アド・バルーン / 織田作之助
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白銅六つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の
私にとっては生れつきの気性らしかったし、それに、大阪から東京まで何里あるかも判らぬその道も、文子に会いに行くの
に余ったのでしょう。ある冬の朝、下肥えを汲みに大阪へ出たついでに、高津の私の生家へ立ち寄って言うのには、四
随分りん気深い女子で、亭主が西瓜時分になると、大阪イ西瓜売りに行ったまンま何日も戻ってけえへんいうて、大騒動や。
。といっても子供の足で二足か三足、大阪で一番短いというその橋を渡って、すぐ掛りの小綺麗なしもたやが今日から
ですが、一つには何といっても私には大阪の町々がなつかしい、今となってみればいっそうなつかしい、惜愛の気持といっ
の隙間から、裸の人が見える銭湯があったり、ちょうど大阪の高台の町である上町と、船場島ノ内である下町とをつなぐ坂
だい泣きイと、言うのです。おきみ婆さんは昔大阪の二等俳優の細君でしたが、芸者上りの妾のために二人も子
と思うくらい気の廻る子供だったが、しかしそのころは大阪では良家のぼんちでない限り、たいていは丁稚奉公に遣らされるならわしだったの
、なるべく早く漕ぐことにしましょう。といっても、こと大阪の話になると、やはりなつかしくて、つい細々と語りたくて……。
月の十日に御即位の御大礼が挙げられて、大阪の町々は夜ごと四ツ竹を持った踊りの群がくりだすという騒ぎ、
店出しがいやになったばかりか、何となく文子のいる大阪にいたたまれぬ気がしました。極端から極端へと走りやすい私の気持は
極端から極端へと走りやすい私の気持は、やがて私を大阪の外へ追いやりました。そして三年後には「自分を見出した」と
文子は三日いて客といっしょに大阪へ帰った。私は間抜けた顔をして、半月余りそわそわと文子のこと
文子のことを想っていましたが、とうとうたまりかねて大阪へ行きました。そして宗右衛門町の桔梗屋という家に上り、文子を呼んで
六つ。一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の
私にとっては生れつきの気性らしかったし、それに、大阪から東京まで何里あるかも判らぬその道も、文子に会いに行くの
東京へ着いたのは、大阪を出て十八日目の夕方でした。桔梗屋のお内儀に教えてもらった文子
やはりなつかしそうに上げてくれました。ところが、私が大阪から歩いてわざわざ会いに来た話をすると、文子はきゅうに私が気味
夜が明けて、その家を出る時、私は文子に大阪までの旅費をうっかり貰ってしまったのです。東京の土地にうろうろされて
土地にうろうろされてはわてが困ります、だから早く大阪へ帰ってくれという意味の旅費だったのでしょう。むろん突きかえすべき金だった
、おめおめと……、しかし、私は旅費を貰いながら、大阪へ帰ったら、死ぬつもりでした。そんなものを貰った以上、死ぬよりほかは
た以上、死ぬよりほかはもう浮びようがない。もう一度大阪の灯を見て死のうと思いました。その時の気持はせんさくしてみれ
振り向くと、バタ屋――つまり大阪でいう拾い屋らしい男でした。何をしているのだと訊いたその声
に会いたくなった。もっともそれまでも、紙芝居を持って大阪の町々をまわりながら、それとなく行方を探していたことはいました
、その翌日弁当ごしらえをして、二人掛りで一日じゅう大阪じゅうを探し歩きましたが、何しろ秋山という名前と、もと拾い屋をしてい
半月ばかりたってからだった。一方、私は相変らず大阪に残って紙芝居。ところが、世間というものはおかしなもので、そんな風に
土地の娘と深い仲になったが、娘の親が大阪で拾い屋などしていた男には遣らぬと言って、引き離されてしまっ
しかし、もう私にはたいした望みもない。私を誘惑する大阪の灯ももうすっかり消えてしまい、かえって気持が落ちついている。外交をして
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いうのは午の日ごとに、道頓堀の朝日座の角から千日前の金刀比羅通りまでの南北の筋に出る夜店で、私はふたたび夜の蛾の
たのはおきみ婆さんで、おきみ婆さんはいつも千日前の常盤座の向いの一名「五割安」という千日堂で買うてくる
の横の果物屋の前まで来ると、浜子と違って千日前の方へは折れずに、反対側の太左衛門橋の方へ折れて、そして
というシュチューを食べに行く。かね又は新世界にも千日前にも松島にも福島にもあったが、全部行きました。が、こんな
といっしょに天保山まで見送った私は、やがて父と二人で千日前の父の家へ行きました。歌舞伎座の裏手の自由軒の横に雁次郎
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。そこがその男の住居だったのです。男は、今宮へ行けば市営の無料宿泊所もあるが、しかし、人間そんな所の厄介になる
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を食べに行く。かね又は新世界にも千日前にも松島にも福島にもあったが、全部行きました。が、こんな食気よりも
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ように書いていたけれど、秋山さんが私と別れて四国の方へ行ったのは、それから半月ばかりたってからだった。一方、
んでと笑いました。聴けば、秋山さんはあれから四国の小豆島へ渡って丸金醤油の運搬夫をしているうちに、土地の
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晩になると、浜子は新次と私を二つ井戸や道頓堀へ連れて行ってくれて、生れてはじめて夜店を見せてもらいました。
その傍について堺筋の電車道を越えたとたん、もう道頓堀の明るさはあっという間に私の躯をさらって、私はぼうっとなっ
が、しかし、ふと暗い隅が残っていたりして、道頓堀の明るさと違います。浜子は不動明王の前へ灯明をあげて、何やら
です。お午の夜店というのは午の日ごとに、道頓堀の朝日座の角から千日前の金刀比羅通りまでの南北の筋に出る夜店で、
南へ曲りました。そして戎橋を越え、橋の南詰を道頓堀へ折れ、浪花座の前を通り、中座の前を過ぎ、角座の横
両岸の灯に心をそそられた。宗右衛門町の青楼と道頓堀の芝居茶屋が、ちょうど川をはさんで、背中を向け合っている。そしてどちらの
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この夜店は心斎橋筋を横切って御堂筋まで伸びていたが、玉子は心斎橋筋の角まで来ると、
は心斎橋筋を横切って御堂筋まで伸びていたが、玉子は心斎橋筋の角まで来ると、ひょいと南へ曲りました。そして戎橋を越え、橋
北へ真っ直ぐ笠屋町の路地まで帰るのです。私ははじめて見る心斎橋筋の灯にぼうっとなってしまいましたが、しかしそれよりも、戎橋や太左衛門橋
だった。というのは漆山文子のいる畳屋町は笠屋町から心斎橋筋へ一つ西寄りの通りだから、私はすぐにでも文子に会える、と
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ても唇が動かなくなるのです。そうして、やっと豊橋の近くまで来た時は、もう一歩も動けず、目の前は真っ白
ふらふらになりながら、まず探したのは交番、やっと辿りついて豊橋で弁当を盗んだことを自首しました。
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いう古物市場で五円で中古自転車を買った。それから大今里のトキワ会という紙芝居協会へ三円払って絵と道具を借りた。谷町
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が見える銭湯があったり、ちょうど大阪の高台の町である上町と、船場島ノ内である下町とをつなぐ坂であるだけに、寺町の
けれど、しかしその辺は宗右衛門町の色町に近かったから、上町や長町あたりに多いいわゆる貧乏長屋ではなくて、路地の両側の家は、
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八月の十日には父の残した老妻と二人で高野山へ父の骨を納めに行った。昭和十六年の八月の十日、
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冬の朝、下肥えを汲みに大阪へ出たついでに、高津の私の生家へ立ち寄って言うのには、四つになる長女に守を
で「かにどん」の氷金時を食べさせてもらって、高津の坂を登って行く途々、ついぞこれまで味えなかった女親というものの
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と笑いました。聴けば、秋山さんはあれから四国の小豆島へ渡って丸金醤油の運搬夫をしているうちに、土地の娘と
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連れて行きよった。ところが、親父はすぐまた俺を和泉の山滝村イ預けよった。山滝村いうたら、岸和田の奥の紅葉の名所で
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高い人々が、五年目の再会の模様を見ようと、天王寺へお詣りがてら来ているのだと判ると、きゅうに自分のみすぼらしい――
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は九州へ発ちました。父や田所さんたちといっしょに天保山まで見送った私は、やがて父と二人で千日前の父の家へ行きました
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五年後の再会を思いだしたので、ふたたび発奮して九州へ渡り、高島、新屋敷などの鉱山を転々とした後、昨年六月から
翌る日の夕方の船で、秋山さんは九州へ発ちました。父や田所さんたちといっしょに天保山まで見送った私は、
た。そして、秋山さんも私と同じような気持で、九州でほそぼそとしかしまじめに働いているのではなかろうか……。
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、高麗橋通りに架った筋違橋のたもとから四ツ橋まで、西横堀川に添うた十五町ほどの間は、ほとんど軒並みに瀬戸物屋で、私の奉公
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半月ほど後に、私は河堀口の米屋の二階から今里のうどん屋の二階へ移りました。そこはトキワ会が近くて絵を
も押しつまったある夜、紙芝居をすませて帰ってきますと、今里の青年会館の前に禁酒宣伝の演説会の立看板が立っていたの
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私を不憫に思ったのでしょう。しかし、その時いた八尾の田舎まで迎えに来てくれたのは、父でなく、三味線引きのお
たという女でしたから、頼まれもせぬのに八尾の田舎まで私を迎えに来てくれたのも、またうまの合わぬ浜子
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行く。かね又は新世界にも千日前にも松島にも福島にもあったが、全部行きました。が、こんな食気よりも私を
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いくらか力がついたので、またトボトボと歩いて、静岡まで来ましたが、ふらふらになりながら、まず探したのは交番、やっと
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から手拭を垂らして、日を除けながらトボトボ歩きました。京都へ着くと、もう日が暮れていましたが、それでも歩きつづけ
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新屋敷などの鉱山を転々とした後、昨年六月から佐賀の山城礦業所にはいって働いているが、もしあの誓約がなかったら今まで
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工面に日の暮れるその足で、少しでも文子のいる東京へ近づきたいという気持にせきたてられたのと、一つには放浪へ
とっては生れつきの気性らしかったし、それに、大阪から東京まで何里あるかも判らぬその道も、文子に会いに行くのだ
つ一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰
私の勤めている宿屋だった。その客というのは東京のあるレコード会社の重役でしたが、文子はその客が好かぬらしく、
て、道頓堀川の汚い水を眺めているうちに、ふと東京へ行こうと思った。
文子は十日ほど前にレコード会社の重役に引かされて東京へ行かはった。レコードに吹きこまはるいうことでっせと言う返辞。私は
工面に日の暮れるその足で、少しでも文子のいる東京へ近づきたいという気持にせきたてられたのと、一つには放浪へ
とっては生れつきの気性らしかったし、それに、大阪から東京まで何里あるかも判らぬその道も、文子に会いに行くのだ
。一銭銅貨三つ。それだけを握って、大阪から東京まで線路伝いに歩いて行こうと思ったのでした。思えば正気の沙汰
、つくづく情けなくなってしまいましたが、しかし、文子のいる東京はもうすぐだ。そう思うと、いくらか元気が出て、泣きながら夜
文子に大阪までの旅費をうっかり貰ってしまったのです。東京の土地にうろうろされてはわてが困ります、だから早く大阪へ帰っ
東京へ着いたのは、大阪を出て十八日目の夕方でした。桔梗屋
が起った年で、世の中の不景気は底をついて、東京では法学士がバタ屋になったと新聞に出るという時代だった
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私たちをその前まで連れて行ってはくれず、ひょいと日本橋一丁目の方へ折れて、そしてすぐ掛りにある目安寺の中へはいり
歩いて行きます。やがて天満から馬場の方へそれて、日本橋の通りを阿倍野まで行き、それから阪和電車の線路伝いに美章園という駅
金がたまっていました。それが資本です。それで日本橋四丁目の五会という古物市場で五円で中古自転車を買った。それ