智恵子の半生 / 高村光太郎
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上を考えて見ると、その一生を要約すれば、まず東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に長女として明治
故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思って東北地方の温泉まわりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した
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れざるものに対する絶望とでめちゃめちゃな日々を送り、遂に北海道移住を企てたり、それにも忽ち失敗したり、どうなる事か自分でも
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そこで彫刻や油絵を盛んに勉強していた。一方神田淡路町に琅※洞という小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやっ
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た生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、
徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかった。それから毎日私が二人
当時東京の或新聞に「山上の恋」という見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人
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持ち始め、女子大卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家で
て明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に
来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといって歎いた。私の「あどけない話」という
とっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。女子大で
知れない。そう思われるほど彼女にとっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥
別な生活を想像してみると、例えば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のよう
智恵子は東京に空が無いといふ、
への要求は遂に身を終るまで変らなかった。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。家のまわり
私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来
私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て
れた。友達ですと答えたら苦笑していた。当時東京の或新聞に「山上の恋」という見出しで上高地に於ける二人の
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明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味
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箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス倶楽部で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の
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これを更年期の一時的現象と思って、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させていた。私は