鐘ヶ淵 / 岡本綺堂
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殺生禁断の時代に取毀されて、その後は木母寺または弘福寺を将軍の休息所にあてていたということであるが、大原家の
であるが、大原家の記録によると、木母寺を弘福寺に換えられたのは寛保二年のことであるというから、この話の
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なっている。このときの御成も単に遊覧のためで、隅田のながれを前にして、晩春初夏の風景を賞でるだけのことであっ
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僕の友人に大原というのがいる。現今は北海道の方へ行って、さかんに罐詰事業をやっているが、お父さんの代まで
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を泳いでいたので、すこぶる水練に達している。江戸へ出て来てから自分に扈従する御徒士の侍どもを見るに、どう
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そんなことに時を移しているうちに、浅草寺のゆう七つの鐘が水にひびいて、将軍お立ちの時刻となった
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代将軍綱吉の殺生禁断の時代に取毀されて、その後は木母寺または弘福寺を将軍の休息所にあてていたということであるが
ということであるが、大原家の記録によると、木母寺を弘福寺に換えられたのは寛保二年のことであるというから、
ことであるというから、この話の享保時代にはまだ木母寺が将軍の休息所になっていたものと思われる。
四月の末というのであるから鷹狩ではない。木母寺のすこし先に御前畑というものがあって、そこに将軍家の台所用の
将軍と少数の近習だけで、ほかのお供の者はみな木母寺の方に控えている。大原右之助は二十二歳で御徒士組の一人として
で正式にお請けの口上をのべて、三人は再び木母寺へ引っ返して来た。それぞれに身支度をするためである。なにしろ珍らしい御用である
もとの芝生の茶屋へ戻った。御徒士の者共も木母寺の休息所へ引っ返して、かの三人は組頭からも今日の骨折りを褒められ
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ござると答えたのである。大原ばかりでなく、三上も福井も呼び集められて、かれらも一応は水練の有無を問いただされた。
はおなじく立ち泳ぎをしながら西瓜と真桑瓜の皮をむいた。福井は家重代の大鎧をきて、兜をかぶって太刀を佩いて泳いだ
大原と肩をならべる水練の達者は、三上治太郎、福井文吾の二人で、去年の夏の水練御上覧の節には、大原は
一番、その次は二十二歳の大原右之助で、二十歳の福井文吾が最後に廻された。年の順とあれば議論の仕様もない
つづいて第三番の福井文吾が水をくぐった。彼はやがて浮きあがって来て、こういう報告を
からも今日の骨折りを褒められたが、そのなかでも福井が最も面目をほどこした。公方家から特別に御賞美のおことばを下さ
もあり、家柄も上であるところの三上は、若輩の福井に対してまことに面目ない男になったのである。
したのに、最後に行って、しかも最も年のわかい福井文吾がそれを見いだしたというのであるから、かれらはどうして
その周囲の状況などを、いずれもくわしく聞こうとした。福井がこうして持囃されるにつけて、ここに手持無沙汰の人間がふたり出来た
いうほかに、それが大勢の好奇心をそそったので、福井のまわりを幾重にも取りまいて、みな口々に種々の質問を浴びせかけた
「福井はほんとうに鐘を見付けたのだろうか。」
のかも知れない。それを思うと、かれは一途に福井をうたがうわけには行かなかったが、実際その鐘がどこかに横たわって
て、底の底まで根よく猟り尽くしたらば、あるいは福井と同じようにその鐘の本体を見付けることが出来たのかも知れない
ない。おれにも見えないという鐘が、どうして福井の眼にだけ見えたのだろう。」と、三上は又ささやいた。「
て、いざ引揚げという時にそのいつわりが発覚したら、福井の身の上はどうなるか。将軍家から特別の御賞美をたまわっているだけに
たちの口から迂濶にそれを言い出すと、なんだか福井の手柄をそねむように思われるのも残念であると、大原は考えた
三上のいう通り、もしも福井文吾が軽率の報告をしたのであるとすれば、本人の落度ばかり
間違えば、やはり腹切り仕事である。こう煎じつめてくると、福井の制裁と組じゅうの不面目とはしょせん逃がれ難い羽目に陥っているので
沈んでいる鐘を福井が確かに見届けたと将軍の前で一旦申立ててしまった以上、今と
その真偽を判断することは出来なかったが、万一それが福井の失策であった場合にはどうするかという心配が、かれの胸
「では、福井を呼んでよく詮議してみよう。」
を見届けたのかと重ねて詮議することになった。福井はたしかに見届けましたと答えた。
しては差しあたりそのほかに方法もないので、すぐに福井をそこへ呼び付けて、貴公は確かにその鐘というのを見届けたの
いくたび念を押しても、福井の返答は変らなかった。彼はあくまでも相違ござらぬを押し通しているの
「福井はどうしても見届けたというのだ、貴公等はたしかに見なかっ
たと主張することであるが、唯それだけのことで福井の申立てを一途に否認するわけには行かないので、この上は自然
も揃って見なかったというものを、最も年のわかい福井ひとりが見届けたと主張することであるが、唯それだけのことで福井
組頭が立去ったあとで、三上は福井に言った。
、誰の前でも変改が出来るものか。」と、福井は言った。
か、それは大原にもよく判らなかったが、相手の福井はそれを後者と認めたらしく、やや尖ったような声で答えた。
それが年長者の親切であるのか、あるいは福井に対する一種のそねみから出ているのか、それは大原にもよく判ら
、近習頭から供揃えを触れ出された。三上も大原も福井も、他の人々と一緒にお供をして帰った。
「福井の奴が鐘を見たというのがどうも腑に落ちない。これ
「おれの見損じか、福井の見あやまりか。あるものか、ないものか。もう一度確かめて来なければ
文吾で、これも同じこしらえで刀を背負っていた。福井も無論死んでいた。
っ組んで浮かんだままでいた。組み合っている男は福井文吾で、これも同じこしらえで刀を背負っていた。福井も無論死ん
福井の家の者の話によると、彼はお供をすませて一旦わが家へ
夜を冒してそこへ忍んで行ったのであるが、福井はなんの目的で出直して行ったのか、その子細は誰にも容易
その子細を知っている者はないらしかった。しかし三上と福井の身ごしらえから推量すると、かれらは昼間の探険を再びするつもりで水底
ひとりが知っているだけで、余人には判らなかった。福井がどうして行ったのかは、大原にも判らなかった。他に
もし果してそうであるとすると、三上と福井とがあたかもそこで落合ったことになる。ふたりが期せずして落合って
後者は、鐘のないことがいよいよ確かめられたために、福井は面目をうしなった。自分は粗忽の申訳に切腹しなければならない。
は、果して鐘のあることが判ったために、三上は福井の手柄を妬んで、かれを水中で殺そうと企てたのであろうという
「それでも貴公は運がよかったのだ。三上と福井が死んだのは水神の祟りに相違ない。それが上のお耳に
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きょうの役目をすませて、大原が下谷御徒町の組屋敷へ帰った時には、このごろの長い日ももう暮れ切って
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鐘ヶ淵
が、手前よりも内々に申し含めて置く。こんにちの御用は鐘ヶ淵の鐘を探れとあるのだ。」
て半鐘を淵の底に沈めたので、そのところを鐘ヶ淵と呼ぶというのである。「江戸砂子」には橋場の無源寺
誰がまず第一に鐘ヶ淵の秘密を探るかということが面倒な問題である。三人が同時
彼はこれから鐘ヶ淵へ引っ返して行って、その実否をたしかめるために、ふたたび淵の底にくぐり入ろう
者も案じていると、あくる朝になってその亡骸が鐘ヶ淵に発見された。彼はきのうと同じように半裸体のすがたで刀
いたが、大原はおいおい快方にむかうにつれて、かの鐘ヶ淵の水中に意外の椿事が出来していたことを洩れ聞いた。三上はその
ていると、これもそのまま帰らないで、冷たい亡骸を鐘ヶ淵に浮かべていたのであった。
三上が鐘ヶ淵へ行った子細は、大原ひとりが知っているだけで、余人には判ら
果して水神の祟りを恐れたかどうかは知らないが、鐘ヶ淵の引揚げがその後沙汰やみになったのは事実であった。大原家
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、吉宗はさらにそれを奨励するために、毎年六月、浅草駒形堂附近の隅田川において御徒士組の水練を行なわせることとし
そんなことに時を移しているうちに、浅草寺のゆう七つの鐘が水にひびいて、将軍お立ちの時刻と
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ば、むかし豊島郡石浜にあった普門院という寺が亀戸村に換地をたまわって移転する時、寺の什物いっさいを船にのせて
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きょうの役目をすませて、大原が下谷御徒町の組屋敷へ帰った時には、このごろの長い日ももう暮れ切ってい
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(例)隅田川御成
と定められて、そこには将軍の休息所として隅田川御殿というものが作られていたそうである。それが五代将軍
のことはよく知らないが、二代将軍の頃には隅田川の堤を鷹狩の場所と定められて、そこには将軍の休息所と
いる。やはりその年のことであるというが、将軍の隅田川御成があった。僕も遠い昔のことはよく知らないが、二代
ある。それは将軍吉宗が職をついで間もなく、隅田川のほとりへ狩に出た時、将軍の手から放した鷹が一羽
を奨励するために、毎年六月、浅草駒形堂附近の隅田川において御徒士組の水練を行なわせることとした。
、去年の夏の水練御上覧の節には、大原は隅田川のまん中で立ち泳ぎをしながら短冊に歌をかいた。三上はおなじく立ち泳ぎを
と違ってその頃の堤は低く、川上遠く落ちてくる隅田川の流れはここに深い淵をなして、淀んだ水は青黒い渦をまい