鍵屋の辻 / 直木三十五
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受けただけである。四十一歳で死んだというが、鳥取藩私史と渡辺家記とから考えると後まで城内深く留めておいたものらしい。
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立って周囲を見廻しつつ馬上でくるのは又五郎の妹聟で大阪の町人虎屋九左衛門、半町も先に立って物見の役とある。つづいて
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まで城内深く留めておいたものらしい。墓は鳥取市外の玄忠寺にある。数馬は寛永十九年十二月二日に死んだ。鳥取寺町興禅寺
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という御触れが出て又五郎は江戸に居られなくなった。これは一方の池田公が暴死したから、旗本
触れである。こうなれば四郎右衛門も匿まっておけない。江戸を出るとすれば池田家の誰が討たんにも限らぬし、郡山名代の
居たが面白くなかったり主人に死なれたりして結局又江戸へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの黙って入って
して結局又江戸へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの黙って入ってこっそり隠れて居れば旗本の同情があるから
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張扇から叩きだすと、「伊賀の水月、三十六番斬り」荒木又右衛門源義村――琢磨兵林による、秀国
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を撲られている。琢磨兵林――これは著者が鳥取に渡辺数馬を尋ねて行って書いたものと称しているが時々誤りの
てしまった。藤堂家中の人々が称めるのも、鳥取侯が死んだと偽って郡山へ戻さなかったのも三大仇討の一
郡山には荒木の屋敷趾が保存されているし、鳥取にも跡が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合
ある。数馬は寛永十九年十二月二日に死んだ。鳥取寺町興禅寺に墓がある。岩本孫右衛門は七十三まで長命した。矢張寺町
受けただけである。四十一歳で死んだというが、鳥取藩私史と渡辺家記とから考えると後まで城内深く留めておいたもの
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らしい。機会としては絶好の時である。然し当時奈良の町奉行は中坊飛騨守秀政といって旗本の関係者であった。もし濫りに
又右衛門は甚左衛門が奈良へ帰った事を知った。探偵してみるとどうやら又五郎も一緒らしい
である。若党、小姓、足軽、人足合せて二十人、奈良般若寺口から坂道を登り木津から、笠置を経て、笠置街道を進む。
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が某所に匿んでいるんだなどと噂やら事実やらとにかく東京で有力な人の袖に縋れば、安全な事今も昔も大した変り
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渡って五町、上野の城下小田町の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、此処には数馬の知人もいる。三ツ辻、俗
。探ね探ねしながら長田川の橋を渡って五町、上野の城下小田町の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、此処に
馬子人足と共に二十人の一群、一文字の道を上野の城下へ乗入れてくる。
数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は上野の寺町万福寺にあって、念仏寺の川合武右衛門の墓と隣同志に