半七捕物帳 55 かむろ蛇 / 岡本綺堂

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地名一覧

小日向神社

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神仏混淆を禁じられたので、氷川神社は服部坂の小日向神社に合祀されることになって、社殿のあとは暫く空地のままに残って

小日向

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はどうも判り兼ねますからね。御承知の通り、小石川に小日向という所があります。小日向はなかなか区域が広く、そのうちにいろいろの小名

。御承知の通り、小石川に小日向という所があります。小日向はなかなか区域が広く、そのうちにいろいろの小名がありますが、これから申し上げる

うちにいろいろの小名がありますが、これから申し上げるのは小日向の水道端、明治以後は水道端町一丁目二丁目に分かれましたが、

近寄らないのが一番無事なんですが、この氷川さまは小日向一円の総鎮守というのですから、御参詣をしないわけには行かない

改代町

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「改代町の万養寺です」

改代町は牛込であるが、ここから遠くない。二人は江戸川の石切橋を渡っ

から遠くない。二人は江戸川の石切橋を渡って、改代町へ行き着くと、ここらは俗に四軒寺町と呼ばれて、四軒の寺

小石川

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達にはどうも判り兼ねますからね。御承知の通り、小石川に小日向という所があります。小日向はなかなか区域が広く、そのうちにいろいろ

。現にこのあいだの湯島の一件……。ようやく突きとめて小石川まで出張って行くと、大工の奴はコロリ。実にがっかりしてしまいますよ

「もし、親分。今の小石川ですがね。そこで又すこし変な噂を聞き込みました」

二人は連れ立って小石川の水道町へゆくと、関口屋の長屋に大吉のすがたは見えなかった。隣り

、お由に渡しました。今とちがって、その頃の小石川あたりには蛇や蝮は幾らでも棲んでいましたから、近所の藪

明神が服部坂へ移されてからのお話ですが、小石川の縁日にかむろ蛇の観世物が出ました。これは昔から氷川の明神

牛込

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改代町は牛込であるが、ここから遠くない。二人は江戸川の石切橋を渡って、

湯島

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てしまわれちゃあ、洒落にもならねえ。現にこのあいだの湯島の一件……。ようやく突きとめて小石川まで出張って行くと、大工の奴は

「まあ、お聴きなさい。年造は湯島の早桶屋へ手伝いに行っていて、亭主の伊太郎がコロリで金儲けをし

を聞いて先ず安心した。しかし安心できないのは、湯島の人殺しが露顕して、善八が召し捕りに来たことです。死んでしまえば

て行って、次右衛門と知り合いになっていました。しかし湯島の人殺しと関口屋の一件とは全く別問題で、湯島の方は年造と

湯島の人殺しと関口屋の一件とは全く別問題で、湯島の方は年造と大吉の二人、関口屋の方は、次右衛門とお由と大吉

、次右衛門はどうしても承知しない。その上に、湯島の一件を薄々気取っているような様子も見えるので、いよいよ助けては

江戸

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安政五年の七月から八、九月にかけて、江戸には恐るべき虎列剌病が流行した。いわゆる午年の大コロリである。凄まじい

を幸いに、子どもの時から陰間茶屋へ売りました。江戸の陰間茶屋は天保度の改革で一旦廃止になったのですが、その後も

八丁堀

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やりますから、素人を咎めるわけには行きませんよ。八丁堀の役人だって、岡っ引だって、みんな神様じゃあない。時には案外の

氷川神社

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に氷川明神の社がありました。むかしは日輪寺も氷川神社も一緒でありましたが、明治の初年に神仏混淆を禁じられたので

が、明治の初年に神仏混淆を禁じられたので、氷川神社は服部坂の小日向神社に合祀されることになって、社殿のあとは暫く

も参詣人が群集して、ふだんは比較的にさびしい小日向の氷川神社にも、この頃は時をえらばぬ参詣人のすがたを見た。伝説のかむろ

が母のお琴と女中のお由と、三人連れで氷川神社に参詣した。関口屋はここらの老舗で、ほかに地所家作も持っ

大阪

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冷めた頃に、親子は二百両を持って、故郷の大阪へ帰るつもりでした。

湯島天神

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今から四日前の晩に、湯島天神下の早桶屋伊太郎が何者にか殺された。前にも云う通り、

その頃、湯島天神の境内にも芝居小屋がありました。その芝居に出ている力三郎と

下谷

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「下谷の坂本で小さい煙草屋をしているそうです。表向きは勘当でも、関口

九月二十日の夜なかに、下谷坂本の煙草屋次右衛門は何者にか殺された。その怪しい物音を聞きつけて、

を聞き込んだのは明くる日の朝で、半七を案内して下谷へ乗り込んだのは四ツ(午前十時)頃であった。二人は

尤もそれまでには、年造も下谷へこっそりとたずねて行って、大吉のために口を利いてやったん

東京

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に残っていましたが、今では立ち木を伐り払って東京府の用地になっているようです。

神田

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召し捕りに来て失望した男は、神田の半七の子分の善八であった。こうなっては空しく引き揚げるのほかは

千住

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五ツを過ぎたころにお由は帰って来て、千住の焼き場には棺桶が五十も六十も積んであるので、とてもすぐに

それから年造の死骸を千住の焼き場へ持って行くと、コロリ騒ぎで焼き場は大繁昌、五十も六十