寄席と芝居と / 岡本綺堂

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地名一覧

塩原

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本家はどこにあるかと尋ねると、原町という所に塩原という油屋があるから、ともかくも明日呼び寄せますと云う。明くる八日の朝

、その老人いぶかしく思ひしか、恐る/\申すやうは、先代塩原の家は当所より北の方(三里余)へ隔たりし下新田村と申すなりと

塩原角左衛門(八百蔵、後の中車)角左衛門の妻おせい、塩原の後家おかめ(秀調)原丹三郎(菊之助)娘お栄(栄三郎)又旅お角

歌舞伎座

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歌舞伎座で初めて「塩原多助」を上演したのは、明治二十五年の一月興行

根津

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にも拘らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされて

大沢町

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竹の塚、越ヶ谷を経て、第一日の夜は大沢町の玉屋という宿屋に泊まった。この方面には汽車の開通しない時代で

明治座

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た。それでも十年後の明治二十九年十一月、明治座で再演された。役割は井生森又作、家根屋清次(左団次)春見

東京市

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其の時代にめずらしい大宣伝を試みて、劇場附近は勿論、東京市中の各氷屋に燈籠をかけさせた。牡丹の造花を添えた鼠色の

小金井

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一日、半田川を渡って飯塚の駅へ休み、それから小金井の駅へ出ようとする時、路に迷って難儀する。さんざん行き悩んだ末に

二十町ほどの山を越えて、午後二時頃にようよう小金井の駅に辿り着いたが、眼がまわるほど空腹になったという。ここで

江戸

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た物のようにも思われる。飯島家の一条は、江戸の旗本戸田平左衛門の屋敷に起こった事実をそのまま取り入れたもので、それに

せられた。一座が上方俳優であるから、こうした江戸の世界の世話狂言には、台詞がねばって聴き苦しいのは已むを得ない

。しかも女将の口から、初代の多助は上州沼田在から江戸へ出て来た者であると云うことを聞き出したので、その翌日すぐ

を感じるようになったのであろう。初代の塩原多助が江戸へ出て、粉炭を七文か九文の計り売りして、それで大きい身代

本郷

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て百軒を越えていたという。その中でも本郷の若竹亭、日本橋の宮松亭を第一と称し、他にも大きい寄席が

倫敦

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紐育や倫敦で理髪店へゆくと、こっちが日本人で世間話の種が無いせいでもあろう

軽井沢

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という筋であったが、その道具が居所替りで信州軽井沢の八幡屋という女郎屋になり、屏風のなかに一番目の道連れ小平が寝

松戸

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に眠られず。」とある。翌三十日は粕壁、松戸を経て、幸手の駅に入り、釜林という宿屋に泊まる。まことに気

箱根山

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ついでに記すが、この時の中幕は「箱根山曾我初夢」で、工藤祐経が箱根権現に参詣し、その別当所で五郎の

大阪

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現われ、住之助が出で、高坐の上は紅紫爛※、大阪上りとか阿波上りとかいろいろの名をつけて、四方からおびただしい女義太夫が

た。そのほかに、明治三十年以後には源氏節、大阪仁和賀、改良剣舞のたぐいまでが東京の寄席にあらわれて、在来の色物は

巴里

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外国では「湯屋髪結床の噂」がやはり流行するらしい。巴里にはバジン・テアトル(芝居風呂)などと洒落た名前を付けた湯屋も

宇都宮

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二日は雀の宮を過ぎて宇都宮に着く。東京から五日間を費したわけである。ここでは午前十一

あくる三日は宇都宮を立って、日光街道にかかる。上戸祭村で小休みをすると、「わが

深川

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たとある。十三日は流山、野田を過ぎて、東京深川の扇橋に着く。八月二十九日から十六日間の旅行である。

誰も知るごとく、この劇の見せ場は二幕目の深川富吉町新三宅の場で、菊五郎の新三と中村仲蔵の家主長兵衛が大

麹町

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であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を

四時、前夜から買い込んで置いた食パンをかかえて私は麹町の家を出た。

場所へは這入られない。私などは大抵四時頃から麹町の家を出るのを例としていた。夏は、好いが、

新三」も柳桜が得意の読み物であった。私は麹町の万長亭で、柳桜の「髪結新三」を聴いたことがあるが

生長したが、近所の寄席は元園町の青柳亭、麹町二丁目の万よし、山元町の万長亭で、これらの寄席へ行っ

のであった。私は麹町区元園町(此頃は麹町二丁目に編入されてしまった)に生長したが、近所の寄席

と、かならず近所の知人に出逢うのであった。私は麹町区元園町(此頃は麹町二丁目に編入されてしまった)に

東京

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れている。その時代にこの怪談を売り物にして、東京じゅうの人気をほとんど独占していたのは、怖い物見たさ聴きた

大入りを占め、芝居を観ると観ざるとを問わず、東京市中に牡丹燈籠の名が喧伝された。今日ではどんなに大入り

其の時代にめずらしい大宣伝を試みて、劇場附近は勿論、東京市中の各氷屋に燈籠をかけさせた。牡丹の造花を添えた

よりも多忙で複雑になった為であろう。第二は東京が広くなった為であろう。第三は各劇場の興行回数が多くなっ

二日は雀の宮を過ぎて宇都宮に着く。東京から五日間を費したわけである。ここでは午前十一時頃に手塚

挨拶されて円朝も困った。紀行には「わたくしは東京長谷川町梅の屋の親類の者なり。少しお尋ね申したき事ありと

困ったとある。十三日は流山、野田を過ぎて、東京深川の扇橋に着く。八月二十九日から十六日間の旅行である。

今日と違って、娯楽機関の少ない江戸以来の東京人は、芝居と寄席を普通の保養場所と心得ていた。殊に交通機関

東京電燈会社の創立は明治二十年であるが、その電燈が一般に普及さ

、三年頃から四十年前後に至る約二十年間で、東京の寄席の三分の一以上は、女義太夫一座によって占領さるる

とかいろいろの名をつけて、四方からおびただしい女義太夫が東京に集まって来たのである。その全盛時代は明治二十二、三年頃

時代の女義太夫は頗る卑しめられたものであったが、東京の寄席でおいおい売り出すようになったのは明治十八、九年頃からの

落語界の不振を説く人があるが、右の事情で東京の落語界はその当時から已に凋落の経路を辿りつつあったのである

には源氏節、大阪仁和賀、改良剣舞のたぐいまでが東京の寄席にあらわれて、在来の色物はだんだんに圧迫されて来た。

上野

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調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野下野道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や

それから先きの紀行は「上野下野道の記」に詳しく書いてある。円朝は千住から竹の塚、

は町奉行所の与力鈴木藤吉郎を主人公として、それに上野の寺侍杉田大内蔵と柳橋の芸妓小染を配したもので、「三

題材を取り扱っている。要するに「上野初花」は「雲上野」の改作である。これも原作は松林伯円の講談であるが、舞台

の名題のもとに同じ題材を取り扱っている。要するに「上野初花」は「雲上野」の改作である。これも原作は松林伯円の

が、黙阿弥は明治七年十月の河原崎座で「雲上野三衣策前」の名題のもとに同じ題材を取り扱っている。要するに

十四年三月の新富座初演で、名題は「天衣紛上野初花」と云うことになっているが、黙阿弥は明治七年十月の

お茶の水

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。夏は、好いが、冬は少しく難儀であった。お茶の水の堤に暁の霜白く、どこかで狐が啼いている。今から

日本橋

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話している間に、円朝の眼についたのは、日本橋長谷川町の待合「梅の屋」の団扇が出ていることであった

ていたという。その中でも本郷の若竹亭、日本橋の宮松亭を第一と称し、他にも大きい寄席が五、六十軒

浅草

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一向にわからない。ようようのことで、塩原家の墓が浅草高原町の東陽寺にあることを探り出して、更にその寺へ尋ねてゆく

で大きい身代を作りあげたのは事実で、現にその墓は浅草高原町の東陽寺内に存在したのであるが、詳細の伝記は

宣伝法を案出し、一月六、七日の両日、浅草の凌雲閣、新橋の江木の塔、芝愛宕山の愛宕館の三カ所から

時代にあっては、日が暮れてから滅多に銀座や浅草まで出かけるわけには行かない。まずは近所の夜見世か縁日ぐらいを散歩する

千住

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「上野下野道の記」に詳しく書いてある。円朝は千住から竹の塚、越ヶ谷を経て、第一日の夜は大沢町の玉屋

新橋

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、一月六、七日の両日、浅草の凌雲閣、新橋の江木の塔、芝愛宕山の愛宕館の三カ所から歌舞伎座の印を捺し

神田

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て今もしばしば上演を繰り返されているが、その原作は神田伯山の講談である。伯山はこの講談の創作に苦心し、殊に紀州調べ

銀座

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過ぎない時代にあっては、日が暮れてから滅多に銀座や浅草まで出かけるわけには行かない。まずは近所の夜見世か縁日ぐらいを

新宿

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頃の新宿の夜はまだ暗かったのである。今日の新宿に比べると、実に今昔の感に堪えない。

大きい河豚提灯を持っているのを見た。その頃の新宿の夜はまだ暗かったのである。今日の新宿に比べると、実に

になった。それでも明治四十一年の秋、私が新宿の停車場附近を通ると、これから寄席へゆくと話しながら通る二人づれの