青蛙堂鬼談 / 岡本綺堂

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地名一覧

平泉

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の奥州にはとてもそれだけの彫刻師はいない。もちろん平泉には相当の仏師もいたのですが、今までのが優れた作である

いうには、それにはいいことがある。今度奥州の平泉に金色堂というものが出来るについて、都から大勢の仏師や番匠や

というと、その後の消息はよく判りません。どうも平泉で殺されたらしいということです。なにしろここで木像と木馬を作るために

木像と木馬を作るために五カ月を費したので、平泉へ到着するのが非常におくれた。それが秀衡の感情を害した上に

博多

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と決心して、熊本はもちろん、佐賀、小倉、長崎、博多からいろいろの学者を招きよせて、自分の屋敷内に一種の研究所のようなものを

を尽して詮索した末に、越智の家の子孫は博多へ流れて行って、今では巴屋という漆屋になっていること

それから博多の巴屋について、越智の家に関する古い記録を詮議すると、巴

山の手

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開始を当分延期するような始末でした。おまけに今までは山の手方面には比較的少なかったコレラ患者がだんだんにふえて来まして、四谷から新宿

館山

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という。その庄兵衛が夫婦と中間との三人づれで館山の城下の延命寺へ参詣に行った。延命寺は里見家の菩提寺である。

与市は館山の城下から遠くない西岬という村の者で、実家は農であるが

で、僅かの家来どもには暇を出して、庄兵衛は館山の城下を退散した。しかし、彼は自分ひとりというわけにはゆかなかっ

名古屋

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、やはりふたりの客が逗留していました。ひとりは名古屋の俳諧師で野水といい、ひとりは江戸の画家で文阿という人で、

浅草寺

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かれらはもう公然の夫婦で、浅草寺に近いところに仮住居を求め、当分はなす事もなしに月日を送ってい

は死人の首にかけている財布を奪い取って逃げた。浅草寺のほとりまで来て、そっとその財布をあらためると、銭が二貫文ほどは

今戸

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とちがって、電車も自動車もない時代でございますから、今戸から四谷まで帰るのは大変だというので、こちらでもお泊りなさいと

山東省

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からは誰も嫁に来るものがない。忠僕の王が山東省まで出かけて行って、美人の娘をさがして来た。といっても、

四国

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男は石見弥次右衛門という四国の武士であった。彼も喜兵衛とおなじように少年のころから好んで笛

赤城

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ここちで患い付いた。それは余寒の強い年で、日光や赤城から朝夕に吹きおろして来る風が、広い河原にただ一軒のこの小屋を吹き倒す

妙義山

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つづけていたが、八月になって僕は上州の妙義山へのぼって、そこの宿屋で一と夏を送ることになった。妙義の絵葉書を

東京市

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知っておりますが、そのときの流行はひどいもので、東京市内だけでも一日に百五十人とか二百人とかいう患者が続々出る

横好きのお仲間なのですが、ともかく道楽となると、東京市内や近郊でばかりパチリパチリやっているのではどうしても満足が出来

満洲

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。僕はその当時、日露戦争の従軍新聞記者として満洲の戦地にあって、この日は午後三時ごろに楊家店という小さい

それをみていて、僕はひどく気の毒になった。満洲の土人は薬をめったに飲んだことがないので、日本人にくらべると非常

おそらく長髪賊の余類だろうということです。江南の賊が満洲へ逃げ込んで来るのもおかしいように思われますが、ここらではそう言っ

栗橋

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呼んでいた。奥州街道と日光街道との要所であるから、栗橋の宿には関所がある。その関所をすぎて川を渡ると、むこう河岸

たので、ようやく船を出すことになると、両岸の栗橋と古河とにつかえていた上り下りの旅人は川のあくのを待ちかねて

奥州

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奥州や日光の方面から来る旅びとはここから渡し船に乗ってゆく。江戸の方面から

いると、忘れもしない正月の二十七日、この春は奥州にめずらしく暖かい日がつづいたのですが、前の晩から大雪がふり出して

から、かの溺死者の身の上が説明された。かれは奥州の或る藩中の野村彦右衛門という侍で、六年以前から眼病にかかって、

「なんでも奥州の秀衡の全盛時代だといいますから、およそ八百年ほどもまえのことでしょう

はなく、黒と書くのだそうです。御承知の通り、奥州は馬の産地で、近所の三春には大きい馬市が立っていたくらいです

社前に供えるということになりました。しかしその頃の奥州にはとてもそれだけの彫刻師はいない。もちろん平泉には相当の仏師も

山伏のいうには、それにはいいことがある。今度奥州の平泉に金色堂というものが出来るについて、都から大勢の仏師や

九州

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わたしの郷里は九州の片山里で、山に近いのと気候のあたたかいのとで蛇の類がすこぶる

唯今は九州のお話が出たが、僕の郷里もやはり九州で、あの辺には

は九州のお話が出たが、僕の郷里もやはり九州で、あの辺にはいわゆる平家伝説というものがたくさん残っている。伝説に

その笛をかかえて浪人するよりほかはなかった。彼は九州へ渡り、中国をさまよい、京大坂をながれ渡って、わが身の生計を求める

江戸

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享保の初年である。利根川のむこう河岸、江戸の方角からいえば奥州寄りの岸のほとりに一人の座頭が立っていた

日光の方面から来る旅びとはここから渡し船に乗ってゆく。江戸の方面から来る旅びとは栗橋から渡し船に乗り込んでここに着く。その乗り降りの旅人

頼って行って按摩の弟子になりまして、それからまた江戸へ出て、ある検校の弟子になりました。二十二の春から三十一の年

た揚句に、思いついたのが針でした。宇都宮でも江戸でも針の稽古をしていましたから、その針の太いのをこしらえ

相手に近寄る手だてに困りました。彦右衛門は屋敷の用向きで江戸と国許のあいだをたびたび往復することを知っていましたので、この渡し場

にかかって、この頃ではほとんど盲目同様になった。江戸に眼科の名医があるというのを聞いて、主君へも届け済みの上で

て、主君へも届け済みの上で、その療治のために江戸へのぼる途中、ここで測らずも禍いに逢ったのである。盲目同様で

歳の生れでございますから、当年は六十五になります。江戸が瓦解になりました明治元年が八つの年で、吉原の切解きが

はわたくしが三つの年に歿しまして、明治元年、江戸が東京と変りましたときには、当主の父は三十二で、名は市兵衛

ました。ひとりは名古屋の俳諧師で野水といい、ひとりは江戸の画家で文阿という人で、文阿の方が二十日ほども先

文晃の又弟子とかにあたる人で、年は若いが江戸でも相当に名を知られている画家だそうです。

ので、歩行の不自由な女を介抱しながら、ともかくも江戸の方角へ向うことにして、便船をたのんで上総へ渡り、さらに木更津から

で上総へ渡り、さらに木更津から船路の旅をつづけてつつがなく江戸へはいった。

に消えてしまった。彼は一種の殺人鬼となって、江戸の男や女を斬ってあるいた。そうして、妻を喜ばせるばかり

なかった。殊に天下もようやく一統して、徳川幕府はもっぱら江戸の経営に全力をそそいでいる時節であるから、市中の取締りも決しておろそか

が伝えられている。いや、それを話す前に、かの江戸の名奉行根岸肥前守のかいた随筆「耳袋」の一節を紹介したい

小田原城

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によって突然に小田原領五万石を召上げられ、あわせて小田原城を破却されたのである。

四谷

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その泊り客は四谷の井田さんという質屋の息子で、これも俳諧に凝っている人なの

て、電車も自動車もない時代でございますから、今戸から四谷まで帰るのは大変だというので、こちらでもお泊りなさいと言い、

誘い出して、その晩わざわざ山の手まで登って行きましたが、四谷の大通りにそんな古道具屋の夜店は出ていませんでした。ここの処

御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、その

は比較的少なかったコレラ患者がだんだんにふえて来まして、四谷から新宿の方にも黄いろい紙を貼つけた家が目につくようになっ

小石川

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に今夜の会合を思い立ったのであろうが、青蛙堂は小石川の切支丹坂をのぼって、昼でも薄暗いような木立ちの奥にある。こう

度胸を据えて、とうとう真っ白な道を踏んで出た。小石川の竹早町で電車にわかれて、藤坂を降りる、切支丹坂をのぼる、この雪の

長江

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その一隊は長江を渡って、北へ進んでゆく途中、ある小さい村落に泊ることになった

江南

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大いに乱れんとする時のお話だと思ってください。江南の金陵、すなわち南京の城内に張訓という武人があった。ある時、

ませんが、おそらく長髪賊の余類だろうということです。江南の賊が満洲へ逃げ込んで来るのもおかしいように思われますが、ここら

古河

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ある。その関所をすぎて川を渡ると、むこう河岸は古河の町で、土井家八万石の城下として昔から繁昌している。

も思われた。その寒いのもいとわずに、平助は古河の町まで薬を買いに行って、病んでいる座頭に飲ませてやった

妙義神社

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原稿紙――それは妙義神社の前で、赤座の指の傷をおさえるために、僕の袂から出して

宇都宮

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いろいろ考え抜いた揚句に、思いついたのが針でした。宇都宮でも江戸でも針の稽古をしていましたから、その針の

たが、にわか盲ではどうすることも出来ません。宇都宮に知りびとがあるので、そこへ頼って行って按摩の弟子になりまし

て、なんとか頼んでみてはどうだ。わたしは宇都宮で逢ったから、おそらく一日二日のうちにはここへ来るだろうと

もいられないので、わたしは次の日に出発して、宇都宮に一日を暮らして、それから真っ直ぐに帰京しましたが、何分にも

下谷

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に破門されて廓にもいられず、今では下谷で小さい骨董屋のようなことを始め、傍らには昔なじみのお客のところを

熊本

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ないようになったので、両親もひどく心配して遠い熊本の城下から良い医師をわざわざ呼び迎えて、いろいろに手あつい療治を加えたが、

してもその鏡の由緒を探りきわめようと決心して、熊本はもちろん、佐賀、小倉、長崎、博多からいろいろの学者を招きよせて、自分

長崎

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探りきわめようと決心して、熊本はもちろん、佐賀、小倉、長崎、博多からいろいろの学者を招きよせて、自分の屋敷内に一種の研究所のよう

兵火に焼かれて跡方もなくなってしまったが、家族は長崎の方へ行って、今でも相当に暮らしているという噂である

時代から代々の医師でございました。父は若い時に長崎へ行って修業して来ましたそうで、明治になりましてから軍医

佐賀

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鏡の由緒を探りきわめようと決心して、熊本はもちろん、佐賀、小倉、長崎、博多からいろいろの学者を招きよせて、自分の屋敷内に一種

京都

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兄さんの与茂四郎は早くから家を出て、京都へのぼって或る人相見のお弟子になっていたのですが、それ

千葉

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わたしは千葉の者であるが、馬琴の八犬伝でおなじみの里見の家は

日本橋

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前から法律事務所の看板をはずしてしまって、今では日本橋辺のある大商店の顧問という格で納まっている。ほかにも三

二十八九か三十ぐらいの粋な人で、以前は日本橋とかで芸妓をしていたとかいう噂でした。この人が

東京

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僕と同時に学校を出た男だ。卒業の後は東京で働くつもりであったが、卒業の半年ほど前に郷里の父が突然

家庭の事情で皆それぞれに諸方へ散ってしまって、依然東京に居残っているものは村野という男と僕とたった二人、しかも村野は

は教社の用向きでぜひ上京する。妹もまだ一度も東京を知らないから、見物ながら一緒につれてゆくということは、前の年の

カ月も僕の家に滞在して、教社の用向きや東京見物に春の日を暮らしていたが、たしか四月の十日と

対しては、その教義の宣伝を試みたことはなかった。東京の桜がみんな青葉になった頃に、赤座兄妹は僕に見送られて

、妙義の宿がなんとなく気に入ったのと、東京の残暑はまだ烈しいのとで、いっそ紅葉の頃まで妙義にゆっくり滞在し

九月のはじめに僕は一度東京へ帰ったが、妙義の宿がなんとなく気に入ったのと、

「銀行から家へ帰らずに、すぐに東京行きの汽車に乗り込んだらしいのですが、銀行を出た時には鼠色

が三つの年に歿しまして、明治元年、江戸が東京と変りましたときには、当主の父は三十二で、名は市兵衛と

知っておりますが、そのときの流行はひどいもので、東京市内だけでも一日に百五十人とか二百人とかいう患者が

横好きのお仲間なのですが、ともかく道楽となると、東京市内や近郊でばかりパチリパチリやっているのではどうしても満足

は非常に大きい池だったそうですが、今ではまあ東京の不忍池よりも少し広いくらいでしょう。遠い昔には龍が棲んでい

、その後にもいろいろの人が来て撮影しました。東京からも三、四人来ました。土地でも本職の写真師は勿論

上野

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。汽車の着く時間はわかっていたので、僕は上野まで出迎えにゆくと、彼が昔とちっとも変っていないのにまずおどろかさ

青葉になった頃に、赤座兄妹は僕に見送られて上野を出発した。

でもその前年、明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い筵を敷いて、ちっとばかりの古道具

いたという。その人相などをいろいろ聞きただすと、どうも上野に夜店を出していた男らしく思われるのです。いくらで買ったと

、相変らずその辻斬りをつづけているうちに、彼は上野の山下で町廻りの手に捕われた。

向島

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の十日と記憶している。僕は兄妹を誘って向島の花見に出かけると、それほどの強い降りでもなかったが、その途中

新富町

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の遊び場所がみんな火の消えたような始末。おまけに新富町には新島原の廓が新しく出来ましたので、その方へお客を

浅草

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早く夜が明けてくれればいいと祈っていると、浅草の鐘が二時を撞く。その途端に離れの方では、何か

かれらはもう公然の夫婦で、浅草寺に近いところに仮住居を求め、当分はなす事もなしに月日を送っ

なれなかった。元和二年の師走の夜に、かれが浅草の並木を通ると、むこうから来る一人の男に出逢った。それは町家

は死人の首にかけている財布を奪い取って逃げた。浅草寺のほとりまで来て、そっとその財布をあらためると、銭が二貫文

。」と、お富は言いました。「なんでも浅草の方に大層えらい行者がありますそうで、御新造はこの間そこへ何

はその本望通りコレラになってしまったのでございます。浅草の偉い行者というのはどんな人か、またどんなお祈りをするのか

大久保

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それは元和元年、すなわち大坂落城の年の夏で、かの大久保相模守の姻戚関係から滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられて

取潰されてしまった。その原因は明らかでない。かの大久保石見守長安の罪に連坐したのであるともいい、または大坂

大久保相模守忠隣は相州小田原の城主で、徳川家の譜代大名のうちでも

の家に、暗い雲が掩いかかって来た。かの大久保相模守忠隣が幕府の命令によって突然に小田原領五万石を召上げられ

、やみ夜に燈火をうしなったように周章狼狽した。あるいは大久保とおなじ処分をうけて、領地召上げ、お家滅亡、そんなことになるかも

出来事に対して、関東一円は動揺したが、とりわけて大久保と縁を組んでいる里見の家では、やみ夜に燈火をうしなったよう

千住

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その望みの通りに、彼はそれから二日の後、千住で磔刑にかけられた。

新宿

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しなければなりません。父は母と相談して、新宿の番衆町に地所付きの家を買いました。

見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、そのころの新宿、殊に番衆町のあたりは全く田舎といってもよいくらいで、人家こそ

御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地に

から三日目の夕方に、わたくしはお富を連れて新宿の大通りまで買物に出ました。夕方といってもまだ明るい時分で、

少なかったコレラ患者がだんだんにふえて来まして、四谷から新宿の方にも黄いろい紙を貼つけた家が目につくようになって

京橋

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、もう少し世の成行きを見ていようといううちに、京橋のまん中に遊廓なぞを置くのはよくないというので、新島原は

隅田川

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半の離屋がありまして、そこの庭先からは、隅田川がひと目に見渡されます。父はこの四量半に閉じこもって、宗匠の

ような音も聞えます。場所が今戸の河岸ですから、隅田川の水がざぶんざぶんと岸を打つ音が枕に近くひびきます。なんだ

明けると、きょうは近頃にないくらいのいいお天気で、隅田川の濁った水の上に青々した大空が広くみえました。夏の

て、火をかけてすっかり焼いた上で、その灰は隅田川に流してしまいました。

れた。それでもあくまでも追い詰めてゆくと、かれは隅田川の岸から身をひるがえして飛び込んだ。その途中、捕り方に加勢して