兵馬倥偬の人 / 塚原渋柿園 塚原蓼洲
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御人である。頗ぶる人望のある御人であつたが大阪の行營で薨ぜられたので、そこで慶喜公が其後を繼いで
講武所總體は右の御進發の御供、親父も同じく大阪に滯在するうち徒目附といふ役に轉じた。そこで私も京都の方
で私も京都の方を廢して、親父と一緒に大阪に來て居た。
知つて居る人。――何處で聞いたか私の大阪に來てゐるといふことを知つて「直太郎(私)も當地ださう
海内の形勢も分かるであらう。私が京都を去つて大阪に來たのも一つは其の當時の形勢入求の趣意であるから、
。そして御勘定奉行の小栗下總守といふ人と一緒に、大阪から江戸に下つて來た。私もその一行の中に居た。どういふ
下つた。といふ噂が立つた。それが其頃大阪に居た慶喜公の耳に聞えた。そこで公は心大に平なら
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て、靜岡の醫學校に入つたが、其處から藩命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それが私の放浪生活の
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て、天下の形勢を見るより外はないといふ、つまり箱根から向う、碓井から先は、止むを得ずんば打捨やる覺悟で
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やうな人も入つて居た。そして其の支配が出羽の庄内の酒井左衞門尉。それが頻りに市中を巡邏する。尚ほ手先を
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の子、其頃五十餘の大兵な人)を喚び、伊豆の代官江川氏の手附の河野鐵平といふ人をも召た。其
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何しろ、それから右三年の後、慶慮四年の江戸城開け渡しといふ時に、御藏の金がたつた三十六萬兩、即ち今の三百六
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今の離宮)の定番といふものになつて行つた。江戸を立つたのが、元治元年の九月で、例の蛤御門の戰
其頃、江戸の、今の水道橋内三崎町の所に講武所といふものがあつた。其所
御勘定奉行の小栗下總守といふ人と一緒に、大阪から江戸に下つて來た。私もその一行の中に居た。どういふ譯で
木城氏や小栗氏の考へでは、遠からぬ中に江戸と京都と干戈相見みゆる時が來るであらう、愈々然うなつたら仙臺、會津
は事實あれ程の急劇な變化、即ち三年後に江戸が東京になる程の變化が來やうとは思はなかつたので、
上野の一部を歩いて、慶應二年の暮おし詰めて江戸へ歸つた。其時に得た學問は、右の開墾や水理すべて地方の
更に薩長彈劾の奏を上つる、さアそんな事を聞くと江戸でもじツとしては居られない。そんな此んなで、やつつけるといふ
斯くて江戸は東京となり、我々は靜岡藩士となつて、駿州の田中に移つた
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(例)京都二條の城
私は舊幕府の家來で、十七の時に京都二條の城(今の離宮)の定番といふものになつて行つた。
するうち徒目附といふ役に轉じた。そこで私も京都の方を廢して、親父と一緒に大阪に來て居た。
に居れば自然海内の形勢も分かるであらう。私が京都を去つて大阪に來たのも一つは其の當時の形勢入求の
や小栗氏の考へでは、遠からぬ中に江戸と京都と干戈相見みゆる時が來るであらう、愈々然うなつたら仙臺、會津庄
ところで、一方の京都に於ては、慶喜公は既に大政を返上された。けれども以後の
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は鐵砲を擔いで入る者もあるといふ風で、深川の木場や淺草の藏前で、非常に恐れた。
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其頃、江戸の、今の水道橋内三崎町の所に講武所といふものがあつた。其所は幕府の家
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あれ程の急劇な變化、即ち三年後に江戸が東京になる程の變化が來やうとは思はなかつたので、悲しく
斯くて江戸は東京となり、我々は靜岡藩士となつて、駿州の田中に移つた。
それが今日のそも/\で、それから十一年に東京日々新聞に來た。そして職業として文筆に親しんだ。そんな風だ
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に遇ひながら、先づ相摸と武藏のあら方、それから上野の一部を歩いて、慶應二年の暮おし詰めて江戸へ歸つた。