雪国の春 / 柳田国男
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昨年の秋とかにも古川町の芝居小屋で、大規模の田の糶が行われた。数週前から売る
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込みいっている。しかもその部分について見ると、たとえば石山寺の紫式部のように、ある才人が紙を伸べ筆を捻って書き出したものと
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なった。ここでもどういうわけか八百比丘尼は、末に貴志川へ身を投げて果てたと伝えている。越後の寺泊に近い野積浦の
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支那でも文芸の中心は久しい間、楊青々たる長江の両岸にあったと思う。そうでなくともわれわれの祖先が、つとに理解し
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知られておらぬ。とにかくにこの暮れのうちにはもう胆沢郡に引っ返していた。そうして旧知の村上家に客となって、次の初春
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だことと思う。この点においては忍の行田も摂津の灘・伊丹と、功罪ともに同じといってよろしい。
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べき場合がまれであったのである。十能は奥羽と九州ではヒカキまたはヒトリといい、他の中央部の大区域ではセンバと
。早い話が「然り」に該当する京都のヘーが、九州のある地域のエーだのネーだのあるいは北東日本の、ハイだのアだ
瀬戸内海の西部から土佐にかけてはこれをカユヅリと称し、九州に入ると再びまたトビトビもしくはタメタメというそうだ。トビもタビもともに「
でも田舎にいる者は暗誦が仕事であった。はるばる九州から豆を背負うて学問をしにきたという話もあり、地方には
九州などの盲僧と称する者は、もとことごとく一寺の住職であって、しかも琵琶
海尊仙人の口碑と因縁あるべく思われる。ただしこの話は九州を除くの外、ほとんど日本の全国に分布し、しかもたいていは同じ由来談を
八百比丘尼とはいわぬが、同種の話は別にまた九州にもあった。筑後柳川付近の本吉の三軒家唐人竹本翁と子孫と称する家
をもついている。しかも私などの注意するのは、九州の船頭の帰ってきての話に、この女が壇の浦の合戦前後
の一中心をなしたのは、座頭の職分のもとは九州と同様に、本来また宗教的なりしことを暗示するのみならず、さらに海尊の
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に上陸した。それから二年半ほどの間が、下北半島の小天地の生活であった。この地方の正月記事は幸いに「奥の手振」
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は目名という村の獅子舞が来て家々をまわった。熊野のお札と御幣とを中に立てて山伏が演ずる純乎たる祈祷の式であっ
崖路を登って高地の田を作るのである。紀州の熊野なども同じように、沖から望めば一帯の沿海段丘であるが、佐渡で
それから椿の木は伊豆や熊野の村々では、あまりにありふれて目にも留まらぬが寒地に向かうにしたがっ
似たる先例をあげるならば大和の大峰を中にした熊野と吉野、これなどは神武御東征の大昔から、すでに後代の本当二派の
第二の特色は山伏の詳しいことである。弁慶は熊野に生まれたというのみで、もと法師であって修験道には携わらなかったの
。いわゆる出羽三山の歴史は今やはなはだしく埋没した。熊野と羽黒との交通は、尋ねてみることも困難である。しかも熊野がこの
との交通は、尋ねてみることも困難である。しかも熊野がこの方面に向かって、かつて盛んに伝道した痕跡は残っているので
沢山の鈴木氏は、今なおその名残を留めている。熊野の神人はもと三家、いわゆる宇井・榎本・鈴木の中で、宇井は早く
それからなお熊野のために気を吐いたという点では、武蔵坊弁慶もまた決して人後
語をかりて言うならば、『義経記』後篇は正しく熊野および熊野人のための宣伝であった。
は住民の家を愛しまた祖先を思慕するの情と、熊野の信仰とが潜んでいたのである。歴史の記録中に何の証拠
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はアブラコ菊というと後になって聞いているが、関西で吾妻菊、東国で蝦夷菊というものと色も形もほぼ同じで、
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前に立つ寒風山に隔てられて、ただ想像するだけの八郎潟が、登るにつれて少しずつその両肩の上に光ってくる。それが半
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に、古蹟の感興を割引してしまったのである。鎌倉へは静御前が来たばかりで、判官は首になっても、腰越から
前半分のほうに限られ、吉野山では佐藤忠信、鎌倉では静御前、北国落では武蔵坊、高館では鈴木兄弟、十郎権頭兼房
が死んでいない。他の一方では首になって鎌倉に送られ、含み状によって、頼朝の誤解は釈け、讒言をした
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鵜住居の浄楽寺は陰鬱なる口碑に富んだ寺だそうなが、自分は偶然その本堂の前
浄楽寺の和尚はこの界隈の書家と見えた。およそ街道の右左に立つものは、
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者のあったことは、たくさんの証拠がある。光源氏が須磨に流寓していた時に、明石の入道がその無聊を慰めんとして
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がある。光源氏が須磨に流寓していた時に、明石の入道がその無聊を慰めんとして、琵琶法師の真似をしたのは
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ある。それから越後を通って九月にはもう羽前の鼠ヶ関に来ているから、この地では腰を落ち付けて休む家もなかったの
、自分には確かな記憶がない。山形県に入っては鼠ヶ関・三瀬の辺からしだいに多くなり、果もなく北の方へ続いている
から見出しえぬものはあるが、大体に海辺伝いに、鼠ヶ関から出羽に入り、三瀬を越えて庄内の大宝寺には入っている。単に
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ただし大昔も筑波山のかがいを見て、旅の文人などが想像したように、この日に
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この渡し場からは雪の岩木山が真正面に見える。寂しい十三湊の民家は、ことごとく白い大きなこの御山の根
子に、海伝いに入っている。それからも久しい間岩木山周囲の村里を吟行した。ゆえにしばしば西津軽の浦人の男鹿の霊山を説く
例は東北の名山に幾らもあるが、近くは津軽の岩木山でも、山の神は安寿と津志王との姉弟で、岩木判官正氏の子
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姥の夢の歌の話、これに次では各地の熊野神社と、これに因縁ある沢山の鈴木氏は、今なおその名残を留めている
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その中心の主要なる力の一つは、おそらく赤神山の信仰であった。奥羽の霊山ではこの半島に限らず、叡山仏教の
男鹿のナマハギがもと赤神山の五人の鬼と、関係のあったことは想像しえられる。大和の
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、醜恠なる蔭の事情がなかなか多かったように思う。比叡山のごときは最後まで利権恢復の望みを絶たず、現に維新の際にも人
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のこれを感じ知る者多く、これに次いでは宮島や金華山の他にも、島に鹿猿を保護するもの少なからず、また神霊のなお
説明せられている。なるほどそれも確かな事実で、ひとり金華山の神社にこの獣を放養するのみならず、土中の古物にも角器
ここでは常陸鹿島や金華山のごとき、信仰の保護ははやくからなかったらしい。しかも自分が男鹿に遊んで
それを佐竹侯入国の始めのころ、わざわざ仙台領のたぶん金華山などから、三頭とか四頭とかを取り寄せて放したということで
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われわれの祖先が、つとに理解し歎賞したのは、いわゆる江南の風流であった。おそらくは天然の著しい類似の、二種民族の感覚を
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録』などにも出ている。この方では父は小松原という村の人で、海に釣をして異魚を獲たのを
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だというのが同じだったらしく、さらにさかのぼって飛騨の益田郡、馬瀬の中切の次郎兵衛酒屋の話などは、山国らしい昔話に変化して今
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て、川岸伝いに北をさして旅立った。夏はおそらく久保田の城下にいたろうと思うが、その日記もまだ出てこない。「外
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天明七年にはさらに陸前に入って来て、石巻から松島、仙台までも見物をした様子だが、これも記録がはたしてある
今度の旅行にもこの目をもって二度聞いた。石巻から乗った自動車が、岡の麓の路を曲がって渡波の松林に走り着こう
の者だろうというこってす。おれはこの年まで、石巻までもめったに出ねエ者だが、おれの馬鹿なことはよっぽど遠くまで
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を過ぎるとたちまち浅緑の唐松の林で、その上にいわゆる日本アルプスの雪の峰が連なって見える。雉がこの間に啼いていたので
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、この比丘尼の栽えておいたという老木が多く、下野にも上総にもいろいろの遺跡はあるが、人魚の話はまだ聞いてい
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しまって、五十年近くの間秋田から津軽、外南部から蝦夷の松前まで、次から次へ旅の宿を移して、冬ごとに異なる主人
旅の者ならずとも、親しみを感ずる木であった。蝦夷の浦々にもいたる所に大きな群れがあったというから、夏場所の漁民ら
、手に持つ花の枝も多くは椿であった。蝦夷がこの地方を占領した昔から、特に後年神を祭るべき磯崎ばかりに、
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の皮は、採って染料にしている地方がある。北海道などでは実を貯えて食用とする土人が多く、寂しい旅の者ならず
に発達する以前、自分らが知ってから後までも、北海道の平野はいたる所この木をもって蔽われていた。開墾が進むと
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遭っているのである。それから山を越えて雄勝郡の西馬音内に遊び、次の月には柳田村の草薙氏の家で、引留められて
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あらず、「聞けば常陸坊もまた長命をして、仙北の方に住んでいるそうな」と、よその噂にして語っている
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、歯が役ウせぬようになってしまいました。横浜のアベ商店に売ってるとって、機械を買って来て使っていたの
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行為の外に出でなかったのが、橘某なる者が薩摩になろうて、思い切って俗曲を行うことにしたのである。その他まだ
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。それほど陸近く汽船は入り込んできたのである。越喜来の湾だと乗客の若い水兵が教えてくれた。
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は名が伝わらぬが、ただ一人だけ知れているのは常陸坊海尊であった。それがその通りの歴史であったとすればぜひもないが
を聞いて福仙も負けぬ気になり、和尚さまこそ常陸坊海尊なのだといったとかで、すっかり土地の人が信じてしまうことに
と対談をしたという一の異人などは、われは常陸坊海尊である。今は名を清悦と改めていると、明らかにみずから名乗った
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標本ともいうべきものであった。鎌倉殿より給わった甲州の所領をなげうって、単身で下ってきたといっているが、なお故都
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に統一することが困難なる形勢にあったのである。加賀の白山なども事情はすこぶるこれに近く、出羽ではまた羽黒の三山のごときも
入れ、餅ならばこね取りをする役が一人あった。加賀の残月の小松原宗雪、会津の残夢の無無老人と福仙、平泉の清
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。『気仙風土草』の記するところによれば、この郡唐丹村の荒涼の海に近く、亀井墓と称する古墳があった。どうしてそんな
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鹿角から、嶺を東に越えて北上川の岸を、江刺郡の岩谷堂の近くまで下っている。これはわが旅人の鋭気の盛り、北の
を木で作って竈の上に掛けておき、これを江刺郡では「かまぼとけ」とも呼んでいる。
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には兄将軍の足跡ばかり多い。つまりはこの物語が、関東の土には合わなかったのである。趣味の相異が親と子、兄
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の呪法とした農民が住んでいたのである。北日本の兄弟たちは、ただその習俗を携えつつ、北へ北へと進んでいっ
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いても沖縄では琉球語を独立した言語とし、与論島や喜界島では方言となるのは、結局は「これでよいのだ」と思う
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実は羽越線の吹浦、象潟のあたりから、雄物川の平野に出てくるまでの間、浜にハマナスの木がしきりに目に
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この晩私は八木の宿に帰ってきて、パリにいる松本君へ葉書を書いた。この小さな漁村の六年間の変化を、
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私はおりおり東北地方に居住する友人から、毎日々々新聞を友としてコタツで暮らしている
の美術倶楽部などに行かるるために立った噂であろう。東北地方で参考にするなら、何も清辰の輩を煩わさずとも、付近に若駒の
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とも、またヒカタタクリとも称するのである。閉伊の男鹿島の荒蝦夷の住んだ国にも、入れ代わってわれわれの神を敬する同胞が、早い昔から邑里
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、最初に名乗った神が一生の守護神になることは、綾部も丹波市も同じことである。時にはどうしても神がつかず、
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オガという地名の今も存するのは、第一には筑前の岡の湊すなわち蘆屋を中心とした現在の遠賀郡の海角である。
は『瞽幻書』と題する記録が残っている。長門と筑前の盲人の頭目には、二、三の刑戮に触れた者さえあったが
もあった。それが今日の薩摩琵琶の起原である。筑前の方では明治になるまで、琵琶の盲僧は宗教行為の外に出でなかっ
はどこかと聞いて非常に懐かしがり、私の故郷も筑前だといって、いろいろな事を尋ねるが話がどうも合わぬ。実は
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。莫大な秋の花をのせている台地であった。萩などもこの高原では繚乱として咲いていた。ある朝は小雨の
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開始の年代を異にするのみと見れば間違いはない。迫川の岸に接した一農場は、細田氏という人が実際の管理をし
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と、関係のあったことは想像しえられる。大和の吉野山を中心として、全国に宣伝せられた修験道が、仏教以前の根源
必要であった事情は察せられるが、ひとり意外なのは吉野山の記事である。わずか十日の間の雪の中の漂泊、さまで華々し
主人公にしたのはかえって前半分のほうに限られ、吉野山では佐藤忠信、鎌倉では静御前、北国落では武蔵坊、高館で
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江戸のあらゆる芸術がつい近いころまで、この古文辞の約束を甘受していた
にこの辺の正月の式は複雑なようで、京や江戸とは比べものにならず、ただ遠国の田舎の旧家などに、偶然の一致を
かぶっていたと想像せられる。天明八年といえば江戸でも京都でも、種々の学問と高尚なる風流とが、競い進んでい
江戸では青山辺の御家人などが、近世まで盆の月には高燈籠をあげ
に扱われたものもまた少ないようである。それには江戸という土地がこの物語と、あまりに縁がなさ過ぎたということを考え
物語』というものが要領をつくし、その書は早くから江戸の随筆家の中に大評判であった。某年この付近の船頭に、奥州津軽
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の形になったのは寛文八年、すなわち小野氏が平泉の山でこの人に逢ってから、五十一年の後である。もうその時分
を、若干の差異をもって説いているので、すなわち平泉の清悦の奇怪談が、必ずしも一人や二人の与太話でなかったことだけ
ただけでは娘が取って食ったというのが、平泉を加えて十件あり、食物はそのただ一つのみが九穴の貝で
の小松原宗雪、会津の残夢の無無老人と福仙、平泉の清悦の小野太左衛門におけるごとく、少しは傍から注解し敷衍する者
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なくただ比丘尼の生地を若狭鶴崎としたのみだが、丹後には別に竹野郡乗原という部落に、旧家大久保氏の家伝というもの
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などはもう北の限りで、わずか数里を離れたいわゆる比叡の山蔭になると、すでに雪高き谷間の庵である。それから嶺を越え
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まず近江の湖を海津へ渡り、荒乳山を越えて越前に入り、それから諸処の関と船渡しで苦労をしつつ、越後の直江の
と称してその実は非常な通であった。義経は越前の国府から、用でもないのにわざわざ平泉寺に参詣し、衆徒と応対し
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かのごとく、画も文章も完備して残っている。奥州の果まで来てみると、いよいよ盆と正月との二つの行事が、
「配志和の若葉」やその前後の日記を見ると、奥州の座頭たちの生活が、すこぶるこの旅人の興味を引いていたことが知れる
奥州で津軽・栗原・信夫、羽前の最上、それから信州木曾の園原などにおい
もとより松の長寿なるに如かなかった。それゆえに今は奥州においても、若干の伐り残しを見るだけになったのである。
れ、今はまた新たなる栽培を要するにいたったが、奥州の一角にはかえってまだ昔の面影を存している。日本のカシワは英語の
佐々木鏡石君が近ごろ研究を発表した奥州の座敷童子も、やはり主として右の樺皮の家にいる。彼
ないにしても、初めては同情の目をもって、奥州の奥の女を見てあるかねばならぬ。ことに国民の主流が
太平洋に面した奥州の一部では、この小正月の晩に来る蓑笠の神さまを、ナゴミタクリまたは
がよく保存もせられたので、いかに古かったところが奥州などの文学が、本ばかりではこれを味わうことのできなかった理由も、
て、兄の継信のことは一言も説かずに、後日奥州の親の家へ行くと、盛んに二人の兄弟を語っているのは、
に非常に詳しく描かれている。その中でも京と奥州とがあと先に二度ずつ、義経活躍の舞台となったのは当然である
んがために、義経は中途で一度、中仙道を通って奥州から京へ帰ってこなければならなかった。弁慶が家来になるのもその
た。京都はとにかく、吉野山中の寺生活などが、とうてい奥州にいては語れなかったと同じく、奥州およびこれに通う道筋の物語は、
などが、とうてい奥州にいては語れなかったと同じく、奥州およびこれに通う道筋の物語は、京都居住者の想像しうる境ではなかった
。よって差当ってはこれらの関係を引き離して、特に奥州の部分が奥州に産した事情を、今少しく考えてみようと思うのである
てはこれらの関係を引き離して、特に奥州の部分が奥州に産した事情を、今少しく考えてみようと思うのである。
て)京都に持って出て恥ずかしくない程度にまで、すでに奥州の地において成熟していたのは、ひとり語り手の伎芸と熱心と
なる者、この書に序していわく、「友人安達東伯久しく奥州に在り、一日老翁の来り訪ふ者あり、字里行蔵を言はず、
ともに変化してこれを動かさずには止まなかった。奥州には衣川の悲劇以外に、また前九後三の合戦談があった。
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に歓迎せられたゆえんである。ただ残念なことには衣川に籠城したというのは、わずかに十何人かのよそからきたと
見えたのだ。立往生というのも実は溺死で、衣川の岸近い岩と岩との間に挟まって、倒れなかったばかりだなどと
たかのごとく粧うているが、しかも長命の原因はまた衣川の人魚の肉であり、その時の釣仲間は武蔵坊、帰りてその一
してこれを動かさずには止まなかった。奥州には衣川の悲劇以外に、また前九後三の合戦談があった。『義経記
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秋の初めのころであった。自分は尻屋崎の燈台を見て後に、山を越えて尻労の昆布採る浦に泊まり、翌朝
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は筑前の岡の湊すなわち蘆屋を中心とした現在の遠賀郡の海角である。陸前の牡鹿郡は久しくオシカと訓み、鹿が多かったゆえと説明
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鉢崎・鯨波のあたりからもう旅人の目を留めしめる。能登の磯山にも咲いているかと思うが、自分には確かな記憶がない
の初めである。今から百五、六十年前にも、能登と加賀越後にまた別口の話があった。それよりもさらに有名なのは
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・得能の一党が、越前に落ちて行こうとして木ノ目峠の山路で、悲惨な最期をとげたという物語は、『太平記』を
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であるためか、あるいは島の片蔭であるためか、佐渡の海府にはまだいくつもの古い風景が残っている。海に迫った
こういう地形を鳥の極楽と名づけているのだが、佐渡のようにあらゆる条件を完備した極楽は、そう多くはないように思う。
の民家を置こうとした努力の跡は見えている。佐渡の両津の町などもまた一つの例である。こちらは路地をさらに細く
佐渡では羽茂の大石という村でも、八百比丘尼この地に生まると説い
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あろうか。何にもせよ暦の春が立返ると、西は筑紫の海の果から、東は南部・津軽の山の蔭に及ぶまで、多く
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出かけたまま帰ってこぬなどともいうのである。土佐国でも同じ人の海に入った話、その他いろいろの遺跡はあるのだ
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に海辺伝いに、鼠ヶ関から出羽に入り、三瀬を越えて庄内の大宝寺には入っている。単に精細を粧うためならば、このように
しかるべく弁慶が取なしたことになっている。その他庄内では田川太郎実房の子の瘧病を祈祷してみたり、また直江の
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五郡に分けたのはいつころからか知らぬが、北津軽郡の南西の境は、確かに最初は十三潟の水戸口であったに相違ない。
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と称して、小刀を鳴らして夜くるので、要するに信越地方などでいうヅクナシに対しての、神聖なる一つの脅迫である。
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それから椿の木は伊豆や熊野の村々では、あまりにありふれて目にも留まらぬが寒地に向かう
言うと、男鹿の外海ほどの巌ならば方々にある。伊豆の石廊でも土佐の立串でも、その他全然無名なる中国の海岸で
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、本名は白井英二秀雄、天明の初年に二十八で故郷の三河国を出てしまってから、出羽の角館で七十六歳をもって歿するまで、
。そうして偶然にもその人々の群れの中に、三河国の菅江真澄がいたのである。
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原野にも、いくらも生長していた。樺太ではアニワの湾内にも、オコツク海の岸にもたくさんあって、名は同じくハナマス
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宅神祭のなごりかと思う古い形を留めていた。遠野の盆地などではカバカワはむしろ異名で、通例はオクナイサマと称えている。オシラ
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。『西郊余翰』巻一に、土佐高岡郡多野郷の賀茂神社にある八百比丘尼の石塔の事を記しているが、白鳳十二年という大昔
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ごとく、人の足も立たぬように密生している。由利郡の海岸などでは、防風用の松林の隙間から、紅の花がちらちらと
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砂地でない原野にも、いくらも生長していた。樺太ではアニワの湾内にも、オコツク海の岸にもたくさんあって、名
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低地は、一円に雪のために交通がむつかしくなる。伊予に住み馴れた土居・得能の一党が、越前に落ちて行こうとして
夜の浜の景色は、今よりもはるかに寂しかったろう。伊予の西岸には新たに山腹を耕して、桑を栽える風が入って来
伊予の松山から道後湯へ通う電車は、今はどうか知らぬが以前は車内
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が国道になって、毎日々々牛車に石炭を積み、但馬の生野の官営銀山に運んで行く時代があった。私の在所では石炭
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て地下の諸国を巡り、後に地上に戻って来て諏訪の大明神となるというとんでもない話である。近々に章句を版にして置きたい
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天明七年にはさらに陸前に入って来て、石巻から松島、仙台までも見物をした様子だが、これも記録がはたしてあるかどう
は多いが、よい景色という語はかえって空に聞こえる。松島の海などはかつて小舟で渡った日、沖から雨の横吹きがあって
初夏の静かなる日の光に手伝ってもらってならば、松島ならずとも多くの島山は皆美しいわけである。とにかくに名所はわれわれにとっ
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八雲氏の怪談の中に耳切法一なる者が長門の阿弥陀寺にあって、平家の人々の亡魂に招かれ、何も知らずにその物語を
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また信州の松本付近では、桔梗ヶ原を本拠として玄蕃丞という狐がいた。初めて鉄道がこの平野に
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東京・大阪で失業々々としきりにいうのは、新聞の誇張ではありませぬか
多い寂しそうな村だ。それをどうして知ったか、毎年大阪の工場から、一人につき何円かの歩をもらう募集員がきたり、また
せたりして、年ごろの者をたくさんに連れて行く。大阪からは中形の浴衣で写した写真などがくるのに、山村の生活は荒く
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日光山で滝ばかり大騒ぎをしたのと同じように、あれは以前の修験者の足跡
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汽車で由利から河辺郡の海岸を走っているときでも、窓からただ海の方を眺めている
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引かねばならぬから省略する。文化八年の元旦は寒風山の麓、海と湖水に挟まった宮沢という村の、畠山某の客で
入って落付くより十五、六年も前に、たぶんは寒風山の麓を過ぎて、椿・岩館から津軽の木蓮子に、海伝いに入っ
の斜面はほぼ正東に向いている。最初は前に立つ寒風山に隔てられて、ただ想像するだけの八郎潟が、登るにつれて少しずつその
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相を、暗示するものと解してよいのである。いわゆる出羽三山の歴史は今やはなはだしく埋没した。熊野と羽黒との交通は、尋ねて
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あって、忠実に土地の所伝を録している。小浜の熊野山の神明社に、そのころはすでに比丘尼の木像と称するものがあり、しかもその
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雪の正月の第一回の記録は、この雄勝郡の柳田から始まっている。「小野の古里」というのがその日記の名であっ
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先例をあげるならば大和の大峰を中にした熊野と吉野、これなどは神武御東征の大昔から、すでに後代の本当二派の山伏の
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でが、まことによく似た肌ざわりを、いく百年ともなく両国の民族に与えていたのである。人間の心情がその不断の影響に服したのは意
一説もある。それはたぶん荒井氏が慧敏で、かつ時々は両国の美術倶楽部などに行かるるために立った噂であろう。東北地方で参考にす
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よく寝る者には知らずにしまう場合が多かったが、京都の時雨の雨はなるほど宵暁ばかりに、ものの三分か四分ほど
仕事があって、冬から春にかけてしばらくの間、京都に滞在していたことがあった。宿の屋根が瓦ぶきになって
北国でなくとも、京都などはもう北の限りで、わずか数里を離れたいわゆる比叡の山蔭に
たと想像せられる。天明八年といえば江戸でも京都でも、種々の学問と高尚なる風流とが、競い進んでいた新
炭は足利時代の末のころまでは、京都の武家ですらなおご馳走の一部分であった。火箸で炭をはさむことを
れるものではない。早い話が「然り」に該当する京都のヘーが、九州のある地域のエーだのネーだのあるいは北東日本の
語、室町の三河語等の力をもって、今の京都弁を混成したごとく、近くはまた北上上流の軽快なる語音を廟堂に
である。ことにその内容が果して古いままであるか、はたまた京都へきてからこのように変化したものか。その変化もただ一つ
て、これを中央へは持ち寄ってきたのである。京都大番の組織が改まって、おいおいに上ってくる国々の武人団が、仮屋
見たというまでである。すなわちその舞台というのが京都から関門まで、瀬戸内海を取めぐらした最富裕の地方であり、同時に中古
こういう粗末な継ぎ合わせのセメントは、たぶん京都製だろうと思われる。あるいは多くの文学書に例のあるごとく、最初の筆録
なかったと同じく、奥州およびこれに通う道筋の物語は、京都居住者の想像しうる境ではなかった。すなわちこの方面に住んで語りを
で、各部分の作者産地はそれぞれに別であった。京都はとにかく、吉野山中の寺生活などが、とうてい奥州にいては語れなかっ
当時そう呼んでいたか否かは別として)京都に持って出て恥ずかしくない程度にまで、すでに奥州の地において成熟
が一方には足利時代の下半期、すなわち『義経記』の京都辺まで盛んに行われていた時代に、これとは独立して別
をとげたにもかかわらず、十何年後になって京都に行ったある商人が、確かに京のある所で見かけたという話
ているが、それはこの物語のいずれの部分も、すべて京都に起こったはずという前提から来ている。なるほど京人でなければ知らぬ
の時期にはきていない。『徒然草』その他の京都人の記録には、『平家』は文人某が作って盲人に歌わせ
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、九のころに出てしまって、五十年近くの間秋田から津軽、外南部から蝦夷の松前まで、次から次へ旅の宿を
日記に見えている。日本海岸の方までくると、もう秋田領と似た風習が多かった。例えば雄勝などのオカの餅は、ここ
の冬の初めに、最後に深浦を立って海づたいに秋田に入り、次の年の正月は久保田の城下にいた。その翌年の享和三
ようである。これから後の十七、八年は、もっぱら秋田領の地誌を作るために費やされ、その間に吟詠の事業があった
海に近く成長する。それが気仙の尾崎や唐桑、あるいは秋田の椿の浦のように、付近に比べて特に温暖な土地だけに、
個人化するに至ったのである。百年前の『秋田領風俗問状答書』の絵に見えている通りの昔風の燈籠は
必要は感じないのだ、あんまりこの奇遇がおもしろいので、秋田人のいわゆる「おがさべり」をして見る気になったのである
菅江真澄翁の百年忌に相当する。ゆえに自分はまず秋田人に向かって、この遠来の詞客の「男鹿紀行」五篇を、
真澄翁は最後に秋田の地に入って落付くより十五、六年も前に、たぶんは寒風
して私のオガサベリは、相手が自分よりもはるかに詳しい秋田人であった。そうして男鹿の天然のおおいに恵まれていることは、
(昭和二年六月「東京朝日新聞 秋田版」)
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神の祝言を家々にもたらす目的はすなわち一つである。福島・宮城ではこれを笠鳥とも茶せん子とも呼んでいる。それが
も今は主として小児の事業になっている。福島から会津にかけてはチャセンゴといっている。関東平野の一部ではタビタビ
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年にはさらに陸前に入って来て、石巻から松島、仙台までも見物をした様子だが、これも記録がはたしてあるかどうか
だから、ことにその観察には教えられることが多い。仙台の近村で今も行わるる田植踊り、いわゆる弥十郎・藤九郎のエンブリ摺り一行は
のである。八戸などでいうエンブリを、この辺では仙台などと同じに田植といっている。十五、六日の二日、幾
誰でも容易に経験するところである。太平洋岸では仙台松島を過ぎ、一望平遠なる沼沢地域に入ろうとするころから、緑の
仙台方言集
仙台の土井教授の夫人が、最も新しい型の「仙台方言集」を作ってわれわれに見せられ、また世上今日の奥さま方に、
仙台の土井教授の夫人が、最も新しい型の「仙台方言集」を作って
言いうる。北米合衆国の国語はあの通り出処が明らかで、仙台語と東京語とよりもはるかに距離は近いが、何人がこれを英語
の軽快なる語音を廟堂に聞くように、少なくとも一部の仙台藩閥を、東京の言語の上にも打ち立てしめたいものである。
商人でも、静かに微笑しつつ、いささかの煩悶なしに仙台弁をあやつっているらしく見える。そうして少しは他国者の物言いを笑っ
、当を得ているか否かが疑われる。自分は仙台にくるたびにこの都会の都会らしさを感ずる。帝都でもないのに
いうことは、いよいよ容易ならぬ問題になってくる。たとえば仙台の語彙と用語法とを集めて方言集と題するのが、当を得
て「おかみ」といえばもちろんさらに悪い。登米以北の旧仙台領においては、区別のために「おかみん」と後をはねて
旧仙台領から南へ行くと、くるにはくるが女子供は畏れない。ただめでたい
が絶えた。それを佐竹侯入国の始めのころ、わざわざ仙台領のたぶん金華山などから、三頭とか四頭とかを取り寄せて
ているので、それではえらく都合の悪いことには仙台以北の海尊仙人のごときは、その後また五十年もしてからようやく出現し
近ごろ『仙台叢書』の一部として覆刻した『東藩野乗』という旧記に
歳は重光大康落にある臘月十日とあって、仙台の城下で人の話を筆記したといっている。すなわち辛巳の年
噂にして語っているにもかかわらず、一方には仙台以北、平泉地方の一帯にわたって、今なお清悦とは海尊さまの
そうかと思うとまた同じ元禄の前後に、仙台領では角田と白石との間を往来して、村々の旧家に書い
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へ、入ってきたのが七月六日、それから青森を過ぎ内湾の岩づたいに、三廏から宇鉄へ出て便船を求め、
、やっと雪の間の山桜が咲くのである。私が青森大林区署の官用軌道の軽便に乗せてもらって、十三潟の
、それが十三潟の岸の林の木材を、陸で青森の方へ運び出すことになると、もう十三の浦へは一艘も船
はあって、電話を引き信号の旗を具えてある。青森から来ている若い技手はこの日留守であって、その弟が一人で
話の種は多かったものだが、材木を積む船が青森の方へ廻るようになっては、忽然としてことごとく覚めたる夢に
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伊予の松山から道後湯へ通う電車は、今はどうか知らぬが以前は車内に
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ているのだ。どこまでも運命的な箱ではある。盛岡近辺の「いたこ」は、あの中へオシラサマという物を入れているよ
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ないかぎり、引き受けにくかったのはもっともである。またある時大津の浜において、一尾の塩鮭を肌に取り隠して露顕した
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幅も六幅もあるのをいぶかる者も、やはり日本人が奈良朝から、祇園の仲居のごとくであったと思う輩で話にならぬ
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に立ちつくして後に、自分たちも舟に乗って、荒い水戸口を南へ渡った。そうして雨あがりの水溜りを飛び越えながら、荒れたる
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た者は帰ってから優遇せられ、島津氏などでは鹿児島と日向の某地に、随分いかめしい盲僧派の本寺があった。しかも配下の
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あるのは、われわれの注意を要する点である。藤代は和歌山の方に近く、有名な熊野王子の一つであったというのみで
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そうかと思うと加州の金沢などでは、亀井六郎と常陸坊と二人、仲よく今も暮らしていると
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だけであった。それを『豆手帖から』と題して東京朝日に連載したのであったが、どうも調子が取りにくいので
東京などでも三月に室咲きの桃の花を求めて、雛祭りをするの
たとえば東京などでは、この二月の初めの土曜日が初雪で、それが野山の
東京の私の家のコタツには、いつでもいわゆる洋服を着た少年と
(昭和二年二月「東京朝日新聞」)
ても、純なる林相はようやく見ることがかたくなった。東京近くでは相州の奥の山に近ごろになってわずかにその植林が始まっ
。大学で聞いたのでないから確かではないが、東京のごとき集合地に久しくいて見ると、首府以外の地で使うのが
文学が最も有力であったろうが、その文人とてもやはり多数の東京人とともに、漠たる見当に向かって絶えずわが言葉を矯正しつつ
北米合衆国の国語はあの通り出処が明らかで、仙台語と東京語とよりもはるかに距離は近いが、何人がこれを英語の方言と
を廟堂に聞くように、少なくとも一部の仙台藩閥を、東京の言語の上にも打ち立てしめたいものである。
東京・大阪で失業々々としきりにいうのは、新聞の誇張ではあり
時計のように精確なものではない。電燈の結果か東京では十一時ごろにも鳴く。この町でも一番鶏が一時前だ
東京の近くでも、府中以西の甲州街道などに、この形式の割地のいっそう簡単
東京はすでにひどい土埃になった。在所では何事も物遠い。われわれが静かに
にはいたる所、盛りにめど萩が咲いていた。東京近くの溝端で見るものに比べて、紅色がいっそう冴えて感ぜられたの
よりははずむそうで、といっているうちに橋向こうから、東京などの普請場で聞くような、女の声がしだいに高く響いてくる
(大正九年八月・九月「東京朝日新聞」)
に入れて、がらがらと鳴らしてくる村もある。ヒカタは東京などで「火だこ」ともいうので、火にばかり当たっている者
講じてその明治化を防いだかの観がある。現に東京四周の平原の、今筆者の居住する黒土の高台あたりも、ごく近いころ
こういう算えるほどしかない遭遇以外には、東京がかえってこの鳥の声を聞くに適していた。春の末に代官
(昭和二年六月「東京朝日新聞 秋田版」)
関東諸国ことに東京の周囲にも、この比丘尼の栽えておいたという老木が多く、
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話柄に、はたして保存の必要があるかどうか。高輪の泉岳寺が今の倍数ほどの借家を建て、同時に門前のお土産屋が一軒
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戸しか見えぬ。橋から一町も行かぬ間に、大塚かと思うような孤立した砂山に突き当たり、左へ曲がって八木の湊
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して今はよほどの数になっている様子である。駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切売されぬ前には、盛んに
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、丹後には別に竹野郡乗原という部落に、旧家大久保氏の家伝というもののあることを、近ごろの『竹野郡誌』に