綺堂むかし語り / 岡本綺堂
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てある。堂の広さはわずかに二坪ぐらいで、修善寺町の方を見おろして立っている。あたりには杉や楓など枝をかわして
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月はじめのあさ日は鴨川の流れに落ちて、雨後の東山は青いというよりも黒く眠っている。
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いう旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、石本陸軍
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は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらか
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五月中旬からロンドンも急に夏らしくなって、日曜日の新聞を見ると、ピカデリー・サーカスにゆらめく
の影、チャーリング・クロスに光る白い麦藁帽の色、ロンドンももう夏のシーズンに入ったと云うような記事がみえました。その朝
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その火は白金、麻布方面から江戸へ燃えひろがり、下町全部と丸の内を焼いた。江戸開府以来の大火は、明暦の振袖火事と明和の行人坂
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その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨があって、東京府下だけでも丸潰れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の
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わたしの家でも床几を持ち出した。その時には、赤坂の方面に黒い煙りがむくむくとうずまき※っていた。三番町の方角にも煙り
鮮やかにみえて、時どきに凄まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと
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。欄干に倚って見あげると、東南につらなる塔の峰や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く
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小石川に富坂町というのがある。富坂はトビ坂から転じたので、昔はここらの森にたくさんの鳶が
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。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷の春木座へゆくためであった。
待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなけれ
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は薄を栽えるに適しないので、わたしは箱根や湯河原などから持ち来たって移植したが、いずれも年々に痩せて行くばかりで
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初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと
死に別れてからここに引込んだのであるという。養子が横浜で売込商のようなことをやっているので、その仕送りで気楽に暮らし
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やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷へ納涼ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町の
三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているの
見送った。おなじ仲間の職人も十人ばかり来た。寺は四谷の小さい寺であったが、葬儀の案外立派であったのには、みんな
長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたし
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子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
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川越の喜多院に桜を観る。ひとえはもう盛りを過ぎた。紫衣の僧は
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たる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。武蔵野の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は
か、昼のように明るい夜の町のまんなかで俄かに武蔵野の秋を見いだしたかのようにも感じられて、思わずその店先に足
阿佐ヶ谷のあたりであるらしい。甲信盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総の沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の
ような尾花をなびかせている姿は、わが家の庭に武蔵野の秋を見る心地である。あるものは小さい池の岸を掩って、水
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盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総の沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の上空にあたり、下町方面へ進行
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座は今日の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊という男が、大阪から中通りの腕達者な俳優一座を連れて
十八年の五月から大阪の鳥熊という男が、大阪から中通りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた
の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会や大阪の天満祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際に
朝鮮の異称)の風雲おだやかならずと云うので、東京大阪の新聞社からも記者を派遣することになりましたが、まだ其の時は従軍
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家でも眼に立つほどの被害は見いだされなかった。番町方面の煙りはまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと
南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへと続いて、ただ一面にあかく焼けていた。震動
の群れのうちから若い人はひとり起ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの人の報告も火先が東にむかっ
あった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
あるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、さらに一方
引っ返して、さらに町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂上の三井邸のうしろに迫って、怒涛のように
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咬んだ。追剥ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に
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十二年の後である。明治元年の七月、越後の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方に加わっ
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たのが、高秀庭である。高は苦力の本場の山東省の生まれであるが、年は二十二歳、これまで上海に働いていたそう
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をつづけた後、風雨もすっかり収まって、明日はインドのコロンボに着くという日の午後である。
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通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。
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林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿の花の多い田舎道をたどってゆく
仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿の籬とが見られる。
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鎮まった。三年まえの尾濃震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎるうちに
は十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の
、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋
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に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所の知人の屋敷を訪問している際に、かのおそろしい大地震に出逢って、幸い
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なんでもその明くる年のことと記憶している。日枝神社の本祭りで、この町内では踊り屋台を出した。しかし町内には踊る
去って日枝神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるの
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島原の夢
だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新
座だのと云うものはない。一般に島原とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が
た歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化
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行きましたからよくは記憶していません。それから愛宕神社の鳥居というのが眼にはいりました。ここらから路は二筋に
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鎌倉の東慶寺には、豊臣秀頼の忘れ形見という天秀尼の墓がある。かれとこれと
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「有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁のうちに、耳目鼻のなき痩法師
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きょうも晴れつづいたので、浴客はみな元気がよく、桂川の下流へ釣に行こうというのもあって、風呂場はすこぶる賑わっている。
十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢れるかと思うような大雨となった。(掲載誌不詳、『十番随筆
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あって、花は白と薄紅との二種あります。倫敦市中にも無論に多く見られるのですが、わたしが先ず軽蔑の眼を
に白く散っていました。(大正八年五月、倫敦にて――大正8・7「読売新聞」)
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知っている者は少ないかも知れない。武蔵野の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は何でも無いこと
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妙義町の菱屋の門口で草鞋を穿いていると、宿の女が菅笠をかぶった
に聞きながら、案内者はまた話し出しました。維新前の妙義町は更に繁昌したものだそうで、普通の中仙道は松井田から坂本、軽井沢、
妙義町ひらけて以来の椿事だと案内者は云いました。その日は大雪の降った
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小石川に富坂町というのがある。富坂はトビ坂から転じたので、昔
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、第一日は早朝に品川を発って程ヶ谷か戸塚に泊まる、第二日は小田原に泊まる。そうして、第三日にはじめて
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祭りといえば、麹町の山王、神田の明神、深川の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その
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私は山の手の麹町に生長したせいか、子供の時から鳶なぞは毎日のように
氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも
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拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢
修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に
あるとは云っても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静かで、宿の二階に坐っていると、聞えるものは桂川
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の湖の燈籠流しは年々の行事で、八月一日は箱根神社の大祭、その宵宮に催されるものであるという。
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江戸時代には箱根の温泉まで行くにしても、第一日は早朝に品川を発って程
日は小田原に泊まる。そうして、第三日にはじめて箱根の湯本に着く。但しそれは足の達者な人たちの旅で、病人や
藤沢、第三日が小田原、第四日に至って初めて箱根に入り込むというのであるから、往復だけでも七、八日はかかる。
なって東海道線の汽車が開通するようになっても、まず箱根まで行くには国府津で汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、
が今日では、一泊はおろか、日帰りでも悠々と箱根や熱海に遊んで来ることが出来るようになったのであるから、鉄道省
わたしが若いときに箱根に滞在していると、両隣りともに東京の下町の家族づれで、ほとんど毎日
御厩谷に屋敷を持っている二百石の旗本根津民次郎は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所の知人
は困るというので、支配頭の許可を得て、箱根の温泉で一ヵ月ばかり療養することになったのである。旗本と云って
道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に草鞋をぬいだ
根津が箱根における化け物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴
。君たちも知っている通り、大地震の翌年に僕は箱根へ湯治に行って宿屋で怪しいことに出逢ったが、ゆうべはそれと同じ夢
狭い庭園は薄を栽えるに適しないので、わたしは箱根や湯河原などから持ち来たって移植したが、いずれも年々に痩せて行く
病後静養のために箱根に転地、強羅の一福旅館に滞在。七月下旬のある日、散歩ながら
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宿からはさのみ遠くもないのであるが、パリへ着いてまだ一週間を過ぎない我々には、停車場の方角がよく知れない
、それがまた延着して、八時を過ぎる頃にようようパリに送り還された。(大正8・9「新小説」)
この紀行は大正八年の夏、パリの客舎で書いたものである。その当時、かのランスの戦場のような、
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が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込の赤城下にあった赤城座という小芝居の俳優を雇うことになった。俳優は
雨に烟っている。妙義の山も西に見えない。赤城、榛名も東北に陰っている。蓑笠の人が桑を荷って忙がしそうに
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おぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子と
新聞社に籍を置いていて、従軍新聞記者として満洲の戦地に派遣されましたので、なんと云っても其の当時のこと
戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇の露国将校を討ち取るという筋であったそう
昨今は到るところで満洲の話が出るので、わたしも在満当時のむかしが思い出されて、いわゆる今昔
は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走していたのである。
この頃は満洲の噂がしきりに出るので、私も一種今昔の感に堪えない。わたし
の思い出は可なり古い。日露戦争の従軍記者として、満洲に夏や冬を送った当時のことである。
満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部で
以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも
見たのは、わたしが日露戦争に従軍した時、満洲の海城の城外に老子の廟があって、その祭日に人形をまわしに来
みだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人
。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃を知ったのは
年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六
いたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜ん
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の名産のうちに五色筆というのがある。宮城野の萩、末の松山の松、実方中将の墓に生うる片葉の薄、野田の
門は再び閉められてしまった。我々は再びもとの袖萩になってしまった。なんでも我々の脚本を上場したと云うことが
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幕があく。「妹背山婦女庭訓」吉野川の場である。岩にせかれて咽び落ちる山川を境い
忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎俳優のうちで、三人はもう
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その三は、大正二年の九月、仙台の塩竃から金華山参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所に一泊した夜
も松島記念大会に招かれて、仙台、塩竈、松島、金華山などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって
金華山の一夜
金華山は登り二十余町、さのみ嶮峻な山ではない、むしろ美しい青い山で
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。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺に参詣した。名刺を通じて古宝物の一覧を請うと、宝物は火災
修禅寺に詣でると、二十七日より高祖忌執行の立札があった。宝物一覧を断わら
、今来た町の家々は眼の下につらなって、修禅寺の甍はさすがに一角をぬいて聳えていた。
修禅寺はいつ詣っても感じのよいお寺である。寺といえばとかくに薄暗い
に坐っていると、聞えるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く
の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く。時刻をしらせるのではない、
、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電燈が一度に
ほしてある紅い夜具がだんだんに取り込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行
修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
修禅寺の夜の鐘は春の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底
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そのほかの人形は――京、伏見、奈良、博多、伊勢、秋田、山形など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼もたくさん
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対岸の下関はもう暮れた。寿永のみささぎはどの辺であろう。
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。わたしも松島記念大会に招かれて、仙台、塩竈、松島、金華山などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐる
仙台や塩竈や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話
松島の観音堂のほとりに「軒場の梅」という古木がある。紅蓮尼と
掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎は我が不在の間に病んで死ん
塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰丸と孔雀丸とに乗せられた。われわれの
の生命と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日
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嘗めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなこと
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万一の場合には紀尾井町の小林蹴月君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先
切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる
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明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜(岡田)へ午飯を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、
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の中仙道は松井田から坂本、軽井沢、沓掛の宿々を経て追分にかかるのが順路ですが、そのあいだには横川の番所があり、碓氷の
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に、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本
ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある
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案内者は当然の順序として、まずわたしを白雲山の妙義神社に導きました。社殿は高い石段の上にそびえていて、小さい日光と
「旦那は妙義神社の前に田沼神官の碑というのが建っているのをご覧でしたろう。
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そのほかの人形は――京、伏見、奈良、博多、伊勢、秋田、山形など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼
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名古屋の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。
それはかの柿の木金助が紙鳶に乗って、名古屋の城の金の鯱鉾を盗むという事実を仕組んだもので、鬼太郎君
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ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。
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いる二百石の旗本根津民次郎は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所の知人の屋敷を訪問している
道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に
、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷のひと間を借りていた。
。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床にはいろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいの
て、宿の者の便所へかようことにしたが、根津は血気盛りといい、且は武士という身分の手前、自分だけは相変ら
、越後の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方に加わっていた。落城の前日、彼は一緒
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の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟した。
の話を聞かされたのらしいと云う。かれはすぐに下田の警察へ駆け込んで過去の罪を自首したが、それはもう時効を経過
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たに相違ない。そうして明治三十二年の秋に、明治座で史劇「悪源太」を上場することになった。俳優は初代の左団次一座で
左団次一座であった。続いて三十四年の秋に、同じく明治座で「源三位」を書いた。つづいて「後藤又兵衛」や「敵国降伏」や
四十一年の正月、左団次君が洋行帰りの第一回興行を明治座で開演して、松葉君が史劇「袈裟と盛遠」二幕を書いた。
の方は勝手に書くことが出来た。それは九月の明治座で上演された。
で捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになっ
他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組の
見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業をしているのであろうなどとも思った。
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川越の喜多院に桜を観る。ひとえはもう盛りを過ぎた。紫衣の僧は落花の雪
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堀端の柳は半蔵門から日比谷まで続いているが、此処の柳はその反対の側に立っている
。坂上の道はふた筋に分かれて、隼町の大通りと半蔵門方面とに通じている。今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、
今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、女は半蔵門の方角へ、ここで初めて分かれわかれになった。
庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずか
乗った。車の上でも話しながら帰って、記者は半蔵門のあたりで老人に別れた。
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戦死しました。日露戦争には松本日報の川島君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。私
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鎌倉の東慶寺には、豊臣秀頼の忘れ形見という天秀尼の墓がある。かれ
、母政子の尼が建立したものであると云う。鎌倉の覇業を永久に維持する大いなる目的の前には、あるに甲斐なき我が子
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園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、
いられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通りを、一丁ほど北へ行って東へ折れると
なくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に
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四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆の修善寺温泉に浴し、養気館の新井方にとどまる。所作為のないままに
沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟し
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の一つの名所になっていて、春は長野や高崎、前橋から見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど
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江戸の残党
書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。
大通りの角から横町へ折り廻して、長い黒塀がある。江戸の絵図によると、昔は藤村なにがしという旗本の屋敷であったらしい。
や「東都歳事記」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮は
や獅子舞がしばしば通る。その当時の銀座界隈には、まだ江戸の春のおもかげが残っていた。
頃に誰がかんがえ出したのか知らないが、おそらく遠い江戸の昔、うら長屋の奥にも無名の詩人が住んでいて、かかる風流
、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のとき
俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で
上方では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴そばとか夜鷹そばとか呼んでいた
の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方に加わっていた。落城の前日、彼は一緒に脱走
を浴びたのである。柚湯、菖蒲湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく
風が強かったので、その火は白金、麻布方面から江戸へ燃えひろがり、下町全部と丸の内を焼いた。江戸開府以来の大火は、明暦の
長五郎坊主江戸を焼きけり
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思います。伊勢の生子人形も古風で雅味があります。庄内の小芥子人形は遠い土地だけに余り世間に知られていないようですが、
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したものだそうで、普通の中仙道は松井田から坂本、軽井沢、沓掛の宿々を経て追分にかかるのが順路ですが、そのあいだには
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踊る子が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込の赤城下にあった赤城座という小芝居の俳優を雇うことになった。
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者です。案内者は当然の順序として、まずわたしを白雲山の妙義神社に導きました。社殿は高い石段の上にそびえていて、
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女や老人の足の弱い連れでは、第一日が神奈川泊まり、第二日が藤沢、第三日が小田原、第四日に至って
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「つまり筑波の町のような工合だね。」
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哀えたと云っても、両国の川開きに江戸以来の花火のおもかげは幾分か残っている。しかし私は川開
ない運命もやがては全くほろび尽くして、花火といえば両国式の大仕掛けの物ばかりであると思われるような時代が来るであろう。どん
籠をかけつらね遊覧客を乗せて漕ぎ廻っている。まずは両国の川開きともいうべき、華やかな夜の光景である。
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それにつづく日比谷公園は長州屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い
を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになっ
それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通
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その三は、大正二年の九月、仙台の塩竃から金華山参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所
仙台五色筆
ていると云う。わたしも松島記念大会に招かれて、仙台、塩竈、松島、金華山などを四日間巡回した旅行中の見聞を
仙台の名産のうちに五色筆というのがある。宮城野の萩、末の
わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や
仙台の土にも昔から大勢の人が埋められている。その無数の白骨
れているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを
仙台や塩竈や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三
騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本で名高い局政岡と
政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡で、初子とは別人で
も訊いたら、忽ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義
。鳳凰丸と孔雀丸とが即ちそれである。風流の仙台太守は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作も
しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍い肉声に
の仮名で、本名は三沢初子である。初子の墓は仙台にもあるが、ここが本当の墳墓であるという。いずれにして
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に五色筆というのがある。宮城野の萩、末の松山の松、実方中将の墓に生うる片葉の薄、野田の玉川の葭
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つの名所になっていて、春は長野や高崎、前橋から見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場
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ば上州の一つの名所になっていて、春は長野や高崎、前橋から見物に来る人が多いと、土地の人は誇って
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See the battlefields――抜目のないトーマス・クックの巴里支店では、この四月からこういう計画を立てて、仏蘭西戦場の団体
を考えた。それに付けて思い出されるのは、わたしが巴里に滞在していた頃、夏のあかつきの深い靄が一面にとざして
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広島の街をゆく。冬の日は陰って寒い。
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このあたりで名物という大津の牛が柴車を牽いて、今や大橋を渡って来る。その柴の
所は三条大橋、前には東山、見るものは大津牛、柴車、花菖蒲、舞妓と絵日傘――京の景物はすべてここに集まっ
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て、「木太刀」の星野麦人君の手を経て、神戸の堀江君という未見の人からシナの操り人形の首を十二個送られ
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は――京、伏見、奈良、博多、伊勢、秋田、山形など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼もたくさんあります。
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の人形は――京、伏見、奈良、博多、伊勢、秋田、山形など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼もたくさんあり
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そのほかの人形は――京、伏見、奈良、博多、伊勢、秋田、山形など、どなたも御存知のものばかりで、例
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、東京で雷雨の多いのは北多摩郡の武蔵野町から杉並区の荻窪、阿佐ヶ谷のあたりであるらしい。甲信盆地で発生した雷雲が武蔵野
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三大祭りといえば、麹町の山王、神田の明神、深川の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのである
二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは
深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これ
いる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を
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(例)麹町
私は麹町元園町一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三
おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になっ
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼のように朦朧と現われて来る。店の八つ手は
料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋もあった。わたしが名を覚えているのは、
の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗な姐さんが二、
あいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によっ
元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋お路久という長唄の師匠が住んでいた。その
いう旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、
見ると、団栗の実を思い出さずにはいられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通り
十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここに
た。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学
受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町に平河小学校という
出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立
ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校と
にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から
時代の思い出である。今日の人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前に
四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。
河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝
の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも
家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日の旧郊外よりもさびしく、どこの家も庭が広くて、
が、途方もなく暑い日であった。わたしの家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日の旧郊外
八時を過ぎる頃、わたしは雨を衝いて根岸方面から麹町へ帰った。普通は池の端から本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜
私は山の手の麹町に生長したせいか、子供の時から鳶なぞは毎日のように見
日露戦争前と記憶している。麹町の英国大使館の旗竿に一羽の大きい鳶が止まっているのを見付けて
から晩まで絶え間がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて
わたしも十一の歳のくれに、麹町の万よしという寄席で紙鳶をひき当てたことを覚えている。それ
は祭礼である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王、神田の明神、深川の八幡として、ほとんど日本国じゅうに
最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っ
祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合し
昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり
で、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも
まだ電車が無いので、私は暗い寒い堀端を徒歩で麹町へ帰った。前に云った宮戸座の時は、ほんの助手に過ぎない
話して帰った。広谷君は私の家から遠くもない麹町山元町に住んでいるのである。広谷君の帰る頃には雨も
するらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車みちは押し返されないような混雑で、
」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十
わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について
ことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外の
のではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋の初めになると機織虫などが無暗に
わたしの現在の住宅は、麹町通りの電車道に平行した北側の裏通りに面しているので、朝
聴いているうちに、私の眼のさきには昔の麹町のすがたが泛かび出した。そこには勿論、自動車などは通らなかった。
わたしは麹町に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場
老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は、門跡前から相乗りの人力車に乗った
は再び糸瓜の棚が恋しくなったが、その頃はもう麹町の旧宅地へ戻っていたので、市内の庭には糸瓜を
住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに
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という若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡びてゆく。浪花節
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四
老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は
手みやげを持って老人をたずねた。その家のありかは、新宿といってもやがて淀橋に近いところで、その頃はまったくの田舎であっ
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に挿していたのを記憶している。松平紀義のお茶の水事件で有名な御世梅お此という女も、かつてこの二階にいた
。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾らの小遣い銭を持って
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子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って
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いよいよ一般の迷信を煽って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した
ほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは
の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと
ながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃されていた。それは明治の初年
おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つ
おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別される
、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うに
島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
、すべて幕間の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋区新富町の一部を自分たちの領分と心得ている
その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背
今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具えるようになったのは、まず日清
その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この
功徳を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代
、こんなに暗い寂しい新年の宵の風景は見いだされまい。東京の繁華の中心という銀座通りが此の始末であるから、他は察すべし
地方の都市は知らず、東京の市中では朝早くから朝顔売りや草花売りが来る。郊外にも
釣荵は風流に似て俗であるが、東京の夏の景物として詩趣と画趣と涼味とを多分に併せ持っている
あるから、もちろん一概には云えないことであるが、旧東京に生長した私たちは、やはり昔風の食い物の方が何だか夏
ているが、どうもこれは夏のものらしい。少なくとも東京では夏の宵の景物である。
上、気圧や気流にも変化を生じたとみえて、東京などは近年たしかに雷雨が少なくなった。第一に夕立の降り方まで
月八日か九日の夜とおぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽陥落の後
杉並のあたりであると云う。わたしの知る限りでも、東京で雷雨の多いのは北多摩郡の武蔵野町から杉並区の荻窪、阿佐ヶ谷の
白柳秀湖氏の研究によると、東京で最も雷雨の多いのは杉並のあたりであると云う。わたしの知る限り
ているようになった。往来で白昼掻っ払いを働く奴を東京では「昼とんび」と云った。
はないが、鳶は前に云う通り、毎日のように東京の空を飛び廻っていたのである。
あったが、その鳶もいつか保護鳥になった。東京人もロンドン人と同じように、鳶を珍しがる時代が来たので
まだ其の頃の東京には鳶のすがたが相当に見られたので、英国人はそんなに鳶
知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追いやらるるのほかはあるまい。
旧東京の歳晩
来たことは云うまでもない。その繁昌につれて、東京というものの色彩もまたいちじるしく華やかになった。家の作り方、ことに
その頃のむかしに比べると、最近の東京がいちじるしく膨脹し、いちじるしく繁昌して来たことは云うまでもない。その
絵草紙屋――これが最も東京の歳晩を彩るもので、東京に育った私たちに取っては生涯忘れ得ない思い出の一つである。
らの商店のうちでも、絵草紙屋――これが最も東京の歳晩を彩るもので、東京に育った私たちに取っては生涯忘れ得
、わたしをして一種寂寥の感を覚えしめるのは、東京市中にかの絵草紙屋の店を見いだし得ないためであるらしい。
新旧東京雑題
を見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では
東京でいちじるしく廃れたものは祭礼である。江戸以来の三大祭りといえば
その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨があって、東京府下だけでも丸潰れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、
大阪の天満祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。
そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代に
元禄のむかしは知らず、文化文政から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。
湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬の作に「浮世風呂」の名が
設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと
朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが
私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚いもので
夜鷹そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥の「嶋鵆月白浪
答え申します。御承知の通り、日露戦争の当時、わたしは東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍新聞記者として満洲の戦地
(朝鮮の異称)の風雲おだやかならずと云うので、東京大阪の新聞社からも記者を派遣することになりましたが、まだ其の時
、第一軍配属と決定しているので、わたしは東京通信社の名をもって許可を受けました。
は争って地方の新聞社に交渉することになりました。東京日日新聞社からは黒田甲子郎君がすでに従軍願いを出して、第一軍配属
儀で出願すれば、一社一人は許されるので、東京の新聞社は争って地方の新聞社に交渉することになりました。東京日日
ない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍
東京通信社などはいい方で、そんな新聞があるか無いか判らないような、
になっていて、わたしもカーキー服の左の腕に東京通信社と紅く縫った帛を巻いていました。日清戦争当時と違って
東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰の新派一座が中洲の真砂座で
通りの今昔で、今から約三十年の昔、私は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走してい
東京陵
遼陽の城外に東京陵という古陵がある。昔ここに都していた遼(契丹
塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰丸と孔雀丸とに乗せられた。われわれの一行は
午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干に倚って見あげる
と、鉢にうず高く盛った松茸に秋の香が高い。東京の新聞二、三種をよんだ後、頼家の墓へ参詣に行った
立ってゆで栗を買うと実に廉い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうと思われた。宿に帰って読書、障子の
帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの
で絵葉書を買って記念のスタンプを捺して貰いました。東京の友達にその絵葉書を送ろうと思って、衣兜から万年筆を取り出して書きはじめる
同じ挨拶を繰り返している。わたしも無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、此処で毎日原稿紙にペンを
ような、むしろそれ以上のおそろしい大破壊を四年後の東京のまん中で見せ付けられようとは、思いも及ばないことであった。よそ事の
が若いときに箱根に滞在していると、両隣りともに東京の下町の家族づれで、ほとんど毎日のようにいろいろの物をくれるので
浴客同士のあいだに何の親しみもないからであろう。殊に東京近傍の温泉場は一泊または日帰りの客が多く、大きい革包や行李を
であった。明治以後は次第にその建築もあらたまって、東京近傍にはさすがに茅葺きのあとを絶ったが、明治三十年頃までの
へ行けば、こんなところが無いでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に
温泉場に近年流行するのは心中沙汰である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死に場所を選ぶのが
が武田勝頼に扮するつもりであったが、その当時わたしは東京日日新聞社に籍を置いていたので、社内からは種々の苦情が
」二幕を書いた。同年十月の第三回(東京座)には「十津川戦記」三幕を書いた。同時に紫紅君の
若葉会は更に東京毎日新聞社演劇会と変って、同じ年の十二月、明治座で第一回を
ました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、「木太刀」の
比較にならないくらいの小さいものであったが、ともかくも東京としては安政以来の強震として伝えられた。わたしも生まれて
鎮まった。三年まえの尾濃震災におびやかされている東京市内の人々は、一時ぎょうさんにおどろき騒いだが、一日二日と過ぎる
に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで
わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには
、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、
は十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは
おなじ果物を運びながらも、東京の馬力では詩趣も無い、詩情も起らない。いたずらに人の神経を
となっているが、この頃では秋になっても東京の空を渡る雁の影も稀になった。まして往来のまんなかに突っ立っ
交通機関であるからと云って、停車場の風致までを生半可な東京風などに作ろうとするのは考えものである。
あった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中に余り多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住ん
が、区画整理のおいおい進捗すると共に、その姿を東京市内から消してしまって、わずかに場末の破れた垣根のあたりに、二
そういう歴史も現代の東京人に忘れられて、坂の名のみが昔ながらに残っている。
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二十四年の二月、私は叔父と一緒に向島の梅屋敷へ行った。風のない暖い日であった。三囲の堤下を
、いい天気だ。こんな花見日和は珍らしい。わたくしはこれから向島へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになり
二人は吾妻橋を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は
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ここを新富町だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原とか、
いる彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺れ合い摺れちがって往来
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十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田の三崎町まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが
月には三崎座が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、俄かにここらが繁昌して、またたくうちに立派な町
が、今夜の車夫は上野の広小路から電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成街道へさしかかる頃から、雷鳴と電光が強くなっ
もう神田区へ踏み込んだと思う頃には、雷雨はいよいよ強くなった。まだ宵
まで絶え間がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとう
。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王、神田の明神、深川の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られてい
も丸潰れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後
わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残りで、その時には祭礼番
大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
に方々の湯屋を掻きまわしている世のなかに、清元の神田祭――しかもそれを偏人のように思っていた徳さんの喉から
だんだんに駈けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞い
から水蜜桃や梨などの果物の籠を満載して、神田の青物市場へ送って行くので、この時刻に積荷を運び込むと、あたかも
その原本は少ない上に、価も廉くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛)という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込ん
むかって、いろいろのむかし話を語った。老人は江戸以来、神田に久しく住んでいたが、女房に死に別れてからここに引込んだので
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かけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤で、大樹が生い茂っていた。その堤の松に
、どうしても九段下から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾ら
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、それでは非常の迂廻であるから、どうしても九段下から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
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思い出である。今日の人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前になった
毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐ傍には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、
時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真っ暗である。夜に入っては往来も
この場合、唯一の救いは桜田門外の派出所である。そこまで行き着けば灯の光があるから、私の
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堀端の柳は半蔵門から日比谷まで続いているが、此処の柳はその反対の側に立っているの
自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附の跡があって、今日の公園は一面の草原で
夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附の跡があっ
ほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄かにうしろから足音が聞えた。足駄
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ので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附をはいって有楽町を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄かにうしろから足音が聞えた
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たが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附をはいって有楽町を通り抜けて来ると、ここらが
少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した
が二十歳の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷
投げ出されて、金太郎も飾り馬もメチャメチャに毀れた。よんどころなく銀座へ行って、再び同じような物を買って持参したが、先方へ
銀座
先ずひと通りは心得ている。すなわち今から四十余年前の銀座である。その記憶を一々ならべ立ててもいられないから、ここでは歳末
銀座の東仲通りに住んでいたので、その当時の銀座の事ならば先ずひと通りは心得ている。すなわち今から四十余年前の
云えば京橋区三十間堀一丁目三番地、俗にいえば銀座の東仲通りに住んでいたので、その当時の銀座の事ならば
由来、銀座の大通りに夜店の出るのは、夏の七月、八月、冬の
その薄暗い銀座も十二月に入ると、急に明るくなる。大通りの東側は勿論、西側
で、そのあいだを万歳や獅子舞がしばしば通る。その当時の銀座界隈には、まだ江戸の春のおもかげが残っていた。
走る。いかにも春の銀座らしい風景ではあるが、その銀座の歩道で、追い羽根をしている娘たちがある。小さい紙鳶をあげて
、鉄道馬車は満員の客を乗せて走る。いかにも春の銀座らしい風景ではあるが、その銀座の歩道で、追い羽根をしている娘
宵の風景は見いだされまい。東京の繁華の中心という銀座通りが此の始末であるから、他は察すべしである。
その頃、銀座通りの飲食店といえば、東側に松田という料理屋がある。それを筆頭
青くなって、世間は四月の春になっても、銀座の町の灯は依然として生暖かい靄の底に沈んでいるばかりで
銀座が突然ダーク・チェンジになって、四十余年前の銀座を現出したら、銀ブラ党は定めて驚くことであろう。(昭和11・
今日の銀座が突然ダーク・チェンジになって、四十余年前の銀座を現出したら
ばかりも後のことであったろう、私がある日の夕方銀座から帰ってくると、町内の酒屋の角で徳さんに逢った。
に賑わっていたが、わたしは何だか心寂しかった。銀座で鬼太郎君に別れた。その頃はまだ電車が無いので、私は
は夜の八時過ぎであった。晴れた晩で、銀座の町は人が押し合うように賑わっていたが、わたしは何だか
ので、その災禍のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら
たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が
その翌年の夏、銀座の天金の主人から、暑中見舞いとして式亭三馬自画讃の大色紙の
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から本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜の車夫は上野の広小路から電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成街道へさしかかる
のあとをたずねるために、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来
そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書
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の多いのは北多摩郡の武蔵野町から杉並区の荻窪、阿佐ヶ谷のあたりであるらしい。甲信盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過
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で雷雨の多いのは北多摩郡の武蔵野町から杉並区の荻窪、阿佐ヶ谷のあたりであるらしい。甲信盆地で発生した雷雲が武蔵野の空
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頃の新聞を見た人々は記憶しているであろう。日本橋蠣殻町のある商家の物干へ一羽の大きい鳶が舞い降りたのを店員大勢
がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとう芝まで
王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸
が来ました。磯部の鉱泉宿でゆうべ一緒になった日本橋辺の人たちです。これも無論に案内者を雇っていましたが、
七十七歳で死んだわたしの母は、十歳の年に日本橋で安政の大地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を
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、建具屋のおじいさんの尽力で、お玉さんはいよいよ巣鴨へ送られた。それは九月はじめの陰った日で、お玉さんは
いられなくなって、無理に徳さんをすすめて妹を巣鴨の病院へ入れさせることにした。今の徳さんには入院料を
巣鴨から帰って来て、徳さんは近所へいちいち挨拶にまわった。そうし
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の温泉まで行くにしても、第一日は早朝に品川を発って程ヶ谷か戸塚に泊まる、第二日は小田原に泊まる。
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、当時すぐに銀座の大通りから、上野へ出て、さらに浅草へまわって、汗をふきながら夕方に帰って来た。そうして、
湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて
明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜(岡田)へ午飯を食いにはいった。花盛りの日曜日
はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩せぎすの中背で、小粋な風采といい
長い堤を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴うなぎの二階へあがっ
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十月十二日の時雨ふる朝に、私たちは目白の額田六福方を立ち退いて、麻布宮村町へ引き移ることになった。日蓮宗の寺
目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった
手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気
して震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷の鬼子母神附近の湯屋にゆくことになった。震災後
震災の後、目白の額田六福の家に立ち退いているあいだは、そこの小机を借りて使っ
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「渋谷の道玄坂辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺
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で、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか
月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上に
五月になると、大久保名物の躑躅の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は
になったのは十年以来のことで、震災以後、大久保百人町に仮住居をしている当時、庭のあき地を利用して、唐
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目黒の寺
て、区内の旧蹟や名所などを尋ね廻っているが、目黒もなかなか広い。殊に新市域に編入されてからは、碑衾町を
住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに「目黒町誌」を
恥かしい次第である。その罪ほろぼしと云うわけでもないが、目黒の寺々について少しばかり思い付いたことを書いてみる。
目黒には有名な寺が多い。まず第一には目黒不動として知られている下目黒の瀧泉寺、祐天上人開山として
目黒には有名な寺が多い。まず第一には目黒不動として知ら
目黒には寺々あれど鐘鳴らず
、比翼塚に線香を供える者がますます多くなったらしい。さびしい目黒村の古塚の下に、久しく眠っていた恋人らの魂も、このごろ
草青み目黒は政岡小むらさき
呼ぶことになったという。そんな考証はしばらく措いて、目黒行人坂の名が江戸人にあまねく知られるようになったのは、明和
かぐつちは目黒の寺に祟りして
目黒に甘藷先生の墓
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瀧泉寺、祐天上人開山として知られている中目黒の祐天寺、政岡の墓の所在地として知られている上目黒の正覚寺などを
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出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺れ合い摺れちがっ
乗って、半蔵門外の堀端を通った。去年の秋、京橋に住む知人の家に男の児が生まれて、この五月は初の
は明治二十五年から二十八年まで満三年間、正しく云えば京橋区三十間堀一丁目三番地、俗にいえば銀座の東仲通りに住んで
こと、今日の歳末と同様である。尾張町の角や、京橋の際には、歳の市商人の小屋も掛けられ、その他の角々にも
た。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとう芝まで行った
祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので
火先がほかへそれたので幸いに難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことで