三浦老人昔話 / 岡本綺堂
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口というのでなか/\繁昌したものです。殊に御殿山のお花見が大層賑いました。お浚いは昼の八つ(午後二時)
七八人連の男は、どれも町人や職人風で、御殿山の花見帰りらしく、真紅に酔った顔をしてよろけながらこの茶屋のまえに
は高輪辺に住まっております者でございますが、先日御殿山へ花見にまいりまして、その帰り途に川与という料理茶屋のまえを通り
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から空の色がまた怪しくなって、わたしが向ってゆく甲州の方角から意地わるくごろ/\云う音がきこえ出した。どうしようかと少し
頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。
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それから六年目が慶応四年、すなわち明治元年で、江戸城あけ渡しから上野の彰義隊一件、江戸中は引っくり返るような騒ぎになりました
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桜井衛守というのは本所の石原に屋敷を持っていて、弓の名人と云われた人でした
たとい本所の屋敷へ引取られないでも、今の商売をやめて弟の世話になる
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をとりました。その時の話に、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の
森垣さんは奥州のある大藩の侍で、貝の役をつとめていたのです。いくさの
て下さい。安政の末年のことで、その諸越のところへ奥州のある大名――と云っても、例の仙台様ではありません。
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を聞き出そうと巧らんで、から風の吹く寒い日を赤坂まで出かけて行ったのであった。
聞いた話ですから、天保初年のことゝ思ってください。赤坂の桐畑のそばに小坂丹下という旗本がありました。千五百石の知行取り
と知合いになったのだと云いますが、その先代も赤坂あたりの常磐津の女師匠を囲いものにしていたとか云う噂があり
の体にして、死骸を駕籠にのせて、竊と赤坂の屋敷へ送りとゞけると、屋敷でもおどろきましたが、場所が場所、場合
来ました。これもその一つです。いや、これは赤坂へ行って半七さんにお聴きなすった方がいゝかも知れない。あの人
「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今こゝで聴かせて頂きたい
「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今こゝで聴かせて頂きたいもんです
ですが、嘉永二年の六月十五日、この日は赤坂の総鎮守氷川神社の祭礼だというので、市川さんの屋敷では強飯
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を通るということは、前以て江戸の道中奉行から東海道の宿々に達してありますから、ゆく先々ではその準備をして待ち受けて
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話によると、それより五六日ほど前に、お仙が大木戸の親類まで行ったとき、途中でお近さんに逢ったそうです。お近
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、大変でしたろう。なにしろこゝらは躑躅の咲くまでは、江戸の人の足蹈みするところじゃありませんよ。」
格で出かけたのです。よその藩中と違って、江戸の侍に勤番というものは無いのですが、それでも交代に大阪の
そんなわけですから、甲府詰などとは違って、江戸の侍の大阪詰は決して悪いことではなかったので、今宮さんも大威張り
何月何日にはどこを通るということは、前以て江戸の道中奉行から東海道の宿々に達してありますから、ゆく先々ではその準備
欺うにか押込んで、先ず表向きは何の不思議も無しに江戸を立つことになりました。
こゝまでは至極無事であったのですが、そのあくる日、江戸を出てから四日目に三島の宿を立って、伊賀越の浄瑠璃で
でした。容貌はまず一通りですが、幾年たっても江戸の水にしみない山出しで、その代りにはよく働く。女のいない世帯
、そのお武家は奥州の方角の人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるので
くれた餞別の金をふところにして、兎にかくも江戸へ出て来たというわけです。落城の譜が祟って森垣さん自身が
ですから、物堅い屋敷では藩中の芝居見物をやかましく云う。江戸の侍もおのずと遠慮勝になる。それでもやっぱり芝居見物をやめられないと
ですが、それでも知行所の者は不服を云わない。江戸のお屋敷では何十人の弟子を取っていらっしゃるそうだなどと、却って自慢
云っても、例の仙台様ではありません。もっと江戸に近いところの大名が通っていたのです。仙台や尾張や、それから
ますから、その噂だけでも実に大変で、さすがの江戸も一時は火の消えたように寂しくなりました。そう云うわけでございます
、どちらも御知行所から御奉公に出ましたもので、江戸へ出るとすぐに御下屋敷の方へ廻されたのですから、まあ山出しも
の方へ廻されたのですから、まあ山出しも同様で江戸の事情などはなんにも知らないようでした。大勢の女中の中からわたくしども
矢場女と一口に云いますけれど、江戸のむかしは、矢場女や水茶屋の女にもなか/\えらいのがありまして
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下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある
下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある番所が
、夏も過ぎ、秋も過ぎましたが、お嬢さまはまだ本郷の屋敷へ戻ろうと云わない。お附の女中達も本郷へお使に行っ
本郷の屋敷へ戻ろうと云わない。お附の女中達も本郷へお使に行ったときには、好い加減の嘘をこしらえて、お嬢さまの
はまだほんとうに御本復にならないなどと云っている。本郷へ帰れば殿様や奥様の監視の下に又もや薙刀や竹刀をふり廻さなければなら
置くのは宜しくないというので、病気全快を口実に本郷の方へ引き戻されることになりました。それは翌年の二月のことで
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も留めずにいると、京ももう眼の前という草津の宿に這入る途中、二三日前からの雨つゞきで路がひどく悪いので
の取りなしで先ず勘弁して貰って、霧雨のふる夕方に草津の宿に着きました。宿屋に這入って、今宮さんは草鞋をぬいでいる
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――わたくしの久しいお馴染なんです。維新後は一時横浜へ行っていたのですが、その時にかんがえ付いたのでしょう。東京へ
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は堀割の多いところですから、堀と云ったばかりでは高野山で今道心をたずねるようなもので、なか/\知れそうもありません。
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下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある番所があって
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は段ちがいで、おなじ旗本と云っても二百石の小身、牛込の揚場に近いところに屋敷を有っている今宮六之助という人です。この人
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判りませんでした。それから一年ほど経ってから、神奈川の貸座敷に手取りの女がいて、その右の頬にかすり疵のあとが
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に休ませる。これで家のなかもひっそりと鎮まった。入江町の鐘が九つ(午後十二時)を打つ。阿部さんはしばらくうと/
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という人です。この人が嘉永の末年に御用道中で大阪へゆくことになりました。大阪の城の番士を云い付かって、一種
の末年に御用道中で大阪へゆくことになりました。大阪の城の番士を云い付かって、一種の勤番の格で出かけたのです
勤番というものは無いのですが、それでも交代に大阪の城へ詰めさせられます。大阪城の天守が雷火に焚かれたときに
を苦にしていたが、どうも仕様がない。大阪の食い物にはおい/\に馴れるとしても、当座が困るに相違ない
に馴れるとしても、当座が困るに相違ない。殊に大阪は醤油がよくないと聞いているから、せめては当座の使い料として醤油
それから大阪へゆき着いて、今宮さんは城内の小屋に住んで、とゞこおりなく勤めて
話し出した。「名は知りませんが、その人は大阪の城番に行くことになったところが、屋敷に鎧が無い。大方売って
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を毎日出かけていましたが、今年の夏はどういうものか両国の百本杭には鯉の寄りがわるい。綾瀬の方まで上るのは少し足場が遠いので
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十余年前から廃れてしまって、つゝじの大部分は日比谷公園に移されたとか聞いている。わたしが今住んでいる横町に一
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「三浦さんも江戸時代には下谷に住まっていて、わたしとは古いお馴染ですよ。いえ、同商売
はまったく縁のない商売ではなかった。ことに神田と下谷とは土地つゞきでもあるので、半七老人は特にこの三浦老人と
人で、仔細あって江戸へ出て、遠縁のものが下谷の竜称寺という寺にいるので、それを頼ってこの間から
、藤崎さんはこゝを出ました。かの四人連が下谷の池の端から来た客だということを芝居茶屋の若い衆から聞いている
下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の
で幾日を送っていました。斬られたのは下谷の紙屋の若夫婦で、娘はおかみさんの妹、連の男は近所
でも頻りにその噂をしていました。わたくしも下谷に住んでいましたから、前々から荷作りをして、さあと云ったら
三島家の知行所から出て来た者ではなくて、下谷の方から――実はわたくしの家の近所のもので、この話も
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そんなわけですから、甲府詰などとは違って、江戸の侍の大阪詰は決して悪いことでは
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下谷から本郷、本郷から小石川へ出て、水戸様の屋敷前、そこに松の木のある番所があって、俗に磯馴れ
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立ですから、大抵お察しください。その六軒町というところに高松勘兵衛という二百俵取りの御家人が住んでいました。
幾らもありました。一つは行儀見習いの為で、高松のお近さんも十七の春から薙刀の出来るのを云い立てに、本郷
三島の屋敷も評判の物堅い家風でした。高松さんもそれを知って自分の娘を奉公に出したのですが、まったく
お父さんの高松さんは物堅い人物ですから、娘が突然に長の暇を申渡されたに
減しとなる。そんなことも有りそうに思われるので、高松さんも娘の詮議は先ずそのくらいにして置きました。阿母さんも
高松さんの屋敷では槍を教えるので、毎日十四五人の弟子が
たというのに、これは又どうしたものだと高松さんも呆れてしまいました。そればかりでなく万事が浮ついて、昔と
て来たり、覗きに来たりするので、その都度に高松さんは機嫌を悪くしました。ある時、久振りで薙刀を使わせ
読んでいる。それがお父さんの注意をひいたので、高松さんは抜足をして竊とそのうしろへ廻って行きました。
に立っている。それがお近さんであることは、高松さんにはすぐに判ったのですが、向うでは些とも気が注か
強い。師匠によると土用休みをするのもあるが、高松さんは休まない。きょうも朝の稽古をしまって、汗を拭きに裏手
高松さんは時々に顔をしかめて、御新造に話すこともありました。その
さんも返事に支えておど/\していると、高松さんは娘の襟髪をつかみました。
た。なにしろその写本があわせて十二冊もあるので、高松さんも一時は呆れるばかりでしたが、やがて両の拳を握りつめながら、
内へ引摺って来て、高松さんは厳重に吟味をはじめました。お近さんは強情に黙ってい
さん/″\叱り付けた上で、高松さんは弟に云いつけて、その写本全部を庭さきで焼き捨てさせました。
もない。その場は先ずそれで納まったのですが、高松さんは苦り切っていて、その日一日は殆ど誰とも口をきか
土間から表へ出てゆく影だけは見えたので、高松さんはうしろから声をかけました。
件でむしゃくしゃするのと、今夜は悪く蒸暑いのとで、高松さんは夜のふけるまで眠られずにいると、裏口の雨戸をこじ明ける
ので、もし取逃すといけないと思ったので、高松さんはその跫音をたよりに、持っている槍を投げ付けると、さすがは多年
、しかも手向いをする以上は、もう容赦はありません。高松さんは土間に飛び降りて追いかけると、相手は素疾く表へぬけて出る。
高松さんを目がけて叩き付けると、暗いので避け損じて、高松さんはその薪ざっぽうで左の腕を強く打たれました。名をきいて
で、土間に積んである薪の一つを把って、高松さんを目がけて叩き付けると、暗いので避け損じて、高松さんはその薪ざっぽう
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もっと江戸に近いところの大名が通っていたのです。仙台や尾張や、それから高尾をうけ出した榊原などは、むかしから有名に
ところへ奥州のある大名――と云っても、例の仙台様ではありません。もっと江戸に近いところの大名が通っていた
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「こちらは大久保にお住居の三浦さんとおっしゃるので……。」
。」と、三浦老人は笑いながら云った。「このごろは大久保の方へ引込んでしまったもんですから、どうも、出不精になって…
今とちがって、その当時の大久保のあたりは山の手の奥で、躑躅でも見物にゆくほかには余りに
が、わたしは思い切って午後から麹町の家を出て、大久保百人町まで人車に乗って行った。車輪のめり込むような霜どけ道を
わたしはその返事をうけ取った翌日の朝、病気見舞をかねて大久保へ第二回の訪問を試みた。第一回の時もそうであった
風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃に
まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破
「でも、このごろは大久保も馬鹿に出来ませんぜ。洋食屋が一軒開業しましたよ。きょう
日は三浦老人の家で西洋料理の御馳走になった。大久保にも洋食屋が出来たという御自慢であったが、正直のところ余り
で、秋の団子坂の菊人形と相対して、夏の大久保は女子供をひき寄せる力があった。
、それから堀切の菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が比較的に交通の便利がいゝ方であるので、下町からわざ/\
の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が亀戸の藤、それから堀切の菖蒲と
月の末の日曜日に、かさねて三浦老人をたずねると、大久保の停車場のあたりは早いつゝじ見物の人たちで賑っていた。青葉
、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところで、わたしが屡※こゝに老人
、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことになった。大久保は三浦老人が久しく住んでいたところ
この世にいない人であるが、その当時にくらべると、大久保の土地の姿もまったく変った。停車場の位置もむかしとは変ったらしい
を眺めながら、今日もその続稿をかきはじめると、むかしの大久保があり/\と眼のまえに浮んでくる。
思い出すと、そのころの大久保辺はひどく寂しかった。躑躅のひと盛りを過ぎると、まるで火の消えた
あるまいと多寡をくゝって、そのまゝに踏み出すと、大久保の停車場についた頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して
梅雨の晴間をみて、二月ぶりで大久保をたずねると、途中から空の色がまた怪しくなって、わたしが向って
いう話が大変にお好きで、麹町からわざ/\この大久保まで、時代遅れのじいさんの昔話を聴きにおいでなさるのだ。おまえさん
ことでございます。わたくしは丁度十八で、小石川巣鴨町の大久保式部少輔様のお屋敷に御奉公に上っておりました。お高は
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老人とはまったく縁のない商売ではなかった。ことに神田と下谷とは土地つゞきでもあるので、半七老人は特にこの三浦
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杖をつく形をしてみせた。勿論、そのころの東京にはまだ電車が開通していなかったのである。
達がしきりに客を呼んでいるのも、その頃の東京郊外の景物の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保
いたのですが、その時にかんがえ付いたのでしょう。東京へ帰って来てから時計屋をはじめて、それがうまく繁昌して、今
そのころの新聞に、東京の徴兵検査に出た壮丁のうちに全身に見ごとな刺青をしている
大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。
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そうな薄暗い空模様であったが、わたしは思い切って午後から麹町の家を出て、大久保百人町まで人車に乗って行った。車輪の
た。「こちらはそういう話が大変にお好きで、麹町からわざ/\この大久保まで、時代遅れのじいさんの昔話を聴きにおいで
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云う者もある。当人もいよ/\乗気になって、浜町の家元から清元喜路太夫という名前まで貰うことになってしまいました
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なんでもその三月の末だとおぼえています。日本橋新乗物町に舟見桂斎という町医者がありましたが、診断も調合も上手
の家族もみんなこゝを引払うことになって、久松もはじめて日本橋の店へ戻ってくると、土地が近いだけに憎い怨めしい医者坊主めの
をはじめるようになったので、主人や店の者は日本橋へ戻りましたが、焼跡の仮小屋同様のところでは女子供がこの冬
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その下手人はまだ前髪のある年季小僧で、人形町通りの糸屋に奉公している者でした。名は久松――丁稚
久松はそれから人形町通りの店へ帰って、平気でいつもの通りに働いていたのです
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の躑躅が最も早く、その次が亀戸の藤、それから堀切の菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が比較的に交通の便利が
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にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が亀戸の藤、それから堀切の菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が
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知れない。わたしは去年の震災に家を焼かれて、目白に逃れ、麻布に移って、更にこの三月から大久保百人町に住むことに
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たが、その侍の芝居見物のときのお話です。市ヶ谷の月桂寺のそばに藤崎余一郎という人がありました。二百俵
ても遅くはあるまいと思い直して、夜のふけるころに市ヶ谷の屋敷へ帰って来ました。
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茶屋で夜食を食って帰るものもありますが、大抵は浅草の広小路辺まで出て来て、そこらで何か食って帰ることに
それについて可笑いお話があります。なんでも浅草辺のことだそうですが、祭礼のときに何か一趣向しようという
は例の駕籠屋で、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋と江戸勘、吉原の平松などと云うのが其中で幅を
浅草へかゝって、馬道の中ほどまで来ると、雷は又ひとしきり強くなって、
「町や、お前は浅草に知合いの者が多かろう。踊の師匠も識っていますね。」
わたくしはその明る日、すぐに浅草の花川戸へまいりまして、むかしの師匠の家をたずねました。そうし
いう都合の好いことでしょう。わたくしは手をあわせて遠くから浅草の観音様を拝みました。そのことを奥様に申上げますと、奥様も
のいゝのと、腕があるのとで近所は勿論、浅草あたりの矢場遊びの客までも吸いよせるという人気はすさまじいものでした。
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た。そのとき藤崎さんは彰義隊の一人となって、上野に立籠りました。六年前に死ぬべき命を今日まで無事に生きながらえた
目が慶応四年、すなわち明治元年で、江戸城あけ渡しから上野の彰義隊一件、江戸中は引っくり返るような騒ぎになりました。その
ですから何うも客足が付きませんでした。藤崎さんは上野に立籠っていながら、その噂を聴いてかんがえました。
経文をまいていたのは沢山ありました。これは上野の寺内に立籠っていた為で、なるほど有りそうなことですが
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はお判りにならないかも知れませんが、つまり今日の千駄ヶ谷の一部を江戸時代には新屋敷と唱えていました。そこには大名
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これはこゝから余り遠くないところのお話で、新宿の新屋敷――と云っても、あなた方にはお判りにならないかも
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出世の蔓にしようなどという野心があるでも無し、蔵前取りで知行所を持たないのですから、それを口実に余分のものを取立てる
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挨拶しました。さて一通りの挨拶が済んで、それから大塚はこんなことを云い出しました。
はやはりこゝの屋敷へ稽古に通っているのですから、大塚は一層丁寧に挨拶しました。さて一通りの挨拶が済んで、それから
もかくも二百五十石の旗本、まるで格式が違います。殊に大塚の忰孫次郎はやはりこゝの屋敷へ稽古に通っているのですから、大塚
それで済みましたが、あくる朝、黒鍬の組屋敷にいる大塚孫八という侍がたずねて来て、御主人にお目にかゝりたいと
もいう通り、身分違いの上に相手が師匠ですから、大塚は決して角立ったことは云いません。飽までも穏かに口をきいて
得ないという肚もあります。かた/″\して大塚は早朝からその掛合いに来たのでした。
その当時としては別に問題にはなりません。大塚もそれを兎やこう云うのではないが、なぜ町家の子供をかばっ
「御趣意よく相判りました。」と、大塚は一応はかしらを下げました。「町人の子どもは仕合せ、なんにも身
かれは忌な笑いをみせました。大塚に云わせると、所詮は子ども同士の喧嘩で、武家の子どもは木刀を
も幾分かまじっているのです。それやこれやで、大塚は市川さんの説明を素直に受け入れることが出来ない。仕舞にはだん/
方で、人柄もあまりよくないのが随分ありました。大塚などもその一人で、表面はどこまでも下手に出ていながら、真綿
ましたが、幸いにこれには別条はなかった。しかし大塚の話をきいて、今井も顔の色を悪くしました。
黙っていましたから、親たちも知らない。そこへ大塚が来てきのうの一件を報告して、手前のせがれはそれが為
こうなれば喧嘩ですが、大塚も利口ですからこゝでは喧嘩をしません。一旦はおとなしく引揚げました
ましたから、今井はいよ/\面白くない。しかし流石に大塚とは違いますから、子どもの喧嘩に親が出て、自分がむやみに
たと云うことを知ると、どうも面白くない。おまけに大塚が色々の尾鰭をつけて、そばから煽るようなことを云いましたから
。今井を煽動しても余り手堪えがないので、大塚は更に自分の組内をかけまわって、市川の屋敷では町家の子供ばかり
から市川の屋敷へは稽古にゆくなと云い渡しました。大塚のせがれは病中であるから、無論に行きません。これで武家の弟子
今井は穏かに斯う云って大塚を帰しました。しかし伜の健次郎をよび付けて、きょうから市川の屋敷
六七の少年が一人まじっている。そのうしろ姿が彼の大塚孫次郎の兄の孫太郎らしく思われたが、これは真先に逃げてしまった
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が通っていたのです。仙台や尾張や、それから高尾をうけ出した榊原などは、むかしから有名になっていますが、まだ
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―午年のことでございます。わたくしは丁度十八で、小石川巣鴨町の大久保式部少輔様のお屋敷に御奉公に上っておりました。
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御先代の奥様は芳桂院様と仰せられまして、目黒の御下屋敷の方に御隠居なすっていらっしゃいましたが、このお方が
方へお逃げになったのでございます。その当時、目黒の辺はまるで片田舎のようでございましたから、流石のおそろしい流行病も
芳桂院様は四月の末におなくなり遊ばして、目黒の方はしばらく空屋敷になって居りましたが、その八月の末頃から
、いつも芝居のお供をしていたからでございましょう。目黒へまいってからも、奥様はわたくし共をお召しなすって、毎日芝居の
楽みに御奉公致して居るようなわけでございました。目黒へまいりましてから、一月ばかりは何事もございませんでしたが、
自慢が胸一杯になって、わたくしは勇ましいような心持で目黒へ帰りました。帰って奥様に申上げると、奥様も大層およろこびで、
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を背負いました。大川づたいに綾瀬の上へまわって、千住から奥州街道へ出るつもりで、男も女も顔をつゝんで石原から大川端へ
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新内松は品川の橋向うで御用になりました。お金はその時まで一緒にいたらしい