半七捕物帳 54 唐人飴 / 岡本綺堂
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この久保町、緑町、百人町のあたりへ、去年の夏の末頃から彼の唐人飴を売る男が来た
庄太は浅草の馬道に住んでいながら、その菩提寺は遠い百人町の海光寺であるので、きょうは親父の命日で朝から墓参に来ると、
あらわれている久保町の一部に過ぎない。青山五丁目六丁目は百人町の武家屋敷で、かの瞽女節でおなじみの「ところ青山百人町に、鈴木主水
らにそれらしい人影も見えなかった。大通りへ出ると、百人町の武家屋敷は青葉の下に沈んで、初夏の昼は眠ったように静か
きのうの日暮れ方に源次を帰して、彼は百人町の菩提寺にひと晩泊めて貰った。しかもその夜のうちに、眼と鼻
ので、源次だけをそこに残して、半七と亀吉は百人町の表通りをぶらぶらと歩き出した。ほかに行く所もないので、二人は
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江戸の地図を見れば判るが、青山には久保町という町があった。明治以後は青山北町四丁目に編入さ
綽名が出来た。よし原に羅生門河岸の名はあるが、青山にも羅生門が出来たのである。その由来を説明すると長くなるが、
ある筈だ。あいつと相談してやってくれ。おれも青山へ一度行ってみよう」
「ようがす。親分はあした青山へ出かけますかえ」
時に、彼はきょうの掘り出し物を自慢して、これも青山へ墓まいりに行ったお蔭であるから、死んだ親父の引き合わせかも知れないなど
の跡をたずぬべきようも無いが、こんにち繁昌する青山の大通りは、すべて武家屋敷であったと思えばよい。町屋は善光寺門前と
、初夏の昼は眠ったように静かである。渋谷から青山の空へかけて時鳥が啼いて通った。
にかけて懇意の飴屋仲間を問い合わせたが、唐人飴屋で青山の方角へ立ち廻る者はないらしいというのであった。
のために浅川の芝居の前へ行った。その頃の青山には、今の人たちの知らない町の名が多い。久保町から権田原
て働け」と、半七は苦笑いした。「おめえは早く青山へ引っ返して、そこらの外科医者を調べてみろ。今度斬られたのは
なる。これだけのことを肚に入れて、おめえは早く青山へ行け」
「おい、亀、御苦労だが、青山まで一緒に行ってくれ」と、半七はすぐに立ち上がった。「筋は途中
大体の筋を話しながら、青山まで行き着くあいだに、きょうの空は怪しく曇って来たが、どうにか今夜
青山には庄太が出張っている。こちらからは半七と亀吉が出てゆく。三
今朝はうららかに晴れたので、半七と亀吉は早朝から青山へ出向いた。ここらの青葉の色も日ましに濃くなって、けさも時鳥
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町から権田原の方角へ真っ直ぐにゆくと、左側に浅川町、若松町などという小さい町が続いている。それは現今の青山北町二丁目辺である
「照之助は兄きの岩蔵と一緒に、若松町の裏店に住んでいます。兄きも役者で市川岩蔵というのですが、
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江戸の地図を見れば判るが、青山には久保町という町があった。
「そうかも知れねえ。だが、この広い江戸にも唐人飴が五十人も百人もいる筈はねえ。それからそれへ
江戸の劇場は由緒ある三座に限られていたが、神社仏閣の境内に
していながら、先例を重んずる幕府の習慣として、江戸を終るまであらためられなかった。
で、これがよかろうと云うことになったが、さすがに江戸のまんなかでは困るので、遠い場末の青山辺へ出かけることになったん
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でも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦をたたい
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あくる朝は晴れていた。半七は八丁堀の屋敷へ行って、唐人飴の探索に取りかかることを一応報告した上で
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名を訊いたらば、虎吉と答えた。家は四谷の法善寺門前であると云った。
「四谷の法善寺門前の虎吉という奴だと聞きましたから、実は帰り路に四谷へまわっ
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行けば、右側が久保町で、その筋むかいの左側に梅窓院の観音がある。観音のとなりにも鳳閣寺という真言宗の寺があって
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、小さくなって恐縮している。だんだん調べると、こいつは外神田の藤屋という相当の小間物屋のせがれで、名はたしか全次郎といいまし
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がその名を訊いたらば、虎吉と答えた。家は四谷の法善寺門前であると云った。
「四谷の法善寺門前の虎吉という奴だと聞きましたから、実は帰り路に四谷
虎吉という奴だと聞きましたから、実は帰り路に四谷へまわって、北町の法善寺門前を軒別に洗ってみましたが、虎
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は、すべて武家屋敷であったと思えばよい。町屋は善光寺門前と、この物語にあらわれている久保町の一部に過ぎない。青山五丁目六丁目
は師匠の小三の家にいるのです。小三の家は善光寺門前です」
。自分は年が若い、相手は頑丈の大男ですから、善光寺の仁王さまを拝んで、十人力を授かるように祈って、角兵衛の出入りを
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左側に梅窓院の観音がある。観音のとなりにも鳳閣寺という真言宗の寺があって、芝居の鳴り物はその寺の境内からきこえて
が、その土地相応に繁昌していたのである。鳳閣寺の宮芝居は坂東小三という女役者の一座で、ここらではなかなかの人気者
鳳閣寺の境内を出て、半七は更に久保町へむかった。ここらにも町
「おめえは知るめえが、鳳閣寺の女芝居で国姓爺の狂言をしている。十六文の宮芝居だから、衣裳なんぞ
くずしていると帰ってしまうかも知れないと、二人は鳳閣寺へ急いで行くと、桶屋の源次が門前に待っていた。
鳳閣寺の門前には庄太が待っていた。
「鳳閣寺の芝居ですね」
をするのは不都合だというので、浅川の方から鳳閣寺の芝居小屋へ掛け合いを持ち込んだが、四の五の云って埓が明かない
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。わたしは例のごとく半七老人をたずねようとして、赤坂の通りをぶらぶら歩いてゆくと、路ばたには飴屋の屋台を取りまいて二、
「お弟子入りの子供をたのまれて、赤坂の方から参りましたが……」と、半七はおだやかに云った。
のではないかと思われるのは、おふくろのお金が赤坂まで金創の塗り薬を買いに行ったことである。師匠の文字吉は風邪
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。久保町から権田原の方角へ真っ直ぐにゆくと、左側に浅川町、若松町などという小さい町が続いている。それは現今の青山北町二丁目
ている。それは現今の青山北町二丁目辺である。その浅川町の空地にも小屋掛けの芝居があって、これは男役者の一座である。
ては、虎狩の虎を勤める役者に困ったので、浅川町の男芝居から市川岩蔵と照之助の兄弟を引っこ抜いて来ました。岩蔵はごろつき
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の仲間を洗わせることにした。下っ引の源次は下谷で飴屋をしている。それと相談して万事いいようにしろと、
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キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで
でも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦
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まだ相当に繁昌している明治時代の三月の末、麹町の山王山の桜がやがて咲き出しそうな、うららかに晴れた日の朝
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男は半七の子分の庄太であった。庄太は浅草の馬道に住んでいながら、その菩提寺は遠い百人町の海光寺であるので
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神田三河町の半七の家では、親分と庄太が向かい合っていた。
ん、大抵は二十代か三十代の年増です。日本橋や神田の下町からも来ますし、四谷牛込の山の手辺からも来るそうです。
半七はあとを頼んで神田へ帰った。彼が鳳閣寺内の宮芝居をのぞいたのは、単に芝居好き
町奉行所から寺社方へ通達の手続きを頼んだ。それから神田の家へ帰ると、その夜更けに亀吉と源次も帰って来た。
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「旦那はあります」と、庄太は答えた。「原宿町の倉田屋という酒屋の亭主だそうですが、文字吉は感心に
のことですから大していい顔の人もいませんが、原宿の弥兵衛という人があります」と、亭主は答えた。「子分と
人で、町内の為にもよく働いてくれました。原宿の弥兵衛は別な人で、これは薬罐平さんのようには行きませ
れたのか知らねえが、ゆうべの四ツ過ぎに、原宿の弥兵衛の子分が怪我人をかつぎ込んで来た。怪我人は弥兵衛の一の子分
五の云って埓が明かない。それを聞き込んだのが原宿の弥兵衛で、それなら俺の方から掛け合ってやる……。こういうとき
杯飲んだ勢いで、舞台の唐人衣裳を着たままで原宿の弥兵衛の家へ出かけると、弥兵衛はなにか急用があって表へ出
芝居の方でもいろいろ相談の末に、岩蔵をたのんで原宿へやりました。岩蔵は博奕も打つ奴で、弥兵衛の家へも出這入り
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ありません、大抵は二十代か三十代の年増です。日本橋や神田の下町からも来ますし、四谷牛込の山の手辺からも来るそう
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沈んで、初夏の昼は眠ったように静かである。渋谷から青山の空へかけて時鳥が啼いて通った。