播州平野 / 宮本百合子
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ではなかった。もうそこは、ひろ子が知っていた広島市でもなければ広島駅でもなかった。駅長事務室が、引込線の貨車の中に
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とは真向いであった。京大の農学部を卒業して、九州の鉱山統制会社に勤めているという壮年の片脚を失った人は、パン
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、耕されている畑土は柔かく軽そうで、それは遠望する阪神の山々の嶺が、高く鋭いのにかかわらず、どこか軽々と夕空に聳えている
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行った。列車不通で、重吉への手紙もとだえた。大阪から配達される新聞も来なかったし、ラジオも水に漬って駄目になっ
大阪からの新聞がやっと配達されるようになった。呉線まわりで運ばれた
彼は大阪まで帰りつけばよいのであった。安心して、座席へもたれこみ、素人目で
「きょう中に大阪へつく予定だったんで、米をもっていません、すみませんが
道づれは、名を云えば大抵のものは知っているらしい大阪のキャバレーの持ち主であった。ひろ子は、文楽以外に大阪をよく知らず、
大阪のキャバレーの持ち主であった。ひろ子は、文楽以外に大阪をよく知らず、そのキャバレーがどんなに大規模なのかも知らなかった。慶大
てよ、内地へついて吻っと出来るかと思いゃ、大阪を目の前に見て足どめだ。二日だぜ、もう!」
「大阪じゃ、家族の居どころさえわかっちゃいねえ。――俺あ、戦争には愛想も
里はとても駄目ですね。――けれどもね、あなたは大阪までだから、明石まで七里、元気を出して一日にお歩けなさるでしょう
支店長が、腕時計をみては、大阪から支線へのりかえる時間を気にしはじめた。九時半までに大阪駅へつかなけれ
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「まだよっぽどだアな。三本松にかかったばかりだから――一時間の余あらあ」
「三本松じゃ、汽罐車がうしろへもう一台つくんだ。いつもそうだよ」
ひろ子は間誤ついてききかえした。三本松で三時間も不時停車した列車は、ついたときに、七時すぎて
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支店長は大阪府下の家族のところから電報が来て帰る途中なのであった。広島へ
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て、田地を分割した。農民は維新で疲弊した東北地方のあちらこちらから移住して来て、初めからこれらの農民の生活は小作と
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名古屋を過ると、通路まで汗と塵にまみれた復員者とその荷物で溢れて
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いた。白樺のへぎに、粗悪な絵具で京舞妓や富士山を描いた壁飾。けばけばしい色どりで胡魔化した大扇。ショウ・ケースに納められ
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のろささえ快適に感じられた。ひろ子が住みなれている関東平野、東北本線で見なれている那須野あたりの原野とちがって、播州の平野には
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をうける度に、あら、またよ、と歎息した。青森市は焼かれ、連絡船の大半が駄目になったのであった。
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のないことである。結局、十一時に姫路を出て加古川までゆく汽車にのることとなった。
加古川から明石まで歩くとすれば七里あった。
加古川の駅でみんな汽車からおろされた。不安な顔つきを揃えて改札口を流れ出
二台ともマル通のトラックで、加古川の青年たちが、旅客整理に出ていた。三列で十人。三十人
ひろ子らは、二台目のトラックにのった。加古川の駅前は、船が通るほどの浸水だったと姫路にはつたわっている。
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だろう。オホーツク海からの吹雪が道を塞ぐ前に、せめて北海道まで渡りたい。ひろ子は寒いところでの暮しに役立ちそうな物を選んでは
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「今のところ恢復の見込みは全然ないんだそうです。明石から先はいいんだそうだが、そこまでが駄目なんです。もとだっ
「明石まで何とかしてゆけばいいんですね」
のせて上げてもよろしいから。――そのトラックが、果して明石まで行けるやどうやしら。加古川辺が大浸水だそうです」
いよいよとなれば、途中で泊りながら明石まで歩くしかないとなった。それにしても天候が不安定であった。
建物の店で、トラックの心配が出来るというのも、明石の手前が通れないというのなら現実性のないことである。結局、十一時
加古川から明石まで歩くとすれば七里あった。
ね。――けれどもね、あなたは大阪までだから、明石まで七里、元気を出して一日にお歩けなさるでしょう。先へ行って
に線路の前方をのぞきながら、善良な支店長は、更に一層明石までの道のりが、ひろ子に歩けそうもないことを苦にした。
ひろ子も、しんからうれしかった。明石まで一人で歩くということは、云うよりもはるかに辛いことなのであっ
明るく展望のある一本の国道へ出た。これで、明石まで行けるのかと、料金のやすさを怪訝に思い浮べているとき、トラックは
明石が近くなると思うにつれ、従って彼の家が間近くなるにつれ、支店長
「さあ、もうこんどのったら明石までバタバタせんでええのやから楽です」
。明らかにこの土気色の小人群は、その荷物を背負って明石から何里かの道をここまで歩いてやって来たのだ。困憊が
奥さん、早うおいで。馬車がでけましたよ。これで明石まで行きましょう、さ!」
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すきまもなく通過した。おぼつかないラジオの報道は、目標は秋田なるが如しと放送していたが、それを信じて安心している
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でも、棲むところは網走ひとつに思いきめて、ひろ子は青森が空襲をうける度に、あら、またよ、と歎息した。青森市は
と乗れる船をつかまえよう。そういう気になった。焼けた青森の地に、バラックを立てて住みはじめたという親しい友達に、ひろ子は
た。万一の場合を考えて、ひろ子はその切符を、青森までのに頼んだ。七日が呉進駐で、列車の運転は禁止さ
、どうして過したらよかったろう。じっとしていられず青森まで出かけ、さて、そこでゆきちがったりしたら。――
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いう放送が夜昼くりかえされた。その間に、広島と長崎とを犠牲にした原子爆弾の災害の烈しさと、そのおそろしい威力とに
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、そういう放送が夜昼くりかえされた。その間に、広島と長崎とを犠牲にした原子爆弾の災害の烈しさと、そのおそろしい威力
とするように、少し口をあいて顔をもたげた。広島で重吉の弟の直次が生死不明となっているのであった。
へ戻った、六日の朝、丁度朝食の時間に、広島の未曾有の爆撃があった。
直次は、三度目の応召で広島に入隊した。それは、七月中旬のことであった。只今と
の縁側へ行って、ひろ子は例の行李を開いた。広島のことをラジオできいたとき、ひろ子はすぐ安否をきいてやった。
生涯は広島で終らせられた。せまい町筋に大通りが多い広島市街の光景と、海に注ぎ入る河に架っている橋々も目にのこって
も忘れていない。しかも、直次の三十四歳の生涯は広島で終らせられた。せまい町筋に大通りが多い広島市街の光景と、海
まで幾度かその田舎の町へ来たとき、ひろ子は、広島でのりかえるのが習慣であった。待合所の食堂でたべた牡蠣の香ばしさ
中で、眠ったりさめたりしているうちに、ひろ子は広島でのりかえて見たい気になった。
白絹も、広島でのりつぐのであった。
「広島まで、もう何分ぐらいですかな」
ありました。三次とかくの。芸備線で二時間ほど広島から行ったところに」
不通のままで、特にひろ子にとって困ったことは、広島までが山崩れ、トンネル崩壊でふさがっていることであった。
眼の不自由なその人は、広島辺の、同じ会社の支店長をしているのであった。
のところから電報が来て帰る途中なのであった。広島へ引かえすにしても、岡山までの汽車さえ、キャバレー主人の乗った
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て何となし沈みがちに落付きを失って来た。京都に妻子が疎開していた。二年ぶりで帰る体を先ずそこに
もう小一時間で京都に着くというとき、片脚の人は、ふと改った口調になって、
「自分は、京都で下車いたしますが、一つ何か、記念になるお言葉を頂きたい
京都から西を知らなかったひろ子にとって、柳井線沿線の景物は、目新しく
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た直次は、これも冬ものの黒羽二重の紋付に仙台平の袴で、汗にまびれながらも美しい若者ぶりであった。写真
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福島の田舎の家では、机はあってなかった。ひろ子は、そこに
福島の暮しでは、ひろ子の明日への感覚は、船へ乗れる日を待ち
さわ子の受持学級は、五年生であった。福島の田舎で国民学校に通っている伸一が五年生である。伸一たちは、
福島にいる伸一が、丁度休業中の宿題にそこを出されていた。
「福島へよってでありますまいか」
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列車が岡山にさしかかる前後から、沿線の風景はただごとではなくなって来た。徐行し
岡山から乗ったその男の松だけが、お菜になって出た。
の若い者が、使に来た。キャバレーの主人は、岡山までの汽車があるうち逆行することにしたから、スーツ・ケースをわたし
なのであった。広島へ引かえすにしても、岡山までの汽車さえ、キャバレー主人の乗ったのが最後で不通になってしまっ
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間、獄中に暮しつづけて来た重吉。六月に、東京からそちらへゆく前、面会所の切り窓から「まあ半年か、長くて十
ひろ子は、そこで暮していた東京の弟の留守宅の始末を全速力で片づけて、ともかく東北のこの町へ
ほんとに、この行李が海をこえるのかしらと思った。東京の親切な知人が、つてのない網走へゆくときめたひろ子を思いやって
土地の言葉と東京弁をまぜこぜにして、独特に愛嬌のある云いかたで感歓して
東京港に碇泊中のミゾリー号の甲板で、無条件降伏の調印がされた
「ここでいくら苦心したって、又どうせ東京で乗換えなけりゃならないんだもの」
は、東北のどこかの大きい軍需会社が解散して、東京へ還る途中らしい国防服だが、重役風の男がいる。ひろ子の真前
東北の自然の間を、列車は東京に向って進行した。時々、迷彩代りに、車体へ泥をぬたくった
。列車は、単調に動揺し車輪の音をたてていよいよ東京へ近く進行する。
東京の外郭にある駅へ来たとき、ひろ子は窓からやっと下りた。その
網走へゆくときめて、ひろ子が焼けた東京を出発した時分は、もう東北の田舎へ向ってでも荷物の運送
八月十五日前後の東京には、田舎町にいたひろ子の知らない種々の現象が起伏し、その
「あの二三日で、東京中にしたらどれほどの書類をやいたんでしょう。あの風景だけは、
「いや、これはひどい。東京ばかりのように思っていたが、どうして、どうして」
ても窓からみる景物のくりかえしは同じだものだから一向東京から出切っていないような、ちぐはぐな目ざめ心地である。
ひろ子は三日前、東北のある町から東京まで戻った。途中若い海軍士官とのり合わせ、彼が車掌と論判し、
三日のちがいだが、東京という首都を通過して東海道を下るこの列車は、潰走列車ではなかっ
「おばあちゃん! おばあちゃん! 東京から見えてですよ」
なく、人気もなくなった家のなかに暮していて、東京から来たひろ子を見たとき、思わずとりすがって愁歎するそういう気持の
て何一つ無くなった、ということも、殷賑だった東京と、その店々の印象を大切にもっている母には事実を疑わない
出来るだけのことはして人々を満足させて来た。東京が焼け原になってしまって何一つ無くなった、ということも、殷賑
東京を立つ前、ひろ子は土産ものをさがして銀座の三越へ入った。がらん洞
東京に進駐してまだ三四日しかたっていなかったアメリカ兵が、あとから
た。正月の三ガ日がすぎるのを待ちかねて、ひろ子は東京を立った。その暮の二十日すぎ、重吉が検挙された。ひろ子
いる父親もいくらか体の自由がきいていた。突然東京からひろ子が訪ねて来て、
る。さあ兄ちゃんじゃけ、昭夫もお行儀ようにせにゃ、東京のおばちゃんが、もうお土産もって来てやらんといの」
、奇妙な気がした。従妹の縫子は、ひろ子の東京の小さい世帯に一年半も一緒に暮したし、互に気があっ
もろうたら、それにこしたことはないけれど……ほん、東京であんな目えみて、ここへ来て、ほん……」
残暑にあぶられてギラついている東京の焼跡から来たひろ子に、夏の終りのこの大雨は、むしろ快よかった
着物ばかり保護しているが、食糧はどうなのだろう。東京で空襲があった間、市民が真先に心配し、守ったのは食糧
線、どれも水害を蒙り開通の見込たたず、ひろ子は東京にかえるどころか縫子と直次の調査にゆく望みさえも失った。
、そのために手入れされている机の居心地よさ。東京で、ひろ子が一人留守居していた弟の家のある地域は、
半歳の間、東京での生活はサイレンの音ごとに苦しく遑しく寸断されていた。どっち
その責任をゆだねられているとのことで、その大蔵省は東京にあるのであった。
は読本をもって来て、ひろ子に相談した。大東京という題目で書かれた一章であった。
「こんなにいろいろ書いてあるけれど、今の東京はまるで違っちょろうと思うの。どの辺がのこっているのか、よう分ら
た頃、東京は、たしかに読本にかかれているような東京であったのだ。
むく犬のついたブックエンドを伊東屋で買って貰った頃、東京は、たしかに読本にかかれているような東京であったのだ。
、地図を出して一九四五年のその夏、現実に在った東京を説明してやった。さわ子が、赤い麻の服を着て、姉
出発して欲しいと書いた。自分が、どういう理由にしろ東京にいない間のとっさの用のために、いくらかの金が用意し
が予定されていたその日、午前十時頃から東京は小型機の編隊におどかされた。定刻までに裁判所へ行っていた
「わたしは歩いたって東京へゆくわ。そうでなくたって、もうこの四五日で大分あやしくなってしまっ
、仮に八日か九日網走を出るとして、東京に着くのは十三、四日でしょう。すぐ立たなくちゃ」
「ともかく東京まで帰りましょう」
「東京に、連絡事務所が出来たらしいし」
「東京から誰かに行って貰うにしろ、何しろ今のことで、どうせ間に合いっこ
ということも、あながち不便ばかりではなかった。そして、東京の弟の家が焼けのこっていることも、重吉とひろ子にとっての大きな
長い橋をわたった。何年か前、呉線まわりで東京へ帰ったことがあった。そのとき、呉のさきに、長い鉄橋が
ひろ子は、急用で東京へ是非ともかえらなければならない者として自分を紹介した。
「東京までかえるんですが――この汽車、動くのかしら」
ひろ子のこころは一途に東京に向っていた。その途中でおこって来るいろいろなこと、たとえば昨夜、
刑務所を出たとしても、重吉が四五日かかって東京へ着くまでには、まさか自分も帰りついていられるであろう。その安心が
も出来にくかった。もし、汽車が一夜ですーっと自分を東京まで運んでしまったとしたら、ひろ子は、重吉が来る迄の時間を
困難を克服しながら東京へ向って来ている。二人は東京の家で逢う。ひろ子は平静にその瞬間を想うことが出来なかった。
も一人で、不便にあいながら、その困難を克服しながら東京へ向って来ている。二人は東京の家で逢う。ひろ子は平静に
次々とこんな故障を征服して、一歩一歩、東京へ向って近づいてゆく。そのことは、却って、ひろ子の心を鎮める作用
ひきしめた。一つ一つ、こういう段どりを重ねて、東京。そして重吉というひろ子にとっての絶頂に達する。一つ一つ過程
疲れを潜め、而も一点曇りなき頭をあげて、重吉は東京へ帰って来る。
は、それにつれて拓けひろがって来た。重吉は、東京へ、ひろ子のところへと、いそぐ跫音がきこえるように帰りつつあるにし
あり、その相異は決定的な相異であると思えた。今東京への途中にいてひろ子の念頭にあるのは重吉ばかりであった。
ているのをききながら考えるのであった。ひろ子が、東京へ、重吉のところへと帰ってゆくこころもちとは、どこかちがうところが
ひろ子は、東京ではじめて重吉にあうとき、自分として第一に云うべき言葉は、
顔洗いのついでに、ひろ子は、東京までの弁当も勘定に入れた分量の米をもって下りた。入口から
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は七月下旬のことだった。何も知らずに、巣鴨宛に書いた重吉への手紙が、網走へ本人を送致したからと
明治時代から巣鴨の監獄と云われていた赤煉瓦の建物は、数年前にとりはらわ
のはその年の六月であった。母には、巣鴨の拘置所もぐるりがすっかり焼けたので、漠然疎開のように説明して
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、まだ間のない開墾村であった。明治政府が、大久保利通時代の開発事業の一つとして、何百町歩かの草地を開墾
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「神田辺はのこったそうですな。これで、少しはいい本も出るもんでしょう
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ひろ子は、七月の下旬、上野から乗って東北に向った夜行列車の光景を思い出した。混雑は名状出来
故郷へ向ってこの列車にのりこんでいるひろ子は、東北から上野へ向って来たとき同様、旅客の中にほんの僅な女の一人旅
東北の中央の町から上野まで、僅か七八時間の短距離を走る列車は、混みようもひどかったし、
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はじめた。その素木の積木が、その年の九月初め日本橋の三越の玩具部に売っていた唯一の子供たちの遊び道具であった
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東京を立つ前、ひろ子は土産ものをさがして銀座の三越へ入った。がらん洞に焼けた地階のほんの一部分だけを、ベニヤ板
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昔、田端に、天然自笑軒という茶料理があった。そこの中庭の白壁に