半七捕物帳 59 蟹のお角 / 岡本綺堂
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あったのです。前にお話し申した通り、お角は神原の屋敷の馬丁と出来合っていたのですが、その馬丁の平吉が挙げられる
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は八丁堀同心の屋敷へ行って、丹沢五郎治をたずねた。丹沢は去年の団子坂一件に立ち会った関係があるので、その異人夫婦の
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伝わり、それが東海道を越えて五、六月頃には江戸にはいって来ると、さあ大変、四年前の大コロリと負けず劣らず
、黒船は悪い病いをはやらせるという噂が立って、江戸の人間はいよいよ異人を嫌うようになりました。中には異人が魔法を
彼は高輪の弥平という岡っ引の子分の三五郎で、江戸から出役の与力に付いて、二、三年前から横浜へ行っているの
「江戸じゃあ悪い麻疹がはやるそうですが、どなたもお変りが無くって結構です」と
の親分のところへ荷を卸しそうなものであるが、江戸にいたときに半七の世話になった事もあり、現に去年の三月
ね、去年の九月、男異人ふたりと女異人ひとりが江戸見物に出て来て、団子坂で殴られたり石をぶつけられたり、ひどい
という雇い女と、上下あわせて四人暮らしです。富太郎は江戸の本所生まれで、ことし二十六、お歌は程ヶ谷生まれで、ことし二十一、それ
「ようがす、久しぶりで江戸へ帰って来たついでに、四、五軒顔出しをする所がありますから
だ女異人は洋犬に啖い殺されたのだそうだ。江戸と横浜じゃあちっと懸け離れ過ぎているようだが、世の中の事は何処にどういう糸
をかしげた。「なんぼ何でも横浜で殺したものを江戸までわざわざ運んで来やあしますめえ。あっちにも捨て場所は幾らもある筈
であると云う。その以来、写真術は横浜に広まって、江戸から修業にゆく者もあった。ことし文久二年は、それから八年の
、それから八年の後であるから、横浜は勿論、江戸にも写真術をこころ得ている者が相当にあったことを知らなければなら
はなかったらしい。しかも世に写真というものがあり、江戸にも横浜にも写真師という者があることを、半七はかねて知って
死体を川へ投げ捨てたらしく、きのうの朝、即ち三五郎が江戸へ出ている留守中に発見されたのである。なぜそんな残酷な殺し
、島田は長崎の生まれで、年頃は二十八九、江戸にも二、三年いたことがあるそうですが、おととし頃から横浜へ
ので、半七らは容易に眠られなかった。横浜は江戸よりも涼しいと聞いていたが、残暑の夜はやはり寝苦しかった。
「江戸へ……」
「先生は江戸へ何しに行ったのですね」
「商売のことで時々江戸へまいります。今度も大方そうだろうと思います」
「先生と一緒に江戸へ行ったのじゃあねえかね」
「おまえさんは先生が江戸で殺されたのを知っているかえ」
「そのかたきをとってやろうと思って、わざわざ江戸から出て来たのだ」と、半七は声をやわらげて諭すように云っ
ここへ引っ越して来て間もなくの事です。先生は江戸へ写真を売りに行って、その帰り道でお角に逢って、一緒に連れ立っ
びっくりした様子でした。ハリソンさんは去年の九月、江戸の団子坂で菊人形を見物しているときに、女の巾着切りに逢いまし
横浜へ行った留守にお角さんが来て、一緒に江戸へ行ったのかと思いますが、それも確かには判りません」
「さっき江戸へ行ったと云ったのは嘘だね。確かな事じゃあねえのだね
三人を殺そうと決心して、お角は一旦江戸へ帰って、国蔵や甚八と打ち合わせをした上で、七月八日に
甚八が待っていて、島田を別の駕籠に乗せて江戸へ送り込みました。島田はモルヒネを飲まされて死んだのです。こんな手数を
を飲まされて死んだのです。こんな手数をかけてわざわざ江戸まで運んで来たのは、迂濶なところへ死骸を捨てられないのと、
、町奉行所にそのまま保管されていましたが、江戸が東京とあらたまって、町奉行所の書類いっさいが東京府庁へ引き渡された時に
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暮れないうちに六郷の渡しを越えてしまえば、今夜は神奈川に泊まることが出来るというので、三人は急いで出た。
、半七らは鮫洲から駕籠に乗った。予定の通りに神奈川の宿に泊まって、あくる十五日に横浜にはいると、きょうは朝から晴れ
の家の厄介になっていたことがある。それから神奈川に引き移って、今もそこに住んでいる筈であるが、ヘンリーはその居どころ
てたくさんの金を彼女にあたえた。彼女もシマダと同じく神奈川に住んでいるとのことであるが、やはり其の居どころを知らないとヘンリーは
、半七はやがて途中で立ちどまった。「島田もお角も神奈川とばかりで、その居どころが判らねえじゃあ少し困る。横浜には島田のほかに
て写真を始めたのです。去年の火事に焼けてから神奈川の本宿へ引っ込んで、西の町に住んでいるそうですが、女房子の
です。そこで、親分、どうします。あしたは早々に神奈川へ行ってみますか」
、引き挙げられていちゃあちっと面倒だ。ともかくもあしたは神奈川へ行ってみよう。本人は留守でも弟子が残っているだろう」
宮の渡しを越えて、神奈川の宿にゆき着いて、西の町の島田の家をたずねると、思いのほか
へ行ったこともあります。ハリソンさんと二人づれで、神奈川の台の料理茶屋へ遊びに行ったこともあるそうです」
それは神奈川の台の江戸屋であると、吾八は答えた。三五郎を番人に残し
責め道具をどうして思い付いたかと云いますと、わたくしが神奈川の料理茶屋を出て写真屋へ帰る途中、往来のまん中で二匹の犬が
島田も出て来ました。二人はやはり黙ったままで神奈川の家へ帰りました。これはお角ひとりの申し立てで、アグネスも島田も
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たとい七里の道中でも、横浜となれば旅だ。八丁堀の旦那に相談して、そのお許しを受けにゃあならねえ。あしたの午過ぎに
「大きく云やあ、そんなものだ。あした八丁堀へ行って相談したら、旦那がたも多分承知して下さるだろう。ところで、
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江戸から出役の与力に付いて、二、三年前から横浜へ行っているのであった。それと見て、半七も笑った。
まったく悪いものがはやるので、世間が不景気でいけねえ。横浜はどうだ」
「横浜でもちっとははやるそうですが、まあ大した事もないようですよ」
親分に無理を願いに出たのですが、どうでしょう、横浜まで伸して下さいますめえか」
「横浜に何かあったのか」
去年の三月、半七が『異人の首』の捕物で横浜へ出張った時に、その手伝いをした関係もあるので、彼は高輪
一存で返事は出来ねえ。たとい七里の道中でも、横浜となれば旅だ。八丁堀の旦那に相談して、そのお許しを受けにゃあ
三五郎はなにか横浜のみやげを置いて帰った。それと入れちがいに多吉が来た。
「たった今、横浜から三五郎が来たよ」
「横浜へ伸すのですか」
という字が書いてあったとか云うのだが、横浜で死んだ女異人は洋犬に啖い殺されたのだそうだ。江戸と横浜
異人は洋犬に啖い殺されたのだそうだ。江戸と横浜じゃあちっと懸け離れ過ぎているようだが、世の中の事は何処にどういう糸を引い
多吉は疑うように首をかしげた。「なんぼ何でも横浜で殺したものを江戸までわざわざ運んで来やあしますめえ。あっちにも捨て
大川の一件を根よく調べてみてくれ。おれは横浜へ行って、ひと働きしてみよう」
て、少しは土地の勝手を知っている筈だ。もっとも横浜も去年の十月にだいぶ焼けたと云うから、また様子が変っているか
「横浜は焼けましたかえ」
多吉の帰ったあとで、半七は旅支度にかかった。横浜までは一日の道中に過ぎないが、その時代には一種の旅である。
予定の通りに神奈川の宿に泊まって、あくる十五日に横浜にはいると、きょうは朝から晴れて残暑が強かった。戸部の奉行所へ行っ
教えたのが嚆矢であると云う。その以来、写真術は横浜に広まって、江戸から修業にゆく者もあった。ことし文久二年は、
文久二年は、それから八年の後であるから、横浜は勿論、江戸にも写真術をこころ得ている者が相当にあったことを
らしい。しかも世に写真というものがあり、江戸にも横浜にも写真師という者があることを、半七はかねて知っていたの
だんだん訊いてみると、そのシマダという男は長崎から横浜へ来て、写真術を研究しているが、日本人に習ったのでは十分
シマダは横浜に住んでいたが、去年の十一月の火事に焼けて、ひと月あまり
にゃあ犬神使いというのがあるそうだが、そんな者が横浜まで出て来やあしますめえ」
も神奈川とばかりで、その居どころが判らねえじゃあ少し困る。横浜には島田のほかにも、写真を始めている奴があるだろう。それに
「そうです、そうです」と、三五郎はうなずいた。「横浜にも此の頃は写真を撮る奴が二、三人いる筈です。誰かに
、三年いたことがあるそうですが、おととし頃から横浜へ来て写真を始めたのです。去年の火事に焼けてから神奈川の本宿
ているので、半七らは容易に眠られなかった。横浜は江戸よりも涼しいと聞いていたが、残暑の夜はやはり寝苦しかった。
きょうは盆の十六日、横浜にも藪入りはあると見えて、朝から往来は賑わっていた。三五郎の
。わたくしは先生の使やら自分の買物やらで、朝から横浜へ出て行きました。ついでに友だちの家へ寄って、ひる飯の馳走など
になりますが、先生のたよりは判りません。わたくしが横浜へ行った留守にお角さんが来て、一緒に江戸へ行ったのか
や甚八と打ち合わせをした上で、七月八日に横浜へ引っ返して来ました。勝手を知っているハリソンの家へ宵から忍び込んで
後に宇都宮吾陽という威めしい名乗りをあげて、横浜では売り出しの写真師になりました。わたくしもこの人に写真を撮って
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雇い女と、上下あわせて四人暮らしです。富太郎は江戸の本所生まれで、ことし二十六、お歌は程ヶ谷生まれで、ことし二十一、それだから
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所の番場まで中元の砂糖袋をさげて行って、その帰りに両国の方へむかって大川端をぶらぶら歩いて来る。こんにちとは違って、片側は
のままにして置くわけには行かないので、取りあえず東両国の橋番小屋へ駈け着けて、舟を出してもらいました。
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人間をおびえさせました。これもその年の二月、長崎へ来た外国船からはやり出したもので、三月頃には京大坂
「シマダさん……。長崎の人あります」
だんだん訊いてみると、そのシマダという男は長崎から横浜へ来て、写真術を研究しているが、日本人に習ったの
知っていました。橋本の話によると、島田は長崎の生まれで、年頃は二十八九、江戸にも二、三年い
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、後に西洋料理屋をはじめました。吾八は後に宇都宮吾陽という威めしい名乗りをあげて、横浜では売り出しの写真師
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気味が悪くって自分の家へは寄り付かれず、その後は深川辺の友達のところを泊まり歩いていましたが、お角は女でも
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なって、七月の七夕も盂蘭盆もめちゃめちゃでした。なにしろ日本橋の上を通る葬礼の早桶が毎日二百も続いたというのですから、
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それから二日目の七月十三日の夕方である。神田の半七の家では盂蘭盆の迎い火を焚いて、半七とお仙の夫婦
をした関係もあるので、彼は高輪を通りぬけて神田までたずねて来たらしい。半七は団扇を使いながら訊いた。
半七は承知して神田の家へ帰ると、松吉は朝から待っていた。やがて三五郎も来
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見送りに来た多吉と幸次郎に品川で別れて、半七らは鮫洲から駕籠に乗った。予定の通りに神奈川
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が、江戸が東京とあらたまって、町奉行所の書類いっさいが東京府庁へ引き渡された時に、写真なぞはどう処分されましたか、
奉行所にそのまま保管されていましたが、江戸が東京とあらたまって、町奉行所の書類いっさいが東京府庁へ引き渡された時に、