寄席風流 / 正岡容
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石町の立花にもお稲荷さまの祠があつたし、四谷の杉大門(若柳亭)の庭も哀れに趣深かつた。「葡萄棚
寄席の招き行燈も、四谷の喜よしを最後に絶えてなくなつたが、此は東京特有で、此
ひどい場末だつたこと、古の句の見附から馬糞のつゞく四谷かな――にも明らかだらう)の寄席堀江亭の名前が、私の
したとき感じさせられたのみである。この芝子が四谷の喜よしで高座を下りたら、とたんに高座の真下に陣取つてゐた
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に趣深かつた。「葡萄棚ありし」釈場は八丁堀の聞楽で、中風にならなかつたころの若燕が「松葉屋半七」
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しゞまが美しく感じられた。尤も、路次の情調は大阪の法善寺などもそれで、あすこは大正末年まで花月と紅梅亭と二つの
正夫人になつてゐるはずである。関西と云へば、大阪では大正中世新内の鶴賀若呂光が細おもてで美しかつた。芝子が退い
拱きつつ下りて行くと云ふ余韻のある演り方がある。大阪の橘家蔵之助は常にこの演り方を採つてゐた。此を得意と
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(赤尾の林蔵)を通読したが、その背景とする北関東の暗鬱な風景描写など、田山花袋の小説や紀行の上を屡々私に聯想
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夏萩や小せんおぶはれ楽屋入り
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たけれども私がおぼえてからの寄席の庭ではやはり本郷の若竹だらう、客席の両側に並行してだだ長い庭があつて、向
は格別なもので、浅草の並木、両国の立花家、本郷の岩本(のちの梅本)概ねこの路次系の寄席に属した。
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のあられもなく赤いお腰をはづして振廻したのは名古屋から集団上京して来た端席(場末の寄席)廻りの源氏節芝居の
節と似かよつたやうな節で、いまは本元の名古屋へ行つても殆んど湮滅してしまつたらうが、師吉井勇の「走馬燈」と
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、映画女優に転身するとて西下してしまひ、今日では関西の大実業家の正夫人になつてゐるはずである。関西と云へば、大阪
関西の大実業家の正夫人になつてゐるはずである。関西と云へば、大阪では大正中世新内の鶴賀若呂光が細おもてで美しかつた
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鳴らして行く市井風流さは格別なもので、浅草の並木、両国の立花家、本郷の岩本(のちの梅本)概ねこの路次系の寄席に属した。
の口吻が一々巧みに採入れられてあり、今日似て非なる両国を諷う音曲師はあつても、この複雑巧緻な文句入りの手法を踏襲し得るもの
大津絵をおもひださずにはゐられなかつた。枝太郎の「両国」にはたしかに唄と唄との間に楊弓場や水茶屋の男女の口吻が一々巧みに採
方法なのであるが、私は此を読んで亡き柳家枝太郎の「両国」の大津絵をおもひださずにはゐられなかつた。枝太郎の「両国」にはたし
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がなかなかに愉しいものだつた。神田の白梅、銀座の金沢、浅草の並木、上野の鈴本(のちの鈴本キネマのところ)はじつに
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に乙な漬物なきも亦同様。アナトールフランスが年少の日の巴里巷間の追憶を綴つた長編小説「花咲く日」全篇を通読して
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の魅惑は、この芝子以外では、私は歌手の奈良光枝君が緑波一座へ出演したとき感じさせられたのみである。この
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花曇りの深川高橋を北へわたつて、伊勢喜のどぜう屋の看板を右に
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ゐる尊い文献の一つに漱石が「硝子戸の中」の日本橋伊勢本を叙するの章りがある。全体「硝子戸の中」には講釈に
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に談つた。金車のほかでは柳原寄りにあつた神田の小柳が私がおぼえてからの、番台式の高座だつた。いま漱石
上り切るまで拍手の絶えなかつたことがあつたと、嘗て神田伯龍は私に談つた。金車のほかでは柳原寄りにあつた
て来てはこの高座へと上がつたわけで、故人神田伯山が全盛の砌りなど浅草の金車では歩みから高座へと上り切る
階で、この倒錯感がなかなかに愉しいものだつた。神田の白梅、銀座の金沢、浅草の並木、上野の鈴本(のちの鈴本キネマ
てゐた。さうして「伊東陵潮」とか「神田松鯉」とか「桃川燕楽」とか「宝井馬秀」とか、常
満ち溢れてゐるのは桂文楽、春風亭柳好の両君だらう。神田伯龍君の「小猿七之助」「吉原百人斬」「美の吉ころし
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と上がつたわけで、故人神田伯山が全盛の砌りなど浅草の金車では歩みから高座へと上り切るまで拍手の絶えなかつたこと
路次の溝板踏み鳴らして行く市井風流さは格別なもので、浅草の並木、両国の立花家、本郷の岩本(のちの梅本)概ねこの路次
の味感をば、十二分にと味はせて呉れた(浅草の並木に至つては路次と二階席の風流を両ながら具備してゐ
に愉しいものだつた。神田の白梅、銀座の金沢、浅草の並木、上野の鈴本(のちの鈴本キネマのところ)はじつにこの二
は主人公のわかい落語家今松とお艶とを、殊更に朧夜の浅草新堀端で訣別させた。
、あの馴染深かつた故人の塩辛声が、大正年代の浅草風俗をまざまざ目先に蘇らせて来ていとなつかしい。もちろん、私が親しく
好美佐藤歳三ら新派俳優が上演、映画化されたものは浅草電気館で染井三郎が説明し、のち染井は東京レコードへも吹込んだ。
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つた。神田の白梅、銀座の金沢、浅草の並木、上野の鈴本(のちの鈴本キネマのところ)はじつにこの二階席系列に
が斯道の古老から親しく聞かされたところでは、昔、上野の袴越(いまの京成電車乗り場ちかく)にでてゐた大道講釈師は年中
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倒錯感がなかなかに愉しいものだつた。神田の白梅、銀座の金沢、浅草の並木、上野の鈴本(のちの鈴本キネマのところ)は
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であるが、全篇、小林清親や井上探景の「明治東京名所図絵」のやうな開化風景が展開されてゐて、じつに美しく
者丈けあつて、前代の円遊を宗とする大正の東京風俗を描写しながら、しかもそれは単なる描写でなくて一種、痛烈な世界
東京の寄席の灯遠き夜長かな
毎度かくが、昔の東京の寄席は、よく細路次の突当りにあつた。この薄暗い路次の奥に
の喜よしを最後に絶えてなくなつたが、此は東京特有で、此へ灯が入り筆太のびら字がぼつと浮上がる塩梅も亦、
云へばみな旧詠のおもひで許りしかないやうに、私の東京の街々に関する談叢も亦みな過去のこと以外にはなくなつてし
ものは浅草電気館で染井三郎が説明し、のち染井は東京レコードへも吹込んだ。昭和戦前、ジヤズ化された阿呆陀羅経は「笑
にはこびり付いて離れなかつた。即ち明治十四年版の『東京案内』寄席の項をひらいたが、分らなかつた。明治卅一年版
若呂光が細おもてで美しかつた。芝子が退いてから東京の寄席では娘義太夫の竹本静香(夭折した)ぐらゐでさしたる麗人も
……この『東京恋慕帖』全巻をつうじて、兎角私は過去許りを談つた。それは
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他に「首提灯」の巧かつた品川の師匠円蔵のも、先代志ん生のも、狂馬楽のも、私
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にはもちろん分らなかつた。去年の花のちるころ、新宿の寄席末広亭で催された三十日会と云ふ寄席文化講座に於る
いまから約五十年前、この新宿に堀江亭と云ふ寄席があつたが、それは今日のどの辺である
以来、この五十年前に亡び去つた場末(当時の新宿はひどい場末だつたこと、古の句の見附から馬糞のつゞく四谷かな
尚もこの一点を疑念としつゞけてゐると、先代新宿末広亭主人によつて、この末広亭の前名が何と堀江亭だつた
東都の寄席」を翻いて見るとあつた! 正しく新宿追分堀江とある。あゝやつと此で席の実在丈けはたしかめられたが
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の寄席と云へば、昔の畳敷きの寄席(いまでも人形町の末広はじめ二、三の畳の客席が焼残つてゐるが)で