札幌時代の石川啄木 / 野口雨情
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岩崎郁雨の好意であつたが、岩崎も一年志願兵で旭川へ入営したし、右も左も好意を持つてくれる人はない全くの
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私が初めて啄木と知り合つたのは、北海道の札幌である。今から三十数年の昔で明治の終り頃であつたが
裁判所の判検事を永らく勤めてゐたから、和軒氏も北海道で育つて北海道の事情は何んでも知つてゐた。一見学者風
を永らく勤めてゐたから、和軒氏も北海道で育つて北海道の事情は何んでも知つてゐた。一見学者風の人格者である
『北海道にはアイヌが居るからアイヌを主材としたものを書く方が良い』と
うちでも大通りは淋しい方であつた、明治の初めに北海道最初の開拓使永山将軍が将来の札幌を見越して大陸的に道路は広くし市街
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私の札幌行の動機
私が初めて啄木と知り合つたのは、北海道の札幌である。今から三十数年の昔で明治の終り頃であつたが歳月の
『君の希望してゐる新聞社が札幌にあるらしい、大した新聞ではないか知れぬが、梅沢君を訪ねて行く
『札幌の大した新聞ではないが、社長の伊東山華君が志士的な愉快な人
した。一見旧知の如く『明日の晩東京を立つて札幌へ一緒に行くから上野駅で落ち合はう』と直ぐ約束が出来て入社する
突然なので人見東明氏と関石鐘氏と二人だけに札幌行きを話して翌晩の十時に上野駅を立つて行つた。私はその時
午後に青森に着き、連絡船で函館に渡り再び汽車で札幌へ着いたのである。
札幌へ来た頃の啄木
私の札幌での居所は山華氏の紹介によつて大通りの花屋と言ふ下宿屋であつた
に面したところを判り易いやうに大通りと言つてゐる、札幌のうちでも大通りは淋しい方であつた、明治の初めに北海道最初の開拓使
た、明治の初めに北海道最初の開拓使永山将軍が将来の札幌を見越して大陸的に道路は広くし市街の区画割も思ひ切つて贅沢に定め
過ぎて浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない、殊に札幌となると内地よりも寒さが早く来る、頭の刈方は普通と違
来た。御飯を食べながら、いろいろと二人で話した。札幌には自分の知人は一人もない、函館に今までゐたのも岩崎郁雨の
、生活の助けにはならない。幸ひ新聞で君が札幌にゐると知つたから、君の新聞へでも校正で良いから斡旋して
の新聞へでも校正で良いから斡旋して貰はうと札幌までの汽車賃を無理矢理工面して来たのである。何んとかなる
日程経つと小国氏から、啄木の家族三人が突然札幌へ来て小使部屋に同居してゐるが、新聞社だから女や子供がゐ
これが札幌で二度目に啄木に会つた印象である。
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中は社長の山華氏と二人切りで、翌日の午後に青森に着き、連絡船で函館に渡り再び汽車で札幌へ着いたのである
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さには敬服した。一見旧知の如く『明日の晩東京を立つて札幌へ一緒に行くから上野駅で落ち合はう』と直ぐ約束
さんになるですから』と無理に辞退して帰つた。東京には知人も友人も沢山居るが、余り突然なので人見東明氏と
料に』と紙に包んで餞別を呉れたが『また東京へ来たらお世話さんになるですから』と無理に辞退して帰つた。
の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある、啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが、与謝野氏の明星で知つてゐる