半七捕物帳 67 薄雲の碁盤 / 岡本綺堂
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のきわに万力が待っていて、お俊さんはもう駒形へ行っているから、構わずに道具を搬び出してくれと云って、自分
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十五日、きょうは七五三の祝い日だと云うのに、江戸城の本丸から火事が出て、本丸と二の丸が焼ける。こんな始末で世間の人気
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この年の冬は雨が少ないので、乾き切った江戸の町には寒い風が吹きつづけた。その寒い風に吹きさらされながら、二十四
た。その冬場所が終った後で、呼び出しの三太は江戸に遊んでいるらしかった。彼は半七を見て挨拶した。
「万力は野州鹿沼在の者で、それから江戸を立ちのいて、故郷の叔父や兄に暇乞いをした上で、蓮行寺
は本人の遺言だと云うので、その書置を持って江戸へ出て、深川の伊勢屋へたずねて来ました。万力が甚右衛門に打ち明けた
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十七、八のおとなしい人でした。家はやっぱり深川で、大島町だとか云っていました」
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回向院の境内へ三太を連れ込んで、半七は万力甚五郎の詮議をはじめた。
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には下谷坂本と呼んでいました。本当の名は金光山大覚寺というのですが、宗対馬守の息女養玉院の法名を取って
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を試みた後に、いずれ又まいりますと挨拶して、門前町の霜どけ路へ出た。
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「ひとりは本所の御旅所の近所に屋敷を持っている平井善九郎というお旗本ですが、
出て行った。ひと足おくれて半七も家を出て、本所の小栗の屋敷に用人の淵辺新八をたずねた。そうして、大瀬の屋敷
。万力が甚右衛門に打ち明けたところによると、二十二日に本所の家へ碁盤を受け取りにゆくと、お俊はもう引っ越しの荷作りをして
の迷惑になると思ったので、万力は又引っ返して本所へ行って、小栗の屋敷の前に置いて来たという訳で……
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下谷坂本と呼んでいました。本当の名は金光山大覚寺というのですが、宗対馬守の息女養玉院の法名を取って養玉院
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ある日、例のごとく半七老人を赤坂の家にたずねると、老人はあたかも近所の碁会所から帰って来た所であっ
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(例)下谷の豊住町
「あなたは御存じですか。下谷坂本の養玉院という寺を……」
ああ、誰かの葬式で一度行ったことがあります。下谷の豊住町でしょう」
には御切手町と云ったのですが、普通には下谷坂本と呼んでいました。本当の名は金光山大覚寺というの
ぶらぶらしているうちに、慶応四年の上野の戦争、下谷の辺で死にました。と云っても、彰義隊に加わったわけじゃあ
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「違います。その碁盤は深川六間堀の柘榴伊勢屋という質屋から出たのです」と、老人は
、それからそれへと好事家の手に渡ったのちに、深川六間堀の柘榴伊勢屋という質屋の庫に納まっていました。この
その碁盤が名妓の遺物であるか無いか、又それが深川の柘榴伊勢屋から出たものであるか無いか、その当時の半七はまだ
の子供がある。昌之助の弟銀之助はことし二十二歳で、深川籾蔵前の大瀬喜十郎という二百石取りの旗本屋敷へ養子に貰われている
「深川の柘榴伊勢屋の旦那に引かされて、相生町一丁目に家を持ってい
「お俊さんの旦那は深川の柘榴伊勢屋だそうで、店請はその番頭の金兵衛という人でした」
は万力にたいへん力を入れて、本場所は勿論ですが、深川で花相撲のある時なんぞも、毎日見物に出かけて大騒ぎ。万力もいい旦那
に微笑んだ。「小栗の次男は銀之助、ことし二十二で、深川籾蔵前の大瀬喜十郎という旗本屋敷へ養子に行っていると云う。これ
「深川のお屋敷へは、いつから御養子にお出でになったのです」
隣りのお俊の一件だが、あの女の旦那は深川の柘榴伊勢屋だね」
でいたようです。女中の話では、なんでも深川の方の人だと云うことでした」
云って、十七、八のおとなしい人でした。家はやっぱり深川で、大島町だとか云っていました」
事情を申し立てた。その許可を得て、彼は直ぐに深川の北六間堀へ出向いて、柘榴伊勢屋の主人由兵衛を番屋へ呼び出した
近い頃で、もう其の頃には小栗の屋敷の噂が深川へも響いていました。そこで、由兵衛ははっと思ったが、もう
の姿は見えないので、手伝いの連中も待ちくたびれて、深川の伊勢屋へ知らせに行きました。それは二十三日の七ツ(午後
と云うので、その書置を持って江戸へ出て、深川の伊勢屋へたずねて来ました。万力が甚右衛門に打ち明けたところによると
立てに、女房のおかめを里へ戻して、お俊を深川の本宅へ引き入れるような噂がある。そんなことになれば、女房の里方
て来ました。これ幸いと声をかけて、旦那は深川の平清に来ているので、私がおまえさんを迎いに来たと
最初は銀之助の屋敷の前へ置いて来るつもりで、深川の籾蔵前まで行ったのですが、その屋敷はたった一度見ただけで
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取って養玉院と云うことになりました。この寺に高尾の碁盤と将棋盤が残っているのを御存じですか」
碁盤と将棋盤を納めたと云うことになっています。高尾は初代といい、二代目といい、確かなことは判りませんが、
屋はこの寺の檀家であったそうで、その縁故で高尾の碁盤と将棋盤を納めたと云うことになっています。高尾は初代
めいた由来話が付きまとっているのです。御承知の通り、高尾と薄雲、これが昔から吉原の遊女の代表のように云われてい
そこで、養玉院にある高尾の碁盤と将棋盤、これは今日まで別条無しに保存されているのです
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で、女の首と碁盤とはひとまず其の屋敷の菩提寺、亀戸の慈作寺に預けることになったと云うのです。まったく関係の無い
、二十四日の朝から半七は子分の松吉を連れて、亀戸の慈作寺をたずねた。小栗の屋敷の用人から頼まれて来た
はここを出た。風の止んだのを幸いに、亀戸の通りをぶらぶら来かかると、天神橋の袂で、二人づれの女に出逢った
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がある。昌之助の弟銀之助はことし二十二歳で、深川籾蔵前の大瀬喜十郎という二百石取りの旗本屋敷へ養子に貰われている。昌之助
だ。「小栗の次男は銀之助、ことし二十二で、深川籾蔵前の大瀬喜十郎という旗本屋敷へ養子に行っていると云う。これが平井
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でも別に詮議もしませんでした。引っ越し先は浅草の駒形だということでした」
俊は頻りに何処へか引っ越したいと云う。そこで、浅草の駒形の方に借家をさがして、十一月二十三日には引っ越す筈に
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連れて、屋根船を徳次に漕がせて大川をのぼった。向島から堤へあがって、今が花盛りの桜を一日見物して、日の
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橋の上で松吉に別れて、半七はひとまず神田の家へ帰った。いつの世でも探索に従事する者は皆そう
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。そうしてぶらぶらしているうちに、慶応四年の上野の戦争、下谷の辺で死にました。と云っても、彰義隊に
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。現にこの六月頃にも、浪人の首二つが両国橋の際に晒されていた事があります。しかし女の首は珍らしい