが、目下の
東京人は、その家が地震で潰れて、大火で焼けてしまうと、すっかり
そうした気分の東京人は、与えられたバラック建築の自由自在な手軽い特徴を利用して、持っ
かということは、「東京の裡面」を作る「東京人のあたま」を理解する上に就いて、バラックと同様の価値があるの
に人の神経をゆすぶっているかということは、「東京の裡面」を作る「東京人のあたま」を理解する上に就いて、
の気分に影響するものは、単にバラックばかりではない。東京市内の交通機関、わけても電車と自動車がどんな風に人の神経をゆすぶっ
受けずにいられぬ事は誰しも想像が付く。しかし東京人の気分に影響するものは、単にバラックばかりではない。東京市内
ッペラなバラック町の気分に朝から晩まで涵っている新しい東京人の気持ちが、そうした影響を受けずにいられぬ事は誰
東京市当局の言明を聞いて見ると、電車は目下が極度の増発で、この
するのは電車の昇降であるが、それにしても東京のはあまり極端である。そのせいか、この頃出来た新しい車台は、
と云うが、今ではその親知らずが東京中に拡がって、とても女子供や老人と構ってはいられない。生存競争
東京に来てから二週間ばかりの間に、停電と架線修繕のための停車
なるのだから、全く恐ろしい。これで電車が無かったら、東京の町はどんなになるだろうと思わせられる。
を逃げ出した。そのゆりかえしが今やって来て、以前の東京の約一倍半位にはなっている。
と、震災の時に約百万の人々が狂気のように東京を逃げ出した。そのゆりかえしが今やって来て、以前の東京の約一
生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の力で復興さるべく飢えているのだ。
、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の
の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京
その中には東京の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば
停留所や乗り換え場所だけ拾って行く。或る意味から見れば、東京がそれだけ広くなったとも云えよう。
震災後東京市内は、事務所といわず商店といわず、大抵はバラックで間に合わせて
か、又は経済上、精神上なぞのいろんな原因が手伝って、東京市外の最近の発展は驚くばかりである。二里三里の遠方から来る
、大層なシッカリした建築が出来ない代りに、矢鱈に東京の町は横へ広がる事になる。そこへ郊外生活に対する憧憬とか
こうして無暗にダダッ広くなった東京に、電車の急行が必要になったのは、当り前過ぎる位当り前の
必要があり過ぎる位あるのであるが、遺憾ながら今の東京の道幅では不可能である。結局、小さな停留場を廃して、朝から晩
内でこまかい用事を足すことはなかなか困難である。今に東京がもっと広くなったら、今一つ急行電車専用の線路を作らねばならぬか
は三時半から七時半まで、合計七時間というものが東京中の電車を急行にする。小さな停留場には止まらないから、市内で
、お客を拾うことに腐心しているようであるが、東京では正反対だから面白い。
東京は広くなるばかり。
この三ツの「ばかり」のために東京市民がどれ位神経過敏になるかは、実際に乗って見た人で
個人主義的の神経過敏たるべく、朝夕訓練されている東京人が、どんな性格に陥って行くか、どんな文化を作り得るか…
東京市内に自動車が驚く程殖えた事、その流行や、ガソリン、運転手なぞ
。某自動車会社の専務取締の話に依ると、現在の東京人は「家よりも自動車」という傾向で、万一事ある場合はこれ
死体や罪人を別として、東京市内の人間を運ぶ自動車の種類がザッと四ツある。第一は
賃金が一定しない欠点がある。それから、辻待ちは殆ど東京市の目抜の通りにしか居ないので、ちょっとオックウな場合が多い。
で、福岡のメートル自動車と同様なものである。賃金は東京の真中から端までが平均三四円程度であろう。三人も乗れば人力車
にそれぞれ停留場を作って活動しているのであるが、東京市内はこんな自動車が引っ切りなしに飛び違う上に、無数の貸物自動車や公私
以上述べた私立乗合いと円太郎自動車は、東京市内の主として下町の目抜の通りにそれぞれ停留場を作って活動
もので、殊にその音響と来たらちょっと形容が出来ない。東京の悪道路の事は前に書いたが、それだけに自動車や電車の
眼を光らし、耳を澄まして行かねばならぬのが東京人の運命である。そのためにその神経は益冴え、その気持ちには
以上述べたところで、東京の新しい町と交通機関が与える感じは、あらかた説明し得た事と信ずる。
強烈な神経にあおられ、交通機関の物凄い雑踏に押しもまれた東京人の神経が、如何にデリケートなセンチメンタルさにまで高潮されているかは
の新聞に多く見受けるようになったのは、そうした東京人の心理状態を強く裏書しているのではあるまいか。
そのつもりで東京人の商売振りを観察して見る。
この式の開山は矢張り浅草で、ここを中心として東京の商売は「現実化」して行くのではあるまいかと考えられる。
熊の皮屋から皮を仕入れて、あと月の半ばに東京へ着いたんです……。
御存知か知らないが、皮のなめしは東京が一番ですよ。梅雨時になって虫の這入るような事は絶対にない
職業紹介所のアブレじゃあるめえ。バラックの東京から鉄筋コンクリートの東京になるまで奮闘しようという人だろう。そのバラックの寒さを凌ぐにゃあ、
失礼ながら皆さんは職業紹介所のアブレじゃあるめえ。バラックの東京から鉄筋コンクリートの東京になるまで奮闘しようという人だろう。そのバラックの寒
加えると……大きく云えば人間世界……小さく見れば全東京のあらゆる商売振りを代表したものが、十八間四面のお堂のまわり
悪漢の毒牙にかかる患いは一切ございません。わけてもこの東京に於てお仕事を遊ばすお方様には、特におすすめ致します。指紋は
わかるであろう。そんな連中が、こんな品物に釣られる程度に東京慣れしない田舎者で、しかも、懐具合いは割り合いにいい事が推測される
た。現代式とか文化的とかいう言葉を理解する新東京人……半田舎者を相手にしていることがわかるであろう。
新東京人――即ち半分東京化したバラック住民の偉大な勢力は、単に浅草の商売に反映して
支店を作って、有らん限りの品物を送り付けた。もう東京は駄目だ、その代り地方が繁昌するに違いないと、機敏なところを
やったのと正反対の現象を呈した事。その勢が東京市中に数倍の飲食店を作り、安流行、安贅沢品を流行らせると
する方針を取った。即ち本店を復興すると同時に、東京市内各区に一つ宛デパート式のデパートを作ったが、それがズドンと
に名を知られている或る百貨店では、地震後の東京を見限らずに、却って大拡張をする方針を取った。即ち本店を復興
先ず東京市内の大商店の広告をいろいろ見比べて見ると、第一に信用戦
この辺まではまだ民衆的といいながら上品な方で、東京カブレをした田舎者釣りという気持ちがすくない。つまりバラック気分が薄い方で
の全市に拡がっただけが昔と違うのである。東京市中の最大と称する以下の商店は全部が全部、広告戦の人呼び
。又実際その通りであるが、只その風がバラック以来東京の全市に拡がっただけが昔と違うのである。東京市中の
尤も東京は元来こうした処で、何も今更驚くには当らぬと思う人
言葉を換えて、東京の商売の中心である下町の商売振りは、全然バラック式になったと
がこうした最新式の営業振りを見せる程、震災後の東京の商売は発達しているのだから、他は推して知るべしである
の不道徳な範囲になって来るともう数限りないので、東京の新聞の案内欄を見ただけで思い半ばに過ぐるものがある。しかも
広告が如何に平民化しているか……否、東京市内の商売振りが如何にバラック気分に充たされているかが容易にわかる
これを要するに、以下述べたところで東京市内の中流以下の商店の広告が如何に平民化しているか…
東京人の色別け
間の大地震と大火事とは、東京人の非常な多数を東京から追い出した。そのあとへそれ以上の地方人を迎え入れた。
この間の大地震と大火事とは、東京人の非常な多数を東京から追い出した。そのあとへそれ以上の地方人
その新しい東京人は次第に都会化して、現在その中途半端なところに居る。各種の
東京に居た人間の種類を加えて見ると、現在の東京にはどんな人間が居るかという事があらかたわかる。
この半分東京化した地方人の大多数に、従来から東京に居た人間の種類を加えて見ると、現在の東京にはどんな人間
この半分東京化した地方人の大多数に、従来から東京に居た人間の種類を
いの一番の筆頭は華族様、富豪なぞいう御方々で、東京では勿論の事、日本でも上流のパリパリ。汽車なら無論白切符か
腰弁がいる。学生の方は家族同伴が些ない事と、東京の復興に直接努力をしない事を特徴としている。その代り最新
を飾る女事務員、給仕女といった人々で、現在の東京の各階級の中で最大多数を占めている事は、町を歩いて
)なぞいう壮年青年の男、又は若い女が多い。東京復興の下廻りをやる労働者、又は復興気分を飾る女事務員、給仕女と
すると、中流以上は山の手から郊外に居るので、旧東京人が多い。それ以下が下町のバラックに居て新東京人となり、新東京
東京人の生活といっても一概に云えぬ。世界一の大都市だけに、
勿論地方にも居るが、東京には特別に多い。
何だか知らぬが、東京市の内外に空屋が殖えたのは事実である。新しいバラックもたしかに
こうした大商店の復活は、或る一面から見れば、東京の貴族や富豪、又は中流以上の階級が、震火災の打撃をあまり
然るにこの不景気も、日本橋から銀座という東京目抜の通りに来ると、余り眼に付かない。三越、丸善、ホシ製薬
「ジョジョ冗談じゃない。東京はこの頃とても遣りにくくて……」
コザコザした物価調べなぞは抜きにして、東京の物価を福岡のソレと比較すると、牛肉が二倍、鶏が三
しかも学校を出てブッ付け百円取れるところは、東京中に無いと云った方が早道である。役所の帰りに荷車を引い
この二ツは現在の東京の腰弁級の最高の理想と云って差支えない。この二ツの理想が
震災後、東京市中到る処に軒並べて(法螺ではない)出来た安飲食店や
生活にしろ住宅生活(すくないようで案外多い)にしろ、東京市内ならばダリヤの一鉢、市外ならばコスモスの十四五本
「東京の中流階級の男の風采がジミになった。その基調色は茶や
に彼等腰弁の仲間に流行しているかは、一寸東京に行った人でもすぐに眼に付くところである。
、たおれたりして、多勢の人が逃げ迷うのを見た東京人は、家とか財産とかいうものがまるで当てにならないもので
さなきだに東京の人間は、江戸の昔から家に対する執着心が薄かった。
こうまで魘えてちぢこまっているかと思うと情なくもある。東京の新聞に大きな標題を付けた地震の学説がこの頃まで出ているところを
進化か退化か知らないが、東京人がこうまで魘えてちぢこまっているかと思うと情なくもある。東京の
生活者を殖やしているか、そうしてそれがどれ位まで東京の風俗を乱しているかは、話の筋をそれるから後まわしにする。
女は無論の事……というこの二ツが東京にどれだけの独身生活者を殖やしているか、そうしてそれがどれ位
東京人の憧憬する文化生活を研究するには、先ず「文化」という言葉
頃、文化納豆というのが出来たというから八百屋(東京の)に行って見せてもらうと、羊羹包の位なヘギの折りに
なのか、その辺はまだ研究中であるが、現在東京市の内外で見受ける文化住宅には、バラック建築の余興位にしか見えない
又、東京市中をまわって見ると、新しい鳥屋がかなり多い。這入って話を聴い
例のバラック気分と心安いのは云う迄もないので、東京人の魂はバラック生活と文化生活との間をフラ付いている。商売
東京の学生は全国のあらゆる種類と階級を網羅している。
のもあれば、地方の人には学校と見えて、東京に来て見ると事務所だけというようなのもある。
東京に家のある学生の生活は一寸見当が付かぬが、為替党に
近頃東京の往来を歩いて見ると、学生仲間に鳥打帽が非常に流行している
ような奇術を使う事が出来るかという事は、苟も東京の学生たらんもの片時も忘るる能わざる研究問題であるのみならず、
東京の学生の制帽と鳥打帽の使い分け方を街頭から見ただけでもかなりいろいろ
鳥打帽と関連して、東京の学生の生活を街頭に示しているのはその服装である。
今度東京に来て暫くウロ付いているうちに、記者は不図妙な事に気
冠るまい、鳥打帽を冠ろうと心掛けているので、トドのつまり東京で朝から晩まで真面目に制帽を冠っているのは、浅草の仲見世や
これを要するに、東京の学生はみんな出来るだけ制帽を冠るまい、鳥打帽を冠ろうと心掛けているの
東京の中流学生の生活の中で鳥打帽一つを研究しても、かほどに
こんな風だから彼等東京の学生生活には、一般人の生活と違った底抜けの自由さと奔放さ
等はこの鳥打帽式の自由な奔放な生活振りに依って東京を色付けている。風俗、商売、女等に彼等の思想傾向を反映
一葉落ちて天下の秋である。震災後の東京に於ける制帽の凋落……鳥打帽の流行は、単に学生の平民化、
、その新文化の骨子たるべき新智識と新思想は、東京の学生が挙って冠る鳥打ち帽の下に養成されている筈である。
が揺り出したものである。将来の新日本の中心文化が東京のバラックの下に芽生え育まれているものとすれば、その新文化の
東京市中の第三階級、即ち赤切符等は現在どんな生活をしているか
、九月の中旬頃までと見る事が出来る。……東京市中の手まわしのいい新聞社が、無代配布をやめて、月極めにし始め
この事実を逆に考えると、東京全市民が最も甚だしい酸鼻な境界にいたのは、九月の中旬頃
以上の筋道を裏面から見ると、東京市中の人々は、生命を助かる道から生命をつなぐ道へという差し
も非常に夥しく持ち込まれた。すなわち震災後二三ヶ月の間、東京市中の家や人が別々の意味で宙に迷いつつあった事を
なぞいうので、東京市内が次第に落ち付いて来た程度を説明している。
大正十三年度の三四月頃は、東京中の人気があらゆる意味でグラリと引っくり返った時機と見られているが、
震災直後の節季まではこんな現象は見られなかった。東京の復興を目がけて地方から押し寄せた連中は、皆引っぱり凧にされて
東京市中は次第に落ち付いて、ソロソロ日本中の不景気の影響を受け始めた
連れて、田舎の不景気にアブレた連中、又は前の年の東京の景気を聞き伝えた面々が、何という事なしに押上って来たの
もともと震災直後の東京に押寄せて来た連中は田舎者にきまっているので、欺され易く、
東京は今日までもこうした職人の供給過剰となっている。
東京の震災後、一般民心の昂奮状態は実に異状なものがあった。男
人事相談でも、よく観察するといろんな筋道があって、東京市民――もしくは現代人の生活の裏面の或る物を暗示している。
離婚だけが来る。しかもそれが大正十三年の春以後の東京に激増した事は、新日本の新紀元を画すると云ってもいい位
これ等の事実を煎じ詰めると、現在の東京で最不幸な結婚をするものは、学問のある婦人と技術を持つ婦人
震災後の東京には、結婚媒介を商売にするものが雨後の筍のように出来た
。それでも相当に繁昌しているのだから恐ろしい。東京の人々は棄て鉢で結婚するのではないかと思われる位である
東京の犯罪地帯
東京市中でほかの犯罪はみんな殖えているのに、殺人傷害だの、
震災後の東京は一時無警察に近い状態となって、寂寥たるバラック街に強盗が盛
については、いろんな見方がある。第一は震災後の東京市民が一体に文化的――言葉を換えて云えば理智的に気が弱くなっ
東京の人間が温柔しくなった、言葉を換えて云えば文化的に利口になっ
しかしこれは、東京市内の各署が若い巡査をドシドシ採用したり、震災を機として
数が恐ろしく減った事になっている。これは明らかに東京市中の震災後の人気を物語っているので、殊にそれが、震災の
しかし又前記の表に依ると、東京市中で詐欺脅喝や横領がかなり増加している一方に、捕まる数が
これに反して東京市中の賭博は非常に増加しているが、捕まる数も同様に非常
序に書いておくが、震災後の東京に賭博の殖えた事は非常なものである。その中でも支那式
次に面白い統計は、東京市内に於ける犯罪者の捕まった場所と、犯罪者の住所である。ここ
の北部、吉原と浅草を中心とする一帯の地域は、東京に於ける犯罪者の根拠地といって差支えないであろう。
極めて大まかな眼で見ると、東京の北部、吉原と浅草を中心とする一帯の地域は、東京に於ける
東京市中の第三階級の生活はこれ位にして、浅草と活動写真
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新宿……方面行乗換えエ……品川ア――……品川ア――……お早く願いまアす……」
ア……山の手線、新宿……方面行乗換えエ……品川ア――……品川ア――……お早く願いまアす……」
「品川ア――……品川ア……山の手線、新宿……方面行乗換えエ……品川ア――
「品川ア――……品川ア……山の手線、新宿……方面行乗換えエ
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「品川ア――……品川ア……山の手線、新宿……方面行乗換えエ……品川ア――……品川ア――…
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男が図を引いたのであるが、その男が、浅草公園の第六区の道路を広めないと衛生上悪いというので、
今度の震火災を機会に、浅草千束町の醜業窟が一掃されたという。行って見ると、成る程無い
彼等から袖の下を貰ってぜいたくをしているとか、浅草区から立つ候補者は醜業を理解しなければ立つ資格が無いとか云われ
の大部分は彼等醜業婦が持っているのだとか、浅草に来る警官はみんな彼等から袖の下を貰ってぜいたくをしているとか
醜業婦のために拭うべからざる汚名を受けているのです。浅草区役所の収入の大部分は彼等醜業婦が持っているのだとか、
、二度と再び営業出来ないようにするのです。元来浅草区はこれ等醜業婦のために拭うべからざる汚名を受けているのです。
から、開いた口が塞がらぬ。何の事はない、浅草区内に今まで居た醜業婦をほかへやって、あとに今までよりも白首
は、後の研究問題に楽しんでおくとして、取りあえず浅草の新券番に行って、芸妓の名寄せを取って見ると六百名ばかり居る
御機嫌を取るべく、東京市中到るところに流れ出て来た浅草趣味、又は亜米利加風――安ッポイ、甘ったるい、毒々しいものに満足して
生え抜きの江戸ッ子のように贅沢でなかった。その趣味は浅草程度で充分であった。彼等は古い江戸ッ子がバラック趣味を軽蔑し
を菊屋橋伝通院の方へ、平凡なバラック気分を通り抜けると浅草へ来る。
この気分の中心は、無論、浅草の第六区であるが、ここは論外である。
尤も論外と云えば浅草全体が論外かも知れぬが、震災後はそれが一層甚だしくなった。ヘド
ボンヤリと浅草に来て見る。ここならいろんな商売があるだろうという了簡である。
「如何様」とも何とも云わないから、何だか浅草らしくないような気がする。
の下に隠れてしまっているのもある。この辺が浅草式であろうか。
こうした現代式は単に浅草の仲見世に限らない。第六区の方へ抜けて行く左右の通りの
、それでも相当に人だかりがしている。この辺も浅草式の代表的なところであろう。
そのほか浅草のカフェーの菓子、握りすし、盛すし、天プラ、印形、青物なぞ、
浅草辺の店ではショーウインドに凝った趣向なぞを用いない。旗や看板
響く大きな声で正札を云う。これに屁古垂れる人間は浅草で物を喰う資格はない。
ギリギリ決着のところ、浅草で正札の付いていないものは、「女」だけと云ってもいい
となって行くところを見ると、この式の開山は矢張り浅草で、ここを中心として東京の商売は「現実化」して行くの
にもポツポツ見受けられる。しかしこの式の最も盛なのは浅草で、ここを遠ざかるに従ってチラリホラリとなって行くところを見ると、この
こうした大文字の正札式は浅草ばかりではない。神田、本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通り
ある。そこを最も露骨に大道に表現しているから、浅草の店は現代式と云い得るわけである。追々と世の中が世智辛くなっ
浅草ではそんな気兼ねは向うにもこちらにも無い。お金はこちらのもの、
こう考えて来ると、浅草の観音様はエライものである。この無言と正札一点張りの仲見世の商売振り
の商売振りには及びもないが、日本中の商店が浅草式の「無言正札」で、時間と人間経済の現代式一点張りになった
鎖なぞは説明までもない。友禅と名づくるものは、浅草の活動館のメリンスの旗や何かを強い薬で色を抜いて、
のは疾の昔の事。三人で一円持って浅草に行って、活動を見て、すしを喰って、それで電車賃が余る
を作った。その統計の眼目となっているものは、浅草に来る人々の懐にいくら金があるかという事である。
の金を持っている事がわかった。それが現在の浅草に於ける芝居、活動の観覧料の標準となり、延いて日本全国の
れたものだそうだが、その結果、あの雲霞の如く浅草に押し寄せる人々は、平均三人で五円の金を持っている事が
取りあえず三人で五円持って浅草に来ると、一人前七十銭の活動を見て二円九十銭残り、二
浅草の空に翻る旗差し物、鐘、太鼓、鳴り物の響き、鬨の声、矢叫びの
中でもどんな客筋が一番余計金を持っているか。浅草に来る最上のお客様は矢張り昔の通り赤毛布諸君であるかどうか。
浅草一帯の店の「正札無言主義」は、明らかにこの狙っている客筋が
これだけの口上を聞けば、浅草に来る人々にバラック住居の稼ぎ人が多勢居ることがわかるであろう。そんな
いずれにしても浅草は昔の浅草でなくなった。赤毛布が上花客でなくなった。現代式とか文化的
いずれにしても浅草は昔の浅草でなくなった。赤毛布が上花客でなくなった。現代
即ち半分東京化したバラック住民の偉大な勢力は、単に浅草の商売に反映しているばかりでない。第一流どころの大商店の商売
、二度も商売のかわった店を見受けた。尤も、浅草の六区界隈の地代は一坪で三四十円は間違いなく取られるので
に殖えなくなったようである。それかあらぬか、浅草へある用事で一ヶ月ばかり通っているうちに、賑やかな店のかわった
で朝から晩まで真面目に制帽を冠っているのは、浅草の仲見世や縁日に出て来る物売りの角帽だけと云っても過言でない
第一番が矢張り亀井戸で、その次が南千住、巣鴨、浅草という順で、あとはズッと落ちるが坂本署、四谷署の管轄内と
掲げると、捕まった場所は亀井戸が最も多く、その次が浅草付近で、その次が外神田から巣鴨という順序である。又犯罪人が住ん
して知られていることは云う迄もない。震災後、浅草やその他の醜業婦を一掃したと誇っている当局の統計に、こう
極めて大まかな眼で見ると、東京の北部、吉原と浅草を中心とする一帯の地域は、東京に於ける犯罪者の根拠地といって
市中の第三階級の生活はこれ位にして、浅草と活動写真、醜業婦の現況、不良少年少女の研究に移り、この稿を終る
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、永田市長が去ったあと、市長の事務管掌として堀切という若いお役人が来た。その人は、中村是公さんが市長に
その性格や何かもかなり知っている。これに反して堀切という人は全く知らない人であるが、この意見には賛成である
た「遺憾」という言葉に同情し、又一介の腰弁堀切氏の「意見」に共鳴せざるを得ない。何だか弱者の肩
が、政界の一お坊ちゃん永田氏、又は一腰弁堀切氏の言葉で救われようと思うのは非常識かも知れぬ。しかし東京市政
頽廃の裏面にはいろんな原因がかくれているであろうが、堀切前市長管掌はその原因を「選挙民の無自覚」に帰している。
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、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町あたりの彼等の昔の巣窟を探検して見ると、どうしたこと
地名をクリックすると地図が表示されます
大抵下町に居る。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町あたりの彼等の昔の巣窟を
の商売の二大中心は、何といっても神田と日本橋の両市場であるが、宵越しの銭を持たぬ彼等は、仕入れを
、金の生る木の植えどころ――百万石も剣菱も、すれちがいゆく日本橋――。
表通りか銀座の裏通りか、もしくは日本橋辺のソレ以下になって来て、その中に名高い呉服屋や老舗のシッカリ
……今でも河向うには相違ないが……日本橋、京橋、神田なぞいう江戸ッ子の本場で商売をしくじった連中の逃げ込み処
然るにこの不景気も、日本橋から銀座という東京目抜の通りに来ると、余り眼に付かない。三越
地名をクリックすると地図が表示されます
や郊外に居るが、彼等は大抵下町に居る。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町
神田の青物市場付近なぞは随分神経をとんがらして見たが、成る程、江戸ッ子
兄い連の商売の二大中心は、何といっても神田と日本橋の両市場であるが、宵越しの銭を持たぬ彼等は、
この程度のバラックが神田あたりまで続いているが、一度万世橋と東京駅を連ねる高架線のガードを潜ると
今でも河向うには相違ないが……日本橋、京橋、神田なぞいう江戸ッ子の本場で商売をしくじった連中の逃げ込み処であった。
こうした大文字の正札式は浅草ばかりではない。神田、本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの
震災前よりもすくないようである。変だと思って本郷、神田辺へ行って見ると、居るには居るが、それでも震災前よりは
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は純江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、これは
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あたりには純江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、
たり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、又は深川、本所、千住あたりの乞食長屋に入りまじったりしている。そうしてそのほかの大部分は
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は無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の江戸ッ子町
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は請負師といった風である。非道いのになると、新橋の芸者を落籍して納まっている親分や、共同水栓で茶の湯を立てている
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記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあとで見
上野に近付くと、バラックの趣が又違って来る。銀座あたりのソレがどこ
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記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあと
の事実は江戸ッ子に親類が少いということである。日比谷を初めとして東京市内各所の避難バラックに逃げ込んだ避難民の中で、
辺の商売の大顧客とするものは、主として日比谷の避難バラックの住民と、前に述べた大建築の修繕や何かに
一つ序に地震の御蔭を云えば、前に云った日比谷や芝離宮(これは焼けてしまったが)、その他の避難民小舎に
と云って日比谷のバラックに帰った。
の男がその四十恰好の青い男を連れて彼女の居る日比谷バラックに押しかけて来た。青い男は一寸した羽織を着て袴まで
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当局では堪忍袋の緒を切らして、去る十月中旬、月島のバラックであったかに吏員を派して、片っ端から屋根をメクリ始めた
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銀座に来ると模様がガラリと違う。
なバラックが犇き並んで、見様によっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。何しろ日本目抜の商店が、「サア来い。
表通りか銀座の裏通りか、もしくは日本橋辺のソレ以下になって来て、その中に
上野に近付くと、バラックの趣が又違って来る。銀座あたりのソレがどことなく気取って、勿体ぶっているのに反して、
本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの一流どころにもポツポツ見受けられる。しかしこの式の最も盛なのは
記者の「眼」を驚かした眼のお医者がある。銀座尾張町の四辻で電車を待っていたら、袢纏着の男がビラを一
然るにこの不景気も、日本橋から銀座という東京目抜の通りに来ると、余り眼に付かない。三越、丸善
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て、際限が見えなかったことも一度あった。それは小川町でのことであった。
日か九日であったと思う。午後七時頃、小川町の交叉点の架線工事が、十五分間、三方の電車を喰い止めた。その
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文化住宅は市内にもチラチラ見える。中野や大崎には集団を作っている。文化住宅の模型だけを並べている建築屋
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は、第一番が矢張り亀井戸で、その次が南千住、巣鴨、浅草という順で、あとはズッと落ちるが坂本署、四谷署の管轄
最も多く、その次が浅草付近で、その次が外神田から巣鴨という順序である。又犯罪人が住んでいる場所は、第一番が
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ということは、市民にちっとも知られていないらしい。隅田川にも、大きな橋が一つ二つ新しく架けられているようであるが
江戸を呪う隅田川
あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に、記者は、この河に呪われて刻々に減っ
衰亡の事実を見たり、聞いたりする度毎に、あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に
「富士と筑波の山合に、流れも清き隅田川」
、雨さえ降るなら濁るるなれど、誰がつけたか隅田川ドンドン」
――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔も今も江戸ッ子の滅亡を呪うていようとは滅多に気
と昔円車が歌った隅田川――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔
。しかし江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な
隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱
隅田川は昔から水ッ子の初まった処であった。
隅田川はこんな残忍な、つめたい流れなのである。
も掘割がある。その橋や石垣、柳の下には隅田川から汐がさし引いている。この浄化作用は、こうした深刻な意味の
隅田川が、その青黒い不可思議な力で、如何に江戸の住民に魅入っていたか
てその流した子は、一朱内外を添えて、隅田川のほとり、本所の回向院へ収めたという事が書き添えられている。
その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
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。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽町、新富町あたりの彼等の昔の巣窟を探検して見る
京橋を渡りすこし宛落ちて来て、バラック気分が次第に露骨になって来る
…今でも河向うには相違ないが……日本橋、京橋、神田なぞいう江戸ッ子の本場で商売をしくじった連中の逃げ込み処であっ
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両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である
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先ず嘉永六年に日本に来て、浦賀の港で大砲というものをブッ放して、「文明開化」という珍らしいもの
日本の建築界は浦賀の大砲以上に仰天した。