大岡政談 / 尾佐竹猛 作者不詳None
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に逢事ありて誠に物騷ゆゑ何れにも今晩は此熊谷宿へ御宿りあつて明朝はやく御出立なさるが宜しからん入らざることゝ思し召も有
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身代になりしと聞少しく落付然らば是より江戸へ下り本郷へ尋ね行て身の落付を頼まんと思ひけれども元來吾助は船に
に着にけり然るに吾助江戸は始てなれば何れが本郷にや西も東も分らぬ故小倉にて聞たる通り本郷二丁目にて呉服商賣
跡形もなし依て又々元の手ふりとなりければ再び本郷の甲州屋へ行仁左衞門に右の事を物語りて無心を言けるに仁左
又遣ひ切て本町の小猿の方へ無心をいひ又本郷の仁左衞門と兩家へ打て違ひに無心を言懸否と言ば以前の事
をなして其夜の事共一々白状に及びたり扨又本郷の甲州屋仁左衞門は本町の肥前屋小兵衞が召捕れし事を聞ける故南無三
申候其者の名前一人は先妻の甥源次郎と申只今本郷金助町に罷り在當年四十五六歳に相成家内困窮には候へ
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日野家家來逐電の始末は毎年八月十五日城州男山石清水八幡宮放生會に付參向の公家衆あり抑々此正八幡宮は其昔時 應神天皇を
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へ態々行夫も賑ふ日暮里をば嫌ひて見榮なき土地の音羽を通て行と云は世に珍しい人も有と口には言ねど幼稚
打伏しが然問れては包に由なし實は今日音羽まで行たる時に箇樣々々厠へ入んと七丁目の鹽煎餠屋と炭團
あれと考へしが漸々思ひ附事ありて明日疾起出音羽の方へ至るに附ては案内者に和吉を連て參りますと主個に
嬉しさに初の不平も何處へやら後に引添出行きつ音羽の村へ差掛り七丁目まで來りければ確に茲等と忠兵衞が歩行ながら
怜悧な樣でも幼稚なる和吉は家を立出て音羽の町へ至りつゝ路地へは入しが何處で聞んと其所等迂路々々
兵衞を手に懸たる者なれば解放せしとて直音羽へ返さば如何なる災禍起らんも計られず又渠親子も家主を害せし土地
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ば女房何事か出來したかと驚き今日は商賣用にて栗橋まで參りました故申刻過には大方戻りませう併し御役人樣へ申
間違ひは申上ませんと云故役人共然れば其方早々栗橋へ案内致せと直樣申刻過頃より出立なし三間町の虎松は是より御用濟
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曰此護摩刀のことは柴刀とも申よし是は聖護院三寶院の宮樣山入の節諸國の修驗先供の節柴を切拂て護摩の
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山住は謹んで平伏なし某儀は日野家の御内山住河内と申者に候此度御用有るに付召呼れしは如何なる儀に候やと
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是よりは名を嘉傳次と改め大坂へ出夫より九州へ赴き所々を徘徊し廻り/\て和歌山の平野村と云へる所に到りける
事十分調ひぬと身は伊勢參宮の姿に窶一先九州へ下り何所にても足を止め幼顏を失ひて後に名乘出んものと
は早くも定めたり先大坂へ出夫より便船を求めて九州へ赴かんと大坂にて兩三日逗留し所々を見物し藝州迄の便船ある
扨は左樣の人なるか某も此度據なき事にて九州へ下るなれ共此用向の濟次第に是非とも關東へ下向の心得なれ
は面倒なるべし如ず此より上方に取て返し中國より九州へ渡んにはと遂に四國に立越しが伊豫國なる藤が原と云ふ山中に
の時に毒殺したり尚も幼顏を亡さん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望を企つるには金子なくては叶ふ
自分は盜賊に切殺されし體に取拵へ夫より九州へ下り肥後の熊本にて加納屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子を
天一坊進出て其金子の事にて思ひ出せし事あり某先年九州へ下りし砌り藝州宮島にて出會し者あり信州下諏訪の旅籠屋遠藤屋彌次六
公用方の御身分は如何と問に是は中國四國九州の探題の公用方なれば矢張御直參同樣に候と答へける戸村然
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と勇ましく出立し既に三河國岡崎の宿へぞ着しける此岡崎の城下は上の本陣下の本陣迚二軒あり天一坊は上の本陣へ
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置は心遣ひ殊に隣り近所は皆々不肖の渡世をする族而已丹波の荒熊三井寺へ行う/\と云張子の釣鐘或は鉢叩き願人坊主などと云者
より三井寺の辨慶は長屋中を觸歩行しに仲間なる丹波の荒熊又は皿廻し烏の聲色遣ひなど皆々此浪宅へ來り樣子を覗き見て
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の拔擢の如く考へるものがあるが、山田奉行の地位は伊勢神宮所在地なるが爲め、重要なる地位である。故に從五位下能登守と叙爵し
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五人扶持下し置れしかば意伯はお作の方と熊野の山奧に蟄居し十七年目にて御目通りなし又増扶持として五人
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後影を伏拜み實に有難き御慈悲なり然ながら我々身延山を僞りし佛罰にて空恐しき目に逢しならん早々御詫をすべしと下男
へ立歸させ番頭忠兵衞へ内談の上金子を取寄せ身延山へも金十兩を納めて御詫をなし漸々日數を經て駿州木綿島村へ
たり扨又原澤村の百姓文藏夫婦を呼出され其の方共身延山へ參詣の途中關所を通るのは如何と存じ廻り道を致し候と申せども此儀
題目講の講頭水田屋藤八を見忘れたか汝等能く聞け身延山の會式戻り罪作りとは思へども見るに忍びぬ此場の時宜命は暫時助け船七十五
つり江戸より歸國の旅中瀬戸川にて難儀の機私し儀身延山へ參詣の歸り掛け幸ひに行逢見兼しまゝ盜賊共を追散し私し方
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近江の由なれど江戸へ商ひに出し歸りにて是より名古屋へ回り其後京大坂へ仕入に上るにより供をさせて呉れよと云
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やと尋けるに水主等は確とは分らねど多分は兵庫の沖なるべしと答けるにぞ杢右衞門は吉兵衞に向番頭樣貴所の
僅た二日二夜で數百里の海路を走り早攝州兵庫の港に參たり明朝は元日の事なれば爰にて三ヶ日の御規式を
ば爰にて三ヶ日の御規式を取行ひ四日には兵庫の港なり共大阪の川尻なり共思し召に任せ着船すべしと云ふ吉兵衞熟々
すべしと云ふ吉兵衞熟々考ふるに今大阪へ上りても兵庫へ着ても船頭が熊本へ歸り斯樣々々と咄さば加納屋利兵衞方
なる有樣を見て吉兵衞は杢右衞門に向ひ兵庫の沖を今日出帆せんは如何といふ杢右衞門は最早三が日の規式も
て出帆すべく存ずると云に水差も然ばとて承知し兵庫の沖をぞ出帆したり追々風も少し吹出し眞帆を七分に上て走
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が江戸のさる大店へ嫁入なされしが聟樣を嫌ひ鎌倉の尼寺へ夜通の積りにて行れるなり出入の駕籠舁善六といふが強て
どもにも咄たり然ばとて十人の内より三人を鎌倉の尼寺へ遣はし殘り七人は其儘龜屋に宿りて鎌倉の安否を
尼寺へ遣はし殘り七人は其儘龜屋に宿りて鎌倉の安否を相待ける其日の夕暮に及び尼寺へ行し人々は立歸ける
を悉皆く討亡ばして源氏一統の御代となし御自分は鎌倉に居ながら日本草創武家の天下として武將の元祖と仰がれ給ふ事
は手早く押止め其方は豫て出家の望み有て相州鎌倉なる尼寺へ參り度心願の由夫故豫て我に暇を呉よと申せ
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引立連歸る然ば九郎兵衞は仕損ぜしを忌々しく思ひ仁田村の八と云ふ獵人の宅へ引越居る處へ手先の幸八と云ふ者此事
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兩の金を路用にと懷中して其夜は十三里淀川の船に打乘一日も早くと江戸へぞ下りける
ちはやふる神代も聞かず淀川に
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徳川の天下永く續き難き故東照神君の深慮を以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞ありしが許されず二代
降誕まし/\ける其末の太子を關東へ申降し給ひ比叡山延暦寺を關東へ移し東叡山寛永寺を建立す是宮樣の始めにて一品
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廿兩餘を請取頓て古郷へ急ぎける斯て山路に掛り小松原を急ぐ程に身には荒布の如き半纏を纏ひし雲助二人一里塚の邊より
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墓は神奈川縣高座郡小出淨見寺にあり、裏面には「御奏者番寺社奉行俗名大岡越前
家内の者もホツト溜息を吐計なり斯て善六は神奈川臺へ行て駕籠を下し棒組と咄しけるは只今龜屋方の挨拶に昨夜
爰に大膳は神奈川の旅店にて婦人を切害し思ひ懸ぬ大金を奪取たれば江戸は面倒なる
右大膳儀先年神奈川旅籠屋徳右衞門方に於て旅人を殺害し金子を奪取其後天一坊に
侍士金用にて出立と馬士の咄を耳に挾み神奈川より付て參り江尻に於て其侍士を切殺し金銀諸品奪ひ取
往に今宵は先藤澤泊りと心懸鶴見畷など打眺ながら神奈川臺も打越し處に町人體の男半四郎の後になり先になり來りし
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信房卿は御同家青山百人町なる松平左京太夫の養子となり青山の屋敷に在せり扨また大納言光貞卿の惣領綱教卿は幼年より病身と雖も
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は主命に因て江戸屋敷を出立なし大坂へと赴く途中箱根も打越て江尻へ泊り急ぎの旅なれば翌曉寅刻頃に出立しける
閑なく翌日となりしかば又同道して次の夜は箱根を越三島宿の長崎屋嘉右衞門と云旅籠屋へ着けるに宿の女ども立
はず夜を日に繼で行程に早晩大井川をも打渡り箱根の峠も難なく越え藤澤の宿に泊りたる其夜友次郎は俄に熱氣強く
に合せて置ねへと成やせん時に旦那急なら箱根を御越成れさうなものだに矢倉澤通は何か御用でも御座ります
出は御座りませぬ併昨日雲州の御飛脚が咄には箱根を一昨日とやら御越成れまして富士の根方廻はりが二三日掛ると
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に遊びしが或時遣手若い者を呼て我等は八丁堀に旅宿して當分上方へは歸らぬ積り上方より御當地は勿々面白く
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しが原田平左衞門と云市中廻の同心或夜亥刻過根津の方より歸り懸池の端へ來懸りしに誰やらん堀を越垣を乘
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道玄次郎は渠等より其知せもなき故一向知らず千住宿にて左仲が樣子を見付しかば此原の入口にて左仲に追付十分に仕事を
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用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上樣の
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も羽織袴に改め駕籠等は懇意の町人の家に預置小石川指て急ぎ行に夜は次第に更稍四ツ時と覺しき頃小石川御館
に提灯持鎗持草履取三人越前守主從四人都合十人にて小石川御屋形を立出數寄屋橋御門内なる町奉行御役宅を指て急ぎ行早夜
んとする時御徒士目附聲を懸暫らく御待有べし小石川御屋形の御使者御供の人數を調べ申さんと有ゆゑ主税之助答へ
御身と主人よりも申付て候何樣の儀候とも小石川御屋形の御意と御申立あるべし其内には屹度宜しき御沙汰有べしと申
置暇乞して歸りには主從六人にて表門へ出來り小石川御屋形の御使者只今歸申す開門ありたしと申ければ番人また人數
に申べしとの上意に直樣伊豆守殿越前守同道にて小石川の御館さして急行ける小石川にては綱條卿今朝奉行越前病氣全快屆けを出せし
に直樣伊豆守殿越前守同道にて小石川の御館さして急行ける小石川にては綱條卿今朝奉行越前病氣全快屆けを出せし由定めて屋形へも
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憎み我子の爲に邪魔成んと終に咎なきお安を牛込神樂坂水茶屋兄吉兵衞の方へ歸しけり斯先代よりの家來に暇
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は我が儘増長し五十鈴川を※止て魚類を取り又は神路山に分入て鷹を放し遊興は日頃に十倍仕たりける是に依て
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働らき前書に顯はし置たる通り後藤半四郎の道連となり三島宿の長崎屋と云ふ旅籠屋に於て半四郎が胴卷の金子を盜取んとして引捕へ
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此所を悠然と立去り頓て旅支度をして相摸路より甲州へ到り是より所々方々と遊歴なし種々樣々樂しみ居たりける扨も翌日所
なし夫より鰍澤の御關所へ掛るが路順なり都て甲州は二重の御關所あり土地は御代官の支配ゆゑ御關所手形を願ふべき
を出立窺ひ居たり此三人の中頭立たる一人は甲州にて名高き惡漢韮崎出生の雲切仁左衞門といふ者なり若年の頃より
より此傳吉方に食客となり居けるが此傳吉は先年甲州へ行ける折雲切仁左衞門方に少しの中居たる事ありて三吉と兄弟
出高輪へ來りし時仁左衞門大音揚コレ三吉汝は先年甲州にて金子配分せし砌方々申合せしを一向に用ひず我等兩人へ無
罷り在しぞと尋られし處仁左衞門私し儀は甲州に住居仕り候と申立ければ大岡殿然らば汝等享保十一年十二月廿
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松屋の若者又は近所の者共などを多く引連て江の島へ參詣し其歸りに島の茶屋にて酒宴を始めけるが又隣座敷に是
島の茶屋にて酒宴を始めけるが又隣座敷に是も江の島へ參詣と見えて藝妓二三人を引連陽氣に酒を呑居たる
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揚げて日を暮し夜に入るを待て其處を立出で夫より松戸の渡しも漸々通り越小金が原に差掛りけるに扨物淋しき原中ゆゑ先腰
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越後國頸城郡寶田村百姓憑司并に妻早奉申上候私し同村傳吉と申者親類に
夥多しく出張なし居けるに程なく榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓傳吉一件這入ませいと呼び込む聲と諸ともに訴訟人憑司お
込に相成役人衆列座致され時に大岡殿越後國頸城郡寶田村百姓上臺憑司と呼れ其方儀是迄段々吟味に及びし所
其方は種々の事を云奴なり己れは生國越後國頸城郡寶田村上臺憑司が悴昌次郎三箇月以前猿島河原に於て親憑司と謀り人
榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓 憑司
榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村名主 傳吉
榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村組頭總代 吉兵衞
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御座りますが未だ此邊へ御出は御座りませぬ併昨日雲州の御飛脚が咄には箱根を一昨日とやら御越成れまして富士の
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の中にて思ひ續進ぬ足を引ずりながら後に從ひ音羽町の七丁目迄來りしが長三郎は此時は頻に腹痛なし初め堪へ難なく成し
は是迄夥多の人に用ゐ屡々功驗を示せしより今度音羽町の浪人大藤武左衞門の娘お光が矢張癲癇の患ひありとて愚老の
は覺ん息子は吾儕が能樣に言ゆゑ和郎は音羽町へ早く行ねとせり立られ忠兵衞今は理の當然に迫られたれば
は頻に麁忽を悔い再度婚姻を結んとて翌日忠兵衞を音羽町へ遣たりしが此時已に家主は殺され父子は行衞の知ぬとて
こそ便なく思ふ可ければ元益は醫業を廢して更に音羽町の町役人となり庄兵衞の跡を相續して母勝に孝養を盡し
一同は打連御門を出にけり斯て元益は音羽町へ立歸り我家を終了て母の方へ同居なし醫業を廢止て家主となり
が衣類其の他をも此方より持せやり忠兵衞をして音羽町の二軒の家を終了せて少の家財を爰に運び小西屋には
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出江戸へ行んとせしが又甲斐國へ赴かんと籠坂峠まで到りしが頃は六月の大暑故榎の蔭に立寄清水を掬びて
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なし覺えの一刀差込で三五郎諸共に我が家を出けるが川崎手前にて日の暮るやうに量り道々戯れ言など言て手間どり名にし逢鈴ヶ森
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大津屋段右衞門と申者は前名畔倉重四郎と名乘筑前の浪人にて私しの村方へ先年中より參りて幸手宿に住居いたし夫
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の紙屑を少しも買ず慢々と下谷邊まで回りし處長者町へ來りし時は終に日も暮しにより道に迷つて馬喰町へ歸る方角を失ひ
\今日は初めてとは云ながら恐ろしい目に逢た下谷の長者町とか云ふ所へ行て道に迷ひ終に二百文出て案内を頼んで來
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爰に長門國阿武郡萩は江戸より路程二百七十里三十六萬五千石毛利家の城下にて殊に賑はしき土地なり
しき土地なり其傍らに淵瀬といふ處あり昔此處に萩の長者といふありしが幾世をか經て衰破斷滅し其屋敷跡は畑と
は賣拂ひ一人の老母を引連て泪乍らに住馴し萩を旅立て播州加古川に少の知音のあれば播州さしてぞ立去ける老母を倶
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を聞て力を得扨々御親切忝じけなし私しは本所松坂町に住む七右衞門と申す者なるが其金の譯と云ふは我等
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/\ける其末の太子を關東へ申降し給ひ比叡山延暦寺を關東へ移し東叡山寛永寺を建立す是宮樣の始めにて一品准后の
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延寶五年江戸に生る、大岡美濃守忠高の四男、幼名求馬
で、二代目忠政の時こゝに土着したが、後江戸に移住したのである。
しなば萬民のためならんとの上意にて則ち大岡殿を江戸へ召寄られける夫より越前守早速はせ下り吉宗公の御前へ出けるにぞ則ち
をしらざるゆゑなりその者よびとひて聞せん今江戸其外所々より出す過料金銀は公儀に御入用抔には決して用給ず唯
假令三家方にても奧方は江戸に在べき筈なり紀州にての御誕生を本腹なりとは大納言光貞卿紀州
まし/\早くも十八歳になり給へり此年加納將監江戸在勤を仰付られけるにぞ徳太郎君をも江戸見物の爲に同道なし麹町なる
年加納將監江戸在勤を仰付られけるにぞ徳太郎君をも江戸見物の爲に同道なし麹町なる上屋敷に住着たり徳太郎君は役儀もなければ
萬端如才なく成給へり程なく一ヶ年も過將監も江戸在勤の年限果ければ又も徳太郎君を伴ひ紀州へこそは歸りけれ爰
徳太郎君には道中も滯ほりなく同年霜月加納將監御供にて江戸麹町紀州家上屋敷へ到着と相成り夫より左京太夫殿家督相續萬端首尾
爰に長門國阿武郡萩は江戸より路程二百七十里三十六萬五千石毛利家の城下にて殊に賑はしき土地なり其傍ら
艘卸なれば其方上乘して大坂へなり又は江戸へなり勝手な所で一旗揚べしとて手元金として七百兩を下され
大阪よりは江戸表の方繁昌にて諸事便利なれば一先江戸を廻りて商賣を仕たく思ふなり太儀ながら天氣を見定め遠く江戸廻り
深淺は能存じたれば水差も入らざりしが是から江戸への海上は當所にて水差を頼までは叶ふまじといへば吉兵衞
なり此寺にも居惡く餘儀なく此處を立退一先江戸へ出ん物と關東を心ざし東海道をば下りけり懷ろ淋しければ道中にても旅人を
なき下女の習慣那こそ近在の大盡の娘御なるが江戸のさる大店へ嫁入なされしが聟樣を嫌ひ鎌倉の尼寺へ夜通の
仕舞ひ用意も底々に龜屋をこそは出立せり最前の如く江戸の方へは行ず引返して足に任せて又上の方へと赴きける主人
いひ何共合點の行ぬ事なりと咄居る處へ江戸の方より十人計の男の羽織股引にて旅人とも見えず然とて又近所
旅店にて婦人を切害し思ひ懸ぬ大金を奪取たれば江戸は面倒なるべし如ず此より上方に取て返し中國より九州へ渡んには
したるを我十二歳の時婆を殺し此品々を奪取江戸へ名乘出んとは思しが師匠感應院の口より泄んも計りがたければ
扨は然る事にて天一樣は將軍家の御落胤にて今度江戸へ御出立に成ば二度御目通り成ねば當前然ば今の内に
のひたり爰に皆々を呼集め評定に及ぶ樣は直さま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て動靜を窺はんやと評議區々
扨も大坂御城代の早打程なく江戸へ到着し御月番御老中松平伊豆守殿御役宅へ書状を差出せば御同役松平
既に大坂城代より江戸表へも上申に相成御左右次第江戸へ御下向の御積其間に京都御遊覽の爲め上京此段町奉行にも
へ相招ぎ吟味を遂相違無に於ては當表よりも江戸へ注進すべしと評定一決し牧野丹波守殿より使者を以て招がれける此方
大金と成ば最早金子は不足なし此勢に乘じて江戸へ押下りいよ/\大事を計らはんは如何にと相談有しに山内伊賀亮進出
は伊賀亮大膳等の五人と密談を遂いよ/\江戸の普請成就の上は片時も早く彼地へ下り變に應じ機に臨み
目見さへ濟ば最早氣遣ひなし然ば發足有べしと江戸下向の用意にこそは掛りける
出來の由書状到來せしかば一同に評議の上早々江戸下向と決し用意も既に調ひしかば諸司代牧野丹波守殿へ使者を以て
天一坊旅宿の由を聞及び給ひ御家來に仰らるゝ樣兼々江戸表にも噂有し天一坊とやら此度下向と相見えたり此所にて出會ては
なり三は奬學院とて總公家を支配する官職なり然れど江戸にて斯京都の公家を支配する譯は天子若關東を※せらるゝ事有て
永く續き難き故東照神君の深慮を以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞ありしが許されず二代の將軍
上屋敷へ到り門番所にて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御在勤なるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前死去せ
程に急げ/\と急立ける御定法の早飛脚は江戸より京都迄二日二夜半なれども此度は大岡の家改易に成か又
ぶるも手懸りを得ず此上は是非に及ばじ此旨江戸へ申送り我等は紀州にて自殺致より外なしと覺悟を極めしが三五郎
に候へば青貝柄の打物に候大手迄は御譜代在江戸の大名方出迎へ御中尺迄は尾州紀州水戸の御三方の御出迎にて御
は數百艘の船にて取圍み篝を焚品川灣を初め江戸の出口十三ヶ所へ人數を配固めたる有樣なれば伊賀亮驚き最早事
茲に上州より太物を商ふて毎年江戸へ出る商人に井筒屋茂兵衞金屋利兵衞と云者あり平生兄弟の如く親類よりも
しかりしが兩人の妻とも此頃懷姙なし居たり或時江戸より歸る道々の咄に利兵衞は茂兵衞に向ひ私は今年四十になり
家内殘らず呼集め我此度の病氣全快覺束なし因て江戸の得意を利兵衞殿へ預け申なり悴吉三郎成人迄何卒我が得意先を宜敷御
を一期となし終に空しくなりしかば是より利兵衞は毎年江戸の得意井筒屋の分迄も一人にて廻りける故俄に商ひ多く忽ち多分の
にぞ五六年の中に餘程の金を貯へしが後には江戸へも見世を出さんと通り油町へ間口十間奧行は新道迄二十間
に又上州の吉三郎并に母のお稻兩人は利兵衞が江戸へ店を出さば早速迎ひに來る約束なるに三四年立ども一向に
の周旋にて小商ひなどして親子漸く其日を送り江戸より迎ひの來るを今か/\と樂み居たれど案に相違して
音沙汰なければ或時母は吉三郎に申樣二人して江戸へ出先達てより噂の如く江戸通り油町なれば尋ね行き利兵衞殿に會て談判
引取ずんば其時は何を爲てなりとも繁華の江戸ゆゑ親子二人渡世のならぬ事は有まじ若運よく立身いたしなは今の
の難儀せし面を見返さん何は兎もあれ一先江戸へ出べしとて夫より世帶を仕舞家財を賣て路銀となし母子二人江戸
夫より世帶を仕舞家財を賣て路銀となし母子二人江戸へ立出馬喰町の定宿武藏屋清兵衞方へ宿を取り翌日吉三郎一人油町へ
女は金屋井筒屋へ出入なす織物屋の娘にて利兵衞が江戸へ店を開きし時分お竹は母に別れ父と倶に利兵衞方へ尋ね
間違ひならんと謹んで首を上私し事は上州より毎年江戸へ太物商賣に參る井筒屋茂兵衞の悴吉三郎と申者にて候是
歳の際父茂兵衞病氣に付枕元へ利兵衞を呼江戸の得意を殘らず預け私し成人の後娘に娶せんとの遺言を利兵衞も
兵衞は安心いたし頓て相果申候夫より利兵衞は江戸へ出店をも開し由四五年を過し候へ共一向音信なく因て母と
候へ共一向音信なく因て母と相談の上世帶を仕舞江戸へ出でて利兵衞を相尋ね先々の話致しける處に何時か心變り致し
所弟吉三郎金屋利兵衞方に譯有りて國許を立出江戸へ參り候由に付後追來り何卒今一度母や弟に對面致し
此事を話ければ傳兵衞首を傾け六之助殿は江戸産の事にて何事も如才なきにより此事御斷り切にもなるまじ若明日
を密に招き吉之助は古河一番の大盡の息子にて江戸の店へ遊藝稽古の爲に參られ此處へは始めての事なれ
を首尾能く勤め上吉右衞門より金五十兩貰ひて穀物店を江戸へ出しけるが二年の間に三度類燒なし資本を失ひしかば是非
が難儀を救ひ度存ずるなり因ては我等と倶に江戸へ出府有べしと申にぞ吉右衞門も委細承知なし金子は何程入りても
より吉右衞門平兵衞の兩人は駕籠にて晝夜を急がせ江戸へ出しが是迄老中松平右近將監殿へ度々用金を指出せし縁も有
作藏は勘當の身と成しを後悔をもせず江戸へ出で少しの知己を便りて奉公の口を尋ねる内幸はひ小川町にて
流行出せば斯の如し我も故郷は勘當され此江戸へ來りて所々方々と彷徨ばかりにて未だ何の仕出したる事もなく此ぞと
兵衞夫婦は歎きの中にも先々兄の世話にてお江戸の吉原町とやらへ行上は娘が難儀にも相成まじと心に悦び直
も戻る心地の氣を勵まし三河の岩井を後になし江戸をさしてぞ急ぎ行實に人間の一生は敢果なき事草葉に置る露よりも
足を痛めな草臥なと種々言慰めつゝ日を經て漸々江戸に着麹町三丁目なる長庵が宅に到りければ長庵は大に悦び偖々能出
も都合惡敷成し由實に當時の世の中は田舍も江戸も詰り勝併し呉々返事に言遣はしたる通り親は泣寄とさへ申せ
なり心が濟ずば其金にて妹お富へ何なりと江戸土産など買て行れよ然すれば我が請たも同樣必ず/\心配しやるな
桐油の裾へ提灯の灯を消まじと馴もせぬ江戸の夜道は野山より結句淋しく思はれて進まぬ足を蹈しめ/\黒白も
見渡し凡そ妓樓の在地にして此絶景を占しは江戸四宿の内只此品川のみ然れば遊客も隨つて多く彼の吉原にも
は何所なりと訪れて三次は振返り那か那がお江戸の吉原さお文さんは那内に居られるのだ而お富さんの居るお屋敷も
が所詮斯樣の姿にて故郷に恥を晒さんより寧そ江戸の淺草にて水茶屋渡世の甚兵衞は從弟の縁もある事故彼を便りて
出さんものをと忽ち心一決爲し久左衞門は軈て江戸へと久八を連て下り弟六右衞門に逢て事の仔細を委敷
友達の勘次郎と云者を謂れ無く撲殺し村方を逐轉して江戸へ出小川町竹田長生院方へ奉公に住込み奉公中竊鼠々々物を盜み溜
種々に口説と雖も直助は片田舍の生れにて此下女は江戸の出生故直助が云ふ事を聞ず兎角強面當りしを立石夫婦も知り折
に歡びけるが傳吉は飛脚の事故一先袂を別ち江戸へ來り用事を濟せ立ち歸る時に又叔母のお早を尋ねしに猶
養ひ妻を持貧き上に貧しくならん今の中に江戸に出て五六年も稼なば能き事も有べしと思ひ或日叔母
より諸方を尋ね歩行鴻の巣より態々連ては歸らず私しの江戸へ出るは我が身の利を計るに非ず五六年も苦しみなば元の
御惠みなるならん能々父子を大事になされよ我れ又江戸より歸りの時は再び尋ね進らせん名を聞ばやと云ければ父は森田屋
此所に御座るとは夢聊かも知らざりし我等も江戸へ赴きて今度古郷へ歸るゆゑ柏原へ立ち寄りお宅を尋ねしが道にて惡き
成り道中ら彼の振舞に心をつけるに唯者ならず江戸より付き來りし樣子なり今日も彼者度々手を出さんとすれ共我も
事然るべしと聞き居たり傳吉は席を進みて私し江戸に在りし時は全盛の土地柄故主人の光りにて百五十兩の金子に有り
一筆示し※偖傳吉事江戸より今宵立ち歸り申候まゝ此上は夜々の契りも相成ずと存じ候へ
勿々つかの間も忍び難く思ひは彌増※夫に付き傳吉こと江戸に於て溜たる金百五十兩此度持歸り候途中盜賊に付かれ候ゆゑ野尻
人々大いに感心なし傳吉どのは五ヶ年の間天下の御膝元の江戸で揉れた故違うた者なり是にて相濟上からは名主殿も御子息
に申しけるは人家の女房は眞棒なり傳吉殿も今江戸より戻り大略元の身代に成らんとなす折柄女房が無ては萬事不都合ならん
へ流し二人の着類を着せ替て昌次郎夫婦は甲州路より江戸へ赴かせたり
奉行伊藤伴右衞門吟味方川崎金右衞門小野寺源兵衞等江戸へ同道可有之右之段主人讃岐守より相達し候之に依て此旨
ひいたりける時に酒井樣より其の朝宿次刻限の急使にて江戸御老中大久保佐渡守樣へ御用状到達なし則ち上聞に達せられける尤も遠國は
且何の意趣を含む事も御座なく殊に五六年の間江戸へ出奉公仕つり金子百五十兩を貯へ國元へ歸りし處私し江戸へ出し
奉公仕つり金子百五十兩を貯へ國元へ歸りし處私し江戸へ出し跡にて妻梅と憑司悴昌次郎と密通を致し居私しが持歸り
何れへ奉公なし金子を貯たるやと尋問らるゝに傳吉ハイ江戸は新吉原三浦屋四郎左衞門方に五ヶ年相勤め居其内百五十兩貯は
相成ざる前野尻宿與惣次方に居し時傳吉こと江戸より國元へ歸り候とて與惣次方へ泊りしに途中より賊に付られ難儀
と尋らるゝに傳吉は猶亦答へて私し五ヶ年以前江戸へ出立の時一宿仕つり候が幼なくして父銀五郎の病氣介抱の體如何に
者と見屆是ぞ誠ある女と存ぜしにより私し江戸より古郷へ歸り懸道にて惡漢に金子を見込れ甚だ危く心得只今言上せし
と申者と欠落し行衞知れざりしを先年私し江戸へ飛脚に赴きし時鴻の巣宿より連歸り其後私し儀は梅と夫婦
參りしが右妻儀は五歳の時人に勾引され江戸へ參りしに肌の守り袋に生國は越後高田領の由書付有しゆゑ親
逢しと申が傳吉方へ尋ねたるや源次郎成程傳吉は江戸にて知己の者故其邊にて逢たれども愚妻を失ひし折柄ゆゑそこ/\
汝が賣渡したる空せみは五歳の時勾引され江戸へ來りしと有り夫を汝は伯父の娘也と僞りを申立てしも今
に相勤め居れ共同人とは夢にも存ぜず彼は江戸出生とばかり存じをりました重ねて此義をも御吟味下さる樣願ひ上奉
が着物を着夫より信州の山路にかゝり忍び/\に江戸へ來りて奉公口を尋ねけれ共相應の口もなく貯への路用を遣
大岡殿仰らるゝ樣其方何年何月幾日何故古郷を立て江戸へ來りしぞ庄兵衞ヘイ二三年跡身代零落に付き稼ぎの爲めまかり出し
は拷問に掛り種々責られ終に人殺しの一條より國を立退き江戸へ來り本郷に少しの知己ある故是に落附候所天命にて召捕られし
し所役人へ遣はす賄賂の金子に困り悴夫婦を江戸へ稼に出し給金にて地頭役人を拵へ先役に立歸らんと存じ此
に金銀を送り半年ばかり世話せしに疾主人の供にて江戸へ下るに付き母子にも路金并びに手形を渡し後より下り來るべしと
似て御出なさると云ふを聞き三人ながら上方ばかりか江戸の衆も一座かと問に御三人とも大津とか云ふ所の御方と
打佐七平四郎と兄弟分になり上方より東海道を稼折々は江戸へも立出候處尼ヶ崎家中の侍士金用にて出立と馬士の咄
ならんとの事夫れに付ては若旦那は朔日より江戸の御郡代屋敷へ御出成れ未に御歸り成らぬが相手が早く知れば
駄賃にして呉んと獨り笑壺に入相の鐘諸ともに江戸を立出で品川宿の相摸屋へ上り飮や唄へとざんざめきしが一寸と床
に這入しより以來堅氣と成しが其前幸手を立退て江戸に滯留中鈴が森にて十七屋の金飛脚を殺し金子五百兩奪ひ取しが惡事
相成しかば村役人ども并に三五郎妻お文諸ともに江戸表大岡殿御役宅へ罷り出し旨屆けしにより頓て越前守殿の白洲へ
は稍々今年十一歳なる故伯父長兵衞は名代として江戸へ赴かんと調度を成金兵衞方に幼少より召使ひし直八と云者萬事に怜悧
云者萬事に怜悧なるに付き之れを召連鴻の巣を立出江戸馬喰町熊谷屋利八方へ泊り込しが日永の頃なれば退屈なりとて直八は兩國
き心になり其上借金も多く面白からねば一先江戸へ下り何をして成とも金の蔓に取付かんと工夫をなし女房に
なく消光に付本夫の開運をぞ祈りける偖彦兵衞は江戸の知己を便りて橋本町一丁目の裏店を借元來覺えたる小間物を商ひ
惜と父樣はとても浮まれまじきにより私し事早々江戸へ參り實否を承まはり自然此書中の如くに候へば骨を拾ひ
て申故母も止め兼夫程に思はゞ兄は支度次第江戸へ赴くべし弟彦四郎は此地に止まり我が心を慰めよと有に是非共兄
一所に出立せんと申を兄彦三郎は押止め今兩人江戸へ赴く時は母人甚淋しく思され猶も苦勞を増給はんにより其
夜は十三里淀川の船に打乘一日も早くと江戸へぞ下りける
手前に鈴ヶ森と云所こそ天下の御仕置場なり尤も二ヶ所あり江戸より西南の國にて生れし者は鈴ヶ森又東北の國の生れなれば淺草小塚原
しを聞ながら行に行共々々果しなく誠に始て江戸へ來る事なれば何と云處なるか町の名も知れざれども其夜
し處へ行寄凭りて少し睡まんとするに知らぬ江戸と云此所は如何なる處やらん若咎められなば何と答んと心を苦しめ
明暮悲み歎き一向食事も致さぬ故我等母を諫江戸へ參り樣子を承まはり申さんと云て大坂を立出昨日六郷の渡し
盡して進ぜんと申にぞ彦三郎は大に悦びしが江戸不案内の事故如何して宜からんか何分にも頼むとあれば助十は
證人なりと申せば八右衞門首を傾け其許何時江戸へ參られしやと問に彦三郎は今朝福井町へ着し直に承まはり糺し只今
申さるゝに彦三郎涙を流し私儀十歳の時父彦兵衞儀江戸へ下りしゆゑ指折算へて歸るを待居りし中に御所刑となり
暮歎き悲み病氣も出べきやに存じ候まゝ私し儀江戸へ下り骨を拾ひ持歸らんと母を諫め此度江戸表へ參りし途中
酒を飮飯も食終て身支度をし乍ら御亭主是から江戸迄何里あるやと問ひけるに亭主は是を聞江戸迄は此所より十六
ツ下りならんと申を聞夫婦の者然すれば今より江戸までは迚も行れまじ切て鴻の巣とやら迄も行れべきやと云に亭主は
とは云ものゝ追々に金も遣ひ減しければ此上江戸見物などに遣ひ捨る貯へなきゆゑ只禮のみ云て一度も同道せし
合せ何時まで斯して居るとも段々路用は盡る而已にて江戸の樣子は知れざるゆゑ奉公するにも何所へ頼んで宜しきや勝手も分らず
とて尾來りし者なるが生國は近江の由なれど江戸へ商ひに出し歸りにて是より名古屋へ回り其後京大坂へ仕入に上る
厚き御世話に相成る事千萬忝けなし私し共に江戸は始めてなれば一向不案内にて知人とても更に是なしと云ければ長兵衞は
を出して買樣に致されよ左右其樣な事にては江戸の住居は出來難し先々御休みなされと云捨て我家へこそは歸りけれ
も石を破落々々と投付ける故くずや長八大に驚き江戸と云所は恐ろしく子供等までも人氣の惡い所なりと思ひ早々に田町の
長八は親分の長兵衞へ行右の咄をなし實に江戸といふ處は人氣が惡いと云ければ長兵衞は是を聞て大いに
私しは屑ばかりでござりますと云に御前未とう四郎江戸馴ねへと見えると笑ひしかば然樣で御座ります此間國から出て參り
やと申にお政は打案じ左樣さ私しも未だ江戸の樣子は不案内なれ共たしか馬喰町邊とかにて紙屑買を渡世になし居ると
知らぬ筈なりと云時長八傍邊よりモシ/\旦那に江戸の馬喰町から人が參りしと云てお呉と申せば女供は何事なるや
なるや樣子しれぬゆゑ奧の方へ走り行モシ旦那樣江戸の馬喰町から御客樣で御座りますと云ば亭主清兵衞は不審に思つて馬喰町
事ゆゑ早速には思ひ出さず暫時考へしが漸々の事にて江戸より弟が來りしかと心付俄かに周章しく出來り見るに年こそ寄たり
はすにより緩々と滯留して金毘羅樣へも參りたり江戸にもなき珍らしき船遊山でもして春になつてから緩りと歸るが
よし然すれば我等も都合して貴樣達を送りながら江戸見物に行うと思ふゆゑ久し振にて又貴樣の處の世話にならうかと
舊越後高田の浪人にて若き時同家中の娘を連て江戸へ逃來る時に在所の熊谷宿の弟八五郎が見世に休み夫より駕籠屋
私し共夫婦は豫て御存じの通り國元を逃亡なし江戸へ出て來りしも元はと云ば同家中なる大橋文右衞門と云人
を助かり殊に廿兩と云金迄も惠まれ路用として江戸へ來りし譯なるが道中にても先生の御恩になり又親分の厚き御世話にて
丸龜に於て劔術の師匠をなし居けるが此節江戸見物に出來りし故兄弟久々の對面にて何やかや咄したる譯
八五郎も出府致し居面會仕つり候に同人娘儀江戸下谷山崎町油屋五兵衞悴五郎藏と申すものゝ方へ縁付候へども家内不熟
道を問れし樣子確に覺え居候へば若や江戸の方へでも御出にては有間敷哉是も聢と定めては申されず
にも住居も成難く兎角此邊に居んよりは遠路ながら江戸へ赴かば諸侯も多き處と聞及べば能主取りも成べしとお花にも
凉風の立迄當所に逗留して秋にもならば江戸へ下り主取せんと云をお花は聞て成程暑さの時分道中
爲給ふに萬事不都合成ん少しの暑さへ耐へ江戸に落付て安心なすが増ならずやと云も其理有ば友次郎も然らば出立
ば祭りをも見たる序に名所古跡をも見物爲べし江戸へ下りては重て見物に上るも難かるべしと云ばお花も悦び見物
聞く物毎に耳目を驚かさゞる事なけれ共少しも早く江戸へ行んと云心頻りなれば僅に二夜泊りて龜屋方を出立せしが
ひなり私し事は大坂天滿邊の町人にて候が此度江戸の店へ用事有りて罷越候に付幸ひの御道連苦しからずば今晩
夫よりして友次郎夫婦は路次の油斷なく少しも早く江戸に到り如何にもして身の落付を定めんものと炎暑の強きをも厭はず
惱み居けるぞ傷しや友次郎も最早日付にしても江戸へ着るゝ處迄來て居ながら情なき此病氣と心のみ速れども其甲斐
陸路を大坂へ登り廿日餘り休足せしが少しも早く江戸へ到り身の落付を定めんと同所を出立せし其折柄祇園祭ありと聞京都
ろに遣ひ殘りの金六十兩餘も有ければ是にて江戸へ下り取付んと思ひ夫より道を急ぎて當所迄來りし所此病氣に
なれ併し今宵此家に泊らずば御目にも掛らず江戸迄行んものを是誠に天道の引合せ給ふ處成べしと云つゝ潜然と目に
樣の御行方も大方知ければ其翌朝京都を立出江戸へと心指夜を日に繼で急ぎしに不測にも當宿にて御
云に及ばずお花忠八も甚く悦び斯ては日ならず江戸へ下らるべしと猶怠りなく看病せしかば五日目には起居の成
ば最早大丈夫なり此處より通し駕籠にせば日着に江戸へ着すべしと友次郎は其日亭主を呼び明朝出立の事を話し是迄長々
せる程の身代になりしと聞少しく落付然らば是より江戸へ下り本郷へ尋ね行て身の落付を頼まんと思ひけれども元來吾助
心に思ふやう此處にて金銀を遣ひ捨んよりは江戸へ行て身を落付後心の儘に樂まんと夫より室を立て其
其夜は姫路に泊り三日にて大坂へ着せしかども江戸へ下る心頻りなれば暫しも止らず東海道は人目繁ければ若や岡山の人
日ならずして板橋の宿に着にけり然るに吾助江戸は始てなれば何れが本郷にや西も東も分らぬ故小倉にて聞
御無沙汰に打過しに而て此の度如何なる故有て岡山より江戸には下り給ひしといふを吾助は聞て我等事御存じの通り岡山にて
内職致し辛じて漸々五十兩の金子を溜たれば何卒大坂か江戸へ出此金を資本にして一稼ぎ仕つり度と思ひ一先小倉に
何れとも決し申さんと遙々小倉へ赴きしに貴殿は江戸へ御引移りの由承まはり然らば直樣江戸へ下り御目に懸り萬事
貴殿は江戸へ御引移りの由承まはり然らば直樣江戸へ下り御目に懸り萬事の御相談相手に御頼申さんものと遠路の
殿へ奉公に行段々精勤して金を蓄はへ後江戸へ轉居りて今斯る大層の暮しはすれども生得律義の男にて少
も顏を見らるゝ樣にて何となく居惡く成たり最早江戸の勝手も分りたれば此處に居ず共又外に宜處は幾許も
并びに若黨忠八は藤澤宿を立て其の日の中に江戸に着先馬喰町の宿屋に足を止め此處にても尚種々に療治せしか
て尋けるに似たりと思ふ人にも逢ざれば最早江戸には居るまじ是よりは何國を尋ねんと主從三人額を集めて相談
すれども是ぞと云能思案も出ざれば先今暫時江戸を尋ね夫にても手係りなくは其時何國にも行べしと是より
事大方ならず只行方を見定めざりしは殘念なれども江戸の中にさへ居らば尋ぬるにも便りよし然ながら彼奴も惡漢なれば其方
彼奴も惡漢なれば其方と面を合せしからは浮々江戸に落付ては居るまじ翌日は暗きより起出て其の方は品川の方より段々に
云ば一先何れになり身を隱し時過て又江戸へ來るが上策ならんと俄に旅立の用意せしが然とて是迄に心
是より兩人の行方御尋ねとなりたりけり扨又安田は江戸にて安間平左衞門と改名して願山の兄多兵衞を頼み彼の金子
こと共申置勘解由は發足なし道中取急ぎて日ならず江戸小川町の上屋敷へ着し其旨太守へ申ければ丹後守殿早速御召有つて
渠は三井寺の方へ行私し儀は願山諸共に江戸へ下向致せしにより其後靱負の行方更に心得申さずと云ゆゑ然らば
けり此左仲は元下總銚子在の百姓の悴なりしが江戸へ出て御旗本を所々渡り侍士を勤め夫より用人奉公をなし流れ/
首を振り本町通りの小西屋というては名高き藥種問屋江戸指折の豪商にて誰とて知ぬ者もなき大身代の嫁に成とは
けり其後仁左衞門小猿の兩人を呼出され其方共江戸へ出でざるうちは何方に罷り在しぞと尋られし處仁左衞門私し
鐘一ツ賣ぬ日はなし江戸の春とは幕府の盛世なる大都會の樣を纔十七文字に綴りたる古人
錢は僅百廿四文ばかりの身上にて不※立出江戸へ行んとせしが又甲斐國へ赴かんと籠坂峠まで到りしが頃は
回向怠りなく勤め一人工風を爲居たり然るに此時江戸へ出訴の事組頭出府致すべき處種々取込のことあるにより飛脚を村方より
村方の處を何なりと片付て置れよ私しは江戸の用事濟次第引返し古郷へ御同道致しませうと一宿して申合せ翌朝江戸へ
次第引返し古郷へ御同道致しませうと一宿して申合せ翌朝江戸へ赴きける九郎兵衞は跡にて村役人始め親類へも委細話せば皆々は厄病
偖も九助は江戸の用向滯ほりなく相辨じ歸り掛に又々御殿場へ立寄伯父九郎兵衞の
の如く田地を請け戻し度と豫て心懸居たることなれば江戸へ出て一稼ぎなさんと思ひ九郎兵衞とも種々相談なせし上女房お里
に暇乞して此屋を立出道中を急ぎ日ならず江戸に着ければ知己の周旋にて日本橋室町三丁目の番人に抱へられ勤けるが元來正
八十一歳で御座る否サ化も致さぬが何と九助殿江戸も私が若い時とは違ひ日に増月に増繁昌で御座らう何と
喰切拳を固めて散々に叩き居汝れは太い奴江戸へ出て金を貯親父が質田を取返すの又は百八十兩貯へたの貰
れ度夫のみ念じ上參らせ候右に付九助事江戸にて百八十兩貯へたる金子島田宿中町の旅籠屋にて水田屋藤八と申方へ預け置
とり九郎兵衞は其方兩人は豫てより望の如く江戸へ行充分金を貯るがよい己も其中後より行んと彼の兩人の
金の遣ひ殘りを受取て親父樣無事でと打分れ江戸の方へぞ急ぎける斯て九郎兵衞は二人の首を切落し傍邊に
サア何ぢや汝五ヶ年の間江戸へ奉公に出し留守中家内の者惣内が扶持を受し恩をも思は
又母をも亡ひしかど兩親の遺言を大事に守り江戸にて五ヶ年の千辛萬苦も水の泡蟻の塔を組鶴の粟を喰が如く五
出入の節科人の側へ親戚を寄る事は法度なれど江戸と違ひ村方の人足のみにて知り合の百姓ども故知らぬ顏にて煙草くゆらし居
の城下外まで引れ來り今刑場へ臨まんとする時江戸の方より來りし早打の侍士に引止られ檢使の役人を始め暫時
に九助は愼しみ恐れながら私し儀は以前五ヶ年程江戸へ罷り出奉公仕つり金百八十兩貯へ國許へ戻りし處江戸稼ぎの留守中
及び難く然るに或時不※勾引されしを九助江戸へ出府の砌途中にて渠が厄難を救ひ遣し其後五年過て
年過て九助儀は百八十兩餘の大金を所持仕つり江戸より歸國の旅中瀬戸川にて難儀の機私し儀身延山へ參詣の歸り掛け幸
見兼餘計の錢を惠まれ其後五ヶ年の後九助江戸より歸國の節藤八方へ一泊致せし時私しも藤八方に居不思議に
にて金子を蓄殖たる趣きを聞て羨敷存じ私し夫婦も江戸へ出稼ぎ度は存じたれども外聞も惡く彼是延引致し居中金谷村に法
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せし旅なれば急ぐとすれど捗行ず漸々の事にて加古川に着たれば知音を尋ね事の始末を委く咄し萬事を頼みければ
外に覺えし家業も無ければ彼の知音の世話にて加古川の船守となり手馴ぬ業の水標棹もその艱難云ん方なし然ど
至て孝心深き者なれば患難を事ともせず日々加古川の渡守して貧しき中にも母に孝養怠らざりし其内老母は風の
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轟かしたるは此人の事なり將軍家には其後も越前は末代の名奉行なりと度々上意ありしとかや
ひ御重役方の斯く御評議御決定に相成候を越前斯樣に申上候は甚だ恐入候へ共少々思付候仔細御座候是を
の上は今一應越前へ吟味を相許し下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子御對顏の儀御取計ひ有るとも遲
と聞給ふより忽ち怒り面に顯れ越前守を白眼へ越前只今の申條過言なり昨日重役ども並に諸役人一同相調べし御身分將軍
へは萬一天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の知行は元より家名斷絶切腹も覺悟なりと御答に及ばれける
御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方は飽まで拙者共を蔑しろにし押て再吟味願ふは其方の
は大岡越前守の戻られし跡にて熟々と思案あるに越前定めし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へ直に願ひ出るも
へ直に願ひ出るも計り難し然ば此方も早く登城し越前に先を越申上置ざれば叶ふ可らずと是も明朝明六
にやと仰せらる其時伊勢守參候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やに承まはる旨を答らるゝに伊豆守殿
はる旨を答らるゝに伊豆守殿點頭れ成程當節は越前を名奉行と人々噂を致すやに聞及べり然ど予は越前は嫌ひなり
申すべき段上聞に達し候處芝八山は町奉行の掛りなれば越前再吟味願度由此段伺ひ奉ると言上に及びければ將軍には聞し食れ
理りなり其時また上意に芝八山は町奉行の支配なりとて越前我意に募り吟味を願ふとな既に重役ども取調べ予が子に相違なきに
一天下の恥辱二ツには君への不忠なり依て越前は短慮の振舞致さず今宵計略を以て屋敷を忍び出んと思なり仔細は斯
に相述ければ越前守頭を下扨申されけるは越前斯夜中をも省みず推參候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ
一大事出來とは何事ならん夫は容易ならざる事なるべし越前を書院へ通すべし對面せんとの仰なり是に依て侍ひ中御
越前守には敷居際に平伏せらる時に中納言樣には越前近ふ/\との御言葉に越前守は少し座を進み頭を下て
再吟味の儀直願仕りしが御親子の御愛情にや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役を蔑しろに致候上再吟味は天下
御威光にも拘はり容易ならざる天下の御恥辱と存じ越前惜からぬ命を存らへ御尤めの身分を憚からず押て此段御
の上意に芝八山に旅館の天一坊身分再吟味の儀越前其方が心に任申付るぞと仰なれば越前守には發と計り
又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今聞せらるゝ通り越前へ右の如く申付たり御安心これ有たしと宣ふに綱條卿に
に芝八山に旅宿致さるゝ天一身分再吟味の儀今日より越前に任すとの上意なれば一同左樣に心得られよ取分予が申渡すは天一
言葉と心得られよ越前も又左樣相心得心を用ゆべし越前には少身の由萬端行屆まじお手前達に於て宜く心付致さ
伊賀亮推止め未だ驚くには及ばず明日こそは器量人の越前を此伊賀が閉口させて見すべければ呉々も大膳殿明日は怒を發し
の御爲を思ひてなれば差控へには及ばず越前とても予が家來なり是迄の無禮は許すといひ又越前片時も疾く
せし有樣なれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を恐入せしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に貴殿一人愁ひ
仕へずとの言葉を用ゆるな浪人を致して居て越前の行末かと後指を指るゝな立派な出世致すべし斯てこそ予に對し
も御退け下さるべしと言るゝに伊豆守殿顏色を變是れ越前其方は役柄をも相勤候へば斯程の事は辨へ居るべし老中
聞て仰天し暫々言葉も無りしが稍有て仰けるは越前は能も心付たり定めて御褒美として五萬石は御加増有べし
て能々勘考仕つり候へば不審の廉々も御座候故奉行越前心付し體に仕り内々吟味致させ候に天一坊儀は全く贋者にて山伏感應
と云に伊豆守殿には聞て大に悦び給ひ然らば越前其方が申通り伊豆守より言上致すべし其方も相違なく左樣に言上致され
共一同申上候儀を變じ候も如何と存じ奉つり越前へ内意仕つり同人心付候由にて吟味致させ申候處果して天一坊儀
しが實は伊豆が心付て内意有たるに相違なきや越前如何ぢやとの上意に越前守發と平伏なし只今伊豆守より言上仕り候通り毛頭
奉行越前病氣全快屆けを出せし由定めて屋形へも越前參るべしと思召遠見を出すべしとの御意にて則ち遠見の者を出され
に相違御座なく候と認めたれば扨々憎き惡僧なり如何に越前此調は伊豆守の内意を受て紀州表を吟味致したりと申せ共全くは
坊の仕置の儀は其方が勝手に致べし予が免ぞ越前は小身者なれば天一坊召捕方の手當等はむづかしからん伊豆其方より
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殘骸は取捨に相成家財は妻子に下し置れ店請人なる赤坂の六右衞門方へ妻子の者は泣々引取れ長庵は何の御咎めもなく
面白く無と言位の人物にて麻布に三次郎芝に勘左衞門赤坂に此長助と三人の公事好家主なり此長助には望む所の出入なり
認めける其文に乍恐書附を以て奉願上候一赤坂傳馬町長助店道十郎後家光奉申上候去る寶永七年八月廿八日
へに願上度之れに依て此段奉歎願候以上赤坂傳馬町二丁目後家願人みつ 差添清右衞門 家主長助 享保二年三月
地名をクリックすると地図が表示されます
儀六月廿六日朝卯刻幸手宿我が家出立致し下總葛飾郡藤田村名主儀左衞門方へ泊り廿七日朝卯刻過出立致し下野都賀
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關宿の藤五郎の博奕場で四人と言者を切て又堺の町でも鷹助に手疵を負せしこと寶珠屋大坂屋のことからし
にて事落着に及びたり元來船乘の事なれば夫より堺へ行船頭となりしが左右に博奕を好み身持惡きゆゑ人に嫌れ
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祈らん者と一※に思ひ込しかば夫よりして秋葉山へ遙々と登しが本社は女人禁制なるゆゑ上る事ならず因て玉垣の外
ぞ籠たりける此所は名に負周智郡大日山の續き秋葉山の絶頂なれば大樹高木生茂り晝さへ暗き木下闇夜は猶さらに月暗く森々とし
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にて助かりたり今の坊主は私しを無理無體に引立て柴屋寺の畑屋から茲迄連て來ましたゆゑ勾引と存じ小杉の伯父樣
處にての長談は無益なり少しも早く鞠子の奧の柴屋寺へ御出成れて御待あれ委細は白妙樣から御話有ん私しも後より
重五郎殿忝けないと空を霞に遁れ出頓て阿部川を打越て柴屋寺へと急ける(柴屋寺と言は柴屋宗長が庵室にして今猶在
に遁れ出頓て阿部川を打越て柴屋寺へと急ける(柴屋寺と言は柴屋宗長が庵室にして今猶在と)既に其夜も子
に船は向うへ着しかば白妙は急ぎ船より上りて柴屋寺へ馳來り安五郎に逢今何者か追來たり斯々なりと物語り何分此所は危ふし
は此安五郎に違ひなけれど然ながら其節我は鞠子の柴屋寺へ先に參りて白妙の來るを待て居し故其場の樣子は
河原まで追駈來られ重五郎と問答中白妙は船に飛乘柴屋寺まで參りしなり其後樣子を聞ば重五郎は船場にて横死の由是全く儀
柴屋寺住持
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多の裁許之ありし中畔倉重四郎が事蹟を尋ぬるに武州埼玉郡幸手宿に豪富の聞え高き穀物問屋にて穀屋平兵衞と言者あり家内三十餘人
及びしや城富ヘイ御意に御座ります私し儀は武州埼玉郡幸手宿杉戸屋富右衞門と申者の悴なるが十二歳の時より江戸
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候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しと承まはり候と云るゝに越前守更に手懸なく然ば廿
へ到り此由通じければ早速兩人を呼出さる吉田三五郎は伊勢に向ひ西家村の神職伊勢同人妻菊と申すは其方なるかと云
方なるかと云に漣で御座ると答へける又取返して伊勢の妻菊と申すは其方なるかと尋るに只々漣で御座ると答
で御座ると答へ一向に分り兼れば平石次右衞門心付き伊勢には舞太夫を致さるゝやと尋ねけるに御意の通り舞太夫を仕つり
けれ共一向存申さずと云に次右衞門は是は伊勢より女房に口留したるに相違なしと心付たれば懷中より小判十枚取出し紙
に代りて取扱ふ樣に成りけるに彌々人々賞美して伊勢五の白鼠と云れて店向の取締りをも爲すこととなりたりけり
へ引渡しと相成けるとぞ其の昔し延文康安の頃伊勢の國司長野の城主仁木右京大夫義長は己れが擅横に太神宮の御神領
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談合なし夫より三吉を欺し久々なれば三人同道して御殿山の花見に行べしと申しければ三吉大いに悦び直樣行んと三人打連立頃
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ば三五郎は心に思ふやう彼の可睡齋と云ば東照宮より御由緒ある寺にして當國の諸侯も御歸依寺也因ては可
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賑しきこと大方成ず祇園清水を始として加茂北野金閣寺其外遊所はもとより人立繁き方へ行ては尋ぬれども此處にも更に
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なれども元は師匠天道が弟子にて渠は師匠が未だ佐渡の淨覺院の持主たりし時門前に捨て有しを拾上げ養育して
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樣に伏拜み夫より文藏は忠兵衞を同道して駿府へ赴き彼常盤屋へ行て身請の事を亭主へ懸合金百十五兩にて彌々
茲に又駿府の加番衆松平玄蕃頭殿の家來に石川安五郎と云ふ若侍士ありしが
代官二股の陣屋大草太郎左衞門殿へ差出し一通り吟味の上駿府へ差送りに相なり石川安五郎は揚り屋入申付られ其後同所町奉行桑山
入儀左衞門は入牢同人女房粂は長屋預け申付られ駿府御代官太田三郎四郎殿へ柴屋寺住持を差出す樣又遠州相良本多長門守殿家來
りしに連の女の行衞を尋る由其人は駿府御城番樣の御家來なる石川安五郎と申御方の趣きにて私し妻節の
因に云此石川安五郎は駿府御城番松平玄蕃頭殿家來と云且水田屋藤八よりの内談も有しにより
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あるに富右衞門私し儀は先月二十六日出立致し古河の在藤田村の儀左衞門かたへ參り夫より古河の御城下に商用御座る
致し古河の在藤田村の儀左衞門かたへ參り夫より古河の御城下に商用御座るゆゑ逗留仕つり二十七日には栃木町の油屋徳右
に相違なく其上私し儀は六月二十六日出立仕つり古河の在藤田村儀左衞門方へ一泊致し二十七日は栃木町油屋徳右衞門の
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と掛けるに和吉は大きに望を失ひ花見と言ば上野か隅田又は日暮里飛鳥山人の出盛る面白き所へ行が本統なるに如何常より
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が此度用事あつて上州大間々邊へ參り先刻歸り道にて熊谷の寶珠花屋といふ酒屋へ立寄し處亭主の物語に貴殿御夫婦惡漢ども
調へ夫々厚く暇乞に及び後藤半四郎は新藤夫婦を同道なし熊谷を出立して此程は此堤にて危ふかりしなどと道すがら語り合つゝ
候然るに彼の折國元を立退江戸表へ罷り出候途中熊谷の土手にて惡漢の爲めに我々兩人既に一命も危ふき難儀に出逢候處丸
よしに候と云ば後藤は是を聞何と云る熊谷にて世話に成し者だと夫れはへんな事なり其者大方藤の局
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衞門の三人が相良の用達町人織田七兵衞が下淀川村の下屋敷へ參られ終日饗應になる由を聞出し今日ぞ旦那さまをお助
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せ給ひ予は全く越前が心付しと存ぜしが實は伊豆が心付て内意有たるに相違なきや越前如何ぢやとの上意に越前守發と平伏なし
卿には芝八山に旅宿致居る天一坊の身分調方伊豆其方が心付にて内意致し奉行越前が心附し體に計ひ再吟味を願ひ
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引連出はしたれど騷しき所は素より好まねば王子邊へ立越て楓の若葉若緑を眺んにも又上野より日暮里などへ
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樣の勝手次第にといひ放し一向構はず行中にはや戸塚の棒鼻へ入りたるに或料理屋の勝手に鰹佳蘇魚鮃の數々の魚
聞て夫は其筈なり某し先年國へ歸る時東海道戸塚の燒餠坂より彼奴が道連になりし處其夜三島の宿へ泊りしに拙者
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せ給ふには定めて仔細ある御方なるべし某事は信濃國諏訪の者にて遠州屋彌次六と申し鵞湖散人また南齋とも名乘候下諏訪に
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に曰此護摩刀のことは柴刀とも申よし是は聖護院三寶院の宮樣山入の節諸國の修驗先供の節柴を切拂て
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淨見寺の東南、土地高濶遙かに富士山を望み要害の地がある、これは大岡氏の陣屋址で、二代目忠政
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筑波山の近邊に少しの知音を便り行んと千住へ出筑波を指て急ぎしが先江戸近邊を夜の中に通り拔け流石晝中
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の強きをも厭はず夜を日に繼で行程に早晩大井川をも打渡り箱根の峠も難なく越え藤澤の宿に泊りたる其夜友次郎は
差かゝる堤の柳戰々と吹亂れしも物寂寞水音高き大井川の此方の岡へ來掛るに何やらん二疋の犬が爭ひ居し
二十日は節が實母の七年忌祥當なるにより大井川の東上新田村と申處に尊き御僧が在る故何卒母の供養を頼み
扨又大岡殿尋問らるゝは其筋本道を往ずして大井川の川下へ掛り九助方へ立寄んと致せし者なるやと云るゝに然れば
同人聟の水呑村名主九助の方へも立寄候心得にて大井川を相良の方へ參らんと存じ島田より馬を傭ひ未刻過同所を
更行に隨ひ月も出しかば夫を便りに探し廻る中大井川の彼方なる岡の方に何やら犬の噬て爭ひ居し體ゆゑ立寄
して妻と致し右妻の古郷へ夫婦連にて罷越途中大井川の端にて何者の所業共知れず殺され其首は下伊呂村の岡にて
ふか頭を上て能見留よコリヤ惣内此程申立し如く大井川の端にて人殺しをせし趣き今一應申聞よと聞るゝに今さら面目なき體
ありて九郎兵衞諸共里を連て罷越歸宅の節夜分大井川の端迄參りし處九郎兵衞は酒の醉にて河原の石に凭て
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故山下通り打過て漸々思ひ金杉と心の坂本通り越大恩寺前へ曲り込ば此處は名に負中田圃右も左りも畔道にて
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の四ツ辻まで逃來りしが今此處は火先にて四方より落合人々押合々々勿々通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の
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を欺き櫻井村にて右膳權内馬場内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞和久井五兵衞千塚六郎兵衞大圓寺自性寺其外
參の上證文と引替る約束にて伊賀亮に附從ひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州浦賀に有徳の親類有ばとて案内
約束をなし是より伊賀亮等の三人は美濃へ立戻り川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘出來せしと物語れば皆々大に悦び先六郎
に夫々の判物を渡せしかば六郎兵衞は是を請取川越の地へ歸りけり跡に皆々此※を外さず近々に江戸表へ下らん
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御規式を取行ひ四日には兵庫の港なり共大阪の川尻なり共思し召に任せ着船すべしと云ふ吉兵衞熟々考ふるに今大阪へ
共思し召に任せ着船すべしと云ふ吉兵衞熟々考ふるに今大阪へ上りても兵庫へ着ても船頭が熊本へ歸り斯樣々々と咄さ
右衞門に向申けるは我種々と思案せしが當時大阪よりは江戸表の方繁昌にて諸事便利なれば一先江戸を廻りて商賣
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下野國日光山に鎭座まします東照大神より第八代の將軍有徳院吉宗公と稱し奉つるは
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故に程なく三百兩の金も遣ひなくし今は漸々丸の内の本多家の大部屋へ轉げ込飯を貰ひて喰居たりしが追々
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偖又堂島の小間物屋彦兵衞は彌七の請人勘兵衞事御仕置に成しかば大いに驚き
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つて其徳を稱し領主よりも屡々賞詞を蒙ふりける又野尻宿の與惣次の實家は縁類の者を以て養子となし其の身は傳吉
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尺七寸銘は志津三郎兼氏なり是は東照神君が久能山に於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じ拵
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候段上を蔑しろに致し重々不屆に付遠島申付る(八丈島)
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古くは最明寺時頼の廻國物語、近くは水戸黄門の廻國記の如き、密に諸國の人情風俗、政治の良否を
も住宅をも召上られ大膳は門前拂となり據ころなく水戸を立去り美濃國各務郡谷汲の郷長洞村の日蓮宗にて百八十三箇寺の本寺
吉兵衞が宿たる家の主人を何者成と尋るに水戸中納言殿の御家老職に藤井紋太夫と云ふあり彼柳澤が謀叛に組し
を飛退り低頭平身して敬ひ私儀は赤川大膳とて元水戸家の藩中なれば紀伊家に此御短刀の傳はりし事は能々知れ
御請申上らる將軍は又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今聞せらるゝ通り越前へ右の如く申付たり御安心これ有たし
水戸中納言綱條卿は越前守に打對ひ給ひ其方死人の體にて不淨
へ又同じ拵へにて左兵衞左文字御短刀は御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿に下されたり是を天下三品の御短刀と
仕置の儀は越前が心に任すべし此段兩人同道にて水戸家へ參り左樣に申べしとの上意に直樣伊豆守殿越前守
は御譜代在江戸の大名方出迎へ御中尺迄は尾州紀州水戸の御三方の御出迎にて御玄關より御通り遊ばし御白書院に
て飯田町なる堀留より過るも早き小川町水道橋を渡り越水戸樣前を左りになし壹岐殿坂を打上り本郷通りを横に見て行ども
は定めし子分の奴等何も恐るゝにはあらねども水戸浪人奴は些手強き奴見付られては面倒也早々此場を立去んとて
つゝ急ぎの用なればとて一同へ暇を告て子分なる水戸浪人八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人に跡を取片付させ自分
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有徳院吉宗公と稱し奉つるは東照神君の十一男紀伊國和歌山の城主高五十五萬石を領する從二位大納言光貞卿の三男にて幼名を徳太郎
國許へ登らせられ御看病遊ばし平癒の後懷姙なる故和歌山にて御誕生ありしなり
紀州にての御誕生を本腹なりとは大納言光貞卿紀州和歌山にて大病につき奧方國元へ入せられ直に看病遊ばされたきよし
成とも奉公に出さんと口入の榎本屋三藏を頼み和歌山の家中加納將監方へ奉公住込たりこゝにて名を澤の井と呼腰元
及び近々江戸表御下りとは相成ける。爰に又和歌山の城下より五十町道一里半ほど在に平澤村といふ小村あり此處
たり一同此儀然るべしと評議一決しければ急ぎ此趣き和歌山表へ早飛脚を以て申送れば國許にても家老衆早々登城の上
給ひしに斯赦され蘇生せし心地し這々の體にて和歌山へ立歸り此後は大人くぞなり給ひけるとなん斯て徳太郎君追々
扨徳太郎君は和歌山の城下は申すに及ず近在なる山谷原野の隔なく駈廻りて殺生し
し主税頭信房卿は是より本家相續に相成り紀州和歌山にて五十五萬五千石の主とは成玉へり舍兄綱教卿は忌服十二月
ぞ成り感應院或時嘉傳次に向ひ申けるは和歌山の城下に片町といふあり其處に夫婦に娘一人あり親子三人暮しの
へ出夫より九州へ赴き所々を徘徊し廻り/\て和歌山の平野村と云へる所に到りける此平野村に當山派の修驗感應
歳なり。其夏の事なりし師匠感應院の供して和歌山の城下なる藥種屋市右衞門方へ參りけるに感應院は奧にて
に存候されば拙者より委細申上べし抑當將軍樣紀州和歌山加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ふ節將監妻の召使ふ腰元澤の
ひ申けるは何事にや有らん是は定めて其方和歌山加納樣方に奉公致し居候節の事なるべし御本陣へ參りて御役人より
も手懸り無れば次右衞門三五郎は三藏に向ひ和歌山に西家村と云處有やと云へば是より一里許り在に候と
の行程を二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞出迎へ彼奉行所本町東の本陣に旅館致させけるに次
せける程に百五十里の行程を二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞出迎へ彼奉行所本町東の本陣に
の井の宿榎本屋三藏方にて分り兼候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監方に十四五
衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より直樣紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を調べ澤の井が宿
に主人方にては奉公人の宿は存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二軒あり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致し
御奉公長く勤め候女中御座候やとあるに母公然ば和歌山在西家村の神職伊勢が娘の菊と申者私し方に十五年
笈摺衣類の證據に成べき品々は駕籠の上に付紀州和歌山を出立なし田丸越をぞ急ぎける
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なと頻に不便彌増偖云やう其方の父は熊本と計りでは當所も廣き城下なれば分るまじ父の名は何
伊勢參宮より故郷を跡にして遙々と父の故郷は熊本と聞海山越て此處迄は參り候へ共何程尋ても未だ父の
の養育に成長しが十一歳の年に親父は故郷の熊本へ行とて祖母に私しを預け置て立出しが其後一向に歸り
にて候と云亭主此を聞て眉を顰め信州と此熊本とは道程四五百里も隔りぬらんに伊勢參宮より何ゆゑ當國迄は
其場は別たり扨寶澤は九州路を徊歴し肥後國熊本の城下に到りぬ爰は名に負五十四萬石なる細川家の城下なれ
考ふるに今大阪へ上りても兵庫へ着ても船頭が熊本へ歸り斯樣々々と咄さば加納屋利兵衞方より追手を掛んも
書置を認め途中より加納屋へ屆け其身は直に熊本を立退先西濱指て急ぎ行り此西濱と云は湊にて九州第一の大湊
ず僅に二年の内に金子六十兩餘を掠め取り今は熊本に長居は益なし近々に此土地を立去んと心に思ひ定めける頃しも
大いに悦び内へ入りて申やう私し儀は肥後國熊本の者なるが今日の大雪に道踏迷ひ難澁いたす者なり何卒御情
毒殺したり尚も幼顏を亡さん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望を企つるには金子なくては叶ふまじと
殺されし體に取拵へ夫より九州へ下り肥後の熊本にて加納屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子を掠め夫を手
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へ申けるは今日拙寺へ參る所の客人は舊京都九條家の御家來にて當時は浪人し山内伊賀亮と申す大器量人なり上
に關東へ聞え器量格別の者なりとて元文三年三月京都町奉行を仰付られ島長門守と言しは此人なりし同五
右衞門と南藏院の兩名にて普請出來せし旨を京都へ申遣はしければ天一坊は伊賀亮大膳等の五人と密談を
又も近邊の有徳なる者どもを進め用金をば集めける京都にても五萬五千兩程集まり京大坂にて都合十五萬兩餘の大金と成ば
打上聞に達せしに御覺悟有せらるゝの上意なれば京都に於ても麁略無樣計らひ申さるべしとの事故然ば其儘
の品の拜見もありしに全く相違なしと見屆け京都よりも又此段を江戸表御月番御老中へ御屆に相成る先達て
相成御左右次第江戸へ御下向の御積其間に京都御遊覽の爲め上京此段町奉行にも心得有べき筈不屆至極の使者
倍して行粧善美を粧ひ道中滯りなく十一日晝過に京都四條通りの旅館へぞ着なせり則ち大坂の如くに入口玄關へは
書翰を以て彌々明十日大坂表御出立明後十一日京都御着の思召なれば其用意有べしと認め送れり頃は享保十一丙午年
んと内々囁やきけるとなり斯て天一坊の方にては先京都の御旅館の見立役として赤川大膳は五六日先へ立て上京し
赤川大膳是を勤む其節の口上には近々天一坊京都御見物の思召あれば御上京遊ばすに付當表の御旅館御引拂ひ
召抱へ先是にて可なり間に合べし然らば片時も早く京都へ立越べしと此旨を御城代へ屆ける使者は赤川大膳是を
悦び然ば此上は近々の内當所を引上出立し京都に赴き諸司代にも威勢を示し其より江戸表へ下る可と相談一決
の振舞と云べし扨も享保十一午年九月廿日に京都を發足し威光列風の如く十三日の道中にて東海道を滯りなく十
を相屆ける頃は享保十一午年九月廿日天一坊が京都出立の行列は先供は例の如く赤川大膳と藤井左京の兩人一日代りの
させんと待處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に老中の役宅にて取切て應答せしは拙者なりと云にぞ
賣主坊主僞物なりとの過言を出さるゝは何故なるぞ大坂京都及び老中の役宅に於て將軍の落胤に相違なしと確認の附しを足下
の役人數多並び居るにぞ如何なれば大坂御城代を始京都所司代御老中の役宅にても自分を上座に据ゑしに越前守のみ
事を遺言せられしに秀忠公も亦深慮を廻され京都へ御縁組遊ばし其上にて事を計はんと姫君お福の方を
奬學院とて總公家を支配する官職なり然れど江戸にて斯京都の公家を支配する譯は天子若關東を※せらるゝ事有ては徳川
へ官職を取次給ふの官なり尤も小石川御館のみは直に京都より官職を受るなり二は淳和院とて日本國中の武家を支配する官
急げ/\と急立ける御定法の早飛脚は江戸より京都迄二日二夜半なれども此度は大岡の家改易に成か又立
と呼るゝ越前守が手に掛らば本望なり大坂御城代京都諸司代御老中迄も欺きし上は思殘す事更になしと自分の
抑々久八は去元祿の頃京都丸山通りに安養寺と云大寺有り其門前町に住て寺社巨商等へ
を集め金に換つゝ當歳の子を懷に住馴し京都の我が家を立出て心細くも東路へ志ざしてぞ下りけり元より馴ぬ旅
も吉兵衞は妻の死去せしより身代をば仕舞住馴し京都を後になし孤子を抱へて遙々東の空へ赴く途中三州迄
なり我が身の安心なせしに付ても其昔し京都にて妻のお久の不仕合せ又藤川の宿外れへ棄し我が子は其後如何
不審くぞ思ひける扨も此甲州屋吉兵衞と云は其已前京都丸山安養寺門前に住居せし彼の料理人吉兵衞にして東都へ下る砌り
樣右の次第は事長々込入候儀にて全體私しは京都下四條の生れにして其後丸山安養寺門前に住居致し候砌り一人
と思父の隼人は右膳に行儀作法を習はせんと京都へ登せ堂上方へ宮仕させしに同家の女中お竹と云ふに
本人出ざるゆゑ所拂ひとなりしかば通仙は是非なく京都へ引越苗字を山脇と改ため以前の如く外科を業とすれども南都
の前へ置しにより通仙は奈良を追拂はれ京都に住居の時留守宅へ忍び入衣類を奪ひ取大津へ立越賭博を
程逗留して尋ぬれ共夫ぞと思ふ人もなく然らば京都へ登らんと此處を立出三條の龜屋と云る旅籠屋に宿りし
て在事二百日餘りに成しかば最早大坂にては有まじ京都に行て尋ね見んと其夜伏見登りの船に乘て翌朝伏見に
※り難し彼是と思はんよりは先大坂へ登り夫より京都と段々尋ねんと吉備津浦より便船せしに日々追手風打續き十日
はお花を連て人の後に付行程に頓て京都九條通りへ出此處にて宿屋を尋けるに三條通りにありと教ゆる
落付を定めんと同所を出立せし其折柄祇園祭ありと聞京都に立寄り見物して行んと彼地に到り過ちて大切たる印籠を失ひ夫
ならずお二人樣の御行方も大方知ければ其翌朝京都を立出江戸へと心指夜を日に繼で急ぎしに不測に
便船に乘り大坂へ着同所に半年餘も逗留し夫より京都に到り三條通りなる龜屋と言るに宿を取此所にも半年餘り
らるゝと思ひながら右多兵衞が弟の願山と申京都智恩院に所化を勤め居り候頃私し儀は堂上方に勤仕の事故
決して僞りは申し上ず私し生國は相州なれ共京都へ參り久々奉公仕つり居しと申立ればナニ生國は相州と
平左衞門先主人は京都に御座候と云へば大岡殿ナニ京都と申か其方の言葉は京訛り少しもなく關東言葉の樣に聞ゆるぞ而
然らば先主は何方なるやと有に平左衞門先主人は京都に御座候と云へば大岡殿ナニ京都と申か其方の言葉は京訛り少し
云へば大岡殿然らば其方弟の願山儀は以前京都智恩院の弟子なりしかと申さるゝに多兵衞否然樣でも御座り
事にても有しか一向左樣なる儀もなく只々汝は京都にて渠と度々出會別段懇意に致したと申が然ほど別懇ならば渠
し者が此地へ下らば皆世話を致すか何ぢや京都に居る時平左衞門のみ出會て外の者には出會ざりしか此儀は
者を世話致すと申は第一心得ぬ事なり此後も京都に於て度々出會し者が此地へ下らば皆世話を致すか何
因世話を致し候と申ければ大岡殿其平左衞門は京都に居し節何れに奉公致したヘイ日野大納言樣に勤居りましたナニ
は此事なりと思ひしかば其平左衞門儀は私し京都智恩院に居りし頃度々渠れと出會し故夫より懇意になり其
家老の中を遣はされんと城代稻葉勘解由を以て京都日野方へ參入致させ種々の音物山の如く贈られて今日の變事を
委しく知らるゝ上はとても叶はぬ處と覺悟をなし京都にありし頃佐々木安田の兩人は惡巧により稻葉家の家老稻葉勘解由
には外に名が有筈なり其頃は汝も同じ京都に居たる故知つて居ならん何ぢや答が出來ずば此方より云つて聞せ
吟味中屹度愼ませ置べしと申渡され夫より又此段京都所司代松平丹波守殿へ急使にて申送られければ松平殿是を聞れて偖
白状に及ければ大岡殿神妙なりシテ又其方は何故京都を逃亡致せしぞ及靱負は其後如何なせしやと尋ねらるゝに平左
願山が白状せしか此上は是非もなしとて心を定め京都日野家に仕へし節の惡事殘らず白状に及ければ大岡殿神妙
別れ我儘に身を持崩し十七歳の時浪人仕つり其後京都に出て日野家に奉公致し候と茲に至つて實の素性を白状
京都へ程近き所にて斯騷がしきことを仕出し萬一京都の人の目にも掛る時は此身の一大事に及ばんと人
靱負を宥ける故靱負は心付我は今日蔭の身なり殊に京都へ程近き所にて斯騷がしきことを仕出し萬一京都の人の目
話見たれども當時にて右樣の渡世をする時は京都へ程近ければ勿々危し何れにも片田舍へ引込で外は工夫せん
所※らずも安田平馬佐々木靱負の惡事に與し京都を逐電して平左衞門諸倶に嘉川家へ入込み此度の惡事に携
るゝに願山も最早覺悟の事なれば私し儀京都に居候節日野家の醫師に雇はれ折々供も勤めし所※らずも
に及びし故其次に願山を呼出されて其方京都に有りし時日野家に於ては何役を勤め罷在しぞと申さるゝに
此度の一件大岡殿格別に力を盡されしは京都堂上方の御内に關係の事故なればなり然ど四海に轟く明智の
對はれ其方詞に似合ぬ大膽不敵の曲者なり先年京都日野家に於て稻葉丹後守の老臣稻葉勘解由を欺きて三千三百兩の金子
れけれども其外の事は一向に申立ず因て何卒京都にて彼れと同勤したる佐々木靱負を召捕吟味せんとて諸方へ手
其方儀先年京都日野家に勤中種々惡事に及び其上嘉川主税之助方に於て
時に元和九年徳川二代將軍家御上洛あられしかば京都の繁華前代未聞なり然るに其年の十月頃時の關白二條左大臣殿
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共には米屋甚助事石黒善太夫筆屋三右衞門事福島彌右衞門町方住居の手習師匠矢島主計辰巳屋石右衞門番頭三次事木下新
輕追放 福島彌右衞門
此方にさし出すべしとの事に付即ち差出しけるに奧州福島仕立の紙煙草入にして其中に手紙一通あり其文に
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路なれば其辛さは云も更なり漸々にして大津の宿を辿り過打出の濱を打越て堅石部や草津宿草枯時も
か云ふ所の御方と答ふるを偖は古郷を隱して大津と僞りしならんと思ひ若や知つた御方なるか三人の腰の物を
ばかりか江戸の衆も一座かと問に御三人とも大津とか云ふ所の御方と答ふるを偖は古郷を隱して大津と僞
はれ京都に住居の時留守宅へ忍び入衣類を奪ひ取大津へ立越賭博を打佐七平四郎と兄弟分になり上方より東海道を稼折々
篤と聞請られ早速に組下の同心に申付られ藤澤宿大津屋段右衞門方へ罷り越右段右衞門を召捕來るべしと遣は
とありければお文は恐れながら申上ます右藤澤宿大津屋段右衞門と申者は前名畔倉重四郎と名乘筑前の浪人にて私
難澁致すなりと申ければ三五郎聞て夫は彼の大津屋へ入夫に參つてより金が溜りし故に腰が冷るの成ん
ずお文は彌々やつきとなり未々其上に藤澤の大津屋へ入夫に行前のこと鈴ヶ森にて十七屋の三度飛脚を殺して
翌朝未だ暗き中に起出食事抔もそこ/\仕舞て大津の方へ立出けり
御出立は相成るまじ其上最早申刻も過たれば大津迄出給はぬ内に日は暮申すべし夫よりも今宵は此所に
考へて何國と申す先は存ねども出立の時大津へ出る道を問れし樣子確に覺え居候へば若や江戸の
より立て名にし負近江八景を眺めつゝ行程に其以前大津を立し時より後に成り先に成て行しは町人體の一人
けれども一向に知れず是非なく其處を立出て其夜大津に泊り翌日は未明より立て名にし負近江八景を眺めつゝ行程に其
て大切たる印籠を失ひ夫より江戸に下らんとして大津の宿外れより惡漢に付れ終にお花を奪ひ取れ斯樣々々の譯にて取返せ
を尋ねらるゝに平左衞門渠は先年日野家を逐電の節大津迄同道せしが夫より分れて渠は三井寺の方へ行私し儀
其の夜の中に日野家を逐電して願山を誘引大津迄來しが不※心中に思ひけるは我々斯三人打連立ては豫て
兩の金を能も騙り取れたなイヤサ東海道五十三次品川から大津まで名を賣て居る此水田屋藤八を能も誑し騙つたなサア此上
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衞を見られ傳吉は其頃一兩年村内に居ず松山に在りしや又百姓中總體の願ひにて村長に成しと云が然
百姓半左衞門が悴半四郎と云者親類から頼まれたる飛脚にて松山の親類へ行に相違なく急用故に夜道をするが怪い者には
乘て貰へ/\今時生若い者が大金を持て夜通しに松山迄行と云は怪い奴だ飛脚と云ではなし大方若いのが主人
やると云に半四郎は何心なく私しは是から夜通しに松山迄參りますと云つゝ胴卷を仕舞居るに雲助共それなら夜道は
を所持なし居たりしが或時此佐次右衞門伊豫國松山の親類へ金子五十兩送るべき事ありしに大金の事故飛脚を雇ふ
の中にて天地を拜し半四郎と倶に頓て伊豫の松山に到り則ち半四郎は頼まれし五十兩の金を親類へ渡し夫より又
と立上り夜の更しをも厭ひなく是より兩人打連れ立ち松山指てたどりけり實に後藤秀盛の仁勇天晴の武士と謂つべし扨又五
にするに及ばず尤も猶途中不用心ゆゑ是より其許を松山迄送り遣はすべし又其許に折り入て咄し度事も有
半四郎と申者に候が親類より頼れし急用にて伊豫の松山迄參る途中先刻松の尾と申宿にて夜食の機から雲助ども理不盡
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なりしかば右膳は女を親許より貰ひ受古郷の奈良へ連戻りしに父は大いに立腹なし勘當せしかば止を得ず
て見るに鹿の斃て居る故早々町役人へ屆け奈良奉行へ檢視を願ひ出でけるに通仙を呼出され吟味ありしかど素より
殺し通仙の家の前へ置しにより通仙は奈良を追拂はれ京都に住居の時留守宅へ忍び入衣類を奪ひ取大津
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ざる由を申により又外々の名主へ掛り尋けるに下谷廣小路に道達とて表へは賣藥見世を出し置外療醫をなす者の
兵衞は又間違の品が出たかとて家主同道にて下谷の自身番へ來りしかば早速呼出し原田は十兵衞に向ひ去月中爾
へ町奉行所へ差出たり之に依て翌日同心原田大右衞門下谷の自身番へ出張し家主廣次郎を呼寄られ其方店に道具屋治助と申
へ歸りて長兵衞并に村名主源左衞門に向ひ下谷山下にて見當りし脇差の事を話し是は親方の小刀なり先年行方知ず
持せて取に上ますが田舍者は兎角迷路易き故下谷と云ても分らぬことが有つて間取から大屋さんの名を書て
ヤレ/\今日は初めてとは云ながら恐ろしい目に逢た下谷の長者町とか云ふ所へ行て道に迷ひ終に二百文出て案内を
口上も渠が爲には却つて云ひ安き言葉なり夫より淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々廻りしかば後々は馴染も多く
ば徐々仕舞て歸る樣子ゆゑ長八は後に尾て行けるに下谷山崎町なる油屋といふ暖簾の懸し裏へ這入しかば長八も同じく續い
は種々に心配なし是より直樣廿五兩の金子を持て下谷山崎町なる大橋文右衞門の方へ到りけるに同じく跡より續て質屋の
て大いに笑はれければ大橋も今は是非無尋厭倦て下谷山崎町の我家へ歸り偖も/\困し事也馬喰町へ行て表店は
然るに天の助けにや或夜戌刻とも思ふ頃下谷車坂より出火して火事よ/\と立騷ぎければ宅番の者
妻政と申者にて八ヶ年以前夫婦御當地へ罷出下谷山崎町吉兵衞店に罷在し處浪人の身の上なれば追々困窮零落仕つり只今
儀八ヶ年以前越後家を浪人仕つり御當地へ罷り出下谷山崎町吉兵衞店に住居罷り在候に不※此程中右市之丞尋ね參り
淺草の觀音樣より上野の大師樣へ參詣せんと下谷の車坂を通り懸りしに深編笠を被りて黒絽の羽織のぼろ/
何れへ行たるやと問に長八は何か急用ありとて下谷の山崎町へ參りしと答へければ半四郎然樣か親類にても有て行
聞糺さんとの事なる由時に越前守殿白洲を見られ下谷山崎町家持五兵衞悴五郎藏其方年は何歳になるや又妻はある
付の儘砂利の上に蹲踞まるに大岡殿是を見られ下谷山崎町家持五兵衞召仕ひ久兵衞其方生國は何國にて年は何歳なる
五郎も出府致し居面會仕つり候に同人娘儀江戸下谷山崎町油屋五兵衞悴五郎藏と申すものゝ方へ縁付候へども家内不熟
又大岡越前守殿には文右衞門一件段々吟味の末下谷車坂町六兵衞店藤助の兄弟を呼出されしかば久兵衞は彌々絶
文右衞門は有難く畏まり奉つる旨申すに又大岡殿は下谷車坂町六兵衞店藤助と呼れ其方儀久兵衞より預り置たる
下谷山崎町
下谷車坂町
矢島に於て高八千石を賜り交代寄合に成され屋敷は下谷竹町にて拜領致れたり斯樣の家柄故此度主税之助を御預けなさるゝ
方共身分は何なりやと尋らるゝ一人進み出私しは下谷山崎町源次郎と申者私しの金を此者が自分の金なりと申
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相成けるとぞ其の昔し延文康安の頃伊勢の國司長野の城主仁木右京大夫義長は己れが擅横に太神宮の御神領迄を
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却て説淺草福井町に駕籠舁を渡世として一人は權三といひ一人は助十
を蒙るは笑止千萬但證據有やと尋ぬるに然れば福井町に住權三助十と云ふ駕籠舁二人證人なりと申せば八右
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旨屆け出其翌朝件の二品を腰に付泣々岡山の城下を立て或松原に差掛りしが此方の松蔭より黒き頭巾にて面
當と定め無れど見咎められては一大事と鼠竊々々に岡山を立退けり偖喜内は翌日になり私しの妹花と申者豫て
小町唐土の楊貴妃をも欺くべく然らば同家中は素より岡山中に双ぶ女は有まじと評判高かりければ是又諸方より嫁に貰
萬五千二百石松平伊豫守殿の藩中松田喜内と云ふ者有代々岡山に住居せしが當時の喜内は壯年なるに兩親を亡ひ未だ妻
爰に備前國岡山御城主高三十一萬五千二百石松平伊豫守殿の藩中松田喜内と云ふ者有代々
然程に忠八は岡山の城下外なる松原にて澤井佐太夫に別れ何を當と指て行べき
が何處へ行て身を寄んと云方もなく然ばとて岡山近所にも住居も成難く兎角此邊に居んよりは遠路ながら江戸へ赴か
にて金子二百兩と藥の入し印籠を貰ひ請備前岡山の城下を泣々立出しが何處へ行て身を寄んと云方もなく然
せし百兩は惡漢に奪ひ取れ友次郎が持し百兩も岡山を立しより是迄に過半遣ひ捨し上此處にて斯一年
用の金をさへ失ひし其概略を語らんに兩人が岡山を立退しより陸路を大坂へ登り廿日餘り休足せしが少しも早く
を呼は不審なりと彼の旅人の顏を能々見るに岡山に在し時數年我が家に使ひたる若黨の忠八にて有ければ餘りの
忠八は是には長き御物語りあり一通り御聞下さるべしとて岡山の城下外れにて佐太夫に別れしより吉備津の便船に乘り大坂へ着同所
紀念金を分與へて暇を取せ私し事は翌朝岡山の城下を出立致せしに城下外れの松原にて友次郎樣の親公佐太夫樣
給ひしといふを吾助は聞て我等事御存じの通り岡山にて主取は致したれども高が若黨奉公なり何時迄勤めたりとも
猶以て御無沙汰に打過しに而て此の度如何なる故有て岡山より江戸には下り給ひしといふを吾助は聞て我等事御存じの
を祝し合扨久藏言出けるに偖も貴殿には備前岡山なる城下に能奉公口有て主取なし給ふ由承まはりたるのみにて其
呉れるならんと小腰を屈めて見世へ這入我等は元備前岡山にて御懇意に致したる者なり何卒御亭主に御目に懸り度と云
心頻りなれば暫しも止らず東海道は人目繁ければ若や岡山の人に逢もせば面倒なり木曾路より中仙道を行に如く事なし
包みと金子二百兩を盜み取闇に紛れて備前國岡山を立去しが豐前國小倉の城下に少しの知音有ければ此に
抑々本郷二丁目なる桝屋久藏と言る者は元備前岡山在の百姓の子にして吾助とは元來懇意成しが此久藏十
あり越前守殿取上られて早速吟味あるに此別人ならず備前岡山の藩中松田喜内が家來忠八なり越前守殿一通申立よと有しかば忠
花が助太刀して美名を世上に上たる事是偏に岡山侯の賢良なるより下にも又斯る人々ありしと其頃世上に
寔に君君たる時は臣臣たりと云古語の如く岡山侯賢君に在ます故に喜内不幸にして僕の爲に討るゝと
五百石を賜り又忠八は足輕小頭となりて兩家共代々岡山に繁昌せしとぞ寔に君君たる時は臣臣たりと云古語
物を贈りて夫より路次を急ぐ程に日成ずして岡山に着せしかば即日太守へ目見申付られ花事は一旦出家の望み有由にて
對面有て此度の手柄拔群なりと賞美有りて遠からず岡山表へ差下すべき旨申渡され夫より五日程過て又家老中より
數來り大名小路の上屋敷へ三人を引取れたり折柄太守には岡山在城中なれば家老中對面有て此度の手柄拔群なりと賞美有りて
其日の來るを今や/\と待程に其後岡山侯より迎への人數來り大名小路の上屋敷へ三人を引取れたり折柄太守に
に控居べしとて番人を嚴重に付置扨此由を備前岡山の城主松平伊豫守殿江戸屋敷へ問合せに及びけるに此方の元家來に
取圍み事の樣子を聞けるに友次郎は容を改め我々は元岡山の藩中松田喜内と申者の親類にて右喜内の敵吾助と云者を
大惡無道の吾助大恩有る主人と知りながら兄君を害し岡山を立退し事定めて覺え有べし今爰に逢しは天の賜
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こそあれ此藥は素漢方家の配劑ならず愚老先年長崎にて醫道修業を爲しをり不※阿蘭陀の名醫より傳習したりし
は手下にて肥前の小猿といふ者又一人は同く肥前長崎在方村と云ふ所の出生向ふ見ずの三吉と云者なり扨て文藏夫婦
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送しにおもせも文右衞門が男振優に艷く甲府の中にも多く有まじき樣子に迷ひ終に人知ず返書を取り交し二世の
右衞門と言て有徳に暮す百姓あり或時文右衞門は甲府表に出て所々見物なし日も西山に傾むきける故に佐倉屋五郎
の者は雲切仁左衞門の手下なる三吉小猿の兩人にて甲府邊の者三四人を錢五百文づつにて雇ひ供に召連たるなり
意を得ず然れども囚人と有ば打捨置がたしとて此段甲府御城代八木丹波守殿酒井大和守殿へ申達されける故評議の上先御勘定
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固めさせ外九口へは是又人數若干を配り海手は深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて取切備船は沖間へ出し間々は
べし此人數は凡そ千人餘ならんと又一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで燈火の見るは何舟なりやと問ふ大膳那
數五百人宛を守らせ沖の方は船手へ申付深川新地より品川沖迄御船手にて取切御備の御船は沖中へ押出し其外鯨船
居て外科を習ひ覺え兩三年立て妻子を引連深川萬年町に賣家を買中島立石と改名して醫業を營みとせし
故頓て支度を調へ東海道を下り豫て約束なれば深川の下屋敷へ到着致しけるに小野田は三年以前に先妻は相果子供も
三人一同に江戸表へ出立なし先吉原を始め品川或ひは深川と所々にて遊びけるが頓て彼八十兩を遣ひ仕舞しかば三人
も篤實者にて金の番人に致すとて心遣ひのなき者にて深川一色町に八百屋を仕つり當時は妻をも持居り候又小網町三丁目
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愼む樣子なければ、堯仙院も捨置がたく、孫弟子の品川常樂院に仔細を云ひて預けたりしが、此常樂院中々の横着
ざる樣心付べしと申渡し、自分も組子引連、後より品川宿へ出張なし、山伏常樂院方に赴き、源氏坊天一と云へるもの
郡太夫は直に此事を主人半左衛門へ申聞、早速品川宿名主年寄を呼出して吟味に及びし處、成程去年以來大膳方に富貴
用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上
長谷川卯兵衞兩國米澤町の鼈甲屋喜助等の五人を語らひ品川宿近江屋儀右衞門の地面芝高輪八山に有を買取て普請にぞ取掛り
院は篤と承知し早速懇意なる芝田町二丁目の阿波屋吉兵衞品川宿の河内屋與兵衞本石町二丁目の松屋佐四郎下鎌田村の長谷川卯兵衞
へは是又人數若干を配り海手は深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて取切備船は沖間へ出し間々は鯨船にて取固め
凡そ千人餘ならんと又一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで燈火の見るは何舟なりやと問ふ大膳那こそ白魚を漁る舟
黄昏になりしかば山内は四方を屹と見渡し大いに驚き大膳殿品川宿の方に當り火の光見るが那を何とか思るゝや
樣桐棒駕籠に打乘白布にて鉢卷と腹卷をなし品川宿より道中駕籠一挺に人足廿三人を付添酒代も澤山に遣
見渡すに總て海邊は數百艘の船にて取圍み篝を焚品川灣を初め江戸の出口十三ヶ所へ人數を配固めたる有樣なれば
宛を守らせ沖の方は船手へ申付深川新地より品川沖迄御船手にて取切御備の御船は沖中へ押出し其外鯨船數艘を
三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ人數を配り先品川新宿板橋千住の大出口四ヶ所へは人數千人宛固させ其
品川宿地面賣主
品川宿名主
を云つゝ一本の傘に三人が小雨を凌ぎながら品川を後にして高輪より札の辻の方へ差掛りける處に夜の
して此絶景を占しは江戸四宿の内只此品川のみ然れば遊客も隨つて多く彼の吉原にもをさ/\劣らず
投捨て跡白浪と我が家なる麹町へぞ急ぎける爰に武州なる品川宿といふは山を後ろにし海を前にして遠く房總の
のせ日がな一日買ひ歩行戻れば夜を掛撰わけて千住品川問屋先賣代なして聊かの利益を得ては幽々に其日々々を送り
に庄左衞門が妹は美麗にして三味線などよく彈故品川の駿河屋何某の許へ縁付けるに庄左衞門が父十兵衞は古稀
人通りが少無なつて否はや一向に不景氣なことさ品川歸りも通らねえ隨分氣を附て道中を成れましと噺しながらに行
て呉んと獨り笑壺に入相の鐘諸ともに江戸を立出で品川宿の相摸屋へ上り飮や唄へとざんざめきしが一寸と床に入り
て三五郎に向ひ然までに云るゝなれば我今より品川迄用事あつて行間先方にて才覺致し遣すべしと頓て身拵へ
て如何にもみすぼらし氣なる者を連出せしかば大岡殿コレ品川宿の馬士其方は去年十七屋の飛脚を乘鈴ヶ森に於て切ら
者なりと白眼付られ夫より同心に豫て申付置たる品川宿の馬士を只今是へ出すべしと言れけば同心は畏まり候と
へ着て御所刑場是より何程あるやと尋しに品川の手前に鈴ヶ森と云所こそ天下の御仕置場なり尤も二ヶ所あり江戸より西南
見んとて翌朝寅刻より起出て友次郎忠八の兩人は品川と千住の方へ尋ねにこそは出行けれ爰に又桝屋方にては吾助
江戸に落付ては居るまじ翌日は暗きより起出て其の方は品川の方より段々に尋ぬべし我は千住板橋など出口々々を尋ね見ん
兩人は追放に成しかば何を當に行べき方もなく品川宿を打過ける時吾助はお兼に對ひ斯なる上は最早詮
ば村役人共然らば暫く控へ給へとて當所の名主又品川宿の役人共も立合一同評議の上當所の御代官へ訴へければ
べしとて三人一同に江戸表へ出立なし先吉原を始め品川或ひは深川と所々にて遊びけるが頓て彼八十兩を遣ひ仕舞しかば
と夫より新宿の相摸屋へ上りしが其夜九ツ時分品川を三人連にて立出高輪へ來りし時仁左衞門大音揚コレ三吉汝
にて花見をなし酒の機嫌に古への物語りなどして品川より藝者を呼大酒盛となりて騷ぎ散す中早日も暮相と
て百八十兩の金を能も騙り取れたなイヤサ東海道五十三次品川から大津まで名を賣て居る此水田屋藤八を能も誑し騙つたな
呉服屋の六團扇の源入墨七箱根傳助小僧の吉品川の松抔何も當宿の腕こき六人體へは赤合羽を羽折
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指定地の勅任所長ともいふべきで、それが、東京地方裁判所長に轉任したのであるから、榮轉は榮轉であるが
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へおけるが大岡越前守是を聞給ひもつともの願ひなり御成門の儀は大切にかきりなし夫をわきまへずして大膽の者
よつて御成門を又々改め新に立直し奉行所へ申上て昨夜御成門へ徒仕りしが南無阿彌陀佛と書しは淨土宗のともがらねたみしと相
たり誰とも知れざれども不屆の仕方なりよつて御成門を又々改め新に立直し奉行所へ申上て昨夜御成門へ徒仕りしが南無阿彌陀
として出來ければ淨土宗のともがら是をねたみ御成門へ夜の内に大文字にて祐天風の南無阿彌陀佛と書たり誰とも
頃家重將軍是へ爲成候に付御成まへ俄にあたら敷御成門として出來ければ淨土宗のともがら是をねたみ御成門へ夜の
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付られけるにぞ徳太郎君をも江戸見物の爲に同道なし麹町なる上屋敷に住着たり徳太郎君は役儀もなければ平生閑に任せ草履取
君には道中も滯ほりなく同年霜月加納將監御供にて江戸麹町紀州家上屋敷へ到着と相成り夫より左京太夫殿家督相續萬端首尾
年程に地面も賣拂ひ是非なく身上を仕舞て今は麹町加賀屋茂兵衞と云る者の方に掛人にぞなりたりける此茂
は衆の怨なりと此言や宜なるかな享保の頃麹町二丁目に加賀屋四郎右衞門とて間口十八間餘番頭手代丁稚五十餘人其外
が十兵衞鐺と膝を打兄作藏は當時江戸麹町三丁目にて村井長庵と言て立派なる醫者に成て居るとの由故
武田に暇を貰ひ直に天窓を剃て坊主となり麹町三丁目の裏店を借て世帶をもち醫師渡世を初めしに運の
なし實に賢奉行とや謂つべし仰々村井長庵といふは麹町三丁目に町醫と成つて世を送り舍弟十兵衞を芝札の
江戸麹町三丁目村井長庵樣
附金五兩を引去四十二兩の金を請取て長庵諸共麹町へこそ歸りけれ偖十兵衞兄長庵に打向ひ段々の御世話にてお
兩人を枕に付せけるが翌日長庵は早々支度を爲し麹町を立出吉原さして急けり爰に吉原江戸町二丁目の丁字屋半藏と云
な草臥なと種々言慰めつゝ日を經て漸々江戸に着麹町三丁目なる長庵が宅に到りければ長庵は大に悦び偖々能出府に
て行し傘を死骸の脇へ投捨て跡白浪と我が家なる麹町へぞ急ぎける爰に武州なる品川宿といふは山を後ろにし海
足元も踉々蹌々に定め兼子故に迷ふ闇の夜に麹町をば後になし歸ると聞し虎の門も歸らぬ旅に行空の西の久保
其上書は「三州藤川在岩井村十兵衞殿返事江戸麹町三丁目村井長庵」右の通りの上書にて中の文言は「去二日
札の辻の町役人へ渡されければ非番の家主即時に麹町の名主の玄關へ持參なし順序を經て長庵の家主の手に
岩井村十兵衞殿」右の文體也ければ直ちに麹町三丁目町醫師村井長庵呼出しの差紙を札の辻の町役人へ渡されけれ
して彌々道十郎の仕業なりと疑がひ掛り直に麹町へ召捕方を差向られ十兵衞事死骸は兄長庵へ御引渡しに
せ何處へ連行殺さんかと心の内に目算しつゝ麹町をも疾過て初夜の鐘をも算へつゝ巧みも深き御堀端此
私の身の代金の爲に人手に掛り果て給ひ母樣には麹町にお在るとの事成れどなどか逢には來給はぬぞ手紙を
死骸を田圃の溝へ投込み其儘にして道を急ぎ麹町へ歸り來て長庵の門をほと/\叩けば待まうけたる長庵は
を送りしが密に支度を調へて見世を拔出し麹町三丁目へ到り其所か此所かと尋ぬるうちに門札に村井と表名
は夢にも知らず心の中に今日は小夜衣が麹町へ來たか翌は來るかと指屈算へ日の暮るのを樂しみ
に於て申立候趣きに候得ども忠兵衞儀同日同刻麹町平川天神へ參詣し歸り同所裏門前に於て行逢言葉を替し
夫の惡名相雪ぎ申度心懸居候處私し元住居麹町に於て懇意に仕つり候忠兵衞と申者頃日不※私し方へ
七年八月廿八日拂曉芝札の辻に於て麹町三丁目町醫村井長庵弟十兵衞國元へ出立仕候節人手に
ヶ年以前八月廿八日未明に平川天神御參詣の折節麹町三丁目町醫師村井長庵にお逢なされしとの事道十郎殿寃
手際を顯はさんと思はれ一度の吟味もなく直に麹町名主矢部與兵衞へ内通有つて村井長庵が在宿を篤と見屆させ
箇年以前寶永七年八月廿八日の明曉長庵を麹町平川天神裏門前にて見受たる由其砌りの始末包まず逐一申立べしと云は
引取べしと有りける故に皆々我が家へ歸りけり翌日直に麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞を御呼出しに相成白洲に於て越前守殿其
申聞せ候には寶永七年八月廿八日未明に麹町平川天神の裏門前にて忠兵衞參詣の歸りがけ村井長庵を見請たるに
かに申立てけるにぞ然る上は證據人をと申さるゝ時麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞直ちに白洲へ呼込と相成長庵の側らに蹲
偖翌日大岡殿には願ひ人長助光并びに證據人麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞相手方村井長庵とを呼出しになり越前守殿出座有て
江戸町二丁目丁字屋半藏抱へ遊女小夜衣に馴染し處同人伯父麹町三丁目町醫師村井長庵に小夜衣が身受金也と欺むかれ五十兩騙り取れ
國藤川在岩井村百姓十兵衞と申實親の判にて麹町三丁目醫師長庵儀は右十兵衞の兄なる由にて受人に相
同人妹富こと小夜衣石町二丁目甚藏店六右衞門麹町三丁目瀬戸物渡世忠兵衞ならびに同人妻富右町役人共一同御呼出しと
違はぬばかりにて國元の家を仕廻私を連て麹町の伯父の所へ來て居し中姉に逢してやると此三
へ奉公に住込み奉公中竊鼠々々物を盜み溜其後麹町へ醫業を開き一時僥倖を得ると雖も忽ち病家も無なりしより惡漢
も有之に付格別の御憐愍を以て無構」「麹町三丁目家主共 其方共 店内に差置候醫師村井長庵儀は
褒美として鳥目十貫文取せ遣はす」「麹町三丁目庄兵衞地借瀬戸物渡世忠兵衞同人妻とみ 其方共儀
致し遣はすべし」「赤坂傳馬町二丁目長助店元麹町三丁目浪人藤崎道十郎後家願人みつ 其方儀願ひ出候目安を取調べる
歳 其方儀所々に於て小盜み致し其上麹町三丁目町醫村井長庵に同意爲し淺草中田圃に於て三州藤川在
申渡されける其次第は「三州藤川在岩井村無宿當時江戸麹町三丁目重兵衞店作藏事町醫師村井長庵五十三歳 其方儀
を畫き前齒二枚打缺て名を權兵衞と改め麹町六丁目米屋三左衞門方に米搗に住込居たるを町方の役人怪しみ早速召
云ひ安き言葉なり夫より淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々廻りしかば後々は馴染も多く出來誰あつて少しも笑ふ
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詮房。本多中務大輔正辰。若年寄には大久保長門守正廣。大久保佐渡守常春。森川出羽守俊胤。寺社奉行には松平對馬守近貞。土井
御用人間部越前守詮房。本多中務大輔正辰。若年寄には大久保長門守正廣。大久保佐渡守常春。森川出羽守俊胤。寺社奉行には松平
時に酒井樣より其の朝宿次刻限の急使にて江戸御老中大久保佐渡守樣へ御用状到達なし則ち上聞に達せられける尤も遠國は皆寺社
は老中間部越前守殿同井上河内守殿同久世大和守殿同大久保長門守殿若年寄石川近江守殿同黒田豐前守殿同土岐丹後守殿なり右の人々
と相待居たり扨役人方の上席は老中井上河内守殿若年寄大久保長門守殿石川近江守殿寺社奉行黒田豐前守殿左の方には大目付有馬
しと申立ればナニ生國は相州とな然すれば大久保家の家中の者なるかと問るゝに平左衞門否然樣には之
衞門右の者一同白洲へ罷り出ければ老中井上河内守殿若年寄大久保長門守殿石川近江守殿寺社奉行黒田豐前守殿大目付有馬出羽守殿御目付松浦
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三五郎は江戸三箇所の出口へ人數を配り先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣し固めさせ外九口へは是
は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ人數を配り先品川新宿板橋千住の大出口四ヶ所へは人數千人宛固させ其外
事はならざれども淺さり遊んで歸らんと夫より新宿の相摸屋へ上りしが其夜九ツ時分品川を三人連にて立出
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て吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ人數を配り先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣し固めさせ外九口へ
の如く江戸出口十三ヶ所へ人數を配り先品川新宿板橋千住の大出口四ヶ所へは人數千人宛固させ其外九ヶ所
にのせ日がな一日買ひ歩行戻れば夜を掛撰わけて千住品川問屋先賣代なして聊かの利益を得ては幽々に其日々々を
ぬ顏にて是は久八殿何所へ行るゝや私しは千住の天王樣へ朝參りの歸りなりと云ふ久八熟々打詠め涙をはら
はしまじと打過けるに或日朝まだきに吉原土手を千住へ赴かんと鐵砲笊を肩にかけて行過る折柄向ふより御納戸
私しより少しづつ返濟致し居候然るに先日私し事千住の紙屑問屋へ參りし途中吉原堤にて千太郎が朝歸りの體を見受候
ては父の亡骸を葬りて修羅の妄執を晴し申さんとて千住小塚原の御仕置場へ到り非人の小屋へ立寄些御頼み申度ことありて
も殺害致し候段重々不屆至極に付町中引廻しの上千住小塚原に於て獄門に行なふ
にぞ友次郎は足摺して我板橋を後にして千住を先に尋ねなば吾助に出逢本望を達すべきに公儀の御手に
と赴く途中にて五六人の男が歩行ながらの噂に今朝千住にて召捕れたる者有しが小鬢に餘程の古き太刀疵の有程の者故
なきにぞ然らば千住の方を尋ねんとて飛鳥山下通りより段々千住の方へと赴く途中にて五六人の男が歩行ながらの噂に今朝千住
到り吾助を尋ぬれども何の手係りもなきにぞ然らば千住の方を尋ねんとて飛鳥山下通りより段々千住の方へと赴く途中にて五六
は足に任せて急ぐ程に芝神明前をば寅刻に立て千住大橋迄は未だ暗き中に來れども春の夜の明易く掃部宿に掛る
申したりと云を聞て直に家に歸り旅支度を成し千住を指て急ぎけり諺に云己人を欺かんとすれば人又己を
ば家主は打案じて慥には知らねども今宵は千住泊りとか申したりと云を聞て直に家に歸り旅支度を成し千住
とて翌朝寅刻より起出て友次郎忠八の兩人は品川と千住の方へ尋ねにこそは出行けれ爰に又桝屋方にては吾助が日光
起出て其の方は品川の方より段々に尋ぬべし我は千住板橋など出口々々を尋ね見んとて翌朝寅刻より起出て友次郎忠八
せしによりその後猶又手配りして相尋ね候折柄此間千住に於て召捕られ候段承まはり及び候然る上は若も吾助事死罪
扨も捕方の同心より吾助事千住にて召捕し段屆けに及びければ大岡越前守殿には先吾助に
を持參せよとて取寄られ御覽あるに寺社奉行所へ千住燒場光明院より訴への寫し左の通り
千住
寺の切手を持參致し所化僧一人檀家三人差添千住燒場光明院へ火葬の者送込候處其後所化僧檀家共棺桶捨置逃去候
と申立ければ大岡殿然すれば其方が娘の死骸は千住燒場光明院に之有間彼の處へ行早々引取り葬り得させよと有て右
の死骸を置捨に致したる事相違是有まじ又た千住光明院淺草了源寺より訴へ出し書面もあり右等を只今爰に於
とも島が一條に付ては確なる證據あり本月朔日千住燒場へ島の死骸を置捨に致したる事相違是有まじ又た千住
の所化と爲り燒場切手を持參なし島の死骸を千住の燒場光明院へ持込棺桶を其處へ置捨にして逃失し由又
笑ひ御身は賊に逢ひ夫を捕へん爲追行と云給へど千住にて今朝より暮方迄女を相手に快樂日の暮てより夜道をさる
により常陸筑波山の近邊に少しの知音を便り行んと千住へ出筑波を指て急ぎしが先江戸近邊を夜の中に通り
の金を盜み取其儘屋敷を忍び出夜に紛れて千住の方へと行たりけり此左仲は元下總銚子在の百姓の悴なり
道玄次郎は渠等より其知せもなき故一向知らず千住宿にて左仲が樣子を見付しかば此原の入口にて左仲に追付十分に
(此二人の賊は道玄次郎が手下なり左仲が樣子を千住にて見て取能代呂物と付つ廻しつ居たりしが左仲は夜道
嘉川家へ入込み此度の惡事に携はり島が死骸を千住の光明院へ捨置候又了源寺に居しは十三ヶ年以前の事にて
主税之助に頼れ島が死骸を了源寺所化と僞り千住燒場光明院へ置捨に致候段重々不屆に付死罪申付る
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石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石都合五十萬石上野國佐位郡厩橋の城主格に御座候と辯舌爽に申述猶申殘
られ候御事にて御高の儀は吉例四國なれば上野國にて廿萬石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石都合五十萬石
熊にも衣類の流行物櫛笄贅澤づくめに着餝らせ上野淺草隅田の花兩國川の夕涼み或は芝居の替り目と上なき奢をなし
を頼み所々方々の料理の手間取をして居たる中上野の山内へ出入となり四軒寺町本覺院の住寺の贔屓に預りたり此
申候尤も其時の證據と申は其後御當地上野の御山内四軒寺町本學院の和尚先年私し藤川宿へ棄兒せ
へ來懸りしに誰やらん堀を越垣を乘越て上野の山内へ入者ありしかば大いに怪み田村權右衞門へ申斷り内密
小路醫師道達方へ押込刄物を以て威し療治致させ上野に匿れ住は身に暗き處有故ならずや白状せず共此科に
所等迄相違なき故大岡殿曲者に對はれ其方ども上野中堂の縁の下に隱住事何故なるや有體に申立よと有に兩人共
然程に上野中堂に於て召捕たる曲者二人を引出し調べられしに瀬川が申立し
來りて處々を見物なさんと十五六日も逗留して上野淺草吉原兩國芝増上寺其外處々を見歩行或日又本町通りを彼方此方
しが日永の頃なれば退屈なりとて直八は兩國淺草又は上野山下邊など見物なし廣小路へ出で五條の天神前へ來りし所に天道干
處に一日長八は淺草觀音へ參詣なし夫より上野の大師へ參らんと車坂を通り懸りけるに山下の溷際に深網笠
賣も捗取たから淺草の觀音樣へ參り夫より上野の大師さまへ回らうと車坂まで行し所不思議にも國元の大橋文
極月十三日の夜の事にて漸々火事も鎭まりしかば上野の御固めは勿論武家方人數町火消等も夫々に引取けるにより
々々勿々通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の御消防は松平陸奧守殿(伊達家)にて太守も出馬有しか
火先にて四方より落合人々押合々々勿々通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の御消防は松平陸奧守殿(伊達
の大恩なり然るに去年の極月初旬淺草の觀音樣より上野の大師樣へ參詣せんと下谷の車坂を通り懸りしに深編笠を
處去ぬる十二月中私し儀上野の大師へ參詣の途中上野車坂下にて大橋文右衛門に廻り逢ひ夫れより同人宅へ參り樣子を尋ね
紙屑渡世を致し罷り在候處去ぬる十二月中私し儀上野の大師へ參詣の途中上野車坂下にて大橋文右衛門に廻り逢ひ夫れより同人
中旬過て彌生の始となり日和も長閑に打續き上野飛鳥山或ひは隅田川などの櫻見物に人々の群集しければ今ぞ敵を尋ぬる
小川町へと掛けるに和吉は大きに望を失ひ花見と言ば上野か隅田又は日暮里飛鳥山人の出盛る面白き所へ行が本統なるに
邊へ立越て楓の若葉若緑を眺んにも又上野より日暮里などへ掛る時は渠醉人の多くして風雅を妨げ面白からね
支度も致せばお供には店の和吉をお連なされ上野成共隅田成ともお心任せの方へ至り終日お遊び爲されませ和吉
見るを忌む今や開花の時節とて打續たる日和なれば上野隅田も人もや出ん然れば彼所は打ち水爲可き者もあらざれば塵芥
たより參りし解も外ならず時も彌生の好時節上野隅田の花も咲出何處も彼所も賑ふゆゑ貧富を問ず己が隨意
故是非共に「夫では和郎はあの所と違つて上野か向島「イヤ矢張行先は王子にて然も音羽へ出て行く積り「ヲヤ/
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で少しの知己を便りて奉公の口を尋ねる内幸はひ小川町にて其頃評判の御殿醫武田長生院方に人の入用ありと聞口入
九段坂をも下り來て飯田町なる堀留より過るも早き小川町水道橋を渡り越水戸樣前を左りになし壹岐殿坂を打上り本郷通りを横
と云者を謂れ無く撲殺し村方を逐轉して江戸へ出小川町竹田長生院方へ奉公に住込み奉公中竊鼠々々物を盜み溜其後
勘次郎を殺害に及び國元を脱走爲し當地へ罷り出小川町邊武家奉公に身分を詐りて住込奉公中所々にて金銀衣類等を盜み
勤致され候故私し徒士を仕つり神田明神下にて小川町の五千石取の太田彦十郎樣に出會しまゝ互ひに徒士の者双方の
共申置勘解由は發足なし道中取急ぎて日ならず江戸小川町の上屋敷へ着し其旨太守へ申ければ丹後守殿早速御召有つて日野
波切不動へ參詣爲て田圃道を緩々王子へ行可しとて小川町へと掛けるに和吉は大きに望を失ひ花見と言ば上野か隅田又は
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と聞し虎の門も歸らぬ旅に行空の西の久保より赤羽の川は三途としら壁の有馬長家も打過て六堂ならね
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待内に愈々雨は小止なく早耳先へ響くのは市ヶ谷八幡の丑時の鐘時刻はよしと長庵はむつくと起て弟の十兵
には却つて云ひ安き言葉なり夫より淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々廻りしかば後々は馴染も多く出來誰あつて少し
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をも下り來て飯田町なる堀留より過るも早き小川町水道橋を渡り越水戸樣前を左りになし壹岐殿坂を打上り本郷通りを横に
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遣はしけるに彼の仲間の若者は萬八の崩れより向島の花見と云ひなしその實花街の櫻の景氣を見んと言ひ立ち伊勢
私し店の儀は大勢の泊り客入込騷が敷を嫌ひ向島か根岸邊へ隱居致度由望み候へども漸々勸め近所へ差置
故後藤は心置なく思ひ夫より日毎に案内者を連ては向島兩國淺草吉原或は芝神明愛宕又は目黒不動と神社佛閣名所舊跡等を
に着けれとも忠八立たりし儘船より上らず又もや元の向島の方へと乘渡り群集の中を八方へ目を配りて吾助を尋ね
の賑ひ大方ならず然るに此日は友次郎腹痛故忠八一人向島へ行て隅田川の堤を彼方此方と往來の人に心を止めて歩行けれど
が頃は三月十五日梅若祭とて貴賤老若の別なく向島の賑ひ大方ならず然るに此日は友次郎腹痛故忠八一人向島へ行て
は馬喰町なる旅宿に歸りてお花夫婦に打對ひ今日向島の渡舟にて斯々の事ありしと告げれば夫婦は悦ぶ事大方ならず只
共に「夫では和郎はあの所と違つて上野か向島「イヤ矢張行先は王子にて然も音羽へ出て行く積り「ヲヤ/\夫
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りければ日夜の客絶間なく全盛一方ならざりけり茲に神田三河町に質兩替渡世をする伊勢屋五兵衞とて有徳なる者の養子に千太郎
六右衞門方同居久八右久八伯父六右衞門久八元主人神田三河町伊勢屋五兵衞代金七富澤町甲州屋吉兵衞等なり越前守殿久八を見られ
へ引据られたり次に久八並びに小手塚三次又神田三河町二丁目家持質兩替渡世伊勢屋五兵衞富澤町の古着渡世甲州屋吉兵衞新吉原
頼み置つゝ歸りけり因て六右衞門所々を聞合せけるに神田三河町二丁目にて彼質兩替渡世伊勢屋五兵衞方にて子供を抱へたきよしを聞
申ながら永年差置候段不屆に付叱り置」「神田三河町二丁目家持伊勢屋五兵衞 富澤町家持甲州屋吉兵衞 本石町二丁目甚兵
擔致し惡事相働き候段不屆至極に付獄門」「神田三河町二丁目家持五兵衞元召使三州藤川在岩井村百姓久左衞門悴當時本石町
爲三次へ頼みて淺草中田圃にて殺害に及ばせ又神田三河町二丁目家持五兵衞召使ひ千太郎より五十兩の金子を騙り取候而已成
は五歳の時人に勾引され揚屋町善右衞門口入にて神田小柳町松五郎が姪成とて三浦屋へ賣込しが年季明にて源次郎の妻に
得たりと云ふべし是も其頃の事とかや江戸神田鎌倉河岸に豐島屋十右衛門と云名譽の酒店あり渠は中興の出來分限
/″\も藤五郎兄弟の事を頼み置て其身は神田三河町二丁目千右衞門店なる裏長屋へ引越浪々の身となり惣右衞門
助方へ申入らるゝ樣其許御子息藤五郎殿家來と申神田豐島町酒屋にて酒興の上亂暴に及候者有之に付此方へ召捕
しが頃は享保二年六月下旬大岡越前守殿役所へ神田豐島町居酒屋の亭主源右衞門と云ふ者御訴へ申上るとて駈込けれ
話し其方は御裏門に待受て藤三郎樣の御供をなし神田三河町惣右衞門の方迄立退べし藤五郎樣には我々御供を致し後より
山口惣右衞門に相談せんと夫より伴佐十郎は急ぎ神田三河町二丁目山口惣右衞門の方へ到りて對面の上右の一條を
へ禮に廻勤致され候故私し徒士を仕つり神田明神下にて小川町の五千石取の太田彦十郎樣に出會しまゝ互ひに
其度毎に金を貸ては私どもの腮が干上る元々神田に居られし時は不自由もなき身代成しを母樣始めお前方の仕
取込の樣子を見てお菊は太息を吐嗚呼昔神田に居る時は我が家が斯賑しかりしが世が世なればとて僅の間
秀逸にして其町々の繁昌は詞を盡し難く別て神田は土地柄とて人の心も廣小路横筋違いの僻みなき直なる橋の
元私し事は賤き者の娘にて津國屋が未神田に住居致せし節同人店に居候中兩親も死に果候ひしを不便に
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庄左衞門は高名なしたるかと案事居けるに浪士泉岳寺へ引取しと聞き二本の杖に縋り大勢の見物を押分るに見物
豫て申合せし四十七人十四日の夜全く本望を遂翌朝泉岳寺へ引取けるに大勢の見物は雲霞の如く忽ち四方に評判聞えけり爰に
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の春より按摩を業として居たりしが或時住吉町を通りたる時不※竹本政太夫方へ呼込れ療治をなし居ける
先此所にて暫く休足すべしとて或旅籠屋に逗留して住吉天王寺を始め所々を見物しければハヤ五月も過六月の初旬と
へか捨置知らざる體になし居たるにお島の親里住吉町吉兵衞方より此儀に付大岡越前守殿奉行所へ訴へ出ければ
一住吉町忠八店吉兵衞申上奉つり候私し娘島と申者三年
住吉町忠八店
享保四年の二月に時の町奉行大岡越前守忠相殿住吉町吉兵衞の願ひ出し一件逐一聞糺され老中方へ申立られ掛り役人評議
を置捨に致たるに相違有まじ其上島の親住吉町吉兵衞よりの歎願書も是あり夫も序に讀聞せよと云るゝ
住吉町吉兵衞願書は本件第十一回目に記載之あるに付爰に除く
聞ゆるなり併しながら爰に少し解せぬことが有ぞ其は住吉町吉兵衞の娘島が殺されぬ以前豫て覺悟せしと見え
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八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人は跡を片付大宮にて親分に追付んと鷲の宮なる杉林へ來懸りしが死骸に躓づき
打勝し五百兩を懷中し小歌を唄ひながら悠々と大宮村へと行ける折から畔倉は少し遣過しつゝ窺ひ寄て後より大袈裟掛
永く打續き麓の裾野末廣く天神山や馬場川口柴橋大宮木綿島吉原驛も打過て日脚も永き畷道未刻下りに來懸たり
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に案内者を連ては向島兩國淺草吉原或は芝神明愛宕又は目黒不動と神社佛閣名所舊跡等を見物して歩行氣隨氣儘に日々酒
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偏屈成若旦那とは言ながら遠き王子へ態々行夫も賑ふ日暮里をば嫌ひて見榮なき土地の音羽を通て行と云は世に珍しい人
和吉は大きに望を失ひ花見と言ば上野か隅田又は日暮里飛鳥山人の出盛る面白き所へ行が本統なるに如何常より偏屈成
立越て楓の若葉若緑を眺んにも又上野より日暮里などへ掛る時は渠醉人の多くして風雅を妨げ面白からねば音羽
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前垂帶をしめたるばかり勿々夜風は凌ぎ難きを耐忍びて田原町に到りけるに見世には客有りて混雜の樣子なれば裏へ廻り
/\と寢入たる樣子なれば是幸ひと悦びつゝ諏訪町より田原町迄遠き道にも有ねば日は暮たれども宵の間に一走り
ず然とて何程考へても降て來る金も有まじ寧田原町へ到り是程迄に難儀の譯を打明て頼みなば假令日常は左
とて外に詮術もなく相談相手になる筈の人は田原町へ縁付し娘お粂なれ共母が長々の病氣の中も漸々一度見舞
呼び既に嫁をも娶り妹をお粂と名付是も淺草田原町なる花房屋彌吉方へ縁付樣子も好とて夫婦倶々安心なし最早悴松吉に
有間敷けれ共皮想から見えぬが人心なれば若や田原町なる夫婦の者の言如く成んも計難し先お菊に屹度したる番人
ある迄はお菊を屹度お預け申すなりと言ひ捨て夫婦連立田原町へ歸り即刻老母變死の始末より此儀は嫁菊と申者の仕業
其上にて何れとも計ふべしとて直樣一人の男田原町へ駈行老母が變死の樣子を知らせければ早速娘夫婦は來りて
又内分に濟すべきか何にも致せ娘のことなれば田原町へ此由申遣し其上にて何れとも計ふべしとて直樣一人
首縊れ終にぞ息は絶えたりける却て説お菊は田原町にて金の相談せしに金を貸ぬのみか種々の惡口雜言を
て相長屋の人々集り來り實親子の事なればとて早速田原町へ右の樣子を申遣せし處彌吉粂同道にて參り死骸を檢
眠り居しに付此間に參りて相談致すべしと田原町へ到り右の譯を委細に話し金子三兩若成ずば二兩にても宜しく
菊を腰繩にて引連られ即日の吟味となり願人淺草田原町小間物商賣花房屋彌吉同人妻粂并に淺草諏訪町家主組合長屋の者殘ら
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て伯父始めへの土産物を種々整へ江戸錦繪淺草海苔館林團扇其外田舍相應の品々を買求め荷造りをして町内の飛脚屋
包殿上座に着座あり右の方三疊程下り若年寄上州館林の城主高五萬石從五位に朝散太夫太田備中守源資晴殿引き
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早々急げと云れしかば畏まり候とて牧野小左衞門は吉原宿役人に早駕籠一挺申渡し其夜の子刻過に吉原宿を乘出し相良
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肝要ならんと申ければ則兩國橋と永代との間へ新大橋を懸られ諸人の爲に仰付られけるとかや右過料の御政事
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をなし是より伊賀亮等の三人は美濃へ立戻り川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘出來せしと物語れば皆々大に悦び先六郎
親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越六郎兵衞の勸に因て江戸屋七左衞門叶屋八右
に附從ひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州浦賀に有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀
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に相成ば御城代は玉造口の御加番植村土佐守殿京橋口の御加番戸田大隅守殿へも御相談となりしが先年松平長七郎殿
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ず然るに此日は友次郎腹痛故忠八一人向島へ行て隅田川の堤を彼方此方と往來の人に心を止めて歩行けれども更に似た
彌生の始となり日和も長閑に打續き上野飛鳥山或ひは隅田川などの櫻見物に人々の群集しければ今ぞ敵を尋ぬるに幸の
云掛られ夫さへ心に障らぬ樣云拔て居しに今日隅田川の渡船にて誰かは知ず行違ひに面を見合せしより俄に吾助
衞事主人預け申付るとて下られける斯て又吾助は隅田川の花見に藤重を同道して到りしに計らず渡船にて忠八と面を
ヶ年の間苦辛を厭はず所々尋ね廻り候處漸々此程隅田川の渡船にて面を合せしが不運にも取り迯せしによりその後猶