大阪を歩く / 直木三十五

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地名一覧

本郷

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私の本郷の下宿時代、私の所へ逃げてきた、私の女房(女房になっ

梅田

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梅田と木津川

処で、汽車の着く、梅田の駅頭も、その非文化的な上に於て、木津川よりも賑やかという

忙がしい。只怪しからんのは、阪神という阪急と共に梅田の東西に蟠居している大資本家である。巨額の積立金を持ってい

て「マイ・ミクスチュア」を喫おうと思うと、道頓堀か、梅田まで行かなければならぬ。私は、いつも、用意してくるが、丁度、

心斎橋も梅田と同じように、田舎町であるにすぎない。ありったけの時計を、モスリンを、

豊橋

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というものは、第三流都市の下品さである。豊橋とか、岡山とか――。

江戸

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、随分生んでいるが、滑稽の才能は、確に、江戸の洒落よりも、優れているとおもう。ただそれが、完全に発達をし

人は、大阪から一足も出ないし、江戸人は、江戸の内で一生暮らしているし、もし他国へ出るなら、それは伊勢参りと

、徒然なのが、町人である。そして、これは、江戸の町人とも共通していて、ちがうのは言葉だけ――いいや、本当

淀屋橋

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例えば、私は、淀屋橋に於て、勿論、淀屋辰五郎を書くであろうが、それからつづく、八幡の

名古屋

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名古屋の近くに、コンクリートの大仏が建った。毎日、賽銭がよって、遊んで

大阪

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大阪を歩く

大阪よいとこ、水の都市

大阪よいとこ、富の都市

大阪よいとこ、色の都市

大阪よいとこ、都市の都市

大阪を歩く

大阪と私

私の父は、今でも、大阪に住んでいる。南区内安堂寺町二丁目という所で、誰が、何う探し

然し、もっとよく考えると、父は、家よりも、大阪がすきなのらしい。「東京はあかん」と、東京へくると、私

その父の伜であるが五年前までは、未だ、大阪が嫌いであった。大阪も、父もあかんと思うていた。二十

五年前までは、未だ、大阪が嫌いであった。大阪も、父もあかんと思うていた。二十年前、私が、文学

二十年前、私が、文学へ志を立てた時、大阪も、父も、私に賛成してくれなかったからである。

それから、大阪は、あかん、と東京へ行った。今年は、私は、三十五だから

だが、此頃になって、だんだん大阪がよくなって来た。父の居るせいもあるが、月に一度は必ず

大阪の料理は、大阪人の進出によって、東京で十分に食えるし(うまい

だが、大阪へきても、歩く所がきまっている。いつも、心斎橋だったが、私

であったにちがいない)。私は、今の内に大阪の隅々を見ておかぬと、齢が齢である(いくつなんだか

所で、大阪を見たり、論じたりする場合、必ず、その好敵手である東京と比較して

進歩上いい現象なのかもしれない。ただ私は、大阪生れの、東京住居である為に、或は、公平にも見えるし、或は偏頗

私は、いつも、大阪へくる時、飛行機にしている。汽車のように退屈しないからである

だから、旅客飛行機の乗客で、搭乗回数のレコードホルダーは、大阪の電気器具屋の八木氏? それから、もう一人大阪人があって、

大阪人があって、次に、私である。尤も、大阪から一人、妓の為に、飛行機で通ってくるという噂があるから、

のは、大阪町人には判るまい。これは、恐らく、大阪のどっかの隅にあるべき筈で、私が、大阪へ戻ってきた

大阪のどっかの隅にあるべき筈で、私が、大阪へ戻ってきたなら、きっとそうなるにきまっている。だが金儲けとは

から大正橋までは退屈でもあるし、腹も立つし大阪軽蔑心も湧き出してくる。実になったあらへん所である。文化は道路

もし、私の恋人が、初めて、私を大阪に訪うてきて、この下級飲食店の羅列を見て、その町に住んで

している一等国というのは、日本だけだ。就中、大阪など、その為に、何んなに、文化的発育におくれているか判らないが

た時、銀座のコロンバンのようなクリームが何処にも、大阪には売っていない事を知った時、成る程と、感じるがいい。文化的

文化(この言葉は、もう少し古くなっているが、大阪では、丁度適当であろう)的にみて、大阪が東京に遅れている

、大阪では、丁度適当であろう)的にみて、大阪が東京に遅れているのは、誰も否定できますまい。遅れていた

すれば板につくか、十分に研究しているが、大阪の女はあても、洋服きたら、と、人真似をするのが、文化

をするのが、文化、非文化の相違で、そして、大阪の女が東京の女を見ると、妙なつくりをして、やな、

だから、大阪へきて「マイ・ミクスチュア」を喫おうと思うと、道頓堀か、梅田まで行か

へ旅をするようなものである。海泡石のパイプなんて、大阪にはあるまい。つまり、ハイカラなものは、大阪より東京に多いということ

なんて、大阪にはあるまい。つまり、ハイカラなものは、大阪より東京に多いということで、極つまらないことであるが、これを、

あるが、これを、つまらそうと思うと、私は、大阪生れの、文化的職業家の一人として一つ云いたいことがある。

、日本樟脳は暴落してしまった。製造工業の盛んな大阪。それ以外に、国をよくする方法の無い日本に於て、個人又は

だけである。芸術なんか何うだっていいから、私は、大阪の人々に、せめて東京の理化学研究所程度の科学研究所を設立してくれと頼みたい

考えに基礎を置いて、科学的発達に志す外、日本及び大阪の発達はない。この卓説の、もっと具体的なことは、大阪市の顧問にで

私は、大阪へくると、実によく心斎橋を歩く。或は心斎橋以外は歩かない、とも

無いのだから仕方がない。確に、恋人をもつなら大阪の方が経済的である。三十八円の樺太狐でも狐で、八十円の

鳥居屋へ行って、裂地から金具まで註文をするが、大阪の女は、こういうことを知らないだろう(大阪の男達よ喜ぶがいい

が、大阪の女は、こういうことを知らないだろう(大阪の男達よ喜ぶがいい。私の友人は最近鳥居屋へ恋人と同行し

がどんなにいいか――私の、少年時代、まだ、大阪の橋々の上には、夏の夜店が許されていた。

道頓堀へかけて、何も感心するものは無い(然し、大阪の女性は、こんな物に感心してはいけない。全く食べ物ばかりに感心する

と、いうよりも、実によく、大阪の女は食べた。私の子供時分の芝居に於て、就中、旧文

大阪の料理は、殆ど東京を征服した。東京料理の面影を伝えているの

のは、八百善位のものだろう。話に聞くと、大阪の板前は既に百人近く、東京へ行ったというからえらいものである(

その大阪の料理人も所謂、料理通、食通がる人々も「大阪料理は成るべく生の

その大阪の料理人も所謂、料理通、食通がる人々も「大阪料理は成るべく生のままの味を食わすんで――」と、自慢らしく

大阪料理が、東京へ入ったからとて、喜んでいるような根性では何うも

に、陶器を焼いたり、別荘を建てたりしている。大阪から逃出して、東京で当てた「浜作」も、そろそろ競馬へ行き出した。

がたまると、悉く、これで、文句を云えば、「大阪料理は生地の料理や」で、済ましている。

たなら、このうまい魚と、いい野菜とを控えている大阪の料理人として、西洋、支那をも研究して、少しは珍らしい物も

の原料をもっていて、この心懸けが出ない以上、大阪の料理人が、千人東京へ行ったって、それは、鼠の移動と同じこと

が、生じてくる。私はサー、理窟っぽすぎるが、大阪料理の為にこう云いたい。玄人よりも、料理がすきで、板前になっ

大阪の役、と云うと、後藤又兵衛に、真田幸村が、活躍するが、明石

一度大阪の町々の、こうした史蹟と、史話とを書いて、保存法と、

少しばかり、大阪、京都の方が叱るお巡さんが、多いらしい、ということは、叱られる

反映であろう。わざわざ危い、くぐり抜けをする街の勇士が、大阪の小僧さんには随分いる。

、ロンドンへ行ったことはないが、確信をもって、大阪位、怒鳴る巡査と、交通道徳を心得ない市民の多い所は無い、と断言

講釈場があった。だが、いつの間にか、大阪から、講談は無くなってしまった。

では、十年以上も、寄席へは行かぬが、大阪へくると、時々、春団治を聞きに行く。渡辺均君から紹介されて

私は大阪のこうした人々がいい素質をもち乍ら、それをリードするいい人の無い

しばしば歪められてしまっているのを見ると、もう一度、大阪の非文化性の罪悪さを云わなくてはならなくなってくる。時

な、特異的な文化を生み出しうると信じているが、大阪の文化人である、池崎忠孝氏とか、岡田幡陽氏とか、新聞社

木谷蓬吟氏の義太夫研究にしても、成長して行く大阪には、何の利益も無い。

、こつこつ書きためたというような――そんな文化人は、大阪には、必要ではない。

そして、同じお茶屋の十円で、新橋と、大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は十二時になる

、新橋と、大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は十二時になると、不見転以外は帰ってしまうが、大阪

は十二時になると、不見転以外は帰ってしまうが、大阪は、時として夜が更けると、雑魚寝があるし、席貸へ行って

私は、東京へ行った大阪の酒場が、エロであるという評をきくが、ああ云った取持ちがエロ

がエロなら、エロは忌嫌すべきものであるし、大阪の女性を軽蔑こそすれ、称める気にはなれない。無教養の故

三光神社から、高津の宮跡へかけて、大阪冬の陣の激戦地であった。私ら、少年時代には、未だ、その

財産で、一寸売れないだけに、子供の食いはぐれが無い。大阪の中位の、金持共は、郊外へ、大仏だの、観音だのをいろいろ

である。もう少し、明瞭としていたなら、当然大阪の史蹟の整理と保存とを初めなくてはならない。

には、こんなのが威張っているから癪であるが、大阪は、いくらか、その色が薄いので、だんだんすきになってきた。

私は、とうとう大阪を歩かなかった。これは、題名にも反くし、私自身の意志にも反く

こんな高い風景は、ビルディングの外、賞玩に価しない。大阪の女の、背の低い限りに於ては――)。

それに――私は、大阪の、何処を歩けばいいか? 私がエトランゼエなら、天王寺から、天満天神

と、歩くであろうが、私は、もう少し、特異な大阪を――大阪の玄人としての、大阪を知っている。例えば、清水

あろうが、私は、もう少し、特異な大阪を――大阪の玄人としての、大阪を知っている。例えば、清水橋筋には

、特異な大阪を――大阪の玄人としての、大阪を知っている。例えば、清水橋筋には、小泉とかいた金行燈

旧家がある。多分この家は、主人と共に、古い大阪を語るにちがいない。又、唐物町の鳥清は、鳥屋から、長崎料理に

土産になる)。或は又、京都の、肥後ずいきより、大阪のそれの方が、何んなに、文化的であるか(私が、こういう

 とか――つまり、微に入り、細に亙り、大阪の文化性を論じ、忽ち女郎の弁当に移り、千変万化、虚々実々、上段

ない。それで、私は、今日、図書館へ行って、大阪の史蹟を調べようと思ったが、人口二百幾十万と誇っているこの大都市に

しばしば通っていた時分から、いつも満員であったが、大阪の富豪が、南の方へ、建てたという話をきかないから、未だ

何十万の、空虚な頭が集合しているだけで、大阪よ、ロシアの、大ダンピングさ。大阪人等は、想像できるか? 所謂

私は大阪を歩き、大阪の人と逢ってもう少し大阪の為に語りたいが――

私は大阪を歩き、大阪の人と逢ってもう少し大阪の為に語りたいが――多分、私は

私は大阪を歩き、大阪の人と逢ってもう少し大阪の為に語りたいが――多分、私は、大阪に、また失望するもの

少し大阪の為に語りたいが――多分、私は、大阪に、また失望するものと思っている。私如き一介の小説家にして、

さえもっていないのが多いのである。憐れむべき、大阪、及び大阪人よ、私はまだ故郷へ戻りたくない。もう、二年―

続大阪を歩く

「大阪を歩く」前篇は、いい評判であったらしい。

てしまったのである(前田氏は、十回で、大阪中を歩かせるつもりだったが、そうは行かない。こう見えても、通り

以外の物を書いた事が無いから、私の郷土の大阪の、私の知人も、私を単なる文人と考えているようだが、私

公表するであろうが、それに先立って、私の郷土、大阪に於て、私の郷土人、大阪人の為に、その全部を披瀝し

私は、大阪を出てから、二十年になる。二十年、東京に住んでいた。

大阪で生れたから、生れた時から、掌を握っていたとか、二

「大阪」

「大阪か、大阪とは見えないね」

「大阪か、大阪とは見えないね」

人国記」の流行ってきた時代――大阪人は、大阪から一足も出ないし、江戸人は、江戸の内で一生暮らしているし

、私は、純粋の大阪人では無いが、とにかく、大阪で生れた人間として、一口に、贅六と云われる概念を打破して

恐らく、大阪の町人は、人を押しのけてまでも、金儲けをしたいとは思わなかった

私は、大阪のデパートによく入る。着いた日も、行ってみた。私の、愛人

女給が、東京風のよりも、エロであるように、大阪の店員は、東京よりも、大阪独特らしく、もっと自分の商売に、熱心で

エロであるように、大阪の店員は、東京よりも、大阪独特らしく、もっと自分の商売に、熱心でありたいと思うのである。仮令

。叮嚀とか親切とかは、既に古い。少くとも、大阪の商人、店員は、品物への知識、それによる客の知識の開発、

つづきを歩くのであるが――私の、小さい時から大阪名物の昆布店は増えもせず、減りもしないで健在である。

は、増えるか、減るか、したであろう。それは、大阪名物であるが故に、東京人をして、一口に、反感を抱かしめ

無しと、私は愛用している。別に私が、大阪に生れたからでなく、昆布は確にうまい物である。

の愛人と少し、意味がちがう)が、いつも私が、大阪へ行くと聞いて「昆布を買ってきて」と註文する(尤も、大抵

女給と、料理と、飴以外に、未だまだ大阪特有の品で、販路の拡まるべきものがある。追々それを私は説明し

有ったとしたら――実際私がこんなに、度々、大阪へくるのに、一人の愛人も無い、ということは淋しいことにちがい無い

飛行機に対し、日本人も大阪人も、理解が無さすぎる。大阪に住んでいる外人は、仮に、五千人としておいて、大阪の

いる外人は、仮に、五千人としておいて、大阪の人口が、仮に二百万として四百分の一である。所が、

に二百万として四百分の一である。所が、大阪、東京間の旅客機には、二三十人に一人位の平均で、外人がのっ

適しているであろうと信じている。私は、明日の大阪をして、発明の源泉地たらしめようと、それを先ず、大阪へすすめて

して、発明の源泉地たらしめようと、それを先ず、大阪へすすめて後、私に都合のいい大阪文化の樹立を説きたいのである

勿論、大阪の芝居などというものは、三十年も入った事が無い。私が、

ものは、三十年も入った事が無い。私が、大阪の芝居を見た時分、私の家庭のような貧乏な連中にとっては

、容色と衣裳とを見せる事に、すぐ慣れたが、大阪の女は、もし、松竹が、悉く、芝居を椅子席にしたなら、

「そう」と、云って食べたいのを我慢するが、大阪の女は「芝居で物を食べたら、何んでいきまへんね」と

、こうした東京の女は、直ぐ新らしさを受入れ、大阪の女は旧風を固守する事に、可成り文化の進歩に、遅速が

別として、何程かの後に東京風が、大阪へ侵入して来る事だけは確かである。大阪の女が、どんなに頑張ろう

が、大阪へ侵入して来る事だけは確かである。大阪の女が、どんなに頑張ろうとも、芝居はだんだん椅子風になって、食事と

知っていた。鴈治郎の声が、何うあろうと、とにかく大阪の俳優鴈治郎が、芝居をしていたら、それでいいのである。そして

大阪の芝居見人種には、この二種が一番多いらしい。だから、いろいろの

は、まちがって、いるかも知れない)。だから、大阪の女も嫌いではないが(私の、女房は大阪の女である)

大阪の女も嫌いではないが(私の、女房は大阪の女である)、どうも――どうも(これは、少し云いにくい所

私は、毎月一度、来阪するが、大阪の女で、ぴったり洋服の似合っているのは、ダンサア位のものである。

は、ただ、洋服のみでは無い。和服に於て、大阪の女は、或は、衣裳持ちで、質のいいものを多く持っているであろう

悉く断髪をした。この差が、東京の女と、大阪の女との差に、十分含まれている。アッパッパが、大阪近代風俗の

女との差に、十分含まれている。アッパッパが、大阪近代風俗の一つとなり、東京の流行が千差万別であるとの差であっ

の憧憬だけは持っていてもいいと思うている。大阪の女にも、それは、女学校時代まであるにちがいない。だが、何

になったが最後、だんだん退歩してしまう。これが、大阪の女に多い。少くも、東京の女は、いくらか、時代と共に

いくらか、時代と共に進む意志をもっているが、大阪の女は、家庭を守る事にのみ、専心してしまう。

この意味に於て、私は、大阪の女を、今女房にしろ、と云われたなら、甚だ、失礼千万で

摂取して、二三年経つと、板についてしまう。大阪は、余りに、自個をもちすぎている。

と、いうのは、大阪中流の、倹約思想である。悪いことでは無い。ただ、私にとって

なかった事は、私と、芸者と、仲居とが、大阪から、高台寺の貸席へ行った時の事である。私の、食い残しの

は、一体いいのか、悪いのか? たしかに、大阪及び、大阪近くには、この飯の尊重と、お粥の尊重とが、

いいのか、悪いのか? たしかに、大阪及び、大阪近くには、この飯の尊重と、お粥の尊重とが、都会に似

べき方法では無い。所謂、近江商人的のやり方で、大阪の実業家のやり方では無いと、考える。

の下に、石橋を叩いている実業家が、可成りに大阪には多い。そして、彼等のその考え方が、何処からきているかと

が――然し、私の目的は、こんな理屈ではなく大阪を歩くのであった。いつの間にか、少し暖かくなってきて、

九里丸君にしても、そういう意味に於て大阪のいい所を代表している都会人である(都会人と、田舎人との比較

議論があれば、いつでもしていい)。然し、大阪の人々が田舎者に押されてしまったように、こうした人々は、成る

云えないが、こうした人達を見る時に、初めて大阪はいい所、いい人の生れる所だな、と思う。そして商人もこういう

が、私は金儲けの為にいいと信じているし、大阪には多分の卑俗なユーモアがあるが、何故あれをもっとうまく利用しないか

が、どうして九里丸や、小出君の出た大阪の、その商人に欠けているのか? ユーモアでは、金が儲からん

私は、大阪の洒落についてもっともっと云いたいが、それは次の機会に――本当

次の機会に――本当に、私が、ぶらぶらと、大阪を歩く時に、云う事にしよう。多くの概念ばかりを、私はかいて

、ぶらぶらと歩いて、見て、書いたって仕方がない。大阪の歴史を――私の故郷の出来事を、諸君の町に嘗ていた人

大阪中の隅から、隅まで――それは、その町内の人が、気に

事は、私の得手では無いが、毎月五七日、大阪へきて、こつこつと調べ、読む事位は、私の為、大阪の為

て、こつこつと調べ、読む事位は、私の為、大阪の為、私の故郷に対して、勉めてもいい。誰か、外に

大阪の通俗的な歴史――神武天皇の昔は、少し、昔すぎるが、石山に

すぎるが、石山に本願寺を起す時分、即ち、史上に「大阪」の文学の現れてくる時分から、明治まで――一町内、一町

、そして、出来る限り、正確な調査をして、と――大阪には、木崎氏とか、南木氏とか、尊敬すべき郷土研究家が多い

とうとう、私は、大阪を歩かずにしまったが、四日からこそ、本当に、私は、女

、私は、女の同伴者がなくとも、一日中、大阪をぶらぶらするであろう。それを、私は「大阪物語」と名をつける。

共に、東京へ戻って、三月の下旬から、いよいよ大阪を歩き廻るつもりである。本当に、今度こそは――暖かいから、諸君、散歩

難波

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船着けましき、難波碕

上町

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のを憶えている。小橋の墓地といえば、私等上町の悪童には、なつかしい思い出の所である。

中之島

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方へ、建てたという話をきかないから、未だ、中之島だけであろう。二百何十万の、空虚な頭が集合しているだけで、

道頓堀

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大阪へきて「マイ・ミクスチュア」を喫おうと思うと、道頓堀か、梅田まで行かなければならぬ。私は、いつも、用意してくるが

、昆布屋と、飴屋と、鮓屋の外、心斎橋から、道頓堀へかけて、何も感心するものは無い(然し、大阪の女性は、こんな

私は、宿から、近いので、よく心斎橋から、道頓堀を歩くが、そして、今まで、書いてきたようにいくらか、歩いては

ロンドン

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怒鳴っているのを見ると、巡査、市民共に、一度ロンドンへ見学にやってやりたい。(私は、ロンドンへ行ったことはないが

、一度ロンドンへ見学にやってやりたい。(私は、ロンドンへ行ったことはないが、確信をもって、大阪位、怒鳴る巡査と、

加賀

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ている石井鶴三氏は、下谷っ子であり、泉鏡花は、加賀っぽうであり――こんな概念など一顧の価値も無い。第一に、純粋の

大阪市

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の発達はない。この卓説の、もっと具体的なことは、大阪市の顧問にでもなってから発表する。文化的とは、こういう考え方もする

上越国境

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歩くと、決心すれば、一昨年の夏、私は、上越国境の三国峠を越えて、越後湯沢へ下駄履きのまま、出る事のできる男

高津

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三光神社から、高津の宮跡へかけて、大阪冬の陣の激戦地であった。私ら、

天王寺

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いた時、その二階から、塔を眺めては「天王寺は未だ、健在だなあ」と、思ったことがあった。然し、お寺

の、何処を歩けばいいか? 私がエトランゼエなら、天王寺から、天満天神、大阪城、文楽座――と、歩くであろうが、私は

高台寺

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は、私と、芸者と、仲居とが、大阪から、高台寺の貸席へ行った時の事である。私の、食い残しの飯を、

ローマ

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が、東京へ侵入したが、これは、野蛮人がローマへ攻め入ったのと同じだと見た方がいい。少くとも「赤玉」と

岡山

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、第三流都市の下品さである。豊橋とか、岡山とか――。

京都

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少しばかり、大阪、京都の方が叱るお巡さんが、多いらしい、ということは、叱られる市民

京都には、田中、綽名雷というお巡りさんが居て、叱るので名物

もいい(これは、いい土産になる)。或は又、京都の、肥後ずいきより、大阪のそれの方が、何んなに、文化的で

だが、京都の人よりも、倹約的ではない。京都の、さるお茶屋の女主人と、牛肉を食べに行ったが、その鍋

だが、京都の人よりも、倹約的ではない。京都の、さるお茶屋の女主人

長崎

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た。それは料理の研究ではなく、古い鳥屋が、長崎料理に化ける可否という事について、親族も、考えてくれてい

にちがいない。又、唐物町の鳥清は、鳥屋から、長崎料理になるまで、八年間考えていた。それは料理の研究では

下谷

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―何処の山猿かしら、と思っている石井鶴三氏は、下谷っ子であり、泉鏡花は、加賀っぽうであり――こんな概念など一顧の価値

東京

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私が、東京へ来い、と、云っても母親だけを寄越して、何うしても動か

大阪がすきなのらしい。「東京はあかん」と、東京へくると、私の家の前へ出て、五分程立ってみ

父は、家よりも、大阪がすきなのらしい。「東京はあかん」と、東京へくると、私の家の前へ出て

多分そうだろうが、この算術は、少しおかしい)十五年、東京に住んでいる訳である。

それから、大阪は、あかん、と東京へ行った。今年は、私は、三十五だから(去年も、確三十五

し(うまい精進料理とすっぽんだけは食えぬ。誰ぞ、東京へきてやる人はおまへんやろか)。地震は、時々あった方

大阪の料理は、大阪人の進出によって、東京で十分に食えるし(うまい精進料理とすっぽんだけは食えぬ。誰ぞ、

なのかもしれない。ただ私は、大阪生れの、東京住居である為に、或は、公平にも見えるし、或は偏頗になれも

を見たり、論じたりする場合、必ず、その好敵手である東京と比較して、女が、食物がというが、凡そこれ位、常套

では、丁度適当であろう)的にみて、大阪が東京に遅れているのは、誰も否定できますまい。遅れていたって

円タク、酒場が、東京へ侵入したが、これは、野蛮人がローマへ攻め入ったのと同じ

、文化、非文化の相違で、そして、大阪の女が東京の女を見ると、妙なつくりをして、やな、阿呆らしい、

つまり、東京の女は、自分の洋装が、何うすれば板につくか、十分に

大阪にはあるまい。つまり、ハイカラなものは、大阪より東京に多いということで、極つまらないことであるが、これを、つまら

何うだっていいから、私は、大阪の人々に、せめて東京の理化学研究所程度の科学研究所を設立してくれと頼みたい。幾億円の

そっと私へ救済してくれと電話をかけてきた。東京の女はこんなにまで不経済になってきている)と、いうよりも

東京の女は、少し気が利いていると(或は、生意気だと)、

ていつも羨ましいのは、昆布屋である。昆布の価値は、東京人には判らない。チューインガムという阿呆なものより、昆布のヨードの方

。話に聞くと、大阪の板前は既に百人近く、東京へ行ったというからえらいものである(大抵この位で料理論などは

大阪の料理は、殆ど東京を征服した。東京料理の面影を伝えているのは、八百善位のものだろう。話に

大阪の料理は、殆ど東京を征服した。東京料理の面影を伝えているのは、八百善位

東京星ヶ岡茶寮の北大路氏は、この前菜を十六種位出して、一

たり、別荘を建てたりしている。大阪から逃出して、東京で当てた「浜作」も、そろそろ競馬へ行き出した。

大阪料理が、東京へ入ったからとて、喜んでいるような根性では何うもあかんと

を、何うして称められるか? 大阪人が、東京へ行って儲けたって、何が、日本の得になる。

、この心懸けが出ない以上、大阪の料理人が、千人東京へ行ったって、それは、鼠の移動と同じことで、料理の発達と

こういうことは、私は、好きらしい。だから、東京では、十年以上も、寄席へは行かぬが、大阪へくると

私は、大阪人の方が、東京人よりも、遥に、朗らかな、特異的な文化を生み出しうると信じ

十円では済まん)。この点は、酒場や、東京の真似のできない所で、上方遊里の忘れられない味である。

大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は十二時になると、不見転以外は帰ってしまうが、大阪は、時

私は、東京へ行った大阪の酒場が、エロであるという評をきくが、ああ

東京風の酒場では、この感じがやや少いが、大阪風は、かなわん。

なら、そんな金の使途は、いくらもある筈である。東京には、こんなのが威張っているから癪であるが、大阪は、いくら

、四時に退出して十五年勤めると恩給である。東京市の一課長は三十年間勤めて、年額七千七百円の恩給をとって

、雨になった。そして、翌日には、私は、東京へ戻らなくてはならぬ用がある。十一日には放送があるから

私は、これで一度、東京へ戻ろう。そうして、もう一度又、機があったなら、歩きに

、大阪を出てから、二十年になる。二十年、東京に住んでいた。丁度、生れた所に半分、他郷に半分、と

があるが、私は、一体、大阪人なのか、東京人なのか?

も、贅六根性が抜け無いものか? それとも、東京風に染んでしまっているか?

のよりも、エロであるように、大阪の店員は、東京よりも、大阪独特らしく、もっと自分の商売に、熱心でありたいと思う

に、恐れをもって見られているように女給が、東京風のよりも、エロであるように、大阪の店員は、東京よりも

したであろう。それは、大阪名物であるが故に、東京人をして、一口に、反感を抱かしめて「汚い、昆布を、

昆布店は、もしそれが東京にあったなら、恐らくは、増えるか、減るか、したであろう。それ

その栄養価の十分と、その味とによって、もっと東京への侵入を許すであろう。

のに、大阪人はこれを、新らしい商売として、東京へ乗出そうとはしない。宣伝と、製法とによって、無限に生産

私は、いつものように、飛行機である。東京から、三十円である。マントも帽子も買えない私として、大変

として四百分の一である。所が、大阪、東京間の旅客機には、二三十人に一人位の平均で、外人がのって

、これは猶大阪人の楽しみの一つであるらしい。東京の女性は椅子席で芝居のみを見て、幕間に食堂で食べ、廊下

を、決して下等だとは、思わないが、こうした東京の女は、直ぐ新らしさを受入れ、大阪の女は旧風を固守する

東京の女は「西洋は、こうだ」というと「そう」と、云っ

就いての是非は別として、何程かの後に東京風が、大阪へ侵入して来る事だけは確かである。大阪の女

そして、十分、よくなってから、東京へ出てくる。東京で、育つ種類とは、種類がちがう。

批判で通してくれる。そして、十分、よくなってから、東京へ出てくる。東京で、育つ種類とは、種類がちがう。

歌舞伎座、帝国劇場と、華美をつくした劇場をもっている東京が、収支つぐなわなくなるか? 中座程度の小屋で、見物の満足し

東京劇場、新橋演舞場、歌舞伎座、帝国劇場と、華美をつくした劇場をもって

か、と云って女中を、びっくりさせたが――東京の女は、手帳の端にでも控えておいて、そら、マヨネズよ

多く持っているであろうが、その着こなしに於て到底、東京に及ば無い。

東京の街頭で、けばけばしい薄色の羽織を着、形の悪い鬢に結っている

ている。アッパッパが、大阪近代風俗の一つとなり、東京の流行が千差万別であるとの差であって、知識の差に、帰着

は、忽ちに、悉く断髪をした。この差が、東京の女と、大阪の女との差に、十分含まれている。アッパッパ

東京の女は、断髪にし、眉を細くする。だが、それは、

てしまう。これが、大阪の女に多い。少くも、東京の女は、いくらか、時代と共に進む意志をもっているが、

か――多分、先方から、断られるであろうが――東京の風俗は、そういう方へ、近づきつつある。

いる。それは、しばしば滑稽ではあるが、その代り、東京のいい所をも、摂取して、二三年経つと、板について

の女も知っている。彼等は又、勇敢に、東京を模倣している。それは、しばしば滑稽ではあるが、その代り、

私は、これから、多くの参考書と共に、東京へ戻って、三月の下旬から、いよいよ大阪を歩き廻るつもりである。本当

銀座

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を儲けて、シュークリームを食いたい、と思った時、銀座のコロンバンのようなクリームが何処にも、大阪には売っていない事

が、飾窓を、窓らしく扱っている。小大丸は、銀座の越後屋と同じ道を踏むのでは無いかしら? 品物に珍らしいのが

私は、しばしば、銀座の店員の店員らしくないことを、雑誌に書いた。実際、彼等は

。だが、それは、極めて一部分の――それは、銀座を歩いても、百人に一人であるが、支那人は、忽ちに

日比谷

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この前菜を十六種位出して、一名物を為し、日比谷の花の茶屋も、十種位は作っている。つまり、フランス料理の十

大久保

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に、家康の旗が旗手の手から取残され、槍奉行の大久保彦左衛門がその旗を守って退却したなど、世人に余り知られぬいい

新橋

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この十円の遊興がすきであるらしい。今でも、新橋へ、年に一度位、遊びに行くが、九時から行って、

そして、同じお茶屋の十円で、新橋と、大阪とどっちがいいかと云えば、断然大阪がいい。東京は

東京劇場、新橋演舞場、歌舞伎座、帝国劇場と、華美をつくした劇場をもっている東京が

上野

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で、熱心な人はない。林氏にしても、上野の黒川氏にしても、本当に、仕事への情熱と、愛と