雪の宿り / 神西清
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鱗の両和尚と御一緒に往つてをられます近江の永源寺、あるひは集九様のをられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の
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頃には奈良の町を、ふかぶかとうづめつくした。興福寺の七堂伽藍も、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめ
ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山内は、まるで
をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来てゐる関白のことに移つて、太閤もめ
やら。この師走の初め頃、今出川殿討滅御祈祷の勅命が興福寺に下りました折ふしは、いや賑やかなことでございましたな。さてもこの世
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事ではなく、やがて東のかた百万遍、革堂(行願寺)のあたりにも火の手が上ります。これは稍※艮方へ寄つてをります
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さうかう致すうち一月の末には、太閤は宇治の随心院へ奥方様とお二人で御座を移されました。御老体の
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、中には月輪殿(九条兼実)の玉葉八合、光明峯寺殿(同道家)の玉蘂七合などをはじめ、お家累代の御記録の類
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でございましたが、粟田口の花頂青蓮院、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東山の空を焦がす有様
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義視)は、霜月の夜さむざむと降りしきる雨のなかを、比叡へお上りになされたとの事、いやそれのみか、遂には西の
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引く中を、山名方は打首を車八輛に積んで西陣へ引上げたとも申し、白雲の門より東今出川までの堀を埋むる
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講莚に列なるものが多々ございました。その中には相国寺のあの桃源瑞仙さまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は
御喜捨もなく、費えは悉く僧徒衆の肩にかかり、相国寺のみにても二百貫文を背負ひ込んだとやら。花の御所の御栄耀に
のあたりは火にはかからぬと思召してか、或ひはまた相国寺の西にも東にも火の手の上つてをります有様では、無下に
の焼野原となりました上は、細川方は最早や相国寺を最後の陣所と頼んで、立籠るばかりでございます。
けれども程なく十月の三日には、その相国寺の大伽藍も夥しい塔頭諸院ともども、一日にして悉皆炎上いたしたの
御消息がわたくしに托せられます。それを懐にわたくしが相国寺の焼跡に立つたのは、翌る日のかれこれ巽の刻でもございましたらうか
見えてをります辺りには、内裏、室町殿、それに相国寺の塔が一基のこつてをりますだけ、その余は上京下京をおしなべて、
酸くした。それもどこ吹く風と聞き流した。俺は相国寺の焼ける時ちよつと驚いたのだが、あの乱戦と猛火が塀一つ向ふで
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危いとのことで、どこのお公卿様も主に愛宕の南禅寺へお運びになります。一条家でも、御縁由の殊更に深い東山の
ます。その十八日には洛中の盗賊どもこぞつて終に南禅寺に火をかけて、かねてより月卿雲客の移し納めて置かれました七珍財宝
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ふかぶかとうづめつくした。興福寺の七堂伽藍も、東大寺の仏殿楼塔も、早くからものの音をひそめて、しんしんと眠り入つて
ゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へはいつて、連歌友達の玄浴主のところで一夜の宿を頼まう
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貞阿は主人の使で、このあひだ兵庫の福原へ行つて来た。主人といふのは関白一条兼良で、去年の
を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見し
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貞阿は主人の使で、このあひだ兵庫の福原へ行つて来た。主人といふのは関白一条兼良で、去年の十一月
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ました。その十三日には浄華院の戦さ、守る京極勢は一たまりもなく責め落され、この日の兵火に三宝院の西は近衛殿
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、今どこにどうしてをられる。それも知りたい。叡山の徒に虐げられて田舎廻りをしてゐる一向の蓮如、あの人の消息も
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。これも夜火でございましたが、粟田口の花頂青蓮院、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東山の
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とつた。それは五年ほど前に腹ちがひの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがひの弟の東岳
の頃より、十六の歳でお屋敷に上りますまで、東福寺の喝食を致してをりました。ちやうどその時分、やはり俗体のままの
警策の賜物でございませう、わたくし風情の眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝つて見えたのでございます。
ほとりの寿光院にお宿をとつておいででしたから、東福寺の方角にはまだ何事もないらしい様子を見澄まし、折からの闇にまぎれて、
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の多い牡丹雪に変つて、午をまはる頃には奈良の町を、ふかぶかとうづめつくした。興福寺の七堂伽藍も、
取沙汰ほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良に暫く腰を落着けて、鶴姫の噂が色々とあらぬ尾鰭をつけて
日には、関白さまは東の御方、鶴姫さまともども、奈良にお下りになりました。そして月の変りますと早々、これもあなた
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とのことで、それも次第に西へ向つて、南一条大宮のあたりに集まつてゆくらしいと申すのでございましたが、時刻が
でございましたが、民の迷惑も一方ならず、一条大宮裏向ひの酒屋、土倉、小家、民屋はあまさず焼亡いたし、また村