鴨川を愛して / 新村出

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地名一覧

加茂川

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河原町を西に折れたところに移りました。東三本木や加茂川にも極く近い町でした。

加茂川とはなれずに住まってきたのも、私を加茂川に因縁づけた一つの力になっていると思うのです。

前世からの因縁とでもいうのでしょうか、晩年、ますます加茂川を愛するようになってきました。

賀茂神社

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ただ賀茂神社神主出身の鴨長明が書いた「ゆく河の流れは絶えずして、しかも

上賀茂

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上賀茂のダムのあたりの河鹿のね老いには今やきこえすなりぬ

いまも水は清く、流れは野趣にとんでおります。上賀茂のあたりから上流に住んでいる人たちの話では、いまも夏はカジカ

パリ

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から、ドイツのベルリン大学に行き、その後、イギリスのオックスフォード大学、パリのソルボンヌ大学などに合計二年ほどいて帰ってきたのです。

したときも、ロンドンではテームズ川の近くに住み、パリではセーヌ川とあまり遠くない岸辺の学生町に下宿しておりました。

熊野神社

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木の橋がかかっておりました。そして川の東側に熊野神社を示す赤い鳥居が立っていたりして、昔の京都のおもかげを忠実に

東山

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鴨川の近くで、下鴨の森林美はもとより、比叡山や東山をはじめ、西山、北山の一帯が見渡せる非常に景色のいいところです。ここで

信楽

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、新進の人たちと話し合ったりしながら、東三本木の「信楽」という下宿兼旅館のようなところで過ごしました。

下総国

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するのはよくない」という保守的な考えから、私を下総国(千葉県)の佐原にあった幕末の漢学者の塾に入れました。この佐原

ロンドン

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年から四十二年にかけて欧州に留学したときも、ロンドンではテームズ川の近くに住み、パリではセーヌ川とあまり遠くない岸辺の

鴨川

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鴨川を愛して

鴨川を愛して

万葉時代にさかのぼってみると、大和の木津川の一部分を鴨川といったことがわかりました。しかしこれも京都の鴨川ではないから参考

集』の編集者の一員であった紀貫之の歌に、鴨川という言葉は出てきませんが「川風寒く千鳥鳴くなり」という歌

は一カ所ありましたが、『枕草子』にはとくに鴨川をうたった文句が見当たりませんでした。『枕草子』で学位をとった

……」という書き出しの『方丈記』に出ている鴨川の叙述がよほど有数なものです。短文ですから、すぐに読めてしまいますが

つきあいで折り折り木屋町筋の宴会にいきましたが、当時は鴨川の洲に流しの演歌師などがいて二階から金をつつんでほうってやっ

比叡山

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加茂川の西岸にあり、川を隔てて東山一帯はもとより、比叡山、比良山が一望できるところでした。また、このあたりは、幕末から明治にかけ

。あそこは鴨川の近くで、下鴨の森林美はもとより、比叡山や東山をはじめ、西山、北山の一帯が見渡せる非常に景色のいいところです。

下鴨

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の間、つまりその年の七月から五カ月間あまり、下鴨の社家町で過ごしました。下鴨の森の西側で、ちょうどいま電車通りになっ

いうのができております。あそこは鴨川の近くで、下鴨の森林美はもとより、比叡山や東山をはじめ、西山、北山の一帯が見渡せる

桂川

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ます。私は、実はこれも鴨川ではなくて、桂川ではないかという推察を試みたことがあるのです。というのは

、帰途、船で大阪から淀川をのぼって、月の明るい桂川にはいり、そこで都からの迎えの牛車に乗って京都の自邸に戻った

安倍川

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のもとに呼び戻されました。そのときの家も、やはり安倍川という大きな川のほとりでした。こうして、いつも川のほとり、ないしは

大阪

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ておりましたが、徳川時代の日本の経済史に通じ、大阪の市史を編さんした人です。またすでに亡くなりましたが、民藝を愛し

おりました。任期を終えた貫之は、帰途、船で大阪から淀川をのぼって、月の明るい桂川にはいり、そこで都からの迎えの

京都

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私が京都にきたのは、欧州留学から帰った直後の明治四十二年五月でし

神社を示す赤い鳥居が立っていたりして、昔の京都のおもかげを忠実に保っていたものです。

このころの京都は、まだあまりひらけておらず、四条あたりの河原へ夕涼みに行くと、

を集めたものではなく、京都に縁のある歌人が京都をうたったものにすぎませんでした。

そのものをうたった歌ばかりを集めたものではなく、京都に縁のある歌人が京都をうたったものにすぎませんでした。

から参考になりません。では、そのころの鴨川と京都の鴨川との間に、名前をつける上でなにか縁故があるのだろう

一部分を鴨川といったことがわかりました。しかしこれも京都の鴨川ではないから参考になりません。では、そのころの鴨川

桂川にはいり、そこで都からの迎えの牛車に乗って京都の自邸に戻ったということですから、あるいは、そのとき千鳥の鳴く声

静岡

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を仕込まれました。明治二十年になって、父は静岡に転任し、私も父のもとに呼び戻されました。そのときの家

高知

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したあと、何十年か経ってから土佐守(いまの高知県知事)となり、四年あまり土佐の国に在勤しておりました。

向島

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、父が東京に転任になったので、隅田川左岸の向島に移りました。

東京

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に六歳までおりましたが、明治十五年、父が東京に転任になったので、隅田川左岸の向島に移りました。

隅田川

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明治十五年、父が東京に転任になったので、隅田川左岸の向島に移りました。