木の都 / 織田作之助
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利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津の高台、生玉の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の
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大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は
して木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂
情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私
数の名曲レコードで、これだけは手放すのが惜しいと、大阪へ引越す時に持つて来たのが、とどのつまり今の名曲堂をはじめる
月一日は夕陽丘の愛染堂のお祭で、この日は大阪の娘さん達がその年になつてはじめて浴衣を着て愛染様に見せに
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わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にゐるとのことであつた
娘さんがひとり店番をしてゐて、父は昨夜から名古屋へ行つてゐるので、ちやうど日曜日で会社が休みなのを幸ひ、
せずに、その晩泊めようとせず、夜行に乗せて名古屋まで送つて行つたといふことだつた。一晩も泊めずに帰してし
かと、驚いて隣の標札屋の老人にきくと、名古屋へ行つたといふ。名古屋といへば新坊の……と重ねてきくと、
標札屋の老人にきくと、名古屋へ行つたといふ。名古屋といへば新坊の……と重ねてきくと、さいなと老人はうなづき、新坊
散々思案したあげく、いつそ一家をあげて新坊のゐる名古屋へ行き、寝起きを共にして一緒に働けば新坊ももう家を恋しがる
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あり、「高き屋に登りてみれば」と仰せられた高津宮の跡をもつ町であり、町の品格は古い伝統の高さに静まりかへつ
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たのであらう。藤原家隆卿であらうか「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこの高台で
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境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂や口繩坂を緑の色で覆うてゐた木々であつたり――私
数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌すだけでも
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ある中学校の生徒であつた。しかし、中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ移つてし
京都の学生街の吉田に矢野精養軒といふ洋食屋があつた。かつてのそこの主人
たりしたが、四十の歳に陸へ上つて、京都の吉田で洋食屋をはじめた。が、コックの腕に自信があり過ぎて
ことは、つまり私の第二の青春の町であつた京都の吉田が第一の青春の町へ移つて来て重なり合つたことに
歌つてゐる古いレコードであつた。このレコードを私は京都にゐた時分持つてゐたが、その頃私の下宿へ時々なんと
には屈託のない若さがたたへられてゐて、京都で見た頃まだ女学校へはいつたばかしであつたこのひとの面影も両
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私の中学校は籠球にかけてはその頃の中等野球界の和歌山中学のやうな地位を占めてゐたのである。私はちやうど籠球
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ある町ゆゑに上町とよばれたまでで、ここには東京の山の手といつたやうな意味も趣きもなかつた。これらの高台の
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蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂や口繩坂くを緑の色で覆うてゐた木々であつたり
数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌しるすだけでも私の想ひはなつかしさにしびれる
なつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口繩坂である。
はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である
しかし年少の頃の私は口繩坂といふ名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、
故事来歴は与あづかり知らず、ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やし
どの坂を登つてその町へ行かうかと、ふと思案したが、足は自然に口繩坂へ向いた。しかし、夕陽丘女学校はどこへ移転してしまつた
いかずかずの青春にいま濡れる思ひで、雨の口繩坂を降りて行つた。
帰り途、ひつそりと黄昏てゐる口繩坂の石段を降りて来ると、下から登つて来た少年がピヨコンと頭を下げて、
その名曲堂からの葉書を見て、にはかになつかしく、久し振りに口繩坂を登つた。
欠かせぬ会合にも不義理勝ちで、口繩坂は何か遠すぎた。そして、名曲堂のこともいつか遠い想ひとなつてしまつて
すこし風邪気だつたが、私は口繩坂を登つて行つた。坂の途中でマスクを外して、一息つき、
口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、
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数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌すだけでも
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数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌すだけでも
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それは生国魂神社の境内の、巳さんが棲んでゐるといはれて怖くて近寄れなかつた
南へ折れると四天王寺、北へ折れると生国魂神社、神社と仏閣を結ぶこの往来にはさすがに
私は行けなかつた。七月九日は生国魂の夏祭であつた。訓練は済んでゐた。
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北より順に高津の高台、生玉の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさ
むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、
淡い青春の想ひが傾いた。夕陽丘とは古くからある名であらう。昔この高台からはるかに西を望めば、
この高台で歌つた頃には、もう夕陽丘の名は約束されてゐたかと思はれる。
ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。
名曲堂へ顔を見せなかつた。七月一日は夕陽丘の愛染堂のお祭で、この日は大阪の娘さん達が
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上町に育つた私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といつてゐたけれども