半七捕物帳 61 吉良の脇指 / 岡本綺堂

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地名一覧

常陸国

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この仇討は十一月の二十八日、常陸国上根本村の百姓、幸七の妹おたかというのが叔父の助太刀で、

江戸城

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する事になっていました。それと云うのが、江戸城の煤掃きは十二月十三日、それに習って江戸の者は其の日に煤掃き

番町

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お関は容貌も好し、遊芸ひと通りも出来るので、番町の御厩谷に屋敷をかまえている五百石取りの旗本福田左京の妾に所望さ

参詣に行った帰り道に、ちょいとおたずね申しました。以前番町のお屋敷に御奉公していたお辰さんに頼まれまして……」

「ああ、そうでしたか。番町のお屋敷に御奉公中は、妹めがいろいろ御厄介になりましたそう

行徳

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分だが、東葛飾だから江戸からは遠くねえ。まあ、行徳の近所だと思えばいいのだ。そこに浦安という村がある。その

江戸

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、江戸城の煤掃きは十二月十三日、それに習って江戸の者は其の日に煤掃きをする。したがって、十二日、十三日には

を引いて、頃は元禄十五年極月の十四日、即ち江戸の煤掃きの翌晩に、大石の一党が本所松坂町の吉良の屋敷へ討ち入りの

に伝わっているという噂を聞きません。ところが、江戸に唯一軒、こういう家がありました。今も相変らず繁昌かどう

おたかは兄のかたき討ちを思い立って、女ひとりで江戸へ出て、かのお玉ヶ池の千葉周作の家へ下女奉公に住み込んで、奉公の

をしていたそうです。その叔父が十一月なかばに江戸へ出て来て、かたきの与右衛門が年貢納めに江戸へ来ると云うこと

江戸へ出て来て、かたきの与右衛門が年貢納めに江戸へ来ると云うことを教えたので、おたかは主人から暇を取り、

一文無しで故郷へ帰ることも出来めえ。といって、江戸にいるのもあぶねえと云うので、どっかへ草鞋を穿いたかも知れ

「下総の分だが、東葛飾だから江戸からは遠くねえ。まあ、行徳の近所だと思えばいいのだ。そこに

「判りました。堀江、猫実……。江戸から遠出の釣りや、汐干狩に行く人があります」

、お熊がすぐに国へ帰ったか、それとも江戸のどっかに奉公して伝蔵のたよりを待っているか、それも判らねえ

その翌々日の朝は、江戸の町にも白い霜を一面においていた。半七と善八は予定

いるので、釣り道具などを宿屋へあずけて置いて、江戸からわざわざ釣りに行く者も少なくないので、宿屋でも心得ていて、

その近所で訊き合わせると、宇兵衛の妹は九月のはじめに江戸から一度帰って来たが、半月ほどの後に再び出て行った。宇兵衛

江戸から誰かたずねて来た者はなかったかと訊きただすと、お熊がどこ

お熊がどこへか行った後、十月の初めに江戸から二人連れの男がたずねて来た。つづいてその月のなかば頃に一人

か」と、半七は丁寧に挨拶した。「わたし達は江戸の者で、成田さまへ御参詣に行った帰りでございます。これはほんの

「今度は江戸へ出て、どこへ奉公しているのだね」

「伝蔵はやっぱり江戸にいますよ。福田の屋敷にいた曽根鹿次郎という若侍が、当時は

奴じゃあ、何処へのそのそ這い出して来るかも知れぬえ。江戸にいると決まったら、尚さら気をつけてくれ」

江戸の花が散り、ほととぎすが啼き渡る頃になっても、伝蔵という悪魚

淀橋

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、六月十一日に犯人重兵衛を取り押さえたが、同時に淀橋の火薬製造所が爆発した為に、子分の亀吉と幸次郎は負傷した。

四谷坂町

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の屋敷に勤めていたお辰という女は、このごろ四谷坂町の奥平宗悦というお城坊主の家に奉公しています。そのお辰

今戸

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、その出入りを付け狙っていたらしい。彼は才兵衛が今戸の寮から帰る途中を待ち受けて、無理に聖天下のさびしい場所へ連れ込んで、かれこれ

お台場

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「お台場は性が悪いと云うから、なるたけ取らない事にしているのだけれど…

そのころの流行唄に「死んでしまおか、お台場へ行こか。死ぬにゃ優しだよ、土かつぎ」とある。お台場人足は

「早速だが、善八。これからすぐにお台場へ行って、人入れの人足部屋を洗ってくれ。おれも今まで気がつかなかっ

今まで気がつかなかったが、例の伝蔵の奴め、お台場人足のなかにまぎれ込んでいるかも知れねえ。どうで長げえ命はねえ

つかなかったかと、今でも不思議に思うくらいです。お台場の一朱銀なぞは始終見ているくせに、なんにも気がつかずに

秩父

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七と鶴吉の話によると、その伝蔵という奴は秩父の生まれだそうだが、一文無しで故郷へ帰ることも出来めえ。といっ

四谷

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。嘉永六年十二月はじめの寒い日でした。わたくしは四谷の知りびとをたずねる途中、麹町三丁目へまわって、例の助惣焼の店で

つ三つ世間話なぞをして別れました。それから四谷の方へ行こうと思って、麹町四丁目の辺まで行きかかると、あとから直七

麹町から四谷へまわって、半七が神田の家へ帰ったのは、冬の日の暮れ

「この一件は四谷の常陸屋の係りだ。如才なく、ひと通りの探索はしているだろうが、こっち

その人相や風俗を詮議すると、初めの二人づれは四谷の常陸屋の子分らが伝蔵とお熊のありかを探りに来たらしく、後

お熊の故朋輩で、福田の屋敷が滅亡の後、四谷のお城坊主の家へ奉公換えをした者である。その名は宇兵衛

赤坂

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いいようである。その十三日の午後四時頃に、赤坂の半七老人宅を訪問すると、わたしよりもひと足先に立って、蕎麦屋

千葉

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を思い立って、女ひとりで江戸へ出て、かのお玉ヶ池の千葉周作の家へ下女奉公に住み込んで、奉公のあいだに剣術の修行をし

下谷

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彼は下谷の御成道に店を持っている遠州屋才兵衛という道具屋である。

「下谷の遠州屋という道具屋さんで……」

深川

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ある方が、おめえもさびしくなくて好かろう。行くなれば、深川から行徳まで船で行くほうが便利だ。ちっと寒いが仕方がねえ。朝

上野

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疵を縫ったのでしょう。そのときにどういうわけか、吉良上野が着用の小袖というのを貰って帰って、代々持ち伝えていました

まして、手負いの療治をしました。勿論、主人の上野は首を取られたのですから、療治も手当てもなかったでしょうが、

たそうで、かの赤穂の一党が討ち入りの時に吉良上野の屋敷から早駕籠で迎えが来まして、手負いの療治をしました。

枕元にある脇指で斬ったのですが、その脇指が吉良上野殿の指料であったと云うことです。その由来は存じませんが

日本橋

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。今も相変らず繁昌かどうか知りませんが、日本橋の伊勢町に河辺昌伯という医者がありまして、先祖以来ここに

浅草の今戸には、日本橋の古河という大きい鉄物屋の寮がある。才兵衛はそこへ茶道具類

又もや瓦版の読売に出逢った。それは二十六日の夜、日本橋住吉町の往来で、常陸国中志築村の太田六助が父のかたき

泉岳寺

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「どなたも御承知の通り、義士の持ち物は泉岳寺の宝物になって残っています。そのほかにも大石をはじめ、他

かたき討ちをしたら、世の中も変ったものだと、泉岳寺にいる連中が驚くかも知れねえ」

てみると、かたき討ちの場所は高輪で、例の泉岳寺の近所、脇指は吉良の物、どこまでも縁を引いているのも

浅草

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買っていると、そこへ瓦版の読売が来ました。浅草天王橋のかたき討ちというのです。

(午後九時)頃に、遠州屋の主人才兵衛は浅草の聖天下で何者にか殺害された。短刀か匕首で脇腹を刺され

浅草の今戸には、日本橋の古河という大きい鉄物屋の寮がある。

七月九日、きょうは浅草観音の四万六千日である。苦しい時の神頼みと云ったような心持もまじっ

麹町

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の寒い日でした。わたくしは四谷の知りびとをたずねる途中、麹町三丁目へまわって、例の助惣焼の店で手土産を買っていると

別れました。それから四谷の方へ行こうと思って、麹町四丁目の辺まで行きかかると、あとから直七が追って来ました。直

飼葉屋の直七の紹介によると、麹町の平河天神前に笹川という魚屋がある。魚屋といっても、仕出し屋

と姉のかたき討ちを思い立った。その以来、鶴吉は麹町八丁目の町道場へかよって、剣術の稽古をしていると云う。彼

麹町から四谷へまわって、半七が神田の家へ帰ったのは、冬の

「麹町四丁目の太田屋という酒屋は、福田の屋敷へ長年の出入りだったそうです

出したが、善八は伝蔵の顔を知りませんから、麹町の飼葉屋の直七を連れて行って、そっと首実検をさせると、

神田

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麹町から四谷へまわって、半七が神田の家へ帰ったのは、冬の日の暮れかかる頃であった。

住吉

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瓦版の読売に出逢った。それは二十六日の夜、日本橋住吉町の往来で、常陸国中志築村の太田六助が父のかたき山田

「その御挨拶では恐れ入ります。先月の住吉町のかたき討ちなぞは、九つの時に親を殺されて、

品川

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の黒船防禦のために、幕府では去年の九月から品川沖にお台場を築くことになった。空前の大工事であるから、