浅草灯籠 / 正岡容
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私は三歳から十四歳の秋までを成長した。弁天山の鐘撞堂へと曲る角、鳥屋の金田の筋向ふ辺りにその人形屋は
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まへにした。まだ/\当時、すみだ川では江戸名物の白魚が捕獲されてゐたこと、岡本綺堂先生の「五色筆」
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て普ねく喧伝されてゐた人気女優一条久子と仙台の地へ逃亡して、いたく学校当局を狼狽せしめた。直ちに放校処分
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深川の秋はもしやの床をつり
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浅草燈籠
の筆を半途にして擲つてしまつたか、大正浅草風俗文化史の上からも一大痛恨事と云はざるを得ない。宇野千代、
大正文化の一断片たる浅草オペラの楽屋並びにその俳優たちの生活を最も具さに美しく描破してゐるもの
のだつた。が、のち数年ならずしていよいよ浅草オペラ隆昌に赴くのころ、たま/\私の小学校の旧友で当時厳格峻厳
「三筋町」よりであるが、帝劇のローシー歌劇からはじめて浅草俗衆の巴渦の真只中へと飛下りて来たその日本館での第一回
浅草オペラ以後空白だつた青春的娯楽の頁をやがて大小幾多のレビユウが埋めだし
ところで私自身は同じころ浅草六区へ赴くたび多く中西の人気ボックスを選んでは、コーヒーを飲み、
の下に」だらう。戦局漸く苛烈となつてからの浅草風俗は、同じ作者に「東橋新誌」の一作があるが、作品
もう一つ「葛飾情話」上演のころの浅草公園を材として好箇の風俗詩たり得たは、高見順氏が
浅草の馬道
私が幼時をおくつたころのこの浅草には、佐多稲子女史も起臥されてゐたらしく、近業「版画
深紅のいろを、忘れない、漸く危険が去つたとて再び浅草の家へ戻つて来てからも、すみだ川の濁流は大渦捲い
に余生を愉しんでゐると聞いて、心から私はこの浅草の老芸人のため乾杯せざるを得なかつた。
しめずにはおかなかつた。初代重松はすぐ先の浅草阿部川町に多年居住してゐて阿部川の大師匠と呼ばれた関東節
去歳、浅草大空襲後約一ヶ月春昼の一日を、私は七軒町新堀端辺の焦土
黙祷して、しづかに去つた。高篤三は純粋殉情の浅草詩人で、その代表句には、
十二日、私は戦後はじめてささやかに新築された朱塗の浅草観音堂に女房と詣で次いで三社さま披官稲荷に参詣、旧宮戸座跡
浅草は風の中なる十三夜
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が大そううれしがつて手を叩いた。未だ/\当時の東京文化はそのやうに江戸末年の国貞国芳の市井味感と、海の彼方
おぼえてゐる。佐々紅華作ではなかつたらうか、富士山印東京レコードでお馴染のお伽歌劇「目無し達磨」では花房静子、天野喜久代
た点芥川さんはごく/\気の弱い一個の旧東京下町人だつた。なればこそ間もなく服毒自殺をもあへてし
虹大きく明るい暮れ方を、いまにも権現堂の堤が絶れると東京全市が水浸しになるとて戦々恟々としてゐたその神田の家の、
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てゐたらしく、近業「版画」には、そのころの向島や六区を背景とした人生の明暗が老練の筆致をもて綴られ
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東京全市が水浸しになるとて戦々恟々としてゐたその神田の家の、さゝやかな中庭に咲盛つてゐた柘榴の花の深紅
の大洪水のときには私は祖母に抱かれ、人力車で神田の近親のところへ逃れた、水は大雨が止んでカラリと晴れ上がってから
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の彼方へ、「佃育ちの白魚さへも花に浮かれて隅田川」なる近世都々逸の夢も奪へば、「花に啼く蛙や雨のすみ
毒煙毒水は、広重北斎以来の世界的文化と詩情の町隅田川両岸の風光をことごとく冒涜して、花も白魚も紫鯉も忘却の彼方