半七捕物帳 63 川越次郎兵衛 / 岡本綺堂

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東照宮

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をかけるのですが、気違いである上に、仮りにも東照宮のお使と名乗る者を、あまり手荒くすることも出来ない。ともかくも一応は

宥めても賺しても肯かない以上、いくら気違いでも、東照宮のお使でも、穏便に取り扱っていては果てしが無い。二人の役人

江戸城

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書き物を調べておいでになるから、定めて御承知でしょうが、江戸城大玄関先きの一件……。川越次郎兵衛の騒ぎです。あれもいろいろの評判

ことで、藤岡藤十郎と野州無宿の富蔵が共謀して、江戸城内へ忍び込み、御金蔵を破って小判四千両をぬすみ出したので、城内は

の国者であることはひと目に判ります。こんな人間が江戸城の玄関へ来て、天下を渡せなぞという以上、誰が考えても乱心

、何が何やら判らずじまいです。それにしても江戸城表玄関に立ちはだかって、天下を即刻拙者に引き渡すべしと呶鳴ったなぞは、権現さま

事を偶然に聞き出したのは、意外の掘出し物である。江戸城へはいりこんだ本人は川越の次郎兵衛でなく、宇都宮の粂次郎であるらしいが、いずれ

に、主婦のおきつが何処からか聞いて来て、江戸城の天狗の一件を話した。証拠の笠に川越次郎兵衛と書いてあった

「そうすると、江戸城の一件は菓子屋の息子たちの悪戯なんですか」と、私は笑い

、どんな悪戯をしても、どんな悪洒落をしても、江戸城の大玄関前へ行って天下を渡せと呶鳴ったものはない。全くこれが

喜多院

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休暇を利用して、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。それから一週間ほどの後に半七老人

あります。花の頃ではありませんでしたが、喜多院や三芳野天神へも参詣して来ました。今はどうなったか知りませ

川越

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つづきの休暇を利用して、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。それから一週間ほどの後に

「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあり

どんなに変りましたかね。御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔からなかなか繁昌の町でし

陸を行くとそういう事になりましょうね。江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。浅草の花川戸から船に乗って、

の花川戸から船に乗って、墨田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは

というわけです。そんな関係からでしょうか、江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。例の黒船一件で

に騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。わたくしが世話になっている家で

が世話になっている家でも隠居の年寄りと子供を川越へ預けるというので、その荷物の宰領や何かで一緒に行ったこと

「いや、この川越に就いては一つのお話があります。あなた方はむかし一書き物を

判っていれば、余りむずかしい詮議もありませんでした。川越の屋敷でも迷惑に思ったでしょうが、武州川越と笠に書いてあるの

たものです。つまり彼の次郎兵衛は天狗に攫われて、川越から江戸まで宙を飛んで来て、お城のなかへ落とされたと云う

そうすると、今度は川越の屋敷から本人を突き戻すと云って来ました。成程その笠には武州川越

を身に着けているなぞは滅多に無いことです。なにしろ川越の屋敷の云うことも一応の理窟が立っているので、こちらでも押し返し

たのだなぞと、尾鰭を添えて云い触らす者もある。川越の屋敷から受け取った以上、取り逃がしたのはこちらの責任で、表向きは旋風で

である。少しくからだに暇が出来たので、宇都宮か川越へ踏み出してみようかと、半七は思った。

「お城のお玄関に突っ立った男は、川越の次郎兵衛というのだそうですね」

「実はその次郎兵衛が江戸へ奉公したいと云って、川越から三月の節句に出て来ましたそうで……。それが五日

は、意外の掘出し物である。江戸城へはいりこんだ本人は川越の次郎兵衛でなく、宇都宮の粂次郎であるらしいが、いずれにしても笠の

早速だが、ここの番太の夫婦はどんな人間ですね。川越の生まれだそうですが……」

三十一で、女房のお霜はたしか二十八だと思います。川越の者に相違ございません」

の者も城中の一件を知っているのである。川越の次郎兵衛のことも知っているらしい。しかもそれが番太郎の親類縁者であると

「次郎兵衛はおめえの弟で、川越から江戸へ奉公に出て来たのだね」と、半七は訊いた。

お城にこんな事があったそうだ位の噂で、川越の次郎兵衛ということは誰も知らないようです。本人の親や兄貴もまだ

ねえと思って、気ちがいの振りをしたのだろうが、川越の屋敷から町奉行所へ引き渡される途中で縄抜けをしている。これが又、

ているのは子分の亀吉という奴で、実はきのう川越から帰って来たのだ。おれの方でもひと通りは調べてある。おめえ

、お霜は答えた。「御承知でもございましょうが、川越から江戸へ出ますには、新河岸川から夜船に乗ります。その船のなか

身売りの相談がまとまって、お葉は本人を引き取るために再び川越へ出て行ったので、その留守のあいだに次郎兵衛は逃げ出した。恐怖に

江戸

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昔からなかなか繁昌の町でした。おなじ武州の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋

ていますが、薩摩芋でお馴染があるばかりでなく、江戸との交通は頗る頻繁の土地で、武州川越といえば女子供でも其の名

寝ながら行かれるというわけです。そんな関係からでしょうか、江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。例の

たくさんありました。例の黒船一件で、今にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を

にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。わたくし

その頃は石原町というところに宿屋がならんでいて、江戸の馬喰町のような姿でした」

ことがありましょう。その時に申し上げたと思いますが、江戸の御金蔵破り……。あの一件は安政二年三月六日の夜

です。つまり彼の次郎兵衛は天狗に攫われて、川越から江戸まで宙を飛んで来て、お城のなかへ落とされたと云うわけです

「実はその次郎兵衛が江戸へ奉公したいと云って、川越から三月の節句に出て来ました

とすこし折りが合わない事があったようです。本人は江戸へ出て、武家奉公でもするつもりであったらしいのを、要作が承知

何処へか立ち去ってしまったのかも知れません。しかし江戸にはこれぞという知りびとも無し、本人も初めて出て来たのですから

「江戸ですね。いや、それに就いてまだお話があります。その晩、もうすっかり

「次郎兵衛はおめえの弟で、川越から江戸へ奉公に出て来たのだね」と、半七は訊いた。「それ

と、彼女は云った。しかし弟は年も若し、初めて江戸へ出て来たのであるから、むやみに家を飛び出しても、ほかに

水商売でもしている人じゃあないかと思います。初めて江戸へ出て来た弟がどうしてあんな人を識っているのかと、

弟は田舎者でもきりりとしていると云うから、素早く江戸の女に魅こまれたのかも知れねえ」と、半七は笑った。「

れて、初めて気がついたくらいでございます。これも江戸へ奉公に出て来て、浅草の方にいるとばかりで、くわしいことを

兄貴がありまして、まあ、ひと通りの百姓家です。本人は江戸へ出て屋敷奉公をしたいと云うので、二月の晦日に家を

のですが、なにしろ仲好く附き合っていて、次郎兵衛が江戸へ出るときは、お磯も河岸まで送って来て、何かじめじめして

……」と、亀吉は首をかしげながら云った。「江戸の女衒が玉を見に来て、二月の晦日にいったん帰って、三

「どうしても江戸にはいられない。といって、村へ帰ることも出来ない。相州大磯

霜は答えた。「御承知でもございましょうが、川越から江戸へ出ますには、新河岸川から夜船に乗ります。その船のなかで懇意

は逃げ出した。恐怖に堪えない彼は、どうしても江戸に落ち着いていられないのであった。さりとて故郷へも戻られないので

た。「お磯はお葉という女に連れられて江戸へ出て来ますと、次郎兵衛は姿を隠してしまって、女髪結の二

懲りないで、とかくに変った事をやって見たがる。江戸の人気がそんなふうになったのも、つまりは江戸のほろびる前兆かも知れ

。江戸の人気がそんなふうになったのも、つまりは江戸のほろびる前兆かも知れません。増村の息子たちもやはりそのお仲間で、

の忠治が嘉永三年にお仕置になったので、江戸へ出て来て太鼓持になったという奴。これも向島の大七に

、この一件が無事に済んだ事を知って怱々に江戸へ戻って来ましたが、江戸はおそろしい所だと云ってすぐに故郷へ

事を知って怱々に江戸へ戻って来ましたが、江戸はおそろしい所だと云ってすぐに故郷へ帰ろうとするのを、姉夫婦に

て死んでしまいました。どうしてもこの男には江戸が祟っていたと見えます。

八丁堀

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半七はここを出た。それから半丁ほども行くと、八丁堀の坂部治助に出逢った。坂部は市中見廻りの途中であった。

増村の店に迷惑がかかる。見逃がしてしまうと、わたくしが八丁堀の旦那に済まない。板挟みになって困ったのですが、増村の番頭と

上で、お葉の方は三十両で形を付け、八丁堀の坂部さんの方へは番頭同道で相当の物を持参、それでまあ

外神田

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外神田に万屋という蝋燭問屋がある。そこは養父の代から何かの世話に

れて亀吉は帰った。あくる日の午過ぎに、半七は再び外神田の自身番を見まわると、五平は待ち兼ねたように訴えた。

囲い者の隠れ家が多い。お高もその一人で、以前は外神田の番太郎の近所に住んでいて、お霜に洗濯物などを頼んだことも

四谷

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はどういう道順でお出でになりました……。ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢や入間川を通って……

宇都宮

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押し返しては云えません。天狗の本元争いをすれば、宇都宮の人間が日光の天狗に攫われたと云う方が本当らしいようにも

調べてみると、彼が所持する臍緒書には野州宇都宮在、粂蔵の長男粂次郎とある。それが本当だと思われるから、当

日過ぎである。少しくからだに暇が出来たので、宇都宮か川越へ踏み出してみようかと、半七は思った。

ある。江戸城へはいりこんだ本人は川越の次郎兵衛でなく、宇都宮の粂次郎であるらしいが、いずれにしても笠の持ち主を見つけ出せば

「三八というのは芸名、生まれは野州宇都宮在で、粂蔵のせがれ粂次郎。こんな奴でもやはり昔の人間で、臍

浅草

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江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。浅草の花川戸から船に乗って、墨田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ

「三月二十八日のお午過ぎでございました。浅草の者だと云って、粋な風体の年増の人が見えまして、

あたしは決しておまえを唯では置かない。それが怖ければ浅草へたずねて来いと……」

かも知れねえ」と、半七は笑った。「女は浅草とばかりで、居どころを云わねえのだな」

でございます。これも江戸へ奉公に出て来て、浅草の方にいるとばかりで、くわしいことを申しませんでした」

「これも浅草か」

午前十時)頃、半七と亀吉は小雨の降るなかを浅草へむかった。戸沢長屋は花川戸から馬道の通りへ出る横町で、以前は

と、亀吉は少し詰まらなそうに云った。「これじゃあ浅草まで酒を飲みに来たようなものだ」

国分寺

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ました……。ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢や入間川を通って……。成程、陸を行くと

住吉

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。この坂部という人が、丁度そこに来合わせていた住吉町の竜蔵の子分二人を連れて、川越藩の中屋敷へ受け取りにゆく

品川

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から中気で身動きが出来なくなりました。女房のお葉は品川の勤めあがりで、なかなかしっかりした奴、こいつが表向きは亭主の名前で

桜田門

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師匠の家に寄り集まったとき、その一人が云い出して、桜田門の見附の桝形のまん中に坐って、握り飯三つと酒一合を飲み食い

向島

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知れません。増村の息子たちもやはりそのお仲間で、向島の大七という料理屋で飲んでいる時に、お城の玄関に立って

芸者太鼓持を連れて、柳亭種彦の田舎源氏のこしらえで向島へ乗り出したのです。田舎源氏は大奥のことを書いたとかいうの

出て来て太鼓持になったという奴。これも向島の大七に集まった一人であることが知れましたから、恐らくこいつだろうと

京橋

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ません。実を申しますと、若主人にはこの頃、京橋辺の同商売の店から縁談がございまして、目出たく纏まりかかっております

神田川

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今から七、八年以前のことである。神田川の河岸にある石屋のせがれ安太郎が、友達五、六人と清元の師匠