四十八人目 / 森田草平

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地名一覧

川崎

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脚の早い者とて、六郷までは参りましょうか。今夜は川崎泊りですよ」

関東

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軍師といわれる吉田忠左衛門が、内蔵助の命を含んで、関東の急進派鎮撫のために江戸へ下ることになった。彼が浪士どもに

神護寺

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、同新浜正福寺の住職良雪、自家の菩提所周世村の神護寺住職三人に宛てたもので、自分が江戸へ下ってからの一党の

関西

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、後者は堀部安兵衛、奥田孫太夫などの在府の士、並びに関西では原総右衛門、大高源吾、武林唯七らの人々であった。その争い

本所

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毛利小平太は小商人に身を扮して、本所二つ目は相生町三丁目、ちょうど吉良左兵衛邸の辻版小屋筋違い前にあたる

ござる。一同は今夜丑の上刻までに、この宿と、本所三つ目杉野十兵次どのの借宅と、前原神崎両人の店と、この三

「さあさあ、これは開闢以来の大仇討、昨夜本所松坂町吉良上野介様の邸へ討入った浅野浪士の一党四十七人、主の

銚子

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に召しあがってようござりますか」と、おしおは注ぎかけた銚子を控えて、思わず窘めるように言った。

赤穂城

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は瀬左衛門より一つ上の二十六歳であった。その後赤穂城中における評議が籠城、殉死から一転して、異議なく開城、そのじつ

扶持の徒士にすぎなかったが、主家没落の際は、赤穂城から里余の煙硝蔵に出張していて、籠城殉死の列に漏れたと

茗荷谷

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月も晦日のことであった。小平太は朝から小石川の茗荷谷にある戸田侯のお長屋に兄の山田新左衛門を訪ねて行った。おりよく

江戸

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なく開城、そのじつ仇討ときまった際は、彼はまだ江戸に居残っていたので、最初の連判状には名を列しなかった。が

、堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛三人の連名で、江戸から大石に宛てた書面に、上方の連中がゆっくりしていられるのは、

内蔵助の命を含んで、関東の急進派鎮撫のために江戸へ下ることになった。彼が浪士どもに分配するために、軍用金の中

江戸の急進派の中でも一番あせっていた堀部安兵衛は、それからも絶え

、幸か不幸か、七月の二十二日になって、江戸の吉田忠左衛門から浅野大学が芸州広島へ流謫を命ぜられたことを報じてき

を宣言した。そして、自分も十月の末には江戸へ下るから、面々においてもそれまでに、二人三人ずつ仇家へ

に、明くる朝すぐに発足して、潮田又之丞とともに江戸に走せ下った。この二人は、途中浜松の駅で、芸州へ流され

、それに毛利小平太の三人も八月の二十七日に江戸へ着いた。それに次いでは、吉田沢右衛門、間瀬孫九郎、不破数右衛門の三

源吾も九月中というように、同志の士は続々江戸へ下った。しかも大石自身は、後を清くして立つためには何か

、内蔵助の命を帯びて、すでにその年の四月中江戸に下っていた。これは吉良、上杉両家の近情を偵察するためで、

円山会議の後、真先に江戸へ下った堀部安兵衛は、浪人剣客長江長左衛門という触れ込みで、米屋の店

を始めとして、七月中安兵衛より一足先に江戸へ下った横川勘平、一足後れてすぐその後から下ってきた、毛利小平太の

岡島八十左衛門、貝賀弥左衛門なぞといっしょに、前後して、江戸へ着いた。最も後れた中村清右衛門、鈴田重八の両人も、十月の

、鈴田重八の両人も、十月の三十日には江戸へ入って、安兵衛の長江長左衛門の借宅に同宿することとなった。中村

た。そして、二十三日には鎌倉雪の下着、ここで江戸から迎いに出た吉田忠左衛門と出会って、打合せをした上、三日の

一屋に入った。ここに十日間ばかり滞在して、江戸の情勢を窺っていたが、差閊えなしと見て、十一月の五日

、左内の伯父と称して宿泊することになった。江戸にあった同志は、それとばかりに、人目を忍んで、かわるがわる内蔵助の許

とにかく、一時百二十余名に上った義徒の連盟も、江戸へ集まった時には、こうして五十人余りに減ってしまった。が

出奔したという知せが同志の間に伝わった。江戸へ下った者はまさかだいじょうぶだろうと思っていただけに、同志もこれに

て、故国の親類縁者へ手紙を出すものは出す、また江戸に親兄弟のあるものは、それぞれ訪ねて行って、それとなく訣別を告げる

はその大石殿が、何やら思いたつことがあって、近ごろ江戸に下られたという噂を耳にした。いや、大石殿ばかりでは

大石殿ばかりではない、旧浅野家の浪人どもおいおい江戸に参着して、何やら不穏なことを企んでいるという風説もある。

「それにしても、あなたは江戸に親御もあれば、御縁者も多いはず、どうしてそちらへお出かけに

そんな卑怯なことを言いだすくらいなら、何と思ってはるばる江戸まで下ってきたのだ? 俺にはその了簡が分らないね」

「たぶん江戸へ来れば、何かよいことでもあるように思ってきたんだろうが

語りに話した。(ついでながら、勘平のこの書状は、江戸における赤穂浪士の動静を知る貴重な材料として、今に伝わって

村の神護寺住職三人に宛てたもので、自分が江戸へ下ってからの一党の情況を報じて、いよいよ一挙の日も迫った

ず、おそらく自分でも分らなかったに相違ない。とにかく、江戸の市中を、喰うものも喰わず、喪家の狗のように、雪溶けの

相生町

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小平太は小商人に身を扮して、本所二つ目は相生町三丁目、ちょうど吉良左兵衛邸の辻版小屋筋違い前にあたる米屋五兵衛こと、じつ

小石川

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十一月も晦日のことであった。小平太は朝から小石川の茗荷谷にある戸田侯のお長屋に兄の山田新左衛門を訪ねて行った。

浜松

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とともに江戸に走せ下った。この二人は、途中浜松の駅で、芸州へ流されて行く浅野大学の一行に出逢ったが、後難

湯島

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、勘平は蒲団の上に起きなおったままつづけた。「よく湯島の伯母の許へ行くといっては出かけたものだ。なに、それが伯母

大阪

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きた。そして、山科の大石の許へも立ち寄らず、大阪の原総右衛門、京の大高源吾など上方の急進派を糾合して、大石

を決して、七月二十八日、京、伏見、山科、大阪、赤穂などに散在する同志と円山重阿弥の別墅に会合した上、いよいよ

両国

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「じつはあの両国の橋の袂にいる茶坊主珍斎な」と、勘平は声を潜めてつづけた。「あいつは

こうして二人は長い間両国の橋の上に立っていた。

てもらいたい。拙者はこれからこの旨を伝えるために、両国米沢町の養父の宅まで参るが、約束の刻限までにはかならず戻ってくるから

屋を出た時は、もう子の刻に近かった。が、彼はすぐに両国の方へ引返そうとはしないで、何と思ったか、元来た坂本の道を真直に千住

「もう何剋だか知らないが、千住の大橋から両国までは一里あまり、丑の刻までには行き着かれそうにもない。俺はとうとう

そして、その暮方に、憔悴しきった顔をして、ぼんやり両国の橋の袂へ出てきた。

った獣のように走りだした。が、どこへ行く宛もない。両国の橋を渡れば、もうじきそこが松坂町の吉良邸である。彼はそこへ近づくこ

島の方角へ向っていた。あれだけ近寄るのを恐れていた両国の橋を渡ったのも、考えてみれば、やっぱりおしおに逢いたさの一念からで

れを見てくれ、これを!」と言いながら、袂からさっき両国の橋の袂で買った瓦版を取りだして渡した。

千葉

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の兇変の前に、すでに浪人していた不破数右衛門、千葉三郎兵衛、間新六の徒が、同じように連盟に加わってきたので

広島

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二十二日になって、江戸の吉田忠左衛門から浅野大学が芸州広島へ流謫を命ぜられたことを報じてきた。同じく二十五日には、

京都

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下向させることにした。一行は九月十七日に京都を立って、同月二十五日には無事江府に下着した。そして、石町

へ弟子入りをしている脇屋氏(大高源吾のこと、京都の富商脇屋新兵衛と称して入りこむ)から、吉良邸では来月の六日

深川

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師走の二日には、深川八幡前の一旗亭に、頼母子講の取立てと称して、一同集合すること

死後御検分のため遺しおく口上書とは、二日に深川八幡前で認めた仇討の宣言書と起請文のことで、その中には

上野

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と待ってはいられない、その間に敵と覘う上野介の身に異変でもあったらどうするかと、一途に仇討の決行

いう内報もあった。すれば、五日の夜は必定上野介在宿に極まったというので、討入はおおよそその夜のことになる

つづけた。そして、だんだん歩いているうちに、とうとう坂本から上野の山下へ出てしまった。

麹町

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が、十一月の二十日になって、麹町四丁目千馬三郎兵衛の借宅に、間喜兵衛、同じく重次郎、新六なぞといっしょに同宿

泉岳寺

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敵の首を揚げた時は、骸は上衣に包んで泉岳寺に持参すること、子息の首は持参におよばず打捨てること、なお味方の

同志は、かねての牒合せに従って、その日早く高輪泉岳寺にある先君の墓碣に参拝した。堀部安兵衛も同宿の毛利小平太、

四十七人、主の仇の首級を揚げて、今朝高輪の泉岳寺へ引上げたばかり、大評判の大仇討! 忠義の侍四十七人の名前

邸に乗こんで、主君の仇上野介の首級を揚げ、今朝泉岳寺へ引取って、公儀の大命を待っている。お上ではただ今老中方

仇を討たれたか……そして、予定のごとく泉岳寺へ……」

を除いた四十七人は立派に上野介の首級を上げて、泉岳寺へ引上げ、お上のお仕置を待っていられる。わしはその仲間に外れ

目黒

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平間村までは往復八里の道である。目黒から間道を脱けて行ったが、それでも帰路は夜に入った。

向島

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気がつくと、弾かれるように方向を転じて、わざと向島の土手へ出た。それから渡船を待ち合せて、待乳山の下へ渡っ

千住

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何と思ったか、元来た坂本の道を真直に千住の大橋に向って歩きだした。その時はもう雪も止んで、十四

「もう何剋だか知らないが、千住の大橋から両国までは一里あまり、丑の刻までには行き着かれそう

両国橋

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「へえ、両国橋のお茶道珍斎からお状箱を持ってまいりました」