半七捕物帳 69 白蝶怪 / 岡本綺堂

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音羽

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駒井町をゆき抜ければ、音羽の大通りへ出る。その七丁目と八丁目の裏手には江戸城の御賄

声をかけられて、二人も見かえると、男は音羽の市川屋という水引屋の職人であった。ここらは江戸城に勤め

の職人であった。ここらは江戸城に勤めている音羽という奥女中の拝領地で、音羽の地名はそれから起こったのである

城に勤めている音羽という奥女中の拝領地で、音羽の地名はそれから起こったのであると云う。その関係から昔は江戸城

城の大奥で用いる紙や元結や水引のたぐいは、この音羽の町でもっぱら作られたと云い伝えられ、明治以後までここらには紙屋や

はとうとう寝床にはいることになった。下女のお秋は音羽の通りまで風邪薬を買いに出た。

ていた。今夜も例のごとく寒い風が吹き出して、音羽の大通りに渦巻く砂をころがしていた。

うしろには、又ひとつ黒い影が付きまとっていた。音羽の七丁目から西へ切れると、そこに少しばかりの畑地がある。そこへ

は無言で逃げるように駈け出した。暗闇を駈けて、音羽の大通りの角まで来ると、彼はまた何者にか突き当たった。

て、護国寺の森のこずえは薄紅く霞んでいた。音羽の通りへ出ると、市川屋の職人源蔵に逢った。

もやがてあとから帰って来た。その話によると、音羽の大通りまで買物に出たのだと云うことであった。

音羽の通りへ買物に出たものが、横町の寺門前までわざわざ廻って行く筈

。お尋ね者のお亀はお近と名を変えて、音羽の佐藤孫四郎という旗本屋敷に巣を作っているんです」

判らねえ。お近には内証の男がある。それが音羽の御賄屋敷の黒沼という家へ、このごろ婿に来た幸之助という若い

「むむ。今夜はおれが音羽へ出かけて、張り込んでみようと思うのだ」

を過ぎた頃に出て来たが、本所の奥から音羽まで登るには可なりの時間を費した。江戸市中の地理に明るくない彼

「わたしは音羽の御賄屋敷にいる瓜生長三郎……」

と云うのだ。そこで、留に云いつけて、この音羽から雑司ヶ谷の辺を探索させると、あいつもさすがに馬鹿じゃあねえ、それから

それから四日の後、音羽の旗本佐藤孫四郎は町奉行所へ呼び出された。寺の住職祐道は寺社奉行

いたのであるが、お近は深川にいる頃から音羽の旗本佐藤孫四郎とも馴染をかさねていた。佐藤は二十五、六の独身者

、お近は一と足おくれて帰って来て、そっと音羽の屋敷に忍び込んだ。

、幸之助は黒沼のむすめお勝の婿と定められて、音羽の御賄屋敷へ来ることになった。お近は恋人が近所へ来た

江戸城

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の大通りへ出る。その七丁目と八丁目の裏手には江戸城の御賄組の組屋敷がある。かれらは身分こそ低いが、みな相当に

市川屋という水引屋の職人であった。ここらは江戸城に勤めている音羽という奥女中の拝領地で、音羽の地名はそれから

青山

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や、多年出入りをしている商人などの家で、あるいは青山、あるいは高輪、更に本所深川などであるから、いかに若い元気で無茶苦茶に駈けまわって

牛込

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た。その十二日の午過ぎに、長三郎は父の使で牛込まで出て行ったが、先方で少しく暇取って、帰る頃には此の頃の春

江戸

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は寒かった。こんにちと違って、その当時の音羽あたりは江戸の場末であるから、庭にも往来にも春の霜が深かった。早起き

籠の鶯か、ここでも遠く啼く声がきこえた。江戸といっても、ここらの春はのどかである。紙漉場の空地には

悧巧な女らしいから、素早く草鞋は穿いてしまって、もう江戸の飯を食っちゃあいねえらしい」

ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に江戸へ帰って来ると、お近はそのあとから付いて来たと云うのだ

うちに、三年の月日はいつか過ぎて、佐藤は江戸へ帰ることになった。帰府の道中も同道しては人目に立つので

の眼にも触れなかったのであるが、お近は江戸へ帰ると、間もなく更に新らしい恋人を見つけ出した。それは白魚河岸の

祐道は妹の罪を悔み嘆いて、彼女が再び江戸へ帰るのを待ち受けて、いさぎよく自首するように説き聞かせたが、この世に未練の

ござりませんが、妹は深くそれを信仰しまして、江戸へ帰りましてから其の邪法を行なって居りました。その心願はおのれが過去

八丁堀

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にきた時に、お母さまに話したので……。八丁堀でも内々探索しているのだそうです」

云うのか。さもなければ、この頃はお膝元が太平で、八丁堀の奴らも閑で困るもんだから、そんな、詰まらない事を云い触らして、

魚河岸のおじさんは嘘を云うような人ではない。八丁堀の人たちが幾ら閑だからといって、根も葉もないことに騒ぎ立てる

噂は京橋の実家に居るときから聴いて居りまして、八丁堀の役人たちも内々探索しているとか云うことでございましたが、こう

親を殺されてそのままにゃあ済まされねえ。そこで、八丁堀の旦那のところへ内々で頼んで来て、お亀のゆくえを穿索して

本所

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、長三郎はきょうの探索を本所で打ち切ることにした。本所の家は母方の叔母にあたるので、そこで夜食の馳走になって、

午後七時)を過ぎた頃に出て来たが、本所の奥から音羽まで登るには可なりの時間を費した。江戸市中の地理

彼はきのうも姉のゆくえを尋ねあるいて、本所まで来たのであるが、日が暮れたので途中から帰った。そう

長崎

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「と云っても、四百石取りで……。三年ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に帰って来たんです

「昨年の秋ごろ、長崎からお帰りになりましたかたで……」

目鷹の目で騒いでも知れねえ筈よ、相手は遠い長崎の果てに飛んでいたのだ」

来たと云うのだ。してみると、お近も長崎へ行っていて、佐藤と一緒に引き揚げて来たのだろう。おれ達

知れねえ。留の話によると、佐藤は三年ばかり長崎へお役に出ていて、去年の秋に江戸へ帰って来ると

、表向きは佐藤の屋敷へ入り込むことは出来ないので、長崎の町はずれに隠まわれて外妾のように暮らしているうちに、三年

事が面倒になって来たのと、一方の佐藤は長崎出役を命ぜられて西国へ旅立つことになったのとで、お近は

。佐藤の屋敷も以前は勝手不如意でござりましたが、長崎出役以来、よほど内福になったとか申すことでござります」

にも罪はありますが、多年の馴染といい、殊に長崎以来、自分を隠まってくれた義理もありまするに、新らしい恋人の為

「妹は長崎に居ります間に、唐人屋敷の南京人から或る秘密を伝えられたそう

「お近はわたくしに向かって、佐藤は長崎にいるあいだにいろいろの悪いことをしている。それをわたしは皆んな知っ

佐藤は長崎に出役中、役向きのことに就いて何かの不正事件があったらしい。

深川

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いる商人などの家で、あるいは青山、あるいは高輪、更に本所深川などであるから、いかに若い元気で無茶苦茶に駈けまわっても、それからそれへ

いっているそうだが、以前はお亀といって、深川の羽織をしていたんだ」

見なけりゃあ判らねえが、佐藤という旗本はお近が深川にいる時からの馴染かも知れねえ。留の話によると、佐藤

何事もなく暮らしていたのであるが、お近は深川にいる頃から音羽の旗本佐藤孫四郎とも馴染をかさねていた。佐藤

お近は前名をお亀といって、むかしは深川に芸妓勤めをしていた女である。それが金田という旗本の

の住職となったのであるが、妹のお近は深川の芸妓に売られて、いわゆる泥水を飲む商売となった。しかも運命は

道とお近だけが残った。祐道は幼い頃から深川の或る寺の小僧となって、一心に修行を積んだ末に、この

目白

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ふたりの娘が江戸小石川の目白不動堂を右に見て、目白坂から関口駒井町の方角へ足早にさしかかった。

時)を過ぎた頃に、ふたりの娘が江戸小石川の目白不動堂を右に見て、目白坂から関口駒井町の方角へ足早にさしかかった

はまだ容易にやめそうもなかったが、若い女たちは目白不動の鐘が四ツを撞くのを合図に帰り支度に取りかかって、その

に来なすったのだよ。ゆうべの歌留多の帰りに、目白下のお寺の前で、白い蝶々を見たと云うが、それは

思われる。就いては、物は試しだ。わたしは今夜、目白坂の辺へ行って、果たしてその白い蝶が飛ぶかどうかを探索し

一方にこういう事のあるあいだに、又一方には目白坂下の暗い寺門前に、二つの暗い影がさまよっていた。それ

提灯の火は夜風にゆらめきながら、凍った道を急いで目白坂下へゆき着くと、彼等よりも先きに医者が来ていた。医者

目白の不動堂で暮れ六ツの鐘を撞き出したので、それに驚かされ

する。しかもお冬の訴えによれば、ふたりは時々に目白坂下の寺門前で会合すると云う。それらの事情をあわせて考えると

。かれは灯の見える大通りへ出るのを避けて、暗い目白坂を駈けのぼって行くのである。

の一言はあながちに嚇しばかりでは無い、現に黒沼伝兵衛は目白の寺門前で怪しい横死を遂げたのである。それを思うと、長三郎

きめて、しずかに夜の更けるのを待っていると、目白不動の四ツ(午後十時)の鐘を聞いて、寺内もひっそりと

駕籠は音羽の大通りへ出ないで反対の方角にむかって目白坂をのぼった。不動の門前に駕籠をおろさせて、駕籠屋をそこに

実は昨晩、高田の四家町まで参りまして、その帰り途に目白坂の下まで参りますと、寺の生垣の前に男と女が立ち話

「目白坂下の寺は、おめえの屋敷の菩提所かえ」と、吉五郎は猪口を

護国寺

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長三郎は護国寺門前まで漢籍の夜学に通うのであるから、両親の手前はその夜学に

ゆくと、一月末の空はいよいようららかに晴れて、護国寺の森のこずえは薄紅く霞んでいた。音羽の通りへ出ると、

「御承知でございますか。護国寺前の一件を……」と、幸之助はお北のうしろ姿を見送りながら

「護国寺前……。何事か、一向に知りません」と、長八は茶を

「護国寺前……東青柳町に野上佐太夫というお旗本がありますそう

江戸川橋

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この北風にさからって江戸川橋の方角から、押し合うように身を摺り付けて歩いて来たのは、

には此の頃の春の日ももう暮れかかっていた。江戸川橋の袂まで来かかると、彼は草履の緒を踏み切った。

ている。それに照らし出された男のうしろ姿は、このあいだ江戸川橋で出逢った町人であるらしく思われたので、長三郎は又もや意外に感じ

飯田橋に出て、更に江戸川の堤に沿うて大曲から江戸川橋にさしかかったのは、もう五ツ(午後八時)を過ぎていた

はそのまま表へ出た。それから神田へ帰る途中、江戸川橋でお冬のすがたを認め、更に長三郎にも出逢ったことは、前に

「江戸川橋の上で……。ゆうべおめえに別れてから、風の吹くなかを帰っ

「江戸川橋の下へ死骸が浮き上がったそうですよ」

むりをして、その弥次馬の群れにまぎれ込んで行くと、江戸川橋から桜木町の河岸へかけて、大勢の人が押し合っていた。検視の

大塚

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屋敷だとか承わりました。昨夜の五ツ過ぎに、大塚仲町辺の町家の者が二人連れで、その御門前を通りかかりますと、

その二人連れは大塚仲町の越後屋という米屋の女房と小僧で、かの野上の屋敷の門前を

神田

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しめ直して、表へ出る支度に取りかかった。この夫婦は神田の三河町に住む岡っ引の吉五郎と、その女房のお国である。女中に

そのなかで唯ひとり、その仔細を大抵推量したのは神田三河町の吉五郎であった。彼は何処をどう歩いていたのか知ら

吉五郎はいったん神田の家へ帰って、ゆう飯を食って更に出直そうとするところへ、留吉

ふたりが神田を出る頃には、ようやく長くなったという此の頃の日も暮れてい

「わたくしは神田の三河町に居りまして、お上の御用を勤めている吉五郎という者で

と諦めて、吉五郎はそのまま表へ出た。それから神田へ帰る途中、江戸川橋でお冬のすがたを認め、更に長三郎にも出逢っ

子分は不動堂の門前で別れて、留吉を乗せた駕籠は神田へ帰った。吉五郎は頬かむりをして音羽の大通りへ出ると、

日本橋

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に載せていた。彼は人ごみの間をくぐり抜けて、日本橋を南へむかって急いで来たが、長い橋のまん中ごろまで渡った

霞んで、駿河町からも富士のすがたは見えなかった。その日本橋の魚河岸から向う鉢巻の若い男が足早に威勢よく出て来た。男

威勢のいい魚河岸の若い衆が、なんで突然日本橋から身を投げたのか。仔細を知らない人々は唯あれあれと騒い

は、どこかの註文で大きい鯛を持ち出した途中、あいにく日本橋のまん中で鯛の御納屋に出逢ったのである。これを取られて

「きのうも私が日本橋をあるいていると、岡っ引の吉五郎が私を呼び留めて、吉田の家

飯田橋

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は、正直に両国橋を渡って、神田川に沿って飯田橋に出て、更に江戸川の堤に沿うて大曲から江戸川橋にさしかかった

上野

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いた。おめえも知っているだろう。花どきになると、上野じゃあ菅糸の凧を売っている。薄黒いから烏凧というのだ。あの

かの機関仕掛けにでもなっているのか。おれは上野の烏凧から考えて、多分この菅糸を使うんだろうと鑑定してい

向島

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の死骸が江戸川に浮かびあがった時、弟の瓜生長三郎は向島の堤下をあるいていた。

「もし自分のからだが危くなったら向島へ行けと、お父さんに云い聞かされているので……」

「向島の……なんという所へ行くのだ」

、吉五郎は子分の兼松と共に、早駕籠を飛ばせて向島の堤下へ駈け付けたことは、前に記した通りである。幸之助も

の家へ行っていろと指図した。その指図通りに向島へゆくと、あくる日の夕方に今井理右衛門が来た。つづいて瓜生長三郎が

ことはならぬ、おれにも考えがあるから、ともかくも向島の五兵衛の家へ行っていろと指図した。その指図通りに向島へ

向島の植木屋五兵衛は、親の代から佐藤と吉田の屋敷に出入りの職人で

千住

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相談の末、きょうも、長三郎は小松川から小梅、綾瀬、千住の方面に向かい、父の長八も非番であるので、これは山の手の

八王子

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ているので、その人相もはっきりとは判らなかった。八王子は藤助の故郷であるが、どこへも尋ねて行ったという噂は

の手がかりも無かった。それから三月ほどの後に、八王子の山のなかで彼に似たような縊死者を発見したが、

京橋

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にも云う通り、黒沼の親戚の吉田幸右衛門というのは京橋の白魚河岸に住んで、白魚の御納屋に勤めている。その次男の

「白い蝶の噂は京橋の実家に居るときから聴いて居りまして、八丁堀の役人たちも内々探索

ながら云った。「こっちへ来てはまだ昨今だけれど、京橋の方にはお友達が随分あるようだからね。なにしろ御納屋の人

彼はそれから京橋へ足を向けて、白魚河岸の吉田の家をたずねた。勿論、玄関

神田川

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地理に明るくない彼は、正直に両国橋を渡って、神田川に沿って飯田橋に出て、更に江戸川の堤に沿うて大曲から江戸川

両国橋

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た。江戸市中の地理に明るくない彼は、正直に両国橋を渡って、神田川に沿って飯田橋に出て、更に江戸川の堤