大正東京錦絵 / 正岡容
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/\してゐた。その人々の故郷への土産の丸の内見物なのである。
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丹波では頼光以後の騒ぎなり同
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余丁町がちやり/\と二人降り同
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大震災まで恙なく続演した。「駱駝」は先代小さんが大阪から将来した得意中の得意の一席で、裕に一時間近くかかる。従
立川文庫、武士道文庫、何々文庫と大阪の赤本屋が売出した豆本は、猿飛佐助とか霧隠才蔵とか十中九まで
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たほど、未だ何と云つてもあの時代の日本橋には江戸伝統の「生活」ありし日本橋が呼吸いてゐたのだ。この日本橋が
サボタージュどうでも江戸のものでなし久良伎
橋一つあつて千住は江戸の儘同
こほろぎの声いろ江戸が呆れるの久良伎
は悪達者に三味線を引つ掻き廻し、猫八は一人で江戸を背負つて来たやうなノタ言を吐いて寒がらせた。伎翁に
なノタ言を吐いて寒がらせた。伎翁に「江戸が呆れるの」句ある所以である。「中売」以下は、それ/″\
に付いては明治四十三年執筆にかかる大庭柯公氏の「江戸より東京」の一節を見てそのころガード下に生活した豆餅屋は、
た豆餅屋は、もはや明治の、いや、さらにその前の江戸の余喘ですらあつたこと知つてほしい。柯公氏の全文は左に。
焼土の底から芽む江戸の春同
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て私のことを「この人は文学少年時代なか/\宝塚のフアンでね」と破顔一笑されたが全く私の遠い少年の日の夢
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富士山の見えるまともに又も建ち同
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十年前の愚日記」の一節には、そのころの東京市内がよく描かれてゐるから引いて見よう。
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やや有つて女優琴平町へ越し夜刃郎
句の出水地区は云はでも分らう。あとの句の琴平町は芝。あの辺り俗に落武者横丁と呼ばる囲ひ者の多いところ故、「
たものではなからうか。「尚、森律子女史が当時琴平町に住居せられし事故、小輩女優がそこへ越したとの意味にも
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たこと、拙著『雲右衛門以後』に屡々説いた。チンタオは青島。第一次欧洲戦争に於る青島陥落ときの私は未だ小学校二、三
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江知勝は戦災まで本郷にあつた牛肉店。そのころ一高生を多く顧客とした。また三
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やがて中央を追はれたが、私の子供の時分には名古屋上りの岡本美根なにがし一座とて、未だそこここに残骸を曝してゐた。一座は
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、みないまも旺の大衆的牛肉料理店である、一は雷門に、一は千束町に。チン屋の名の起りは嘗て江戸大奥へ献ずる
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「私の記憶に誤まりがなければ、鶴見の花月園に横浜の外人を当て込んだダンスホールが許されたのは、たしかに大正
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冒頭の青鞜社の起因について述べるなら、一千八百五十年にロンドンで開かれた美術家の会合へ或る女流文士が Blue-Stocking(青色の靴下)
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出雲から博多米山酒が冷え久良伎
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「私の記憶に誤まりがなければ、鶴見の花月園に横浜の外人を当て込んだダンスホールが許されたのは、たしかに大正十一年頃で
日本の女が来るやうになつたが、それも大概は横浜に住んで西洋人と附き合つてゐる人々であつた」
冒頭のフエリスは横浜のフエリス女学校。
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も若葉が燃え、草いきれがし、さうしてその中を武蔵野の名残りの水が音立てて夕焼空を映してゐたのだ。
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朝煙りそれは今戸の瓦斯会社同
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赤坂にやがて停職される客同
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で千歳飴下げるは親か子か、七五三のお祝ひに、神田明神境内から仰ぐ災後東京の秋空は弥が上にも青かつたらう。亭々と
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ありし日のいろはである。広小路は云ふ迄もなからうが両国の広小路。プランタンについては、
いまも東両国の角にある、豊田屋の景色である。よく猪や熊や鹿や狐や狸が吊下つてゐた
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歌劇は「雲井浪子」「篠原浅茅」「高浜喜久子」「秋田露子」「笹原いな子」「高砂松子」「高峰妙子」「有明月子」
もちろん、松井須磨子のこと。「天墨絨の服」も秋田雨雀氏など率先して着てゐられたらうそのころの青春的な芸術家
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いにしへの奈良の都の破戒会同
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台湾喫茶店とパウリスタとがあるだけだつた。主人が洋画家の松山省三君だつたし、プランタンと云ふ命名者が小山内薫氏だつたので
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「群玉舎」はお上りさん専門の下谷の大旅館。よく「群玉舎」と太文字でしたためた番傘さして、宿屋
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があつた。芳川鎌子夫人が運転手と情死未遂した所謂千葉心中も、このころの悲劇だつたとおもふ。
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水溜りらしく深川江戸があり久良伎
深川の秋は若しやの床を吊り春雨
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大正東京錦絵
当日の媒灼人たる小林一三大人は来客を待つ間の東京会館休憩室で緑波君を省みて私のことを「この人は文学少年時代
至つて「鏡花の小説は死んではゐない。少くとも東京の魚河岸には、未だにあの通りの事件も起るのである」と嘆ぜ
すべて是れ大正年代の東京。第一句は九段大村益次郎の銅像下に於る歓会風景である
にさへさう印象づけられてゐたのである以上、大正東京文化史の上には逸していけない大悪伝的存在のやう考へられる。
悪評が喧しく立つた。阿久沢が悪沢と聞えたほど、凡そ東京中で不徳の名の高い邸宅だつた。未だ子供の私の耳にさへ
病来久しく世間を見なかつたわたしは、此の日突然東京の街頭に曾て仏蘭西で見馴れたやうな浅葱の労働服をつけた職工
谷崎潤一郎氏の「東京をおもふ」には、
をおもひだしたから、書き付けて置かう。そのころ富士山印東京レコードへ吹込まれ、ちよつと愉い曲調だつたが、いまは人余り知らない
※サアサ事だよことだよ、東京のまん中に立派な停車場が、何百何十万円もかかつてできた、入口
左のごとく報道してゐる。十一月廿三日の「東京朝日新聞」であるが、
があつたのだとも亦ハッキリ云へよう。大正末年の新興東京風景を写したものには、
東京の火宅を出でて田端道同
の速記を見ると、今にいろは四十八組もでき、東京中がいろはで取捲かれはしないかなどとある。以てその繁昌
できてゐたとみえる。第二句のいろははそのころ東京全市を席捲した牛肉店で、鼻の円遊晩年の速記を見ると
さらに又東京風景では、
十年前の愚日記」の一節には、そのころの東京市内がよく描かれてゐるから引いて見よう。
した川柳をしみじみ読み返してみると、やはり返らぬ日の東京文化が悲しく美しく刻まれてゐて、得がたい尊い「詩」の世界で
と絶えた、仁丹は今も旺なのに。そのころ東京の屋根々々には菱形の中に西洋風の麗人の大首絵を覗かせた
鈴鳴りの殺人的市電許り疾駆してゐた大震災前までの東京よ、未だ葬列のなが/\と徒歩でつづいて市電を立往生させて
昭和十七年九月末日限り国民新聞と合併して、「東京新聞」と改称されてしまつたし、神前結婚を以て知られ
ては明治四十三年執筆にかかる大庭柯公氏の「江戸より東京」の一節を見てそのころガード下に生活した豆餅屋は、もはや
愛造が綱つ引の人力でかけもちしてゐたころの東京の体臭ではあるとおもふ」
幽霊ぢやねえと東京から避難雀郎
か、七五三のお祝ひに、神田明神境内から仰ぐ災後東京の秋空は弥が上にも青かつたらう。亭々と天を摩してゐ
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は「復活」を持つて上野の万国博覧会にも出演したり浅草で特別興行したりして、須磨子の歌つた「カチューシャの唄」カチューシャ可愛
が、やがて彼らは浅草日本館へ、金龍館へ、駒形劇場へ、そこに馥郁とオペラの花々
アラエッササの安来節は、近時また浅草木馬館楼上に再興され、なか/\の人気を煽つてゐるが、
以てしたところに手際が見られる。よか楼は浅草雷門のいまのカフエみやま(?)の辺りにあつた西洋料理店だが宇野
福宝館は浅草にこそなかつたが、宛かも牛肉屋のいろはのごとく、第一、第
ある。次郎長伝に一世を鳴らした神田伯山は、浅草の金車亭出演のときなど客席の後から細い渡り板を通つて高座
そのころの浅草風物詩には、
浅草田原町角の鰻屋「やつこ」これも今もある。註文をしてから
私は浅草の鰻屋では宮戸川を前にした前川の景色と味ひとを忘れ
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あつた。やがて「芸術座」は「復活」を持つて上野の万国博覧会にも出演したり浅草で特別興行したりして、須磨子の歌
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出てビーヤホールに休むと書生風の男が銀座の商店や新橋辺の芸者家の打壊された話をしてゐた。わたしは始めて
へられてしまつた。嘗て文明開化の象徴だつたこの新橋ステーションの汐留駅は、今やまことに「老獣のやう」な眠りをつづけ
※汽笛一声新橋を」のその新橋駅は、今日の新橋駅の筋向ふで、いま汐留駅と名乗
張柾の下駄で新橋芸者来る同
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)再び表通りへ出てビーヤホールに休むと書生風の男が銀座の商店や新橋辺の芸者家の打壊された話をしてゐた。
焼跡の銀座通ればゆであづき同
三四年頃のことだつたと思ふが、その時分この銀座界隈には、まだカフエと云ふものが一軒もなくそれらしいものとし
「銀座裏日吉町の傍、日勝亭と云ふ撞球屋の隣りにカフエ・プランタンが
なつた」と記されてゐる。華やかさ宛かも昭和初頭の銀座タイガーの如きであつたことが分らう。但宇野氏も書いてゐるが
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生活」ありし日本橋が呼吸いてゐたのだ。この日本橋が非衛生だとて現今の築地へ移転されたとき、故人小勝は左
もあの時代の日本橋には江戸伝統の「生活」ありし日本橋が呼吸いてゐたのだ。この日本橋が非衛生だとて現今の築地
と嘆ぜしめたほど、未だ何と云つてもあの時代の日本橋には江戸伝統の「生活」ありし日本橋が呼吸いてゐたのだ
冴えを示してゐるが、ここでも作者自ら「現代の日本橋は、到底鏡花の小説のやうに、動きつこはないとも思つてゐ
芥川龍之介氏の「魚河岸」と云ふごく短い小説にはあの日本橋時代の魚河岸の景色に「腥い月明りの吹かれる通りを」と鋭い描写の
たちは幸福とおもふ。第二句第三句は、未だ日本橋にあつたころの魚河岸である。服部伸演ずる一心太助の喧嘩場に見
「日本橋の人の衛生に悪くて、築地の人の衛生にやいいンでがせ
冠者作詞し、佐々紅華(だつたらうとおもふ)作曲し、日本橋の朝居丸子(此はのちの市丸勝太郎――殊に市丸の先駆を
亭は嘗て義太夫の定席だつたが、明治卅八年同じ日本橋の貸席常盤木倶楽部に岡鬼太郎、今村次郎、石谷華堤氏を盟主とし
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「日比谷の公園外を通る時一隊の職工が浅葱の仕事着をつけ組合の旗を
勘当がゆりて日比谷の嬉し泣き同
れてしまつたし、神前結婚を以て知られた日比谷大神宮(第十二句)もいまは飯田橋駅ちかく移転してしまった時世の動き
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一とわたりすんだ此も震災前年ころであらうとおもふ。目白文化村の建設もそのころ彼是であつたかもしれない。鹿鳴館時代に
「目白から先へ行くと文化村とか云つて、南京鼠の入りさうな家
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橋一つあつて千住は江戸の儘同
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住宅がによき/\生える高円寺剣花坊
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東京の火宅を出でて田端道同
つゝましく田端で降りる主婦の友雨吉
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かなどとある。以てその繁昌振りが分るだらう。浅草橋公園の向ふにあつたいろはは木村荘八画伯の生家であるが大正震災まで
第八句の「香取屋は」浅草橋附近にあつた高級の下駄屋で、殊にその道の粋人たちには喜ば
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の一つである。次郎長伝に一世を鳴らした神田伯山は、浅草の金車亭出演のときなど客席の後から細い渡り板を
、薬にし度くも見当らない。第二句の小柳は神田にあつた正徳以来江戸伝統の講釈場。事変後、惜しくも廃席し
で千歳飴下げるは親か子か、七五三のお祝ひに、神田明神境内から仰ぐ災後東京の秋空は弥が上にも青かつたらう。
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大久保の青葉へ帰る小官吏同
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なりき、外遊数年後の今日既に在らず。電車の水道橋畔に四通して行人多忙、一片の附焼麺麭に歩を停むる
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隅田川架橋問題
為に暴されて、百本杭に鯉寄らず、隅田川にも白魚稀なりといふ始末」
。「稀なり」にもせよ、白魚が未だそのころの隅田川には泳いでゐたとは、とんだ熊谷蓮生坊だが、「夢