半七捕物帳 51 大森の鶏 / 岡本綺堂
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た。仕様のない道楽者であるために、いわゆる山流しで甲州へ追いやられたんです。就いては自分の屋敷を他人に譲り、そのほかの
の逐電、おまけに路用の百両が紛失しては、甲州へ出発することも出来ず、さすがの殿様も途方にくれ、屋敷の者共
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仏閣に足を運ぶ者がたくさんありました。わたくし共も川崎大師へは大抵一年に二、三度は参詣していましたが、どう
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、文次郎から百両の金を奪い取った上に、奥様を東海道筋の宿場女郎に売り飛ばすという、重々の悪事を企んでいたんです。
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は夜の明け切らないうちに浅草の家を出て、吾妻橋を渡って行った。それまでは家内の者も知っているが、その後の
増はおめえの縄張り内の浅草で、しかも眼のさきの吾妻橋に住んでいたのじゃあねえか」
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、この頃の人にはお判りにならないでしょうが、今の天神町の一丁目、その頃は松平采女という武家屋敷の向う角で、そこに
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「川崎へ……。きょうは初大師の御縁日で」
では汽車の便利がありますからね。昔は江戸から川崎の大師河原まで五里半とかいうので、日帰りにすれば十里以上
川崎御参詣があったそうで……。御承知の通り、川崎は厄除大師と云われるのですから、将軍は四十二の厄年で参詣になった
いうので、どこの店もいっぱいの客である。いっそ川崎の宿まで引っ返して、万年屋で飯を食おうと云って、二人は空腹
なんでも品川の方にいるそうで……。わたし達が川崎の新田屋で午飯を食って、表へ出ようとするところへ、出逢いがしらに
もう小一年も逢わなかったのですが、きのう思いがけなく川崎で逢いました」
いた。近所で訊くと、おかみさんは三十三の厄年で川崎の初大師へ参詣に行って、その帰り道で暴れ馬に蹴られて、駕籠に
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「なんでも湯島か池の端あたりに中間奉公をしていたらしいのですが、どこの屋敷か
「その女は湯島の化物稲荷……と云っても、この頃の人にはお判りにならないでしょう
いう間際になって、奥様のお千恵さんはお名残りに湯島の天神さまへ御参詣して来ると云って、二十五日のひる過ぎに屋敷
隠まうことにして、約束の二十五日の午過ぎに湯島の天神の近所に忍んでいて、お千恵さんを駕籠に乗せて鮫洲に
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、今日では汽車の便利がありますからね。昔は江戸から川崎の大師河原まで五里半とかいうので、日帰りにすれば十
のなかには横着な奴があって、草鞋をはいて江戸を出ながら、品川で昼遊びをしている。昔はそういう連中のため
「まあ、仕方がねえ。江戸へ帰るまで我慢するのだ」
ほどが渡しを待っていた。いずれも旅の人か江戸へ帰る人たちで、土地の者は少ない。そのなかで半七の眼につい
庄太は舳先に乗った。やがて向うの堤に着いて、江戸の方角へむかって歩きながら、半七は小声で云った。
ながら後を見かえると、女は雪どけ道に悩みながら、おなじく江戸へむかって来るらしかった。町屋から蒲田へさしかかって、梅屋敷の前を通り過ぎた
から、医者にひと通りの手当てをして貰って、駕籠で江戸へ帰るに相違あるめえ。ああして厄介になった以上、自分の家は
春の日はまだ短いので、二人は暗くなってから江戸へはいった。途中で庄太に別れて、半七は三河町の家へ帰ると
江戸時代には化物稲荷という名になっていて、江戸の絵図にも化物稲荷と出ている位ですから、嘘じゃありません。
というのは、今年二十二の若い人で、正月いっぱいに江戸を引き払って甲府勤番ということになりました。仕様のない道楽者であるため
売り払って百両ほどの金をこしらえ、いよいよ二十八日には江戸を立つという間際になって、奥様のお千恵さんはお名残りに湯島の
た。奥様も奥様だが、殿様も殿様で、これも江戸のお名残りだというので吉原へ昼遊びに行っている。その留守中
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の安達文次郎という者と密通していて、今度の甲府詰めを機会にかの百両をぬすみ出して、二人は駈け落ちをするという
、今年二十二の若い人で、正月いっぱいに江戸を引き払って甲府勤番ということになりました。仕様のない道楽者であるために、いわゆる
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知れませんが、当人の白状では、正月の初めに下谷の往来で文次郎に出逢って、そこらの小料理屋へ連れ込まれて、初めて相談
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大師河原のお札が品川にあったり、堀ノ内のお洗米が新宿に取り寄せてあったりして、それをいただいて済ました顔で帰る……
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。昔はそういう連中のために、大師河原のお札が品川にあったり、堀ノ内のお洗米が新宿に取り寄せてあったりして、それ
な奴があって、草鞋をはいて江戸を出ながら、品川で昼遊びをしている。昔はそういう連中のために、大師河原
明け六ツ頃に神田の家を出て、品川から先は殊にひどい雪どけ道をたどって行って、大師堂の参拝を型の
「なんでも品川の方にいるそうで……。わたし達が川崎の新田屋で午飯を食っ
、亭主が死んだので店を仕舞って、おかみさんは品川の方へ引っ込んで、もう小一年も逢わなかったのですが、きのう
むずかしいというので、お六は思い切って店を閉めた。品川の南番場の辺に身寄りの者が住んでいるので、そこへ引っ越し
そうです。駕籠屋の話を聞くと、送り着けた先は品川の南番場で、海保寺という寺の門前……。それから帰りに
ていたのである。去年の五月ごろ、彼は品川方面へ商売に出て、南番場の海保寺門前を通りかかると、桂庵の
に担いで、矢口の村から余り遠くない池上、大森、品川のあたりを廻っていたのである。去年の五月ごろ、彼は
しまいそうなものだが、何かの都合でひと番いだけ品川まで持って行くと、こいつが変に暴れたりする。二人はなんだか
。土地にいちゃあ面倒だから、浅草の店をしめて品川へ引っ越して、桂庵に商売換えをして、その折助が番頭実は亭主
を詮議したら、大抵の見当は付くだろう。松には品川の方を受け持たせて、男の身許を洗わせて見よう」
それから三日の後、正月二十七日の午後である。品川の方を受け持ちの子分松吉が帰って来て、こんなことを半七に報告
かけて半七は思い出したように云った。「それから、品川の桂庵の一件だが、亭主の身許はまだ判らねえか」
にもして置かれないので、半七はその足で品川へ出向いた。
客を呼ぶ茶屋女の声もひとしお春めいてきこえた。品川の北から南へ通りぬけて、宿のはずれへ来かかると、ここらに
、むさし屋に出入りする金さんは金造といって、この品川の宿をごろ付き歩いて、女郎屋の妓夫などを相手に、小博奕
。「実は少し聞き込んだことがあるのですがね。品川の宿の入口に駕籠屋がある。あすこの奴らの話じゃあ、おとといの
……。あいつならわっしも知っています。現にきのうも品川で逢いましたよ。生薬屋の店で何か買っていました」
「おい、松。御苦労だが、品川へ引っ返して、その生薬屋で金造が何を買ったか調べて来て
相談を決めたんです。そこへ現われて来たのが品川のむさし屋の勇二という奴で……」
して、これも屋敷を飛び出してしまいました。行くさきは品川ですが、文次郎は勇二の家を知らないので、宿の入口の駕籠屋
を畳む、勇二は屋敷から暇を取る。そうして、品川へ引っ越して桂庵を始める。それで先ず小一年は無事に済んだの
一番いだけが潰されずに残ったので、ともかくも品川まで持って行って、自分の家に飼って置くと、鶏の様子が
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明け六ツ頃に神田の家を出て、品川から先は殊にひどい雪どけ道をたどって行って
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て厄介になった以上、自分の家は本所だとか浅草だとか話して行くだろうから、それもよく調べて来てくれ。恨み
「以前は浅草の吾妻橋ぎわにあったのですが、亭主が死んだので店を仕舞っ
川べりで風景もよい。安蔵は夜の明け切らないうちに浅草の家を出て、吾妻橋を渡って行った。それまでは家内の者
ぜ。例の一件の中年増はおめえの縄張り内の浅草で、しかも眼のさきの吾妻橋に住んでいたのじゃあねえか」
たような段取りでしょうね。土地にいちゃあ面倒だから、浅草の店をしめて品川へ引っ越して、桂庵に商売換えをして、その
れねえ。松吉と手分けをして詮議にかかれ。おめえは浅草の方を受け持って、鳥亀の亭主はどんな人間だったか、女房は
「ようござんす。浅草の方は引き受けました」
、勇二は塚田の屋敷に中間奉公している頃から、浅草の鳥亀へ軍鶏や鶏を食いに行って、女房のお六と関係が
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鳥亀の女房お六は上野辺で茶屋奉公をしていた女で、夫婦のあいだに子はなかっ
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一番いは亭主の安蔵の死ぬ五、六日前に、千住の問屋から仕入れた鶏で、店を仕舞う時にこの一番いだけが潰さ
死骸は塩詰めにして日本橋に三日晒しの上、千住で磔刑に行なわれました」
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てしまいましたので、その死骸は塩詰めにして日本橋に三日晒しの上、千住で磔刑に行なわれました」