遠野物語 / 柳田国男
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山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。附馬牛村にもあり。本業は木挽なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂
一一一 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵
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田ノ浜、吉利吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠という山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、
九三 これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵
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蝦夷の跡 一一二
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この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて
多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれ
或いは新道なるが故に民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の
くたびれたる人のごとく仰臥してありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。
半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、
の渓を伝いて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷
二 遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの
○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の
流れ入る川を閉伊川という。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端という家の先代の主人、宮古に行きて
を通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名
たるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。その頃までは土地の者一人とし
これも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛ん
の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面の色赭きなり。佐々木氏の曾祖母、穉かりしころ友だちと
これより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ず
という。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町への路にはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の
八七 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩いして命の境に臨みしころ、ある
九一 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり
草鞋を作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山という山より、綾織村の続石とて珍しき
九六 遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生き
○ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一円に祀らるる神なり。蛇の神なりという。名義を
○すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のようなり。
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なり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳きて萩を苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず
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その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或いは新道なるが故に民居の来たり就ける者
後、旧里に帰りあわれなる暮しをなせり。子供はすべて北海道へ行き、翁ただ一人なり。
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一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり
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町場にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいう。この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川
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○タッソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字あり。
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人の娘を伴ないてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘
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一一一 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村
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は煮た粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴川という。これを隔てて足洗川村あり。
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するを怒りたもうことほかにも例多し。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊
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しかば、さてはと思いてその扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。
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八崎ありと称す。内は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。
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八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山の裾を廻るなり。田圃に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林
にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠ありて、参詣の路は林の中にあり。登口に
、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り来る丈高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその
て行き、振舞われたる残りの餅を懐に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに、象坪の藤七という大酒呑にて彼と仲善
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二四 村々の旧家を大同というは、大同元年に甲斐国より移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の
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一〇七 上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾い
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ものこれなり。これより遠野の町への路にはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた
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か、このあたりには鉄を吹きたる滓あり。恩徳の金山もこれより山続きにて遠からず。
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は五軒ばかり、小烏瀬川の支流の水上なり。これより栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には
七三 カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あり。栃内の字西内にもあり。山口分の大洞というところにもありしこと
七四 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つ
八一 栃内の字野崎に前川万吉という人あり。二三年前に三十余にて亡くなりたり
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四二 六角牛山の麓にオバヤ、板小屋などいうところあり。広き萱山なり。村々より苅りに
、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、
たる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜に
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。その式には白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。この部屋にて夜寝る者はいつも
○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり
六九 今の土淵村には大同という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞という。この人
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しかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今も
を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らん
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右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽りたり。少し変人という方なりき。狐
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という。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。
にて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館の附近にもあり。厨川の柵に近き家なり。土淵村
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六四 金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来
○上閉伊郡金沢村。
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土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞へ越ゆる丘の上にて館
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あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の