道標 / 宮本百合子
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、と伸子はノートしながら考えずにいられなかった。ウォール街の恐慌は、どうしておこったのだろう。そもそも恐慌とは? 十月二十九
でも、たしかな安定は見出していなかった。これまでウォール街で働かせられていたヨーロッパの金が、大量に逆流して、ヨーロッパへ
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見くらべながら、モスク※からパリまでの道順を相談した。ウィーンとかベルリンとかいう都会にどのくらいずつの日数を滞在するかという予定
して、二人の最少限の服装はでずいらずのウィーンでととのえるのがよかろうということになった。ウィーンからプラーグ。そこからカルルスバードへ
ずのウィーンでととのえるのがよかろうということになった。ウィーンからプラーグ。そこからカルルスバードへ行き、ベルリン、パリという順だった。それに
、モスク※駐在のポーランド公使館のヴィザがあった。ワルシャワからウィーンへゆき、プラーグからカルルスバードをまわってベルリンには少しゆっくり滞在するというのが
ステーション前から馬車をやとった。伸子たちがそれにのってウィーンへ向う列車はその晩の七時すぎにワルシャワを出発する予定だった。
それでも、ウィーンは、さきごろまでヨーロッパにおける小パリ・ヴィエンナと呼ばれていた都市の
伸子と素子とは、ウィーンまで来たらいかにも五月らしくなったきららかな陽を浴びながら、店々が
を歩いていた。婦人靴屋のショウ・ウィンドウには、ウィーンの流行らしく、おとなしい肌色の皮にチョコレート色をあしらった典雅な靴が、その
ガラスのしゃれた台の上に軽く飾られている。大体ウィーンはヨーロッパでも有名な鞣細工の都だった。目抜きの通りのところどころに、
と、必ずその店先にたちどまってショウ・ウィンドウをのぞいた。ウィーンで伸子と素子とは、これから先の旅行のためにいくらか身なりをととのえる
を見つけた店で買ってしまわなかった。ホテルを出てウィーンの街を歩くにつれ、目につく鞣細工品の店のあれからこれへと
辺の店ではどこでも英語が通じた。それはウィーンへはこの頃アメリカの客がふえていることを物語っている。伸子は沈ん
を物語っている。伸子は沈んだ顔つきで午前十一時のウィーンの街を歩いていた。何を売るのか二本の角を金色に
小味に、賑やかに、複雑にしている。こうしてウィーンの街はどっさりの通行人にみたされて繁昌しているように見える。だけれど
飾りつけられているのを眺めて歩いていると、伸子はウィーンがどんなに商売のための商売に気をつかっているかということを感じ
ているかということを感じずにいられなかった。ウィーンは、パリともロンドンともニューヨークともちがった都会の味――小共和国
れている。オペラと芝居のシーズンがすんでしまっているウィーンでも、ウィーンという名そのものにシュトラウスのワルツが余韻をひいているよう
オペラと芝居のシーズンがすんでしまっているウィーンでも、ウィーンという名そのものにシュトラウスのワルツが余韻をひいているようだった。
あのとき、ウィーンの公使館からきいて来たと云って、黒川隆三という青年が二人を訪ね
に会う日どりをきめてわかれた。黒川は、二週間近くウィーンに滞在する伸子と素子とのために、下宿をさがすことをすすめ、その仕事
もなかった。モスク※から来れば、はじめてヨーロッパの都会らしいウィーンの通りを歩きながら、伸子は素子のブラウスがみっともないようには着古されてい
は着古されていないことに安心した。同時に、ウィーンまで来たのに、まだ駒沢のころのように、或はモスク※ぐらしのある
そのカフェーも、ウィーンの目抜き通りにあるカフェーがそうであるように、通りに向って低く苅りこん
の縞の日覆いをふり出している。初夏がくれば、ウィーンの人々は、オペラの舞台にでも出て来そうなその緑の低い生垣
おそろしい戦争が終り、ウィーンの飢餓時代がすぎた一九一八年このかた、ロシアはソヴェトになってしまったけれども
いる人々の感情を反映し、またその気分にアッピールしてウィーンの最新流行は、室内装飾まで、このカフェーのようにネオ・ロココだった。
いる。ウンテル・デン・リンデンは外国人の通行安全とあるのが、いかにもウィーンの英字新聞らしかった。ドイツは、世界から旅行者を吸収するために、入国手続
と素子とは、オペラや演劇シーズンの過ぎた五月のウィーンの市じゅうをきままに歩いて、いくつかの美術館を観た。リヒテンシュタイン美術館で
出発して来てから十日ばかりたって、伸子ももうウィーンでは下宿の食事に出るパンの白さに目を見はらなくなった。モスク
ヨーロッパの中でも国際政治の面でうるさいことの比較的すくないウィーンのような都会に駐在していることを満足に感じている風だった。
などと、伸子に話してきかせた。公使夫人は、ウィーンが世界の音楽の都であるという点を外交官夫人としての社交生活
たジンバリストの噂が出た。最近イタリーで暫く勉強してウィーンへまわって来た若いソプラノ歌手の話もでた。大戦後はオーストリアも共和国
社交界がすたれてしまったために、シーズンが終るといっしょにウィーンの有名な音楽家たちは、アメリカへ長期契約で演奏旅行をするようになった。
「そんなわけで当節はウィーンも、いいのはシーズンのうちだけでございますよ。いまごろになりますと、
ウィーンにいる日本公使夫人として、東から西からの音楽交驩に立ち会う機会の
「こちらにこうしておりますとね、ウィーンへ音楽の勉強にいらっしゃる日本の方々の御評判のいいことも嬉しゅうございますが
アメリカへ演奏旅行したウィーンの音楽家たちは、アメリカの聴衆は入場券を買って入った以上その分だけ自分
のない返事をしたきり、その質問を流しやった。ウィーンでは、そして、この客間では、そういう風に話をもってゆかない
伸子たちが、社交と音楽のシーズンがすぎてからウィーンへ来たことは、伸子たちのためにもむしろよかった。冬のシーズン中
数年前、ウィーンで自殺した日本のピアニスト川辺みさ子の、自殺するまでにつめられて行った
心のいきさつが、彼女の名も忘られはてた今、ウィーンに来た伸子に思いやられるようになった。
どこかはらはらしたところのある思いで伸子は川辺みさ子がウィーンへ立つ前の訣別演奏会をききに行った。それはベートーヴェンの作品ばかりのプログラム
川辺みさ子がウィーンへ行ってから半年たつかたたない頃だった。川辺みさ子は世界を征服する
下宿の窓から鋪道へ身を投げて川辺みさ子がウィーンで自殺した。そのニュースが新聞へ出たのは、それから程ない時
音楽という広いようで狭い世界では、ウィーンと日本との距離がはたで思うよりはるかに近いものであることを、こんど
がはたで思うよりはるかに近いものであることを、こんどウィーンに来て見て伸子は実感した。当時川辺みさ子の評判やそれに対する
それに対する期待、好奇心は、おそらく川辺みさ子そのひとが、ウィーンに現れるよりさきまわりして、彼女の登場の背景を準備していたことだろう
まだ傷けられず、うちのめされていない彼女の気魄はとうとうウィーンに来たという亢奮でどれほどたかまって表現されたか。その情景は
曲ぐらいは一人前に弾けるようになるだろうと、そのままをウィーンのその教授が云ったのだろうか。川辺みさ子は、日本に一つしかない
そのベートーヴェンの演奏で世界をふるわせることができると信じてウィーンへ着いた。川辺みさ子が、そういう評価を与えられたとき、そしてその噂
はおそらく一定の旅費をもってただけだったろう。あとはウィーンをはじめ各地の演奏旅行で収入を得ながら、より高い勉強もつづけようと計画し
ていたにちがいなかった。演奏旅行で収入を得ながらウィーンにくらすという生活と、指の練習からやりなおしをはじめなければならない三十を
ばならない三十をこした一人の日本婦人としてのウィーンでの朝夕。――日本服の細い肩にゆるやかに束ねられた束髪のほつれ毛
肩にゆるやかに束ねられた束髪のほつれ毛を乱して、寂しいウィーンの下宿の窓べりに立った川辺みさ子が、自分の脚の不自由さを音楽家
からこそであった。その光の波がひいてしまったウィーンの生きるためにせめぎ合っている朝夕の現実で、やがてはくたびれて見すぼらしくなるだろう日本
外国人弟子からはおどろくような月謝をとるのが風習であるウィーンのピアノ教授への謝礼をつづけることはどうして可能だろう。川辺みさ子が、
、凱旋者でなくてはならなかった。川辺みさ子は、ウィーンでピアノを修業するものとしてではなく、自分のベートーヴェンで世界を征服
のすき間から、彼女の一挙一動は見まもられているのだ。ウィーンでの川辺みさ子には、彼女を支持する大衆というものもなかった。よしんば
櫛のおちる演奏に拍手する素朴な人々はいなかった。ウィーンにいるのは、彼女の競技者である彼女より若くて富裕な人々、もしか
彼女の存在を認めることのない世界の音楽の都であるウィーンの聴衆だけだった。進退のきわまった、という字がそのままあてはめられる川辺
訴えようもなく、すがりようもなく苦悩する姿が、伸子のウィーンの下宿の窓際に見えるようだった。
にこもって、我ともなく追想にとらわれた伸子が眺めるウィーンのパンシオンの室の三方の壁は、やさしく地味な小枝模様の壁紙で貼ら
川辺みさ子がウィーンでくらした下宿というのは、どこのどんな家だったろう。そして、川辺みさ子
たろう。そして、川辺みさ子の体が窓から落ちて横たわったウィーンの通りというのはどんな通りだったのだろう。伸子は生々しいようなこわい思い
その下をゆっくり歩きながら、ウィーンで命を絶った川辺みさ子がいまになってみれば、きょうの自分といくら
てあるモツァルトの薄肉浮彫の飾りメダルを手にとった。ウィーン名物の薄肉浮彫の金色の面に、こころもち猫背で、というより鳩胸のよう
あと二日で、ウィーンを去るという日のことだった。伸子と素子とは、黒川隆三にたっ
伸子と素子とは、黒川隆三にたってすすめられて、ウィーンのまちはずれにあるカール・マルクス館というものを見学に出かけた。
オーストリアの政権はキリスト教社会党にとられているけれども、ウィーン市の市政とウィーン州の政策はすっかり社会民主党に掌握されている。そして、
社会民主党に掌握されている。そして、百八十万の人口をもつウィーンは最近社会主義によって運営されている工業都市として、各国の注目を
「あなたがたのような御婦人が、せっかくウィーンへ来て、あすこを観ないで行ったんではもの笑いですよ。僕だ
リンデンホーフというウィーン市の外廓にある労働者街までゆく電車の中で、黒川隆三は、ウィーンの
にある労働者街までゆく電車の中で、黒川隆三は、ウィーンの社会民主党が、労働者福祉のためにどんな数々の事業を行っているか、なか
保護事業の成功について伸子と素子に説明した。ウィーンでは、借家人の権利を尊重して、大きな家屋を独占しているものに
、売買から利益を得ることが困難にされている。ウィーン市は、一九二七年にウィーンの土地の二七パーセント弱を市有にすることができ
が困難にされている。ウィーン市は、一九二七年にウィーンの土地の二七パーセント弱を市有にすることができた。それらの土地へ
電車がウィーンの街を出はずれるにつれて、市中の多彩で華美な雰囲気が、段々左右
、灌木の生えている斜面の下に日をうけてつらなるウィーンの市はずれの屋根屋根を眺めていたが、やがて、
の男の子は、おとなしい様子で伸子たちの前へ立つと、ウィーンの子供らしい金髪の頭をすこしかしげるようにして、
たものからいくらかの志をもらうのだろうと思った。ウィーンは心づけのこまごまといるところだったから。そして、そういうみいりも、カール・
「先生は、大分ウィーンの社会主義には感服しておられるようですよ。都市社会主義からマルクシズムにまで出
社会主義からマルクシズムにまで出て来ているって。実際いまのウィーンの労働者住宅の家賃は戦前の十二分の一ですからね」
ある日のことで、美しい丘の上の柱廊からはるかにウィーンの森を見はらしながら、素子が何心なくベルリンのメーデー事件について、ウィーン
しながら、素子が何心なくベルリンのメーデー事件について、ウィーンの新聞に何か後報がでていやしまいかと黒川隆三にきいた。
、明治の初年、外交官として東京に来ていたウィーンのクーデンホフ伯爵夫人となって、一生をウィーンで過していた。オーストリアが共和国
来ていたウィーンのクーデンホフ伯爵夫人となって、一生をウィーンで過していた。オーストリアが共和国となってから、そのクーデンホフ伯未亡人は、
・オイロープという不在のひとの名と仕事のために、ウィーンの郊外の老人の隠栖も時々は賑わされている様子だった。伸子と素子
伸子の顔の上に感じられた反ソヴェトの感情が、ウィーンへ来ると音楽についての公使夫人の話しかた、附武官のパン・オイロープ
としておのずから彼等と反対におかれるような場合、ウィーンでの伸子は、沈黙してしまうことが少くなかった。ここと、ここに
みんなは入りまじった音で砂利をふみ、表門を出た。ウィーンもこの辺の労働者街になると歩道が未完成で、歩くだけの幅にコンクリート
予定どおりにウィーンを立って、プラーグへ来た伸子と素子とは、そこで思いがけず旅程を
ウィーンから一二〇〇キロもはなれた旧いボヘミアの都。美しいモルタウ河に沿って「一百の
でもある。伸子と素子とは、とぼしい知識ながらも、ウィーンとはおのずから違った好奇心を抱いてウィルソン駅に下りたのだった。が、
の労働者の血が流された。その記事を伸子たちはウィーンにいたとき、偶然買った英字新聞の上でよんだ。
音楽の都のウィーンでは、ソヴェト音楽をしめ出していた。ドイツでの学会というようなところ
光の線でベルリンの夜景を縦横に走り、モスク※やウィーンで味わうことのなかった大都会の夜の立体的な息づきを感じさせる。ベルリンの
ウィーンに滞在していた間、伸子はそこの数少い日本人たちが、公使館を
た自分を感じた。ベルリンにいる日本人にとって大使館はウィーンの公使館のように、そこにいる日本人の日常生活の中心になるような存在で
調子でいった。いま素子がほつれを直しているのはウィーンで買った、淡いライラック色のスーツの上着だった。
ウィーンでも素子のこしらえたのは二組のスーツだった。一着は、いま
は二人ならびの席にひとりでかけられた。伸子は、ウィーンで買ったクリーム色の小さい手提鞄を用心ぶかく自分の体と窓の間に
、「ヨーロッパ方式」での民主都市とめずらしがられているウィーンの模型じみた舞台をとおって、ベルリンで伸子が消えない印象を与えられた
蜂谷は、ウィーンであった黒川隆三のように、口が達者でデマゴギストかと思うような反ソ
と、新式で軽快な建物の三階の一室だった。ウィーンの下宿がそうであったように、ここも持主の住んでいる部屋の入口
まかせきっている素子の、こんなにもかぼそい女の手。ウィーンのホテルで自分をつねったり、ぶったりしたこともあるこの指の細い手
※にいたいだけ居ることを止めようとは思えなかった。ウィーンで買ったあの外套を売ったって――伸子はライラック色の表に、格子の
た。いま国立銀行にあずけてある金がきれれば伸子はウィーンで買った外套や靴を売ることにきめていた。去年まで着た黒い
つかみどころない複雑さ。北停車場の雰囲気が伸子をうった。ウィーンのようでなく、またベルリンのようでもなく、パリでは生活しようと思いこん
なかった――を見つけ出したりしているのだった。ウィーンで、鞣細工店のショウ・ウィンドウを見おとさなかったように、パリで、素子
のネクタイが買われたりした。素子のネクタイ蒐集は、ウィーンで買ったオリーヴ色の小鞄にしまわれていた。パリの六月の
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「ナポリのときばかりは、わたしもつくづくお父様がおかあいそうでたまらなかったわ」
「お父様、デッキの上からナポリの街の灯を見て泣いていらしたの」
は、イタリーへ行らしたでしょう。ですものなお更ねえ。ナポリって、ほんとにきれいそうなところだったのに」
その美しいナポリへ、印度洋の暑さで弱った多計代は上陸できなかった。多計代
ひどくもんちゃくしたのが、父に気に入りのナポリだったということが、伸子を悲しくさせた。
「ナポリのときは、あれは特別だったのよ、お兄様」
いう若い夫人がボーイ・スカウトに仮装して好評だった。ナポリへ着く日の午前ちゅう、映画をとるからというので、多計代をこめ
あらわさない保への供養があるのではないだろうか。ナポリで、上陸しない船の上から街の灯を見て泰造が泣いた、
の体の調子がわるくて、上陸することのできなかったナポリの港で、停泊している船のデッキから夜のナポリの街の美しい灯
ナポリの港で、停泊している船のデッキから夜のナポリの街の美しい灯のきらめきを眺めながら、父が涙をこぼしていた、
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「空間的に最も集約的なのはニューヨーク。時間的に最も集約的なのがモスク※……」
リン博士はニューヨークにある大学の政治科を卒業して、そこの学位をもっているという
をきた祖母が居り、弟たち、母がいた。ニューヨークで佃と結婚したとき、伸子はその記念のためにとった写真の一
「先にね、ニューヨークから急に帰ったとき、やっぱり、こんな風だったのよ。母がね、
たぶらかされたような切ない心持を伸子はまざまざと思いおこした。ニューヨークで、伸子がアメリカごろの洗濯屋と夫婦になったとか、身重になっ
で縫われた小さい袋とを思い出した。昔、伸子がニューヨークでスペイン風邪にかかったとき入院していたのは、セント・ルーク病院の
一九一八年十二月で、曇ったニューヨークの冬空を見晴らすセント・ルーク病院の高い窓の彼方には、距離をへだてて
手だった。華美と豪奢の面をみれば限りのないニューヨークという都会のなかで、生れつき親切で勤勉で背の高いミス・ジョーンズが、
にいられなかった。ウィーンは、パリともロンドンともニューヨークともちがった都会の味――小共和国の首府としての気軽さを
も知らない男女がだきあって踊った。夜じゅう眠らないでニューヨークの下町に溢れた群集は、どの顔も異様な興奮で伸子にとっては
、宅だの主人だのって。――いつだったかニューヨークから建築家のブランドンさんが不意に、お父様のお留守に訪ねて来たことが
次世界大戦休戦の日の午後、気のちがったようなニューヨークの大群集にもまれて、カイゼルの藁人形に火がつけられるのを目撃し
いう人々が五百億ドルから六百億ドル貧乏になりつつあった。ニューヨークの質屋が未曾有の大儲けをしていると報じられている折からだった。
た。休戦のとき、はたちにならない娘として偶然ニューヨークにいあわせた伸子は、ヴェルダンという名に対して無関心でいられない感銘を
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関東地方の、織物の中心地とされている小都会が磯崎の生家の所在地だった
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でしょう。わたし、あの花を描いていたとき、ちょくちょく、ホノルルのころを思い出しましたわ」
須美子は、いつだったか伸子に、ホノルルの一ヵ月が生涯で一番幸福なときだったのかもしれないと云った
須美子は、三年前、恭介と一緒にホノルルからフランスへ来てこのリオン停車場におりた。今夜、一人のこった赤坊を
「ホノルルの景色です」
「ホノルルって、こんなに、きれいなところなのかな。みずみずしいんだなあ」
「これは、やっぱりホノルルですけれど――街の方」
に鳴っている須美子の感受性がある。最後の一枚はホノルルの公園のベンチのあたりを中心にした風景だった。遊んでいる子供。
方なのに。――こんなに表現なさるのに――ホノルルでお描きになったきり?」
「いま思うと、ホノルルの二週間が、わたしの一生のうちでは一番幸福なころだったのか
でしたし、わたしには子供がなかったから。……ホノルルで、わたしは子供のようでした」
もかえないいつもの静かさで自分の絵に見入りながら、ホノルルの二週間がわたしの一生のうちで一番幸福なころだったのかもしれ
と能力をもっている須美子が、四年前にすぎたホノルルの日を、そんなにはっきり、一生で一番幸福だった時かもしれない、
に背中をのばして、伸子は須美子のことを思った。ホノルルにいた二週間が、わたしの一生のうちでは、一番幸福なときだっ
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という町のあたりは知らなかったが、雨の日の奈良公園とそこに白い花房をたれて咲いていた馬酔木の茂みは、まざまざとして記憶
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セイヌ河のむこうにあるリュクサンブールの公園が、大学やラテン・クォーターに近くて、広い公園の隅々まですべての
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有名なんです。それをきこうと思って出かけたらね、ローマかどこかにあるセント・ポールをまねしてその通りにこしらえてあるっていう
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「ああ。アムステルダムの会議では、ローザが僕の通訳をしてね――あれは素晴らしい女
「そのアムステルダムのとき、プレハーノフにもお会いになったんでしょう?」
「アムステルダムの会場で、ロシアへの侵略戦争反対のアッピールをなすったことや、大会が
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あしたの朝素子がロンドンを立つという前の晩、ピカデリーを散歩していて、伸子は一つの明るいショウ・ウィンドウの中に白い
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大阪の人形芝居のすきな素子が、
「大阪へ行ったとき、人形芝居を観ましたか」
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たところ。病院のあったところ。六人の日本人は、ポンペイの廃墟の間を行くように、すべてそれらの建物のあったところを辿っ
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た。泰造が官庁の建築家として完成したのは札幌の農科大学のつましい幾棟かの校舎だけであった。伸子が十九のとき
幾棟かの校舎だけであった。伸子が十九のとき札幌へ行ってみたら、その校舎は楡の樹の枝かげに古風な油絵の
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おそらくこのホテルは、エッフェル塔がトロカデロに建てられた一九〇〇年のパリ大博覧会のころ、各国から集って来
ば、それはヨーロッパ大戦以後のことらしかった。ディエナ通がエッフェル塔とトウキオ河岸の間にあって、迷子になりにくい位置だし大使館から遠くない
へもち出した。土曜日と日曜日の晩だけは夜どおし灯っているエッフェル塔のイルミネーションが、遠い空の中で今夜もシトロエン・シトロエン・6シリンダー・6・
に林立している無数のパリ独特の細い煙突。はるかなエッフェル塔と、それに加えて伸子は、もらった小切手で買おうと思っているマチスの
6・シトロエン・6とせわしく広告しているシトロエン自動車会社、エッフェル塔の上に火事のまねを描き出しその火の上へ滝のように水が落ちかかる
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ドーリヤは、シベリアという言葉に幾度も頷ずきながら、濃く紅をつけた唇の両隅を
一九一七年の十月、ニコライ二世が退位してから、シベリアへ出発するまで暮したのも、そこの離宮であった。ツァールスコエ・セロー(
立ち上った。テルノフスカヤという女のひとの名は、革命当時シベリアのパルティザンの勇敢な婦人指導者であったひととして、日本へ来てい
ロマーシンとゴーリキイとは、もうすこしで殺されるところだった。シベリアの流刑地で様々の場合を経験して来ているロマーシンが、ゴーリキイにささやい
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が終ろうとしている風のつめたい夜の九時すぎ、モンマルトルの方から走って来た一台のタクシーがペレール四七番の前でとまった
佐々の一家はモンマルトルの「赤馬」というレストランで、のんびりと居心地よく、長い時間をつぶして帰っ
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ないんだが、キャルディネ通りっていうんだから、どっかモンソー公園とワグラムの中間あたりじゃないのかな」
伸子ひとりがロンドンからパリへ帰って来て、モンソー公園を一緒に散歩したりしたとき、蜂谷には、格別なところがなかった
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秋山宇一が、コーカサスの美女は、日本美人そっくりだ、とほめたとき、伸子がその言葉から受け
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の無条件降伏のニュースがつたわって、酔っぱらったようになったニューヨーク市の光景が閃くように伸子の記憶によみがえった。ニューヨークじゅうの幾百という
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か十一ぐらいのときだった。泰造が何かの用で箱根へ行くことができて、伸子もつれられた。夏のことで、伸子は
、伸子もつれられた。夏のことで、伸子ははじめて箱根というところへ父につれられてゆく珍しさに亢奮し、自分が着せられ
着せられている真白なリネンの洋服に誇りを感じた。箱根へ行って、大きな宿屋で御飯をたべて、それから泰造が少女の伸子で
その都久井をつれて、家族のひとと彼とが箱根へ行く途中、小田原へ降りた駅の前で、いつの間にか、都久井
その情人の手をにぎったり、接吻したりはしない。箱根へ行っての帰りその女と来て、山の手にある都久井の家の近くで
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しない。箱根へ行っての帰りその女と来て、山の手にある都久井の家の近くで、その女のひとが自動車をおりた。
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「――飯山に会われましたか」
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ウィーンから一二〇〇キロもはなれた旧いボヘミアの都。美しいモルタウ河に沿って「一百の塔の都」とよばれて
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という風な話しかたをしているにちがいなかった。ハルビン市にしかれた戒厳令ということも、その人たちは三分の不安と七
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れる軍縮会議の下相談に、イギリスから労働党首相のマクドナルドがワシントンへ出かける計画が発表された折からであった。こんどのマックの旅行の本質
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ブルターニュ生れらしい、実直な看護婦が、抱いている子供の体のかげから、
まじって、お仕着せのメッセンジャー・ボーイ。黒服に白前掛のブルターニュ風の婆さん。犬をつれてアイ・シャドウと口紅の濃い女。二人とも
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をかけ、伸子へ送らせたのだろう。伸子が仮にパリにいたとして、泰造はやっぱりこうして新聞をよこすだろうか。娘
オデッサは、ロシアの小パリで、ペテルブルグよりも早いくらいにパリの流行が入った。エレーナはフランス製の夜会靴をはき、音楽と歓喜のなか
人の若い画家の帰朝展がモスク※で開かれた。パリにおける三年の月日は、ソヴェトから行った若い素朴な三人の才能
か、次第にこんぐらがって行った心理の過程がうかがえた。パリへ行ったばかりのときの作品は主として風景で、三人ともロシア人
失敗展は伸子にいろいろ考えさせた。ソヴェトの新しい芸術はパリへ三年留学するというようなことでは創れない本質をもつものだ。
の調子から、素子の知りぬいている多計代を中心にパリのどこかでかたまった情景を描くと、素子はその家族の輪に決してしっくり
伸子たちが、すこし早めにパリへついていて、自分たちなりの暮しかたをはじめておれば、佐々の
たような面白いような思いのすることは、フランスとかパリとかいうとき、モスク※に一年以上生活した現在、伸子の心に
らしいもの、音楽とか絵とかカフェーとかマロニエとかパリの雰囲気として語られているものに期待するだけだった。けれども、
現実的な生活の組立てと動きとに魅せられているとおり、パリときくと、そこには何があるだろうかと、見とおしのきかない複雑な
手帳のうしろについているカレンダーを見くらべながら、モスク※からパリまでの道順を相談した。ウィーンとかベルリンとかいう都会にどのくらいずつ
なった。ウィーンからプラーグ。そこからカルルスバードへ行き、ベルリン、パリという順だった。それにしても、伸子がいつ退院できるものか。
月一日の予定だった。それまでに、伸子と素子はパリに到着していればいいはずだった。一年半もそこに暮していれ
ということを感じずにいられなかった。ウィーンは、パリともロンドンともニューヨークともちがった都会の味――小共和国の首府と
、音楽につれて、照明の輪の中にあらわれた。パリでジョセフィン・ベイカアがはやらした駝鳥羽根の大きい扇を体の前にあやつり、きっちり
そう云っているのはこれからパリへ立って行こうとしている伸子だった。
に、リオン停車場からマルセーユ行の列車が出る。その列車でパリを立つと、翌朝七時に、マルセーユに着く。五月二十日ごろ佐々の
予定だった。マルセーユの駅からホテル・ノアイユへよって、パリの日本大使館のムシュウ・マスナガが契約しておいた部屋と云って一応たしかめて
いてフランスの共産党は、攻撃している。伸子は、パリで買えるデイリー・メイル紙からそういう記事をよんで間もなかった。
なくても、マルセーユ見物にだけは一日ぐらいつきあって伸子とパリを立つ気があるかもしれない。伸子はそんなふうに思っていた。
佐々の一行が家じゅうでパリへ来る、ということのなかには、たしかに誰の目にも何か
なかにどことなく自然でないものを感じつづけている。パリで、一緒になってからの生活が思いやられて、伸子はそれまでに自分
が思いやられて、伸子はそれまでに自分と素子とのパリでの暮しの根じろをきめ、ごたついても崩されない自分たちとして
ての生活感情をとおしておきたいと一ヵ月も前にパリへ来てその準備をして来た。いよいよみんなが七月一日にマルセーユに
ないそぶりは、素子はもとよりのこと、増永修三にも、パリへ来かかっている泰造や多計代を厄介に感じさせるたすけとなったかもしれ
あるにしろ、父も母も、うちのものみんなは、パリにいる伸子というものを心あてにして四十日の航海をして来て
名をつけて開業されたにちがいなかった。ここがパリへ来る日本人の一時の定宿のようになって、ホテルの数少い召使たちが
あくる日の朝、パリへ向けて出発するまで一昼夜たらずの間に、伸子が、うけた印象は
「パリへ行けば、あなたがたの逃げ場もあってよ」
な一隅で、トマス・クック会社の店の男と明日のパリ行列車の切符についてうち合わせた。伸子は、船で一緒だった人々
だ。みんなが少し、神経をどうかしている。早くパリへ行くことだ。そしてそれぞれに気をちらすことだ、と。
ふたとおりの条件に支配され、佐々のうちのものがパリについてから、和一郎たちにとっても、まる一日が自分たち若夫婦の
ことは、永年思いあっていた従兄妹同士の新婚旅行であるパリ滞在について、和一郎と小枝の深い不満になった。小枝は、だまって
「パリへ来てまで、こんな思いさせられるなんか、僕ごめんだ」
かなった。どうせ、うちのものと落ち合うために来ているパリなのだったから。そして、伸子は、マルセーユへみんなを迎えに行った晩
であろう、と。泰造と多計代とは秋の末までパリとロンドンで暮そうとしていた。その上で、和一郎と小枝がヨーロッパへ
ヴォージラールのホテル・ガリックの屋根裏部屋の露台に出て、パリの夜空に明滅するエッフェル塔のイルミネーションを眺めながら、
にホテルへ帰って来た小枝と二人で、伸子は、パリへ来てはじめて招待の晩餐に出かけようとしている多計代のために、裾模様
ベルリンやパリの日本料理店が、主として日本人だけあいてにして店をひらいている
だけあいてにして店をひらいているのに反して、パリの日本人の間に知られている三軒の中華料理店は、上、中、下
は、上、中、下にわかれたそれぞれの範囲で、パリにいるいろんな外国人やフランス人の客で繁昌しているのだった。
日本人一般に対しての批判と非難を示すものであり、パリにいる中国の青年たちにそういう感情をもたせるのは、日本軍閥の満州
はよめない「リュマニテ」の見出しで理解するのだった。パリにいる中国青年の抵抗は、中国解放を殺している二つの勢力に向け
知り、解放の意味の何かを実感していて、パリの中国青年たちは知らないどっさりのけなげな中国の娘たちを、孫逸仙大学
の無理のかなめとなっている。伸子は、多計代がパリか、ロンドンで長く臥つくようなことにならなければ幸だ、とまじめに
若い二人は、船の上でも、パリへついてからでも、少額ずつ小遣いをあてがわれているだけだ、という
も、もっともだけれど、だって、怒るために、何もパリまで来たわけじゃないんでしょう。ねえ、小枝ちゃん」
はいっている錦のつつみものをさしているのだった。パリへついてからずっと、それは、いま二人とも出かけていないアンテルナシオナールの泰造と
うちのものがパリへ来てから、その日はじめて伸子は父の泰造と二人きりで外出した
多計代は、そういうパリの習慣をおかしがるように、また、年をとっても外国の習慣には
まで車で送って来てくれることもあった。いま、パリの繁華なブルヴァールのマロニエの下で、
娘としての習慣から、伸子はひとりでにそうききかえした。パリで、はじめて父と二人きりで外に出ているという条件は、その日
ところが泰造の方は、せめてパリにいるときだけは日本のことからできるだけ離れていようとしているようだった
「いいチャンスだから、ひとつパリの骨董店を見せてあげよう」
伸子は、素子とつれだって、パリから一時間ほど郊外電車にのってアンギャンまで貸別荘を見に行ったりした。
にあるその家の露台まできこえて来るのだろう。夏のパリの郊外らしい風情が想像された。
「ああ。やっとこれで、わたしもパリへ来たという気がする」
七月十四日のパリ祭に、パリの男女は午前二時すぎまで戸外に群れ出て踊った。伸子たちが住ん
ヴェルサイユ門に向って歩いた。凱旋門附近のブルヴァールとちがってパリのこのあたりは、街燈がまばらで、いつも街はくらい。暗い街上に、舞台
。どの踊の輪のまわりにも、夜目には見えないパリの場末町の街路のほこりがかきたてられて、風のない七月の夜気の
みちたモスク※の祭日を見なれた伸子たちには、パリの場末の町のパリ祭の夜景は一種の哀愁をそそった。
踊っている。音楽がきこえて来る。夜空の下に、パリ名物の細い煙突が無数に林立している屋根屋根が続き、はるか遠くセイヌ河
統一労働総同盟は、こんやの革命記念祭のためにパリの労働者地区のどこかで、午後は演説会を、夜は盛大な祝祭を
隅に、伸子はそれらしい広告を見た。伸子たちのパリには、七月十四日の夜じゅうピエロ帽をかぶって、コンフェッティをぶつけあって
国交断絶。支那側による東支鉄道の回収について、パリの英字新聞「デイリー・メイル」は冷静に事実を報道しているだけだった
現在パリに暮している伸子は、郷愁に似た思いで、この国境を愛している
ところへ送ってよこしたことがあった。その伸子はいまパリにいてペレールのアパルトマンへ日に一度は顔を出し、親たちや弟妹と
送られたことについて、忘れがたい印象をうけた。パリでの暮しで、泰造がパリというところにはきびしい人間の思想がないよう
忘れがたい印象をうけた。パリでの暮しで、泰造がパリというところにはきびしい人間の思想がないように、自由に成長しようとする
七月二十三日の夜あけがた、パリの警視総監は、パリの市内のあちこちで、手あたり次第に多数の共産党員を
七月二十三日の夜あけがた、パリの警視総監は、パリの市内のあちこちで、手あたり次第に多数の共産党員を逮捕させた。
きいたという馬蹄の響は、そのためにくり出されたパリの騎馬巡査がどっかへ行く音だったのかもしれない。伸子は、
肉桂色の絹レースの服をつけ、すらりと美しい脚でパリの人目さえひきつけている小枝の姿態が浮ぶにちがいなかった。金の話を
伸子のまじめな心配は、パリから数千キロはなれた満州とソヴェトとの国境にかかっている。伸子のてぢ
「つれて来てもらったおかげで、パリだって見ているんじゃありませんか。自分たちの力で何ができる
考えてみれば、このパリで、みんなは何とばらばらに暮しているだろう。伸子たちの生活ぶりにいくら
へも来てみたのは、泰造だけであった。パリへ来てからやがて一月たつのに、和一郎も小枝も、そんな気はない
も、計算書にして収支を明白にして来た。パリには素子もいる。素子は、自分たちの暮しと、佐々の一家の生活
つや子のいまの後姿が、パリへ来てまで、家庭のごたつきに浮きつ沈みつ、その場その場の不和
れているように、それを感じるのだった。一家でパリへ来て、アパルトマンをかりて、通いの手つだいをつかって暮している。それ
して、伝統的に神経をくばるように鍛えられている。パリの中流層の人たちが、機会をのがさぬ愛嬌と機敏な打算とでブルジョア
と一家をつなぐために緊張しているのにくらべると、パリでの泰造と多計代、特に多計代の生活気分はレジオン・ド・ノールを
、どちらも、佐々第二世である若い和一郎夫妻を、パリで開かれている自分たちの交際圏へ引き合わせ、何かと一家の将来の
に計っておくというようなせせこましいことはしなかった。パリの生活にあらわれた佐々泰造と多計代の生活の素朴さは、親たちが
としての和一郎という意識がつよく作用している。パリへ来て、母の知らない別のホテルに泊って、自分たち夫婦の旅費
のある心持の表現かもしれなかった――保にもパリやロンドンを見せてやっているのだという。――
こころのそよぎをもっている。自身で云ったひとことが、パリの、この夏の夜更けの露台のそばでモスク※から来ている娘の、
パリの日本郵船支店から貨物船の便宜があって、不用になった佐々の荷物の一部
立場からひかえめなものごしを失うまいとしているけれども、パリへ来てはじめて夫婦ぎりのアパルトマン暮しの楽しさは、つつみきれないそぶりだった
、伸子のこころもちの切実な要求からだった。親たちがパリへ来てから、ペレールの家へ日参するようになってから、伸子の時間
、伸子の時間と精力とは、東京の家からそのままパリまでもちこされてついて来ている佐々一家の、家庭的ないざこざの中で費さ
、ドイツの再武装、ファシズムの進行はあからさまだった。このパリからロンドンへ向おうとする伸子の心には、音楽でいうクレッシェンドのように次第
しっかりつかみたいと思った。そのためにはもう一歩深くこのパリの生活を、と――
と素子とは日本で面識のあった蜂谷良作に思いがけずパリで出会った。蜂谷良作は経済が専門であった。伸子とすればロンドン行き
労働総同盟と労働総同盟との関係はどういうことなのだろう。パリの労働者が労働者地区でだけ示威行進をしているというのも伸子には
そういう和一郎の顔つきには、自分たちもパリで解放された朝夕をたのしみ味っている満足と寛容さがあった。
感情の鬱積や嶮しさも、いまのような気まかせなパリのアパルトマン暮しの中でおだやかに溶け去っているように見える。両親の留守をペレール
そこなったピスカトールと有名な悲劇女優であるその妻の劇団がパリへ来た。そして、労働者地区に近いアヴェニュー・ジャン・ジョレスの小さな劇場でふた
の調査機関から派遣のような、留学のような形でパリへ来ている蜂谷は、伸子と素子が日本であったころには、ある
それから足かけ三年がたった。きょうパリでピスカトールの舞台を見ながら伸子にその意味をきかれ、はっきり答えられなくて
素子につっこまれた蜂谷良作の困ったような顔つきは、パリでの一年半の生活が、蜂谷良作をより器用な人物に変化させ
「パリの観客ということを考えて、ああいう味をつよく出しているのかしら―
「遠すぎてね。パリのタクシーは、市内はやすいが、一歩郊外へ出るとメーターが倍ずつまわる
「久しぶりだなあ、パリの夜の景色――やっぱり、いいな」
佐々泰造を訪ねて、アパルトマンも知っていた。彼がパリにいることが伸子と素子にわかったのも、泰造が偶然知人のところで
。五十人余りがひとかたまりの突撃隊となっていて、パリでも労働者のデモンストレーションがつよくなったりすると、すぐ自動車で千人は動員さ
から飛びたった真白い旅客機は、二十四人の客をのせて、パリから北へとんで、カレーとドーヴァの間で英仏海峡を越した。海峡の
素子は、ほんとにロンドンに三日いただけで、パリ、ベルリンを通過してモスク※へ帰った。伸子が佐々の家族にかこまれ
と思った伸子の想像は、あたらなかった。わたしにはパリにいるよりつまらない。第一、かたくるしいや。二日目に素子はそう言っ
の住居をさがしだして、そこへ和一郎夫婦をおきたかった。パリにいたころ、伸子は泰造のそういうこころづもりをきいた。ところがロンドン
。しかし一行のなかでつや子の立場が宙ぶらりんなことは、パリにいたときとちっともかわらなかった。ロンドンのホテルでも、つや子の寝台は
意味はないでしょうと思うわ。わたしはお父様たちのようにパリから来ているのじゃなくて、モスク※から来ているわけでしょう? イギリス
ような点に心づかないまま、伸子はロンドン滞在を終ってパリへ帰って来た。
は果されたこころもちらしかった。秋の時雨のふりはじめたパリへは、帰り道の順で立ちよっているという状態だった。
ている。佐々の三人は、大体十一月のはじめにパリを去る予定で、太洋丸に船室を申しこんでいた。ロンドンではつや子に
、大人の間で居場所のきまらないような不安定さはパリにいてもロンドンへ行っても同じだった。大きい船にのって、また
た。少くとも、伸子にはそう感じられた。ロンドンとパリに離れていても、絶えず若夫婦の贅沢や浪費を警戒している
二度めに帰って来たパリで伸子がひとりだということは、おのずからホテルの選びかたにもあらわれて、
の雰囲気だった。七階の一つの部屋からは、パリのコンサヴァトアールへでも通っているらしい若い女のピアノ練習がきこえた。親たち
ているらしい若い女のピアノ練習がきこえた。親たちがパリを去れば、自分もモスク※へかえるのだけれども、ロンドンから帰って来
には、何となし新しい活気が脈うっていて、短いパリののこりの日を、思う存分暮したかった。ロンドンで、伸子はその国の
もいることになるのに、ちゃんと新聞もよめないままにパリを去る――それでは困ると思うのだった。
伸子は、パリへついて二日目に「モンソー・エ・トカヴィユ」に寝るためと勉強の
しれずあかぬけしていて、生活のためにたたかっているパリの、中年をこした女の柔かい鋭さをたたえているマダム・ラゴンデール。彼女
いることに心づかないで動いている人の動作には、パリという大都会のなかにある孤独のようなものが感じられる。
伸子はパリへかえって来る早々、こんなにして、蜂谷と話し込むことがあろうと思って
て、蜂谷と話し込むことがあろうと思っていなかった。パリで蜂谷にまた会うことがあるかないか、それさえ伸子は気にして
「こんどこそ、わたし、本気でパリを歩いてみなくちゃ」
そのカフェー・レストランの内部にも同時に灯がはいって、パリの夜の活気が目をさました。
伸子の友人であるよりも、素子の古い知り合いだった。パリへ来たとき、素子と伸子が心あてにしたのは、この二人であっ
二人であった。ヴォージラールのホテルへ移り、佐々の一行がパリへ来るまで伸子たちは、磯崎夫妻にいろいろ世話になった。佐々のものが
「パリにいらっしゃりさえすればきっと、来て下さると思いましたわ。佐々さん。わたし
磯崎たちの住んでいるデュト街のこの家は、パリの場末によくある古い建物の一つで、入口から各階へのぼる階段のところ
、伸子がそう思わずにいられない雰囲気があった。パリの日本人から自分を守って努力していたような磯崎恭介。その人の
が夜どおし店をあけているという界隈でもなかった。パリの生活になれず、言葉の自由でない伸子は、宿のマダムと直接相談
。ベルリンの日本の役人は官僚的に気取っていたが、パリのそういう日本人たちは、その人たちだけにほんとのフランスの洗煉がわかって
もなかった。彼はごくありふれてごみっぽかった。それはパリにいる日本の画家たちや蜂谷良作の野暮さともちがうものだった。伸子
「あなたがパリへ来られたときいて、ぜひ一度、それについて、いろいろじかにお
上に、伸子の視線がきつくすわった。いまの伸子にパリで会っていて、モスク※へは藤堂駿平の紹介で行ったのだった
しみのある壁の下の寝台で磯崎が死んでいる。パリで、子供を死なせ、重ねて磯崎に死なれた須美子の孤愁は、伸子
でタクシーをいそがせているのではあったが、このパリでも七月末にそんなことがあったように、日本でも多くの人々
ものたちにとっては伸子の友達の磯崎恭介が、このパリで急死して、あとには小さい子供とのこされた若い妻がいるという
たペイラシェーズの式場の様子は、六月に素子がまだパリにいたとき、恭介の上の子供が亡くなって、素子もよく知っている
か明るい雨でした。さきおとといの雨は、つめたかった。もうパリの十月の時雨でね、ペイラシェーズの濡れた舗道にはマロニエの落葉が
この四日間ばかり、あなたがパリにいたらと思ったのは、わたしだけではなかったろうと思います。わたし
籠の心配もして貰わなければならない。伸子自身がパリから動こうとしないで、そういう世話だけたのむとしたら、素子はそれを
た。戸外には、天気のいい十月の朝の、パリの往来がある。小公園のわきをとおってペレールへの横通りへ曲りながら
パリのそんなこまかい通りを、日ごろ市外に住んでいる蜂谷良作が知っていると
伸子は、いつも持っている赤い表紙のパリ案内を出しかけた。そして蜂谷からキャルディネという町名の綴りを教わりながら頁を
パリの賑やかさのうちに静けさをたのしんで生きている恩給生活者を主な客とし
「ペレールに住んでいるわたしの家族が十月末にはパリから出発します、それと同時に、わたしも引越しましょう」
も云い出さなかった。食堂のヴェランダからは、雲の低いパリの空がひろく見はらせ、目の前のヴェランダはすっかり濡れているのだから
で、泰造、多計代、つや子も帰国するわけだった。パリへ来てから、多計代の健康上、シベリア経由をすすめられて、佐々の
パリで子供を亡くし、つづいて良人の恭介に死なれ、二人の骨をつれて
相談した。あたりまえのなりをしていて、普通のパリのおばさんのように見える看護婦は、須美子から相談をうけると、世帯もちの
タクシーにのった須美子の一行とわかれた。佐々の両親がパリを立つのもいずれ月末のことになっているし、双方の出発の日が
そう云えば、つや子はパリの肉屋で、兎のむいたのをつるし売りしているのを、ひどくい
た両親が、一週もたたない六日目に、突然パリへ帰って来たことは、それが須美子と約束のある十四日の午後だっ
た。難破した船がしずみきらないうちに、須美子はパリでの生活をとりまとめて、日本へ帰る仕度に忙殺されている。須美子が
れたともわからないたった一つの窓から、うすぐもりのパリの日ざしがやっとさしている室内の壁は、ソルボンヌ大学の歴史とともに古びよごれ
パリの生活には少しなれているはずの蜂谷良作もあきれた風だった。
クラマールの家の室代は、パリの物価があがるにつれて、蜂谷が住むようになってからも二度あがっ
クラマールというところが、パリの中心からどのくらい遠いところに在るのかさえ伸子は知っていなかった
蜂谷良作のパリ滞在も、あと一年はないのだった。
目に涙を浮べて伸子の冷やかさをせめた。わざわざパリから買って帰るのに、なにも羊飼い娘の人形でなくたっていいじゃないか
て歩く事務的なやりかたも、多計代にとっては、パリ生活の最後の日を追い立てられているような感じを与えるだけだった。それぞれ
っぽい小さい旋風が遠ざかってゆくように佐々のうちのものはパリを出て行く。伸子を一人のこして。目の前から去ってゆくほこり
伸子にとってはわけのわからなかった用心ぶかさで、パリに残ってあとからモスク※へ帰ろうとする伸子のプランと、自分たちだけで
で、うすぐらいガラス越しの顔を見合った。そして多計代はパリを去った。良人につれられて、というよりも良人と末娘とをひきつれ
らは、その要求の一つを行動するかのようにパリから出発して行った。伸子が、パリにのこるということで伸子とし
かのようにパリから出発して行った。伸子が、パリにのこるということで伸子としての要求をあらわしているように。
その一日のうちに重なった二度の見送りは、どちらもパリにのこる伸子に悲しさや、寂しさをのこした。
※にいたうちも伸子の経済をたすけて来た。パリへ一人のこって、仕事のしたくなる心持になりたい。伸子はそれをのぞん
一週に一度の入浴つきで一ヵ月一九五〇フランだった。パリの労働者が一日平均六〇フランの収入だとすれば、マダムは、伸子を
をさがそうとしている母親の考えで、フランシーヌだけは、パリの比較的上流の娘たちが集る女学校へ通学させられているのだった。
伸子はまた困った。日貨排斥がはじまってから、伸子はパリの中華人たちが、日本の帝国主義にひっくるめて、日本人一般に反撥をもって
パリの秋は深く、クラマールの生活は季節のただなかにあった。
男児」と書かれているのも、伸子におもしろかった。パリの市内にも小学校はあったろうのに、伸子は、クラマールへ来て、
佐々のうちのものが、十月二十四日にパリを立っていたことはよかった。建築家として大規模な仕事に関係し
素子のこの表現もデリケートだった。伸子がみんなと一緒にパリを立たず、あとから自分だけでモスク※へ帰ろうときめたことについて
間に紛争がきざしはじめた折からだった。佐々の一行がパリでペレールに住んでいたこの夏に、ソヴェト同盟と中国とは国交断絶し
のは、中国のそとの帝国主義の国々であることは、パリにいてモスク※の外からそのいきさつを見ている伸子に、はっきりわかった
外からそのいきさつを見ている伸子に、はっきりわかった。パリに「プラウダ」はなくても、事実は「リュマニテ」が語った。
ということは伸子の予想さえできなかったことだった。パリの生活で、伸子は、藤原威夫の存在をほとんど忘れていた。けれども
としか、考えなかった。けれども、多計代は伸子をパリにおいておいてモスク※の藤原威夫に会う計画だったのだ。それは
な思いに考えしずむのだった。自分がモスク※でもパリでも、どんな政治的な団体にも連関をもっていないことは、何と
ていないことは、何とよかったろう。さもなければ、パリで毎日数時間ずつ伸子と一緒に暮していた母親が、モスク※へ着くなり
の城壁とその城壁の上空にひるがえっている赤旗。素子がパリにいたころ、ヴォージラールのホテル・ガリックの七階の暑い部屋のテラスから二人
ガリックの七階の暑い部屋のテラスから二人で見晴したパリの屋根屋根。そこに林立している無数のパリ独特の細い煙突。はるかな
したパリの屋根屋根。そこに林立している無数のパリ独特の細い煙突。はるかなエッフェル塔と、それに加えて伸子は、もらった
たりするのを面白がった。まだ佐々のうちのものがパリにいたころのある日曜日に、蜂谷は伸子を、有名な「のみの市」へ
よりも「のみの市」からすこしはなれて、一廓を占めているパリ郊外の、労働者の日曜日の遊び場の光景が、伸子をその活気と無頓着さで
帽子かけには、パリの小市民の男がかぶっている黒い山高帽がかかっていて、ウェイタアの前掛
くゆらしている蜂谷良作をうながした。恐慌がはじまってからのパリの目抜き通りは、どんなに変化しただろう。伸子はそれが見たかった。
の濃いころ、昼飯後のブルヴァールと云えば色彩的で、パリの午後をぶらつく各国からの安逸な人々によってかもし出される雰囲気に溢れてい
「パリがパリの人たちのところへ還って来たのね」
「パリがパリの人たちのところへ還って来たのね」
伸子は、蜂谷良作に向って熱心に、パリの「アジアの嵐」ではカットされている部分の面白さや意味に
「しかしまあ、パリでは、ああいうものも見られるだけいいとするのさ」
伸子はそのことについてはだまった。二年以上もパリにいる蜂谷良作が、まじめにそれを希望すれば、モスク※へ行けないわけ
素子がパリにいた夏のころ、クラマールの終電車にのりそこなった蜂谷が、ヴォージラールのホテル
伸子ひとりがロンドンからパリへ帰って来て、モンソー公園を一緒に散歩したりしたとき、蜂谷に
パリの郊外に国際学生会館が建って、そこには日本からの留学生も何人か
の自分が、そんな風にも考える女の年ごろになってパリに一人いることにおどろくのだった。
佐々のうちのものがパリを立つとき、ペレールの家へ来あわせた蜂谷良作と野沢義二が、荷づくりの手つだい
夜のパリの裏通りをいくつか折れて、空倉庫かと思われる薄暗いがらんとした入口
茶色に古びたパリの大きい部屋の隅に漂着したふる船の中から小柄な上半身をおきあがら
静かな夜があるが、往来へ出ればごたついて喧噪なパリの裏町のがらんとしたホテルに、がたついたダブル・ベッドも気になら
マダム・ラゴンデールの稽古をことわろうと思っているのだった。パリにいるのもあと半月たらずだったから、マダム・ラゴンデールの稽古のために
、マダム・ラゴンデールの稽古のために、観たいものの多いパリの十一月の午後のまんなかの時間をうちにいなければならないことは、
あと半月でパリにいなくなる――それは伸子にとってわかり切った計画だった。それ
ヴェルサイユ門からモンパルナスまで、パリを南から北へ走る午前七時の地下電車にのりこんで、伸子はしばらくの
かぶっている。カラーをしていない頸筋のところを、パリの労働者らしい小粋な縞のマフラーできちんとつつんで上衣のボタンをかけている。
いる人々の間に、話声はなかった。轟音をたて、パリの地底を北へ北へと突進しているメトロの中で、つめこまれ、
て来る通勤人でこみあっているけれども、その時刻にパリから出てゆく人は少くて、伸子と蜂谷良作の乗った車室は、ほとんど
銀行はドイツの軍需会社クルップ――そこでこそ一九一八年にパリを砲撃した長距離砲ベルタが製造されたクルップと、毒ガスのイーゲー染料
もうあと十分でパリへ帰る列車が出るというとき、
朝来たと同じ道を、パリへ向って進んでゆくのだけれども、沿線の風景が濃い闇に包まれ
「佐々さん、ほんとに十一月いっぱいでパリをひきあげるつもりなのかな」
をこしらえなかった。ベルネの家の煖炉を見て伸子はパリの屋根屋根に林立している煙突のどれもが細いわけをのみこんだ。パリ
林立している煙突のどれもが細いわけをのみこんだ。パリの人々は、豆炭を煖炉につかっているのだった。豆炭の熱は、
自筆の署名いりで、番号のはいった限定版であった。パリを出発する準備にいくらかずつ画集をあつめていた伸子は、他の三四
その秋の展覧会には、パリで客死した磯崎恭介の作品と遺骨をつれて日本へ帰って行った須美子
「果樹園」の正統派のつまらなさが面白かった。そのころパリに滞在していた日本のある漫画家も、支那靴をはいた足で鬼
一日が一日とすぎてゆく。伸子のパリを去る時が近づいている。蜂谷と伸子との間にある緊張はつよまるばかり
モスク※とロンドン。モスク※とパリ。素子と伸子とが別々に暮すようになってから二ヵ月あまりたつ。わりあい
一週に一通のわりぐらいでロンドンにいた伸子、パリへかえって来てからの伸子に、たよりをよこしているのだった。
の家のものがモスク※経由で先へ帰ってから、パリにのこった伸子の滞在は、クラマールへ移ったりして長びいてはいるけれども
引越したとき、あらましの予定は伸子から告げてあった。パリには十一月いっぱいぐらい居たいからと。
その晩、伸子は蜂谷良作といっしょに、パリ東南部の労働者地区のあるところで行われた集会へ行って、おそく帰った
集会所に直したような建物があって、そこで、パリにいるポーランド人労働者を中心に、ファシズム反対の集会がもたれた。ポーランドの
なってしまった。――だのに、佐々さんは、パリからいなくなろうとしているんだ……ね、伸子さん、僕は、
は、もうもうとした黒煙であった。伸子が勝手にパリに滞在しているということにたいする非難と怨みごとの末に、このごろまたちょくちょく
耽りはじめるとすれば、そのみじめさの動機は、伸子がパリに勝手に暮しているからだ、素子はそう云おうとしている。伸子に
ない習慣にたよって、はらはらさせて、それで伸子をパリから帰らせようとするのだったら――伸子は、声に出しておこった。
帰途についたとき、素子がよこした手紙に、伸子のパリ滞在についての素子の意見は示されていなかった。同時に、モスク
土産ぶくろが黙殺されていることで、伸子は自分がパリにのこったことについて素子の不賛成を感じとったのだった。
ように素子は考えたのだ。だから、親たちがパリにいた間は、伸子がパリにいることも、素子を不安にすること
だから、親たちがパリにいた間は、伸子がパリにいることも、素子を不安にすることではなかったのだ。
にかわりそうなふるえが伸子をつらぬいて走った。伸子のパリの生活は、素子をだましていることになるのだろうか。
に暮して来ている素子が、モスク※にいて、パリの伸子がよこす手紙の下から、何か語られていないものがある感じ
なり、一晩のうちに死んでから、伸子は行きずりのパリの医者のすべてに信用がもてないのだった。
「おこって、もうパリを立つ仕度でもはじめているんじゃないかと思った」
それだけは自信がある。――だから、せめてことしいっぱいパリにいることにして」
の恥しさ。――恥しさは、このひとつきほどのパリ生活間に、蜂谷ともたれたさまざまな情景における伸子自身の姿を
て、Paisとかいてある。まだ佐々のうちのものがパリにいた時分、ペレールの家へ磯崎恭介の死去をしらせた電報をうけとっ
たちだけの話題で、彼女はそのころ日本人画家としてパリで名声を博していたひとの名にふれた。
みんなでサロン・ドオトンヌを観に行ったとき、パリで亡くなった磯崎恭介の「花」や須美子の「花」の絵は、亀田
の注意をひかなかった。――というよりも、ひろいパリという都の中でたたかわれている生の間では、磯崎という一
と白いチョークのような光の消えた白さ。そこにパリの貧しい人々の人生の思いが語られている。「モンパルノ」というモジリアニを
伸子は、クラマールに住んでいる人々らしさを感じた。パリの市民からはなれてクラマールに住んでいるということは、その人たちがモンパルナス
うけとりかたをされていた。描いている絵に、パリの市価をもたないというそのこころやすさ……ここの人たちは、どっちみち、
品評をしている人々。酒の話から、ひき出されてパリでアルコール中毒にかかっているある男の噂をしている人々。
を見ながら、ベルリンへついたとき、あわてて降りて、パリからの列車の中に置き忘れて来てしまった絵の具箱とおもちゃの白い猿
ああ、ほんとに眠って、来てしまった! パリを出る最後の十二時間は、伸子をそれほどくたびれさせた。
簡単に考えていた荷づくりが案外ごたついた。親たちがパリを引きあげるときペレールのアパルトマンの食堂のテーブルの上へ、敷布類だのテーブル・
た。そんなごたつきの合間合間に、蜂谷は、自分ひとりパリにのこされる事情になったことを歎いた。
「これから、僕はひとりで、パリで、どうして暮していいのか、わからない」
「だって、蜂谷さんはもう二年もパリで暮したんじゃないの、わたしのいたことの方が偶然だったん
「あなたは、わたしをパリにひきとめようとばかりなさるけれど、いっぺんだって、モスク※へ行こうとはおっしゃらなくて
て、女持ちの旅行ケースにつめはじめた。ケースには、パリ、ロンドン間の飛行機でとんだときの赤と白とのしゃれたラベルが貼られ
。――その舞台を選択してかえって来ている自分。パリをはなれて来た自分。その自分というものが確信されるのだった。
「パリから」
パリから――? 伸子は旧いヨーロッパから帰って来たところだった。モスク※
ない人間の無雑作さで寝台の上にとりちらされているパリ好みのネッカチーフやハンド・バッグなどは、その部屋に自分以外の者が住みはじめ
はどういう意味をもつものとして素子にうつるのだろう。パリでの生活については自分を素子の前に卑屈にしまいときめて、
夜がふけるにつれて、パリとモスク※とをへだてている距離の絶対感が、真新しい刃で伸子の心
十月一日から新しいシステムが採用されることになった。パリの外字新聞は、五ヵ年計画第一年目の成果についてソヴェト政府が
はいりこもうとしているのだから。――ブハーリンの問題はパリにいた伸子を衝撃した。
暮した七ヵ月は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスク※の生活との対照は、
若い女にすぎないのは何といいことだろう。ロンドンやパリで暮している人々は気がねなく彼女の前にソヴェト社会についての態度を
話してきかせたことは、何とよかったろう。伸子はパリやロンドンにいるうちに、モスク※にあるものの価値をよりたしかに自身の
ようなふくらみのある文章で語っていた。お二人がパリから下すったエハガキはうれしく拝見いたしました。あれから、いくたびもおたよりを
された四・一六事件のことであった。伸子はパリでちょっと、そのことをきいた。日本の新聞は、事件から七ヵ月も経っ
モスク※で暮していた日ごろ、それからまたパリへ行って生活していた日々、伸子はウメ子にときどき便りはかいて
から現在までに半分ばかりつかった。夏の終りに伸子はパリから手紙をかいて、モスク※へまた一定額の金を送っておいてくれるよう
伸子がパリにいた間に、素子はオリガ・ペトローヴァという、語学上の相談あいてに
労働が全住民へ拡大したってかいたんです、わたしはパリでそれを読んだわ」
「風呂」のプログラムと切符とを、はりつけていた。パリから帰ってから、伸子は、モスク※の最後のシーズンに観るすべての芝居の
をもって実感しながら、ストルプツェの国境駅を通過し、パリからモスク※へ帰って来た。ここの者と自分を感じて伸子は帰っ
素子は日本へ帰ろうという計画を、伸子がパリにいた間に、きめたようだった。彼女の日常の万事がその方向
山上元のくるみのようなかっちりさ。パリで近く暮した蜂谷良作が、すももか何かのように思い出された。そして
いたということだった。伸子がその同じ十二月にパリからモスク※へ帰るとき、列車を乗りつぐ時間、ベルリンにいた。往きにベルリン
いま、伸子はパリの街を歩いている。
パリのこの一角で、生活は率直な活気と気分をもって溢れている。車道
へ色とりどりに張り出された日除けなどでやわらげられている。パリでタクシーはたった一つの合同会社に独占されていた。どのタクシーも、
これは賢い方法だった。こんなに自動車のどっさりはしっているパリの街で、すべてのタクシーがすぐ見わけのつく一色に塗られているという
も夜も大並木道をぞろぞろ歩いているアメリカ人たちに、「パリでの」自家用車を買わせるきっかけをつくっている。行き交う自動車の流れをよけて
とすれば、この辺は絵描きや文学者のモンパルナスだった。パリの黒い山高帽に象徴されている小市民のすべてのみみっちさと常識と金銭
、ドームよりもラ・ロトンドの方がはやっていて、パリの有名な芸術家やパリへ来た世界の有名な芸術家たちの姿をよそながら
ロトンドの方がはやっていて、パリの有名な芸術家やパリへ来た世界の有名な芸術家たちの姿をよそながらにも見たければ、
あんまり金のなさそうな、そして、大したひきもなさそうなパリの外国人は、とくに彼らが女づれの場合、羽根ののびきらない雛の
胸にこみあげて来る漠然とした苦しさを感じた。パリの大さ。見知らない大都会の生活のつかみどころない複雑さ。北停車場の雰囲気が
。ウィーンのようでなく、またベルリンのようでもなく、パリでは生活しようと思いこんで来た伸子は、それだけに、行く先も知らない
腕にだかれてステーションの出迎えに来ていることは、パリでの磯崎恭介夫妻の暮しぶりをそのままに語ることだった。同時に磯崎
た。同時に磯崎夫妻をそのように生活させているパリそのものの生活断面でもある。伸子は、何の躊躇の感情もなく、
つましいみちびきによって自分たちの前にひらかれた厖大なパリの生活のわれめへふみこんだ。
磯崎夫妻がパリの倹約な生活の四年間でどこよりも知っているのはモンパルナスであり、
しかし、伸子は初対面だった。若くて正直な人々は、パリへ着く伸子たちのために、ともかくできるだけ少く金をつかわせるようにと思った
は暗く、何かの建物に密接している。伸子はパリでとまるはじめてのホテルがこういうところで、西日をうけて光る子供の白い服
たちが家族づれでここへ来る。それまでに、伸子はパリで自分たちのパリ生活というものを経験しておきたかった。それはパリ
パリ生活というものを経験しておきたかった。それはパリのあたりまえに暮している人々の間にまじりこんだ生活であり、サンティームまでを
までをこまかく計算する倹約な生活への共感であり、しかもパリがパリとして歴史のなかに生きて来ているパリにしかないある精神
こまかく計算する倹約な生活への共感であり、しかもパリがパリとして歴史のなかに生きて来ているパリにしかないある精神をとらえよう
パリがパリとして歴史のなかに生きて来ているパリにしかないある精神をとらえようとする生活なのだった。
「でも、パリのなかでなら英語で御不自由はありませんわね」
結婚したばかりでパリ生活がはじまり、主婦と同時に母親になった須美子のとりなしには、なに気
くれたところだった。市の西南のはじのヴェルサイユ門からパリで一番長い街すじであるヴォージラールがはじまってモンパルナスやラスパイユをつっきり、ホッケーの打
たように、ヴォージラールは、ヴェルサイユとテュイルリー宮の間を貫くパリの石じき道だった。ヴェルサイユ門を境に、そとの広場はまだ昔ながら
。ヴェルサイユ門を境に、そとの広場はまだ昔ながらのパリのすりへった角石じき道――フランス人民の歴史のなかでは、一度ならず
は一つの発見をして興がった。それは、パリのエレヴェーターはほんとの上昇機だということだった。ガリックのエレヴェーターは三階
のエレヴェーターは三階でよんでもあがって来なかった。パリの人々は電力を無駄にはつかわないことにしているのだった。
があってのときも、そうでなくてのときも。パリでは素子も一緒になって歩いた。表紙の赤い「区分パリ地図」を
たちは男も女も何と居心地よさそうにここでのパリをたのしみ、その味わいに疑いをもたずに浸っているだろう。伸子は、自分
ラ・ペイのテラスで、心ひそかにおどろくのだった。パリの人々は何と生気にみちていて、同時に冷静だろう。と、あいて
もそれにつれて規制しずにはおかない場所だろう。パリのその交通劇甚の三つまたにあるのは、マデレイヌからふたすじの街通り
て、たくみに互を牽制し、かわし合い、六月のパリの燕の群がとび交うようにそれぞれの流れのリズムですー、すーと
壮麗さに飾られて凱旋門の周囲にも眺められた。パリを貫く十二の大通りが凱旋門を中心にこの星の広場から放射している。
には、音楽があり、舞踏の感覚があった。そしてパリでは、こういう感覚を描き出しているのが鳥打帽をかぶっている人々だと
、伸子は云いつくされない感銘を与えられるのだった。パリの労働者たちは山高帽をかぶってはいなかった。
の惨禍を見せつけることはしない。生にまじる死さえ、パリでは一つの忘れがたいニュアンスであるかのように風景のうちに織りこまれ
。ロンシャンの競馬場をふくむブーローニュの森に通じる公園通りは、パリでよりぬきの金もちの邸宅を街すじの左右に構えさせながら、このエトワールからはじまっ
街なかで暮した。モスク※がそうであったように、パリも、全く別の極点で伸子を熱中させずにおかないものをもって
をもっていた。でもそれは何なのだろう。パリの何が伸子をそんなに刺戟しているのだろう。伸子たちがブル※ー
伸子は深く心に刻まれるものを見た。それは、パリのお針娘たちは、仕事日には、黒い、絹ではない紡績の靴下
パリではブル※ールの大きい百貨店の売子たちもいちように、気の利いた
のを伸子はきいたりよんだりして来た。だけれどパリには、パリの男の鳥打帽と同じ意味の女の黒い服もある。―
きいたりよんだりして来た。だけれどパリには、パリの男の鳥打帽と同じ意味の女の黒い服もある。――彼らが
以後フランスでは生計費があがって、物価のやすい、暮しいいパリでなくなった。
が世界のよその国なみにあがって来てしまうと、パリの市民の大部分は、ますます肉類ぬきの食物で生きてゆかなければならなくなっ
ブル※ールなんかまで出て行きませんからね。たいていパリの東部の労働者地区だけでやるから」
ごろでしたがね。政府はうちけしに大童でしたよ。パリで金をつかう連中は、みんな自分の国の失業や自分の会社のストライキなんか
会社のストライキなんか忘れるために来ているんですからね。パリでみたがっているのは、デモじゃ無いでしょうよ」
の家でつかっていて、それをモスク※でつかってパリまでもって来た赤いすきとおる短いパイプをしまって、素子は、新しく買ったばかり
「そりゃそうでしょう。パリのペーヴメントはあのひとたちのもんだもの」
「ほんとのパリがわかるのは、むずかしいことなのねえ」
伸子は、パリへ来てから、ちょいちょい心を掠める一つの疑問をもちはじめていた。
この重大で力のこもった三つの標語も一九二九年のパリの人々の生活のなかではいつの間にか本源的な発酵力をぬか
ことばのように伝統の力でいきなり人々の情感にふれるからパリのすりへった小銭はそれを見るものにまざまざと厖大なパリに営まれている
パリのすりへった小銭はそれを見るものにまざまざと厖大なパリに営まれている生活の、こまかい辛酸を生々しく感じさせるのだった。
「パリの人たちは、よっぽど皮肉な感情で、お金のああいう字を見ている
減って来るのにかわりはない、と思っているさ。パリの人たちは夢想家じゃありませんからね。そうでしょう? 須美子さん」
黒くてきれの大きい眼を真面目に見ひらいて黙っている。パリへ来てから伸子のこころに印象されるものは、素子の解釈ではつくし
は、女の肉体とかその線とかいうものに対するパリのデザイナーの感覚だった。こういうデザインをするのは女ではない。伸子
ひきたてるものとしてつくっているのを、面白く思った。パリの婦人用家具が女の体の曲線にそっていて、装身具の小物類
、コティの財閥はフランスのファシストの親分の一人だった。パリへ来て間もないとき伸子たちはメトロのなかで、買物籠を腕に
腕に下げた黒人女とパリ女とが喧嘩をはじめて、パリの女がいきなり平手で黒人の女の頬をぶったのを目撃した。
ない若い女であり勤労で生きていることを語っているパリの無数の黒いなりの若い女たちが。その上、いまこの六月のブル
こういう見事な腕環をする女も、パリなればこそどこかにはあるのだろう。これを見るひとはそう思って通り
腕環は、所有主のきまらない間に何と多くの通行人にパリのかきたてる幻想を売っているだろう。いつか、どこからか現れる買いては、人々
まきしまり、巻きほぐれて、何となし世界の人が、パリ、パリ、と特別なものをもっていう感情の機微が自分にわかって来
、巻きほぐれて、何となし世界の人が、パリ、パリ、と特別なものをもっていう感情の機微が自分にわかって来たよう
ね、世界の人たちは、何のためにこれだけ毎年パリへお金をおとしに来るんだと思う?」
「――ね。世界の人は、パリのもっている表現力のために、フランス政府の歳入をふやしてやっているん
「パリは、いろいろ表現したくてされなかった人の気持を、あらゆる表現で表現
の最大限、表現の多様なおもしろさを示して……。パリでは、だから、きっと贅沢そのものより贅沢の表現がより贅沢なんだろう
ない? 表現を創りだしている人たちって、みんなきっとこのパリで、しらふで、地味で、鋭いんだろうと思うわ。それは仕事なん
芸術というものは表現に立っている。その意味で、パリが芸術の都であるというのは、事実だった。
「でもね、パリの人たちは、何に向って表現しているのかしら――大戦からこっち
平面にしてしまうしか出道のないことについていまパリで絵を勉強している人々は懐疑がないのだろうか。きょうフランスで絵画
が、ソヴェトの社会生活には必然でないのだった。パリの運転手たちが、あの快速と身についたリズムで衝突をさけつつエトワールの
の飾窓の前に立って腕輪を眺めているうちに、パリは、美とされているものの国際市場なのだ、という判断が
心の中でますます動かしがたくなって来た。マチスそのほかパリの有名な画家たちの名は、伸子がその名も知らないパリ一流の服飾
有名な画家たちの名は、伸子がその名も知らないパリ一流の服飾家の名とともに世界に知られていた。そういう画家
『表現力』も輸出目録にかきだされているんだわ。パリは、表現というものの国際市場よ、そう思わない?」
商品にもとめる金もちのお客の心理を満足させるために、パリはお師匠さんなんだわ、きっと――」
「パリの男って、何て器用な撫でかたしやがるんだろう。さわったかさわらないで
チョルト」! 自分にわかるロシア語。運転手は、偶然にもパリに沢山来ているという亡命ロシア人の一人だったのだ。伸子は、いきなり
のタクシーにのって、日曜日には、すべてが休んでいるパリで歯医者をさがして、一時間あまり伸子は空しくかけまわったのだった。
は煎薬だろう。伸子は、カトリーヌ・ド・メディチの時代からパリの男や女が煎じてのんでいたにちがいない三色菫の乾花
よくないものでないように、と絶えず不安だった。パリへ来て、やがて半月になろうとしているのに、二人の交際範囲は
交際範囲は相変らず磯崎夫妻にとどまっていた。このパリでの極端なつき合いのせまさが、きょうのようなときに途方にくれる状態
心には自分の気持についての不安があった。パリにいる日本の人たちとの社交的なつき合いを意識的にさけているのには
に一枚の名刺をわたされた。それは、もう数年間パリに生活しているある新聞社のパリ特派員の名刺だった。この人によって
だった。この人によってその新聞の文芸欄に折々パリの文壇、画壇、楽壇の消息がのせられるのを伸子は日本にいたころ
のを伸子は日本にいたころから読んでいた。パリに滞在している年月が長い上に、その人に特有の気質が加って
ただの報道ではなかった。フランスの著名な芸術家たち、パリへ行っている日本の知名人たちとの交遊の雰囲気、友達づきあいの空気が
その年は、最近の数年間に最も多く日本の作家たちがパリで落ちあったと云われているときだった。伸子がその金を旅費にし
かを夫婦づれで、または友達づれで、その夏のパリに来させているのだった。
とってなじみにくいものだった文壇というところのつき合いが、パリにおける日本人という面から単純にされようとも、伸子はやっぱり、自分は
やすみのない状態でいたかった。それらの人々が、パリの生活や気分をどうたのしみ、どのように居心地よく友人をつくり自分たちの日常
せよ、伸子はモスク※の一年半の生活の中からパリへ来ているのだった。その間には弟の自殺ということもあっ
その人たちの気持とちがう多くの要素がある。伸子がパリの生活を経験することでもし何かを学ぶことができるとすれば、それ
ね、反抗しているのよ、日本の人がこれまでパリとかフランスとかいうと、いやにディレッタントになっちゃって、それが通みたい
「それにパリにはフランス料理のほかに妙なムソリニ式マカロニ料理だの、何とか大公式
一九一七年以来、パリには象徴派の女詩人ギッピウスやバリモント、ブーニンその他の亡命作家がいた
や怨み憎みに表現していた。そういう発言は、パリを中心にますます盛に活動しはじめている各国のソヴェト同盟への侵略計画、
モスク※夕刊へ挨拶を送った。ロマン・ロランのこのソヴェト承認はパリの亡命作家やソヴェトに悪感情をもっている知識人たちを逆上させ、ブーニンと
途方にくれていると、伸子は、自分の云いだしたパリでの暮しかたが、へんくつすぎたようにも思われて来るのだった。
台、二つの寝台という単純さなのだが、パリへ来て伸子は、このホテルの室もそうなのだが、寝台に占め
こういうパリの片隅にある生活の情景は伸子の心をつよくとらえた。塀の灰色、
や淋しそうな孤児院とその少女の姿に絵がある。パリへ来ると、どんな画家でもその人の一生にとって何か絵らしい絵
パリというところについて、固定した見かたや感じかたをそのままうけいれて
ことを別様に感じとっているのだった。磯崎恭介は、パリで絵を勉強している自分に、ソヴェト・ロシアの絵はどこか別の
別のことにもありそうに思えた。たとえば伸子が、パリへ来たら、ホテルの部屋にベッドばかりかさばっていて、わたしたち二人がゆっくり坐れる
文学と絵画との頂点の向きがあんまりちがっていた。パリでは絵画の芸術至上性が誇大されていてその世界的な市場性が懐疑
伸子はパリへ来てから、モスク※にいたときより素子との心のへだたり
より素子との心のへだたりを忘れた。素子はパリへつくとすぐ、ベルリンにいたときそうであったようにタバコに興味を
、鞣細工店のショウ・ウィンドウを見おとさなかったように、パリで、素子の金をかけない道楽は柔かい絹のネクタイの、気に入った
で買ったオリーヴ色の小鞄にしまわれていた。パリの六月の長い金色の夕暮が、あけはなしたバルコンから斜かいに三角の光の
六月なかばのパリでは、マロニエの若葉をうってときどき軽い雨が降った。その日も、
ているばかりで、ムロンそのものは無かったから。――パリへ来てみると、鶏は高価なものとされていて一般家庭の
。あのひと、もしかしたら、あの畑の西瓜を、パリのムロンと同じものだと思ったんじゃないかしら。夕方だったし……
素子は、パリ案内をバルコンへもちだして、ヴォージラールからデュトの間の、いりくんだ町すじをしらべた
そのあたりは、ほんとにパリの裏町で、倉庫ばかり続いた、人気ない古いごろた石じきの道だったり、界隈
、伸子と素子二人づれの通行人だけだった。六月のパリの夕暮は長かった。そのしずかで長い夕暮れいっぱい、人々は次第に濃くなる夜
須美子が幼い女の児だった時分からのなじみだから、パリで、磯崎のところと伸子たちとは、もっともっと内輪のつき合いがはじまりそうだっ
、という手間や入費の問題ではなく、磯崎は、パリの日本人たちのだらだらしたつき合いを余りのぞんでいないらしかった。何の気
、生れつき言葉のすくない心のなかにたたまれている現在のパリ生活のさまざまの思いにつれて、少女時代から知っている素子とパリで会った
のさまざまの思いにつれて、少女時代から知っている素子とパリで会ったことを懐しく思っているらしかった。あるとき、須美子が、
パリできまった勉強の目的をもたない伸子や素子が、しげしげ磯崎の家庭に出入り
だって絵をやろうと思って結婚したんだろうし、パリへだって来ているんだろうのに、あれじゃ、あのひととしては
の父親としても若すぎ画家としても未完成でパリの生活に神経質になっている磯崎恭介に対して、須美子びいきの形からに
パリの初夏の雨あがりの黄昏は、賑やかなところではそろそろ眠りを知らない賑わいが
、一生で一番幸福だった時かもしれない、と、パリの灰色の室の中で云うとは、どうしたことだろう! 伸子は
この生活にさらされたようなパリの室のむき出しの壁を背にして、ふわりとした白い服の赤
。しかし、こういう理性的な絵を描いている恭介は、パリの日々のなかで、より自然発生の、より感性的な妻の須美子に、
の生活を御存じないから、どうしても若いもの二人がパリですきなことをして暮しているとお思いになりがちですのね」
の同窓生だった。二人を結婚させ、絵の修業にパリへよこしはしたものの、磯崎の田舎の両親は、須美子が出産の度に入院する
田舎の両親は、須美子が出産の度に入院することもパリ風の特別な贅沢の染ったやりかたという先入観をもって見るらしかった。
若い夫婦がパリへ絵の勉強に来ているという現実が、こんなにもきつく日本の嫁姑
のなかで暮しているよりもひとしおその矛盾が身をかむパリの環境で、良人と子供のために画架をたたんだまま暮している。伸子
六月も末になるとパリにも夏らしい暑さがはじまった。メーデーがすぎると急に乾きあがって昼間は
乾きあがって昼間は埃っぽくなるモスク※の夏とちがって、パリの空気は乾いて燃えはじめても、埃っぽさは少なかった。ガリック・ホテル
ように贅沢につかう金はもっていないがその夏をパリで暮そうとしているアメリカ人の若い女が二組ほどとまっていた。
ふるえが伸子の全身を走った。七月になろうとするパリの日盛り、空気は暑く灼けている。内庭にきこえている辻音楽師の自働
て見たんです。そして、あっちのマダムもすすめるもんでパリへつれてかえって来て、そのまま病院へ入れたんです。医者もただの
た。あのデュトの家で、あのおかっぱの須美子が、パリにいてさえ絶えることのないああいう姑たちへの気がねの間で、子供
とささやいた。パリの、ヴォージラール街のホテルの七階の屋根裏部屋にいた伸子は理解した
パリで、雨の日に、淋しい子供の葬式につらなることが起ろうとは、伸子
見たいろいろな画集の、どこにも描かれていないパリの生活の絵だった。
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佐々伸子と吉見素子とがモスク※を出発して、ワルシャワについたのは一九二九年の四月三十日の午後だった。
て雨が降っていた。その雨は、彼女たちがワルシャワへついてもまだやまなかった。大きく煤けたワルシャワ停車場の雨にぬれ泥に
ながら、そのかげから珍しそうに早春の夕暮の雨にけむるワルシャワの市街を眺めている伸子たちをのせて灌木の茂みのある小さな公園めいた
て居り、モスク※駐在のポーランド公使館のヴィザがあった。ワルシャワからウィーンへゆき、プラーグからカルルスバードをまわってベルリンには少しゆっくり滞在するという
なのんきさとで、伸子たちは一晩をそこにとどまるワルシャワで格別ホテルを選択もしていなかった。馬車が案内するままに停車場近く
ワルシャワの駅頭でうけた感じ。それからその三流ホテルのロビーや食堂で、あぶらじみた
ことは、モスク※ではないことだった。それに、ワルシャワでは特別、モスク※から来た外国人というものに、一種の微妙な感情
それにしても、ワルシャワの人々の、ロシアに対する無言の反撥は、何と根ぶかいだろう。帝政時代に
足どりでホテルのロビーを帳場へむかった。明日のメーデーはワルシャワのどこで行われるのか。劇場の在り場所でもきくように伸子たちは
ワルシャワで、メーデーがどう感じとられているかということが、伸子たちに察しられ
られなかった。ポーランドでは、どういうメーデーがあるのだろう。ワルシャワのメーデーを観る。どうせ、五月一日にワルシャワにいられるならそれは伸子に
のだろう。ワルシャワのメーデーを観る。どうせ、五月一日にワルシャワにいられるならそれは伸子にとっても素子にとっても、自然な興味
濡れて人気なく淋しい通りが、どこかで自分たちをともかくワルシャワでのメーデーの行進に出会わせるとは、思えないようだった。
息を吸いこみ、自分の鼻翼のふるえを感じた。これがワルシャワのメーデーだった。ちらりと見えたと思ったらもう散らされてしまったワルシャワの
た。ちらりと見えたと思ったらもう散らされてしまったワルシャワのメーデー。行進して来た人々は何百人ぐらい居たのだろうか。伸子
街々が思いくらべられた。伸子の眼に涙がにじんだ。ワルシャワのメーデーに赤旗をたてて行進して来た人々に、伸子は、つたえようの
、陽にでもあたってベンチで休みたいと思う通行人はワルシャワではたった一日しか逗留しない旅客である伸子たちが今そうして歩い
ホテルへ戻った。そうやって歩いて来てみると、ワルシャワのステーションから伸子たちをのせて来た馬車が、雨の中を街まで出
と素子とはもう一度ホテルを出た。こんどは本式にワルシャワの街見物のために。二人はまたステーション前から馬車をやとった。伸子たち
にのってウィーンへ向う列車はその晩の七時すぎにワルシャワを出発する予定だった。
ワルシャワの辻馬車が街見物をさせてまわる個所は大体きまっているらしく、毛並の
にあるような一種のにおいにつつまれた。そこは、ワルシャワの旧市街とよばれ、昔からユダヤ人の住んでいる一廓だった。モスク※
ワルシャワのここではその不潔で古い町すじに密集して建っている建物のすき間と
その旧市街にも、きょうがワルシャワのメーデーだという気配はちっともなかった。おそらくはきのうと同じような貧しさ
の食堂でモスク※馴れした自分の目をみはらせたワルシャワのパンの白さ。それが、象徴的に伸子に思い浮んだ。パンはあんなに
反対の暗さの方から伸子に思い出させるようなものがワルシャワの生活とその市街の瞥見のうちにあった。メーデーさえ何だか底なしの
しか知っていてはいけないとでもいうような。ワルシャワの街そのものが秘密をもっているような感じだった。
の像と云ったものを見せられたところで、伸子がワルシャワの街から受けた印象がどうなろうとも思えなかった。
はじめた夕靄と、薄い雲の彼方の夕映えにつつまれたワルシャワの市街にそのとき一斉に灯がともった。
ワルシャワのあの広場のカフェーに逃げこんだときの女二人の自分たちの姿を伸子は
――政府は社会民主党だのに。――こんな風なら、ワルシャワのメーデーも、行進が禁じられていたのだったろうか。でもなぜ?
モスク※を立ってワルシャワへいったとき、伸子は、雰囲気的にポーランドのソヴェトぎらいを感じとった。一
にポーランドのソヴェトぎらいを感じとった。一晩しかいなかったワルシャワでは一つの匂いのように伸子の顔の上に感じられた反ソヴェト
たのか、察しがついた。伸子が思い出したのはワルシャワのメーデーの朝、素子と二人で逃げこんだカフェーにいた男たちのもって
で鋭い一瞥をくれたこの男の感じは、瞬間に、ワルシャワのあの朝伸子が理解していなかった多くのことを理解させた。
の自然であった。モスク※から出発して来て、ワルシャワの陰惨なメーデーに遭い、「ヨーロッパ方式」での民主都市とめずらしがられて
記念の白い大きい輪じるしのついていたベルリンの広場。ワルシャワのメーデー。雨あがりの薄ら寒く濡れた公園の裏通り。ピストルのようだった一発の
にいれた。ピルスーズスキー政府に窒息させられたその年のワルシャワのメーデーの印象は、伸子に忘れられず、四五百人の男たちばかりの会衆
は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスク※の生活との対照は、あんまり具体的であっ
去年のメーデーは、ワルシャワだった。ワルシャワのメーデーは無気味な圧力でけちらされた。行進して来た
去年のメーデーは、ワルシャワだった。ワルシャワのメーデーは無気味な圧力でけちらされた。行進して来た人々の頭の
た。失業者が多いメーデーとは、どんなものか。伸子はワルシャワの広場の陰惨な空気を、カフェーのガラスに押しつけられていた男のしなび
地名をクリックすると地図が表示されます
のも八月だった。その何年か前武島裕吉が軽井沢で自殺したのも八月だった。どちらのときも、その前後は、
な人道主義作家として知られていた武島裕吉が軽井沢で自殺した事件があった。武島家の所有であった北海道の大農場
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よめたのかしら、と伸子は思った。昔、泰造がロンドンに行っていた足かけ五年の間に、まだその頃三十歳にかかる年ごろ
のつきない糸のような草書のたよりは、ケインブリッジやロンドンの下宿で四十歳での留学生生活をしている泰造に、どんな思いをかきたて
まして、泰造がロンドン暮しをしていた明治の末期、日本にのこされた妻子のとぼしい生活と
た明治の末期、日本にのこされた妻子のとぼしい生活とロンドンの泰造の、きりつめながらもその都会としての色彩につつまれた生活と
ながら、可哀そうな一つのことを思い出した。やっぱり泰造がロンドンにいた間のことだった。あるとき、多計代が座敷のまんなかに坐っ
出かけるからには、父の泰造として二十年ぶりのロンドンも再び見る機会を期待しているだろうし、多計代にしろ、一度西洋
を感じずにいられなかった。ウィーンは、パリともロンドンともニューヨークともちがった都会の味――小共和国の首府としての
ことは出来ないのだ。その顔は、ベルリンにいようとロンドンへ行こうと、そこに日本人がいて、その日本人が笹部準之助という名を
、と。泰造と多計代とは秋の末までパリとロンドンで暮そうとしていた。その上で、和一郎と小枝がヨーロッパへのこること
かなめとなっている。伸子は、多計代がパリか、ロンドンで長く臥つくようなことにならなければ幸だ、とまじめに思った。
心持の表現かもしれなかった――保にもパリやロンドンを見せてやっているのだという。――
と間もなく、佐々泰造、多計代、つや子の一行がロンドンへ行った。留守になったペレールのアパルトマンへは、ホテルを引きあげて和一郎夫婦
があって、不用になった佐々の荷物の一部を、ロンドンへ立つ前に東京の家へ向けて発送しておくということになった
ごみっぽくなっているなかを、親たちとつや子三人はロンドンへ立った。早朝の出発で、北停車場へ送りに来たのは伸子たち
和一郎夫婦は、半年ばかりロンドンに滞在することに決定して、先発した親たちが適当と思う下宿を
ますますフランス語のわからない歯がゆさに苦しみながら、親たちをまずロンドンへ立たせた。
ロンドンについても、伸子が心にもっている地図は、泰造の、昔なつかしい
伸子が心にもっている地図は、泰造の、昔なつかしいロンドン案内とはちがっていた。伸子のロンドン地図では一八五〇年代のある陰気
のは、イエニー・マルクス夫人とその子供たちだった。伸子のロンドンには、このほかに一九〇三年に描かれた一枚の小さい地図もやきつけに
一葉の地図を目あてにロシアから秘密に国境を越えてロンドンへ集って来た人々による社会労働民主党の第二回大会で、プレハーノフ、
レーニンを指導者とするボルシェヴィキ(多数派)にわかれた。きょう、ロンドンのコヴェント・ガーデンがロンドン最大の青果市場であるというだけでなく、そこに「労働者
するボルシェヴィキ(多数派)にわかれた。きょう、ロンドンのコヴェント・ガーデンがロンドン最大の青果市場であるというだけでなく、そこに「労働者の生活」の
の再武装、ファシズムの進行はあからさまだった。このパリからロンドンへ向おうとする伸子の心には、音楽でいうクレッシェンドのように次第に強く
に強くなりまさりつつある探究の情熱があった。伸子は、ロンドンをしっかりつかみたいと思った。そのためにはもう一歩深くこのパリの生活を
。蜂谷良作は経済が専門であった。伸子とすればロンドン行きをのばしたこの一週間のうちに、蜂谷にならきけるだろうと思われること
。それやこれやをみんな自分にわからせて、それからロンドンへ、と伸子は爪先に力のこもった状態だった。
がはじまるまえに、モスク※へ帰ろうと考えはじめている。ロンドンへ行って見たって同じことだ、と伸子を家族の間にのこして、自分
にさせていることに責任のようなものを感じ、ロンドンの街だけでも素子が見ておいた方がいいと主張するのだった
「だからさ、ロンドンへは飛行機で行きましょうよ。いいでしょう? そしたら、まだるっこくないでしょう?
「そこがいいところなのよ。吉見さん、ロンドンへ三日しかいないなんてがんばっているんだもの、あとで何がおもい出せる
も、いまごろは、おやじさん、さぞ感慨無量で二十年ぶりのロンドンを歩いているんだろうなあ」
「お母様もロンドンなら、御自分のおつき合いもおありになるから、ほんとにいいわ」
しかし、ロンドンのホテルで多計代の帯をしめてやっているのは泰造だろうか。それ
伸子と素子とがもう二三日でロンドンへ立つところだという話から、蜂谷は、そのカフェーのコバルトと黄色に塗ら
「あなたがたが、ロンドンから帰って来たらいっぺん是非サン・ドニへ行って見ましょう」
ロンドンにいた四十日の間に、ヨーロッパの夏が秋の季節にうつって行っ
を倹約するつもりもあって伸子と素子とは、飛行機でロンドンへ向ったのだったが、午後おそく佐々の一行がとまっているケンシントン街の
素子は、ほんとにロンドンに三日いただけで、パリ、ベルリンを通過してモスク※へ帰った
関心から素子は自由になったというわけだったろうか。ロンドンへ行けば、素子の気分もかわるかもしれないと思った伸子の想像は
和一郎と小枝は、伸子たちより二週間おくれてロンドンへ来た。二人は、親たちや伸子のいるケンシントンのホテルには二晩
泰造としては、ロンドンで昔、自分が下宿していたミセス・レイマンの住居をさがしだして、そこ
、伸子は泰造のそういうこころづもりをきいた。ところがロンドンへ来て、いまミセス・レイマンとその息子が住んでいるところをしらべると、
なったばかりというジャックの上に、大戦を境とするロンドンの中流人の経済的な世代のちがいが、あんまりくっきり描き出されていて、伸子
二階づくりのバスにのって、商業地域から、奥にひろがるロンドンの東区を歩きまわるとき、そこで出会って来る数万の店員たちの一人で
に、自己満足があるのだった。西の人たちは、ロンドンに、自分たちとまったく外見まで違うイギリス人の大群がいることを、至極当然と
・レーンの「戦争」を数頁ずつよんでいた。ロンドンの本屋には、十年たったいまだに「戦争物」の特別な陳列台
ふきでものを出して、腕が不均斉に長いようなロンドンの人々の大群は、いつこの西にまであふれて出て来るだろうか、と
マクドナルドの労働党内閣は、伸子がロンドンについて間もない八月二十二日に、ランカシアの紡績労働者の大ストライキを
泰造も、ロンドンへ来てからは、建築家として実務的ないそがしい日を送っていた
。大使館関係の夫人たちを訪問したりもしている。ロンドンでは、言葉がわかるということが、泰造をくつろがせ、多計代の神経
なことは、パリにいたときとちっともかわらなかった。ロンドンのホテルでも、つや子の寝台は夫婦の寝室にもちこまれていた。イギリス
トマス・クックの東区見物バスにのりこんだ。トマス・クックはロンドンの観光ルートを独占していて、大戦まではロンドン市の恥とされ
ていた東区の貧窮の夜の光景までを、夜のロンドン見物に変化を与えるスリルの一つとしてさし加えた。黄色と藍の
。伸子はせめてつや子の心へのおくりものとして、このロンドンでの一晩の見物を計画したのだった。伸子は、不自由なく親
ロンドンでの三度目の日曜日のことだった。伸子は泰造とつれだってケンシントン・ガーデン
、うすい絹服をつけた体の外側にだけ八月末のロンドンの暑さはのこって、おなかのしんをすーとつめたいものがはしった。
はきょうまで何もしらないままモスク※を出発して、ロンドンへ来た。伸子の過去に一つのピリオドがうたれたとき、伸子は
素子がさきにモスク※へ帰ったことは、ロンドンでの伸子に、五年ぶりのひとり暮しをもたらした。その日々のうちに、
ているかというような点に心づかないまま、伸子はロンドン滞在を終ってパリへ帰って来た。
泰造と多計代とは、ゆっくりしたロンドン滞在がすんだら、もうこんどの旅行の中心目的は果されたこころもちらしかった。
たつや子が、カルタのひとり占いでもしているように、ロンドンで集めて来た船のエハガキを幾枚も並べて、ひとり遊びしている。
を去る予定で、太洋丸に船室を申しこんでいた。ロンドンではつや子にも友達があり、身なりもつや子の年に似合う少女らしさで
居場所のきまらないような不安定さはパリにいてもロンドンへ行っても同じだった。大きい船にのって、またひろい海へ出て
ロンドンにのこった和一郎からは、小枝とよせ書のエハガキが来た。ロンドンの秋
た和一郎からは、小枝とよせ書のエハガキが来た。ロンドンの秋のシーズンがはじまります。この土曜日にクィーンス・ホールでシーズンあけの音楽会が
があった。少くとも、伸子にはそう感じられた。ロンドンとパリに離れていても、絶えず若夫婦の贅沢や浪費を警戒し
だということだった。そう聞いて伸子は思いあたった。ロンドンのいろんな新聞に出ている貸室の広告には、いつも電燈と特別に説明
は、ひとこともふれなかった。ミセス・ステッソンとすれば、ロンドンでは、そういうことは、借りての方からきくべきこととしている
を去れば、自分もモスク※へかえるのだけれども、ロンドンから帰って来た伸子の心の中には、何となし新しい活気が脈うっ
、短いパリののこりの日を、思う存分暮したかった。ロンドンで、伸子はその国の言葉がいくらかでもわかるということは、旅行者
「ロンドンから帰られたってきいたもんだから」
伸子は、こまった。マダム・ラゴンデールとは、ロンドンで買った大きい白い猿のおもちゃが枕の上に飾ってあるディヴァン・ベッドに
「吉見さんは、やっぱりロンドンからまっすぐ帰ってしまったんですか」
「あのひとは、たった三日ロンドンにいただけよ」
あしたの朝素子がロンドンを立つという前の晩、ピカデリーを散歩していて、伸子は一つ
「ロンドンは、どうでした」
の。ああいう光景って何て云ったらいいんだろう――ロンドンにしきゃないわ」
「いいえ。ロンドンでは、乞食でも、歩道の上に色チョークで色んな絵をかいて、
ているって聞いたりよんだりしていたけれど、実際、ロンドンへ行ってみてそれが本当だっていうことが、しんからわかったわ。
それが本当だっていうことが、しんからわかったわ。ロンドンにいる日本のえらい方たちは、まるでマクドナルドの従弟かなんかみたいに、第三
毎日なしくずしに彼女に話さずにいなかっただろうと思われるロンドンでの印象を、伸子はみんな蜂谷にきかせることになった。素子がモスク
それにしてもロンドンで会った人たちは、どうしてあんなに伸子を負かそうとするように話す
「ロンドンに、いったいどんな連中がいるんだろうな」
頭取をしていたのをやめてから、夫婦づれでロンドンへ来て、閑静なマリルボーン通りのフラットに一家を構えていた。そして、
彼ら夫妻が自家用自動車をもっているわけではないが、ロンドンのクラブ街として有名なペルメル街の自動車クラブの客員になっていて
有名なペルメル街の自動車クラブの客員になっていて、ロンドン在住の日本人と一部のイギリス人の間に、一種の社会的存在であった。
声を出し顔を仰向けて笑った。伸子がモスク※からロンドンへ来ている者だということにこだわって、木村市郎は執拗なぐらい独裁
利根亮輔と伸子とのロンドンでのつき合い。――あれは、ほんとうは、どういうことだったのだろう。伸子
伸子が、間もなくロンドンを去るというある曇り日の夕暮ちかく、利根亮輔と伸子とは人通りのまばらな
素子はモスク※へ着いたとき、ロンドンのホテルあてに伸子に電報をよこしたし、伸子たちがペレールへかえってすぐの
ロンドンから帰って伸子が磯崎の住居をたずねたのは、たった一週間ばかり前の
そして、タクシーは走り出した。ロンドンへ立つまで、よく夜更けに、素子と一緒に通った道すじ――トロカデロのわき
和一郎の美術学校時代の美術史の教授だった。ひかえめに、ロンドンにいる和一郎の噂が出た。磯崎恭介に近い年かっこうのほかの人たち
ロンドンにいたとき、国際新聞通信のそういう記事が伸子の目にはいっていた
一週間ばかり前、医師から忠告されて、ではロンドンで契約した十一月六日マルセーユ出帆の太洋丸の船室を解約しようかと
ロンドンできめた予定どおりに運べば、同じ船で、泰造、多計代、つや子も
「お兄様たち、ロンドンでいまごろ何していると思う?……動坂ではね、このひと、
来年早々ロンドンで開かれる軍縮会議の下相談に、イギリスから労働党首相のマクドナルドがワシントンへ出かける
あてに送られて来ている金を日仏銀行でうけとり、ロンドンにいる和一郎たちのために父がのこして行った金を同じ銀行から送り出した
た。素子の親切なときの顔つきに似ているからとロンドンで買ったおもちゃの白い猿。それをホテルの戸棚へしめこんで忘れて来
セント・ピーター寺院の正面大階段には、その一段ごとにロンドンの失業者が鈴なりだった。血のメーデーにベルリンの労働者が射殺された。
一つ書かなかった素子が、この夏、伸子といっしょにロンドンへ行って、そこから先に一人でモスク※へ帰って来てのち、ソヴェト
がベルリンであった日本の医学者たちがそうであり、ロンドンにいる利根亮輔がそうであるように、蜂谷良作も、絶えずソヴェト同盟と
伸子ひとりがロンドンからパリへ帰って来て、モンソー公園を一緒に散歩したりしたとき、
伸子の父の泰造がロンドンに留学していたのは、丁度いまここに集っている人々と同じ年ごろ
この夏、ロンドンで数週間すごしたとき、イギリスではルドウィッヒ・レーンの「戦争」が非常によま
ロンドンの夏の日曜日、セント・ポール寺院の、その一段ごとに失業者が鈴なりになっ
いるどっさりの鳩の糞をあびて、いかにもきたなかった。ロンドンの晴れた日曜日の風景の中で鳩の糞にまびれていたその
―伸子は鉛筆を働かせながらそう思った。利根亮輔をロンドンで、大英博物館図書館にかよわせていたロビンソン物語――
モスク※とロンドン。モスク※とパリ。素子と伸子とが別々に暮すようになってから二
て来た。素子も一週に一通のわりぐらいでロンドンにいた伸子、パリへかえって来てからの伸子に、たよりをよこしている
いま、こんな手紙をかく素子が、それならロンドンから、どうしてあんなにあっさり伸子をのこして立って行ってしまったろう。はたと
伸子は息のとまるような気がした。あのとき、ロンドンには佐々の一行がみんないた。その家族的な環境を伸子の安全保障
に出来ないことだった。佐々の家のものがみんなでロンドンにいたことで、伸子のロンドンでの生活感情の全部が素子に確保さ
家のものがみんなでロンドンにいたことで、伸子のロンドンでの生活感情の全部が素子に確保されていたと思うなら、素子
失業は急速に減りつつある。一九二九年は、伸子でさえロンドンであのような失業者の大群を目撃した年であったから、ソヴェト同盟だけ
そとで暮した七ヵ月は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスク※の生活との対照
一人の若い女にすぎないのは何といいことだろう。ロンドンやパリで暮している人々は気がねなく彼女の前にソヴェト社会についての
きかせたことは、何とよかったろう。伸子はパリやロンドンにいるうちに、モスク※にあるものの価値をよりたしかに自身の内容に
はじめた。モスク※のそういう生活に戻って思いかえすと、ロンドンにあった巨大なうちかちがたい貧富の裂けめと、イースト・サイドに溢れて親から
ロンドンで行われる軍縮会議は、とことんのところではソヴェト同盟の存在をめぐっての
「七ヵ月ばかり、あっちこっちして、ロンドンやベルリンをちょっとでも見て来たのは、わたしのために、ほんとに
日本で、わたしは何にも知らないで来ているから、ロンドンなんか見ると、しんから資本主義の社会ってものがわかったんです。ドイツにし
しまった、か。そういうもんだ。僕が一八九四年にロンドンやエジンバラの貧民窟を見て、社会主義についてまじめに考えはじめたようなもん
あれから満一年たって、ベルリンやロンドンの生活からモスク※の社会を観てふたたびモスク※へ帰って来たいまの
写真班に撮影された若夫婦の帰朝姿だった。ロンドンでわかれた弟の和一郎と小枝の、そういう帰朝写真を、日本から送られ
地名をクリックすると地図が表示されます
。演劇専門の佐内満は十日ばかり前にモスク※からベルリンへ立ったというところだった。
終った十一月いっぱいでモスク※を去り、佐内満は、ベルリンへ立った。伸子たちがモスク※へついた十二月の十日すぎには
人は名刺を出した。名刺には比田礼二とあり、ベルリンの朝日新聞特派員の肩がきがついていた。比田礼二――伸子は何か
「ここよりベルリンの方がよくて?」
「さあ、ここより、と云えるかどうかしらないが、ベルリンも相当なところですよ、このごろは。――ナチスの動きが微妙ですからね
の動きが微妙ですからね。――いろいろ面白いですよ。ベルリンへはいつ頃来られます?」
だいぶ千載一遇組がいるらしいですよ。吉ちゃんなんか、この際ベルリンあたりも見ておきたいんじゃないかな」
「中館さん、あなたにベルリンてところ、随分やくにたつの?」
ある松竹の専務級の人もついて来ていた。ベルリンへ行きたい俳優たちはその計画を左団次に承知してもらうばかりでなく、会社
へひきあげた。吉之助とあと三四人の若手俳優が、すぐベルリンへ立ち、中館公一郎も別に一人でハンブルグ行きの汽船にのった。
さくらや光子が、それとなしベルリンから吉之助が帰って来るのを待っているきもちが伸子によくわかった。吉之助
歌舞伎がモスク※からひきあげ、吉之助たちがベルリンへ行って二週間とすこしたったある朝のことだった。朝の茶を終っ
吉之助は、ベルリンへ行けるときまったとき、見て来ます、と簡明に力をこめて云っ
ベルリンへ行くということが、むしろ一行のあとにのこって自由行動をとるための
つのきっかけであったように、吉之助は一人になってベルリンからモスク※へ戻って来た。そして、外国人はめったにとまらない、やすいパッサージ
モスク※からパリまでの道順を相談した。ウィーンとかベルリンとかいう都会にどのくらいずつの日数を滞在するかという予定をたてた
ことになった。ウィーンからプラーグ。そこからカルルスバードへ行き、ベルリン、パリという順だった。それにしても、伸子がいつ退院できるもの
あった。ワルシャワからウィーンへゆき、プラーグからカルルスバードをまわってベルリンには少しゆっくり滞在するというのが伸子と素子との旅程であった。
たちにとっていつとはなしの親しみがあった。そのベルリンで、暴力的メーデーというのは、どういうことがおこったのだろう。その新聞記事
と伸子は考えた。二人は、どちらも、この人々がベルリンからモスク※に来たときに伸子が会った人たちだった。二人がベルリン
来たときに伸子が会った人たちだった。二人がベルリンからモスク※へ来て見る気持の人々だということは、メーデーの事件が
メーデーの事件がおこったとき、彼等がカーテンをひいてベルリンの自分の室にとじこもってはいまいと伸子に思わせるのだった。
鳴ったピストルのような音も。――どういう意味で、ベルリンにそれほどの混乱がおこったのか、わけがわからないだけ、伸子はいろいろ
で、伸子は五月三日づけの外電をよんだ。ベルリン騒擾第二日という見出しで、数欄が埋められている。できるだけはやく、
は自分の語学の許すかぎり、記事をはす読みした。ベルリンでメーデーの行進が禁止されていたことがわかった。それにかまわず
メーデーにおこったベルリン市の動乱は、五月五日ごろまでつづいた。政府は禁止したが
自分たちの権利としてメーデーの行進をしようとしたベルリンの労働者の大群を、武装警官隊が出動して殺傷したことは、ドイツ
としかつかめなかった。その英字新聞は五月三日のベルリン市の状況を報道するのに、何より先に外国人はウンテル・デン・リンデンを全く安全に
、けりがついたんでしょう、と答えた。つづけて、ベルリンじゃ、何でも共産党が先棒をかつぐんでね、と云い、そうなん
翌日プラーグの市内見物をして、夜の汽車でひと思いにベルリンまで行ってしまおうということになった。
「まっすぐベルリンへ行こう」
あっちこっちへひっかかりはじめたら、それこそきりがありゃしない。とにかくベルリンまで行っちゃおう」
こうして伸子たちは翌日のひる近くベルリンに着いた。そして、かねて中館公一郎に教えてもらってあったモルツ・ストラッセの
ベルリンには、モスク※で伸子たちと一緒にソヴキノのスタディオを見学したりした
。落付いていられるホテルもないプラーグで素子が、とにかくベルリンまで行っちゃおう、と主張した気持の底には、互に言葉の通じるこれ
礼二に会えたらとたのしみにして来たのだった。ベルリンについたあくる日、伸子たちのとまっているパンシオンから近いプラーゲル広場のカフェーで、
ではないのだ、と。伸子はそういうところに、ベルリンという土地にいて世界をひろく生きようとしている日本の人たちの暮し
建築科にいたころから俊才と云われた川瀬勇は、ベルリンのどこかの街にもう三年近く住んで舞台装置や演出の研究をつづけ
で舞台装置や演出の研究をつづけていた。かたわら、ベルリンの急進的な青年劇場の運動にも関係しているらしかった。川瀬勇は、
この川瀬につれられて伸子と素子とはベルリンへ来て間もない或る日、ノイケルン地区へ行った。ベルリンのメーデーに、
へ来て間もない或る日、ノイケルン地区へ行った。ベルリンのメーデーに、ノイケルンやウェディングという労働者地区で、数十人の労働者の血が
は、メーデーからもう二十日あまりたっていた。が、ベルリンの革命的な地区とされているノイケルンの労働者たちとその家族が、五月
薄曇りしたベルリンの日の光を、ライラック色の旅行外套の肩にうけながら、伸子は瞳
だという亢奮があった。伸子にとっては、このベルリンのカール・リープクネヒト館こそ、生れてはじめて目撃した共産党の本部だった。モスク※
ことを、階級的な良心の表現とする気持だった。ベルリンへ来ても、伸子のその態度は一貫しているのだった。そういう
ベルリンへ来た翌日から伸子と素子とは、一日に一度は市内のどこ
の彼らのことしか、知らないのだった。しかし、ベルリンでは日本人の間にそういうつき合いかたがあるのも伸子と素子とに、
というせまさから双方を近くに見て、多計代らしくベルリンにいる母方のまたいとこ、医学博士の津山進治郎に、伸子のことについて
ベルリンの地下鉄が、ウェステンドあたりで高架線にかわる。そこのとある街で、大学教授
ところが、伸子は彼から思いがけないたのみを受けた。ベルリンにいる医学関係の人々の間に木曜会というものが組織されている
その一区画は、規則ずくめなベルリン市のやりかたにしたがって、町並全体がどの家の前にも同じ様式の
かかわりない風でそれをうまそうにくゆらしながら、古風なベルリンごのみでいかつく装飾されている室内とそこに集っている人々をひっくるめた
ての伸子を紹介した。津山進治郎にとって伸子はベルリンで初対面した母方のまたいとこであったが、津山進治郎はそういう個人的
「このたび各国視察旅行の途中、ベルリンに来られたのを機会に、今晩は一席ソヴェト同盟の医療問題について、
かく佐々伸子が、ソヴェトを見て来たというだけでベルリンの専門家に医療問題を話すときかされれば、軽い反撥もおこるだろう。話の
ものときめてそこへかけているような人々だった。ベルリンの木曜会なるものの性格が伸子に断面を開いたような感じだった。
ところに立って話をきいていた人々があった。ベルリンには日本人が千人あまりもいるそうで、そこに三々五々見えている人
笑った。伸子たちをいれて六人ばかりのものは、ベルリンの白夜とでもいうように薄明い夜の通りをぶらぶら歩きだした。
同じベルリンにいる日本人と云っても、この人たちと、今伸子たちがそこから出
たのは、繁華なクール・フールステンの通りの近くでベルリンでもビールがうまいので有名な一軒の店だった。カフェーよりも間口
も、ほんとにどうしてみんな行かないんでしょうね、せっかくベルリンまで来ているのに。――あんなに慾ばって最新知識の競争して
素子が云った。ベルリンには、日本人専門の女たちがいるそういう名のカフェーがあるのだった
棒にふったんじゃ間尺にあわないんだろう――何しろベルリンの日本人てのは、うるさいよ」
中館公一郎はベルリンでウファの製作所へ出入し、歌舞伎の来たときはモスク※でソヴ・キノ
こんどベルリンで公開されようとしている作品は、徳川末期の浪人生活をリアリスティックに扱っ
中館は伸子にききわけられなかったベルリンの興行会社の名を云った。
ときより、ずっと実際的な問題にみたされている。伸子はベルリンへ来て間もなくそれに気づいていた。モスク※で会ったときは
ていた長原吉之助の方が思いつめていた。あれからベルリンへかえって、七八ヵ月の生活が中館公一郎に何を経験させたかは
とするために、左翼の芸術運動が盛なように見えるベルリンでも、プロレタリア映画の制作は経済上なり立ちにくいということだった。
、すっかり夜につつまれた大通りの一角が眺められた。ベルリンが世界に誇っているネオンが、往来の向い側にそびえている建物の高さ
。色さまざまなネオン・サインは、動かない光の線でベルリンの夜景を縦横に走り、モスク※やウィーンで味わうことのなかった大都会の夜
のなかった大都会の夜の立体的な息づきを感じさせる。ベルリンの夜には、闇が生きものでもあるかのように伸子を不気味にする
伸子と素子とがベルリンへ来ると間もなく、中館公一郎と川瀬勇とはつれだって、彼女たちを
この二週間のうちに伸子と素子とが、シーズンはずれのベルリンで見られる芝居、きける音楽会のプログラムをしらべた。そして、伸子たちのために
にベートーヴェンの第九シムフォニーを演奏する。それと、旅興行でベルリンへ来るスカラ座のオペラがききものであったが、どっちも切符はほとんど売りきれで
ベルリン生活のながい川瀬は、懐都合とそのときの気分で、月のうちの幾
のまなくてもすむこのときわへ食事に来ていた。ベルリンのたべもの店には、ビールか葡萄酒がつきもので、それをとらない伸子たちは
な店のことをはなし、伸子たちがあらかじめ順序だてて、ベルリンにいる間、見たりきいたりしたいものの切符を買っておく方が便利
しらべはじめた。街頭に面して低く開いている窓から、ベルリンの初夏の軽い風が吹きこんで来て、その部屋のかすかな日本のにおいを
博士、木曜会の幹事である津山進治郎がいることから、ベルリンで伸子たちが動く軸が二つになった。
たあと、素子と二人が誘われたセント・クララ病院とベルリンの未決監病舎の見学は、どちらも全く官僚的な視察だった。セント・クララ病院
ベルリンの未決監獄は、アルトモアブ街に、おそろしげな赤錆色の高壁をめぐらして
だろう。機械人間の冷酷さ! そうでないならば、ベルリンの警視総監ツェルギーベルはメーデーに労働者をうち殺したりはしなかっただろう。
伸子たちはまた同じ木曜会の一行に加って、ベルリン市が世界に誇っている市下水事業の見学もした。下水穴へ、
黒い川が水勢をもって流れていた。それは、ベルリンの汚水の大川だった。自慢されているとおり完全消毒されている汚水
川瀬や中館たちが彼女たちに見せるものとはまるでちがったベルリンの局面を見学するのであったが、案内する津山進治郎にとって、こう
調子とつりあった外交団的雰囲気にまとまっているようだった。ベルリンへ来たら、伸子は寸刻も止らず動いている大規模で複雑な機構のただなか
で複雑な機構のただなかにおかれた自分を感じた。ベルリンにいる日本人にとって大使館はウィーンの公使館のように、そこにいる日本人の日常生活の
な存在ではなく、大戦後のインフレーション時代からひきつづいてベルリンに多勢来ている日本人は、めいめいが、めいめいの利害や目的をもって、
互に競争したり牽制しあったりしながらも、じかにベルリンの相当面に接続して動いているのだった。だから、噂によれ
だった。だから、噂によれば医学博士としてベルリンで専心毒ガスの研究をしているという津山進治郎がドイツの再軍備につよい
に近く暮している一群があることは、とりもなおさずベルリンの社会の姿そのものの、あるどおりのかたちなのだった。
。笹部準之助がなくなってから、その長男が音楽の勉強にベルリンへ来ているということは、きいていた。ゆたかな顎の線と
があるということをたしかめたくねがっている女である。ベルリンの機械化されたテンポに追い立てられて、まごつきながら抵抗を感じ、不機嫌な表情
は風に吹かれるように異様な心持につつまれた。ベルリンのこの人ごみで、伸子をこんなに衝撃する笹部準之助の顔が、つまりは顔だち
の顔からにげ出すことは出来ないのだ。その顔は、ベルリンにいようとロンドンへ行こうと、そこに日本人がいて、その日本人が笹部準之助
ベルリンには、伸子や素子のように、短い滞在の間、あれにも、これ
津山進治郎は、ベルリンで出会った伸子の心の日々にはこういういきさつもあり、同時に、モスク
女づれでも、塩豚とキャベジを水っぽく煮たようなベルリンの小店の惣菜をふるまった。津山進治郎は世間でいうりんしょくからそうなので
こういう話のでたのは木曜会員の一行がベルリンの下水工事を見学し、解散したあとのことで、津山進治郎、伸子、
ことしのメーデーにベルリンの労働者が殺されたとき、すべての新聞はそれを警官隊のしわざと報じ
別の考えようになるはずはない。その意味ではいまベルリンの小料理屋にいる津山進治郎と、労農党の代議士へ暗殺者をけしかけた人々との
と素子とはそこから、ニュールンベルグ広場まで地下鉄にのった。ベルリンの地下鉄は日本の山の手線のように、のんびりと一本の環状線で市の
話をきいたあとでは、自分がのってゆられているベルリンの地下鉄のこういう区切りかたにも、伸子は軍事的な意図を感じた。底意
軍事的な意図を感じた。底意をかくしながら几帳面な都会。ベルリンには意趣がふくまれている。
とかしこんでいる。ニュールンベルグ広場の四つの角に、ベルリン得意の自動交通信号機がそびえたっていた。機械が人間の流れを指揮するぎくしゃく
映画のタイトルでも読んだようにはっきり、日本のファシスト、ベルリンで孵る、という文句が伸子の心にうかんだ。そのひとつらなりの言葉
詩人の織原亮輔、森久雄などの論文のほかに、在ベルリン鈴村信二という名でドイツ労働者演劇に関する覚え書という記事もあり、ピスカトールの
ないようなところのできた伸子として、伸子は、ベルリンに来ているのだった。
奇妙な矛盾。伸子は、ふと似たようなものが、ベルリンにいる川瀬勇たちの生活気分のうちにもあるのではないかしらと思っ
すっきりしたオークルで、人絹のうすでな靴下だった。ベルリンの大きな百貨店ウェルトハイムの婦人靴下売場にはモスク※から来た伸子をびっくりさ
、女ばかりにくつろいだ室のなかの光景と、それはベルリンでのめずらしい一晩だった。
なめしがわでこしらえた椿の花の飾がついている。ベルリンへ来てから、伸子は初夏用の服を一着買った。それもさらり
のグループが、伸子と素子をつれて行ったのは、ベルリンの繁華街から二つばかりの通りをそれた、とある淋しい町だった。リンデンの
伸子たちのテーブルへ、ベルリンでおきまりのビールがくばられた。伸子の顔つきを見て、
ように素子がたしなめた。君たちも女づれだからってベルリンの表通りを見ていただけじゃ、と風変りなこのカフェーへ、案内され
「ベルリンには、もっと気ちがいじみたカフェーがある。囚人カフェーっていうんで、そこじゃ
ベルリン生活のそういうものが珍しくもなくなっている中館公一郎が沈んだ顔をして
※生活で忘れていたこだわりが、伸子によみがえった。ベルリンにこういう女カフェーがあるのを見せられて、伸子は、自分たちが主観的
「あなた、ベルリンていうところを、どう思う?」
「ベルリンの生活って、何だか矛盾に調和点がないみたいだわ」
様式に統一されていなければならなかった。だからベルリンでは綺麗な町ほど観兵式じみていた。やかましい規定をもった街路が
赤、橙、青の交通信号が絶えず瞬いている。ベルリンのレストランでは、献立につけてビールか葡萄酒をのまないものは、そのかわり
伸子は、ベルリンの電車のなかで、席があっても立ったままでいる中学生をよく見かけ
その少年たちの心の内にあるものが知りたかった。ベルリンでは長幼の序という形式がやかましい。しかし、ベルリンの劇や映画でセンセイション
。ベルリンでは長幼の序という形式がやかましい。しかし、ベルリンの劇や映画でセンセイションをおこしているのは、少年少女の犯罪を扱った
形式として表現派がつかわれているようだった。ベルリンでの表現派は、物体も精神も、破壊をうけて倒れかかる刹那の錯雑し
の花で飾られた自転車をつらねて一日のピクニックからベルリンの市内へかえって来る人々の大きい群があった。なかには若い夫婦
ノイケルンはメーデー以来大きく浮びあがっているけれども、伸子や素子がベルリンでのこまかいありふれた日々の間にふれている場面のなかへまでは、新しく
ベルリンのプロレタリアートは、津山進治郎のいう「モルトケの戦法」で、経済の上にも
めくりながら、日本は、ソヴェトの社会に似るよりもよけいにベルリンに似ていると思った。革命という字は、伸子にしても、
の日本人がいた。色さまざまなネオンにあやどられているベルリンの夜景にそむいてその一団は、輪になって興奮した調子の声で
の「シャッテン・デス・ヨシワラ(吉原の影)」がいよいよベルリンで封切りになるについて、きょうの午後おそく試写会がもたれた。出立の
来た川瀬勇たちの話によると、それを見たベルリンの日本人のなかに、いちはやく、中館公一郎をなぐっちゃえ、という声がおこって
のうちに展開される貧しさや苦悩は、貧乏くさくてベルリンにいる日本人の体面をけがす、国辱だ、といきまいているのだそうだった
ベルリンやパリの日本料理店が、主として日本人だけあいてにして店をひらい
中には、いくたりかの外国人もまじっていた。ベルリンの血のメーデーのときの記事を思い出させるところのある英字新聞の調子だった
めずらしがられているウィーンの模型じみた舞台をとおって、ベルリンで伸子が消えない印象を与えられたのは、カール・リープクネヒト館前の広場
伸子と素子とがベルリンで観そこなったピスカトールと有名な悲劇女優であるその妻の劇団がパリへ来
ベルリンで見た「三文オペラ」の舞台と比較して、素子がしきりにピスカトール
「わたしは、ベルリンでお医者の会に出たときそう思ったし、あなたに会ってからも
反ソ目的をもった社会民主主義論者でもないし、ベルリンの津山進治郎のように、現代のコンツェルンを、「わかれてすすみ合してうつモルトケ
は、ほんとにロンドンに三日いただけで、パリ、ベルリンを通過してモスク※へ帰った。伸子が佐々の家族にかこまれている
窓口の人々まで、なかなか気取っているのが特徴だった。ベルリンの日本の役人は官僚的に気取っていたが、パリのそういう日本人たちは
一段ごとにロンドンの失業者が鈴なりだった。血のメーデーにベルリンの労働者が射殺された。その記念の白い大きい輪じるしのついていた
れた。その記念の白い大きい輪じるしのついていたベルリンの広場。ワルシャワのメーデー。雨あがりの薄ら寒く濡れた公園の裏通り。ピストルのようだっ
モスク※へ行けないわけはなかっただろう。しかし、伸子がベルリンであった日本の医学者たちがそうであり、ロンドンにいる利根亮輔がそう
ている。伸子は熱心に国境沿線の景色を見ながら、ベルリンへついたとき、あわてて降りて、パリからの列車の中に置き忘れて
ながら。フランスとドイツの国境を伸子は夢中ですぎた。ベルリンの数時間は、伸子が眠りと眠りとの間に目をあいて、たべて
七ヵ月は、伸子を成長させた。ロンドン。パリ。ベルリン。ワルシャワ。そこにあった生活とモスク※の生活との対照は、あんまり具体的
「七ヵ月ばかり、あっちこっちして、ロンドンやベルリンをちょっとでも見て来たのは、わたしのために、ほんとによかった
んです。ドイツにしても――ドイツってところは、ベルリンをちょっと見ただけだけれども気味がわるかった。ソヴェトというものの価値が
ベルリンでは「血のメーデー」だった。カール・リープクネヒト館前の広場で、労働者
伸子たちは、メーデーの半月ばかり前から思いもかけず、ベルリンからモスク※へ来た若い画家の蒲原順二と、一つホテルの部屋に雑居
わけです、佐々さん。ここにいる日本の青年は、さっきベルリンから来た画家です。ヘル・ジュンジ・カンバーラ」
「わたしたちは、ベルリンで彼に会っていません。いまはじめて会ったばかりです」
がどんな画家であるか、わたしはそれを知りません。ベルリンで彼がどのように生活して来たか、わたしたちは、それも知らない
「わたしも知りません。だが、彼はベルリンで描いた絵を数点もって来ています、それは今、美術部の
蒲原順二は、去年の十二月はじめからベルリンにいたということだった。伸子がその同じ十二月にパリからモスク※
月にパリからモスク※へ帰るとき、列車を乗りつぐ時間、ベルリンにいた。往きにベルリンで暮した数日の間つきあった川瀬勇にも
帰るとき、列車を乗りつぐ時間、ベルリンにいた。往きにベルリンで暮した数日の間つきあった川瀬勇にも会ったが、蒲原という
といっしょにドアがあいて、姿を現したのは、ベルリンの川瀬勇だった。
伸子たちがベルリンに滞留した去年の初夏、中館公一郎は川瀬勇などのグループにまじってい
ベルリンで毎日世話になっていた川瀬がモスク※へ来たのに、何の
あれから満一年たって、ベルリンやロンドンの生活からモスク※の社会を観てふたたびモスク※へ帰って来た
ベルリンから来た列車が、ほこりで醜くなった暗緑色の車体を北停車場の巨大な
の雰囲気が伸子をうった。ウィーンのようでなく、またベルリンのようでもなく、パリでは生活しようと思いこんで来た伸子は、それ
十一時の人通りの賑やかなモンパルナスを下手通りへ歩いた。ベルリンの夜は、異様に鮮やかな赤、青、橙、菫色のネオン・サインが
だった。が、その一隅の光景はみものだった。ベルリンだったらどんなにか赤・橙・青と三色の交通信号が気やかましく明滅
「ベルリンにいたのに、うっかりしていたわねえ、アスピリンぐらい買っておけば
た。少女たちの洗いざらした灰色木綿の上っぱりは、伸子にベルリンの未決監獄で見た灰色木綿の服の色を思い出させた。二人の少女
へだたりを忘れた。素子はパリへつくとすぐ、ベルリンにいたときそうであったようにタバコに興味を示した。通の吸う
はホテルの室にいて、素子は化粧台の上にベルリンで買ったロシア語のタイプライターを置き、練習をしていた。伸子は、まだ
だった。為替相場は一フランが日本の十二銭強で、ベルリンの一マークが三十五銭ばかりだったのからみるとずっとやすかった。モスク※で
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このメーデーに、日本では川崎に武装した労働者の行進が行われた。
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のやっちゃ、大いに国威を発揚していたのさ。富士山だの桜だのってね。そこへ、『シャッテン・デス・ヨシワラ』に出
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を立て、三脚を立てた写真師が日本でなら日光や鎌倉などでやっているように店をはっていた。五十カペイキでうつすと書い
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で見つめていた自分のコートを着た姿。やがて、佃の本籍地の役場で離婚手続きはされなければならないとわかったときの新しい
ない心持で生活していた。日本にいたころ、佃の住居のある町を電車で通ったりするとき、そこいらの角から不意に
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唯物史観の本をよみながら、同じときに京都へかえれば祇園のおつまはんとの全く伝統的な花街のつき合いをしていたように。伸子
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自殺した事件があった。武島家の所有であった北海道の大農場を農民に解放したりしたその作家が苦しんで、破滅した
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一度もあらわれたことがなかった。全連邦共産党の本部はクレムリンの城壁の内側にあった。そこへ通るために、伸子たちのもっている
ていた。それはソヴェト宮殿だった。中世紀的なクレムリンの不便な建物の中から、落成したらソヴェト政府が移るべき近代建築が着手
られないトゥウェルスカヤ通りがモスク※大公の時代からトゥウェリの市とクレムリンの城壁をつなぐ一本のほこりっぽい街道であったように、ヴォージラールは、ヴェルサイユと
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(例)秋田訛
すこし秋田訛のある言葉を、内海は、ロシア語を話すときと同じように几帳面に
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で云えばキエフのようなキヨトであること。この藤娘は京都の特に優秀な店でつくらしたものであること。人形の衣裳は、本
て来ていた。そして、春にでもなったら、京都か奈良へ行ってしばらく暮して見ようと思っているとあった。奈良に
京都で生れて、京都の商人で生涯をおくっている素子の父親やその一家は、素子を一族
京都で生れて、京都の商人で生涯をおくっている素子の父親やその一家
よりずっと先に唯物史観の本をよみながら、同じときに京都へかえれば祇園のおつまはんとの全く伝統的な花街のつき合いをしてい
川辺みさ子は、おお! という外国風な叫びと京都弁とをまぜて、ベッドの上におき直った。
に外国語でタイプされた小さな貼紙がついていた。京都に埋められる遺骨の一部を東京にのこすために分骨するとき、こころを入れ
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は、ものうげに小さい木の台へ腰をおろして、山形につみ上げたリンゴを売っていた。ちょっと肩のはった形で、こい
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という町のあたりは知らなかったが、雨の日の奈良公園とそこに白い花房をたれて咲いていた馬酔木の茂みは、まざまざ
へ行ってしばらく暮して見ようと思っているとあった。奈良に須田猶吉が数年来住んでいて、その家から遠くないところに
ていた。そして、春にでもなったら、京都か奈良へ行ってしばらく暮して見ようと思っているとあった。奈良に須田猶吉
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。ノヴィコフは日露戦争のとき、日本の捕虜になって九州熊本にいた。そのとき親切にしてくれた日本の娘が、お花さん
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結婚三月十四日も唐突ながらわかった。五月二十三日神戸発、七月一日にマルセーユに着というのもわかるけれども、一家と
マルセーユに着く。五月二十日ごろ佐々の一家をのせて神戸を出帆した日本郵便株式会社のカトリ丸は七月一日の午前九時ごろに
心の前に一つの新聞写真があった。それは神戸についた欧州航路の優秀船の上甲板に仲よく並んで写真班に撮影
人は、少女のつや子までをふくめて五月二十五日ごろ神戸を出帆する郵船の船にのったはずだった。
伸子は、五月二十日ごろ神戸を出た欧州航路の船はいまごろ、どの辺を通過しているだろうと
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にうつった。ミスタ・ステッソンというひとは、存命中、長崎の領事だったということで、大戦前の日本の、地方の小都市
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「どうせ、うちのようにおとなしい人は佐賀多さんみたいな巨匠になれっこはないんですもの」
思うわ――マチスの生活なんて、すばらしいもんですってねえ。佐賀多さんなんかも、いまめきめきうり出していらっしゃる最中だから、相当派手にやっ
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「『わたしの巴里』ができかかりなんだから。――なんだか、わかりかかって来て
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灰黄色の眼をした巨人のようなひともВОКСの東京派遣員であった。こんど、佐内、秋山その他の人たちが国賓と
してもいる。伸子たちが、旅券の裏書のことで東京にあるソ連大使館のなかに住むパルヴィン博士に会った。あの灰黄色の眼
はすべて日本語で語られているにしても、伸子が東京ではきいたことのない議論だった。そして、きのうまでのシベリア鉄道で
出あった。一二年前、レーニングラードの日本語教授コンラード夫妻が東京へ来たとき、ひらかれた歓迎会の席へ、日本語の達者な外交官の
元のままであったが、そのときのクラウデには、東京で逢ったときの、あの居心地わるいほどつるつるした艷はなくなっていた
東京とモスク※と、遠いように思っていても、こうして、たった
をぬいた字で、こうかいていた。「僕が東京高校へ入学したとき、お祝に何か僕のほしいものを買って
保さんの東京高校というところは、たった一人の貧しい学生もいないほど金持の坊ちゃん
で出していた。動坂の家からは、伸子が東京あてのエハガキをかくよりも間遠に、和一郎がかいたり、寄せ書きしたりし
東京から返事の電報が来るまでには少くとも二三日かかるということだった
は茶のテーブルに向っていた。その午後、伸子は東京からの返電をまっている心持があんまり張りつめて苦しいので、素子につれ出さ
デーツコエ・セローの郵便局から伸子がジジヨウシラセと東京の家へ電報した三日目の夕刻だった。パンシオン・ソモロフの人々
・ソモロフをひきあげようとしていた九月はじめ、伸子は東京からの電報以来、はじめての手紙をうけとった。丈夫な手漉きの日本紙でこしらえ
パリッとした白い紙に昭和三年八月十五日。東京。父より。伸子どの。と二行にかかれていた。わが家庭の
思わずもらい泣きをした。こういうことがあったから、東京から行った若いものが多計代に、保さんはこっちへ来ていませ
は解約した。伸子の容態に見とおしがついたから、東京の佐々の家へ大体の報告をかいてやったことなどを素子は話し
を見つけ出しては、その余白に、短いたよりを書いて東京のうちや友達に送った。そういう伸子の買いものにナターシャは興味をもた
てやった。糖尿病からのアセモがひどくて、毎年夏は東京にもいられない多計代が、どうして真夏の欧州航路で印度洋
な場所で、伸子は文明社からの送金を、素子は東京の従弟にまかせて来ている送金を受けとることができる手筈をととのえておく
モスク※東京間の電報往復にさきを越されてやっと三月三十日ちかくなってつい
と、伸子は苦しく、おそろしかった。関東の大震災のとき、東京そのほかで虐殺された朝鮮人の屍の写真を見たことがあった
の暗さとしか伸子に思えなかった。東京に生れて東京で育った伸子は、日本の地方の特殊部落に対する偏見も実感とし
は、ヨーロッパ文明の暗さとしか伸子に思えなかった。東京に生れて東京で育った伸子は、日本の地方の特殊部落に対する偏見
往きと帰りに日本へよった。二度めにジンバリストが東京へ来た期間の或る日、上野の音楽学校でベートーヴェンの第九シムフォニーの
貼紙がついていた。京都に埋められる遺骨の一部を東京にのこすために分骨するとき、こころを入れてその日の世話を見て
いまは過渡な華やかさは消えているヨーロッパ風の社交性と東京の女らしい淡泊さは一種の洗練された雰囲気に調和されてい
という美しい日本婦人が、明治の初年、外交官として東京に来ていたウィーンのクーデンホフ伯爵夫人となって、一生をウィーンで過し
は、クーデンホフ夫人の客間でも感じた、と思った。東京に生れた光子という美しい日本婦人が、明治の初年、外交官として
ていいフランスのこの自然色は服地にもつかわれて、東京にあるフランス人経営の中学校の制服に同じ系統の色が用いられていた
何という多計代の変りかただろう。伸子が東京を立って来たころは、いつもふっさりと結ばれていて、多計代
立って来る前、もうそれは十二月にはいってからの東京の寒い夜のことだったが、泰造は風邪気味だといって早く床
と伸子に云った。これは泰造のくせだった。東京で、伸子が泰造の事務所へよって昼飯を一緒にたべたりしたあと
告げながら腰をおろした。こんな風な骨董商歩きも、東京で、泰造と伸子とが一度ならずつれだったなぐさみである。
になった佐々の荷物の一部を、ロンドンへ立つ前に東京の家へ向けて発送しておくということになった。
するようになってから、伸子の時間と精力とは、東京の家からそのままパリまでもちこされてついて来ている佐々一家の、
こんど親たちにつれられて旅行に出るまで、つや子は東京にある三種類の尼僧女学校の一つに通っていた。その学校の
同盟が、ウラジボストークにある極東銀行を閉鎖したことは、東京の従弟を通じて素子がうけとる自身の金の取り扱いを複雑にした。
した結果、蒲原は、主題をかえて、二月の東京市電のストライキのときに、男女従業員が催涙弾で襲撃された事件を描く
素子のために送金そのほか連絡係をしていてくれる東京の従弟の分として選ばれることもあり、時にはまるで誰に
とが四月二十九日にモスク※を立って来る前、東京と打ち合わせたきりであった。カトリ丸の出帆は汽車と同じように日どり
帯がどんなに厄介で、暑いだろう。夏になると毎年東京をはなれて暮していた多計代のことを思い出し、いくら乾燥してい
去年の八月一日に、保は東京の家の土蔵の地下室で自殺した。伸子は、その夏、レーニングラード
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日本にいたとき、わざわざ九段下の支那ものを扱っている店へ行って、支那やきの六角火鉢と碧色
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出会ったことがなかったが、菜っ葉服をきた若い男女が銀座をのしまわすことが云われていた。その時分、ジャーナリズムにはエロ、
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も明治初年に建てられた学校講堂めいた古風で飾りけない上野の音楽学校の舞台に、その日は日本で屈指な演奏家たちが居並んだ
二度めにジンバリストが東京へ来た期間の或る日、上野の音楽学校でベートーヴェンの第九シムフォニーの初演があった。いかにも明治初年
。雪道をきしませてホテルへかえって来ながら伸子は最後に上野できいて来たベートーヴェンの第九シムフォニーの演奏を思いおこし、それが、どんな
、並んでおいてあった。川辺みさ子は、その春、上野の音楽学校を首席で卒業したばかりの若いピアニストだった。細面の、
、そのころの音楽会と云えば大抵そうであったように上野の音楽学校で開かれた。飾りけない舞台の奥のドアがあいて、
をききに行った。それはベートーヴェンの作品ばかりのプログラムで上野の講堂にひらかれた。一曲ごとに満場が拍手した。そして熱演
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ない災難がおこった。或る晩、友人のところから帰りがけ、赤坂見附のところで川辺みさ子は自動車に轢かれて重傷を負った。夜ふけの奇禍
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は知っている一つの場所があった。それは「神田」という日本人のやっている土産店だった。
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が、泰造や伸子のうけた印象を率直にあらわした。内幸町の帝国ホテルの建てかたは、多計代の気に入っていず、泰造も
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とは、駒沢まで帰る玉川電車が出てしまったあとの渋谷で困ったことのある自分たちの心もちに翻訳して、蜂谷の当惑を
当座のことだった。モスク※へ立って来る前に、渋谷からタクシーで、佃の住んでいる町の角々に目をとめて、冷たい
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は、混乱に乗じて各地に大量の朝鮮人虐殺がおこり、亀戸署では平沢計七のほか九名の労働運動者が官憲によって殺さ
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はきわめて閑散だった。伸子たちは、壁にモザイクで、新橋とステーションの名を書いてあるあたりで立っていた。素子がタバコで