上田秋成の晩年 / 岡本かの子
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生母には四つの歳に死に訣れた。曾根崎の茶屋の娘だつた。場所柄美しくない女ではなかつたらうけれども、誰も
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当時日本の医学界には、関東では望月三英、関西では吉益東洞、といふやうな名医が出て、
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仕舞ふと、彼は勝利を感じて箸をしまつた。南禅寺の本堂で、卸戸をおろす音がとどろいた。その間に帚で掃くやう
南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の
の羽倉信美の家で死んだ。住み切らうと決心した南禅寺の小庵『鶉居』にも住み切れなかつた。信美の家へ引取られる
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川のそばに住んで居たことがあつた。長柄の浜松がかすかに眺められ、隣の神社の森の蔭になつてゐて気に
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呼ぶところの人があるのに気がつく時分にはもう堂島の上田の家に引取られて居た。上田氏が自分の何に当るか
がむさくるしく、ごたごた住まねばならなかつた。もとは大阪堂島の、相当戸前も張つて居る商家のお家はんであつたのを、秋成
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老婆がむさくるしく、ごたごた住まねばならなかつた。もとは大阪堂島の、相当戸前も張つて居る商家のお家はんであつたのを、
その青年期を遊蕩に暮した。この点に於て普通の大阪の多少富裕な家の遊び好きのぼんちに異らなかつた。当時流行の気質本
、享和元年彼は六十八歳になつたが、この年齢は大阪の歌島稲荷社の神が彼に与へた寿命の尽きる歳であつた。養母
名をお玉といつて自分とは八つ違ひだつた。大阪で育つた女だが、生れは京都の百姓の娘だから辛抱は強かつ
た。三年間つぶさに修学した秋成は、安永四年再び大阪へ戻つていよいよ医術開業。そのときにかういふことを決心した。「医者
故郷なつかしく大阪に遊んだり静かな日下の正法寺へ籠つて眼を休ませてみたりし
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私すると云つた江戸の村田春海、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をし
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とても一徹なところがあり、四十年近くも地虫のやうに岡崎に棲みつき、二本の庭の松を相手に、歌のことばかり考へて居
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が次に口惜しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長、いづれも敵として
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尖がつた内曲りの鼻を突込んだ。茶の産地の信楽の里の春のあけぼのの景色も彼の眼底に浮んだ。
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当時日本の医学界には、関東では望月三英、関西では吉益東洞、といふやうな名医が出て、共に古方の復興を
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迫る智恩院の鐘、遠くに並んできれいに澄む清水、長楽寺の鐘。寒さはいつの間にかすこしゆるんで、のろい檐の点滴の
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京摂の間では、宇治の橋本の川水が絶品だと云つて、身体のまめなうちは、水筒を
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の春、全く孤独になつた七十三の翁、上田秋成は京都南禅寺内の元の庵居の跡に間に合せの小庵を作つ
も大して長く続かず、六年目には垂簾を巻いて京都へ転居したのをきつかけに、再び住居の転々は始つた。
つ違ひだつた。大阪で育つた女だが、生れは京都の百姓の娘だから辛抱は強かつた。踏みつければ踏みつけられたまま伸び
た。一体が、さういふふうな女でもあるし、京都生れで、辛抱強いのに生れの性といふ考へが、こつちの頭に
からは遠慮もなく、金があれば酒を飲み出し、京都へ移つてからは、画描きの月渓など男の酒飲み友達と組になり
翌年の寛政五年、剃髪した妻瑚※を携へて京都へ上つたときは、養母の残りものなど売り払つて、金百七両持つ