木綿以前の事 / 柳田国男
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おもにお祭や節供の日に着るからこれをマツリゴ(紀州および小豆島)、またはセツゴ(東北処々)などと謂うている。セツとは節供
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政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田になり、
咲く藤一種には限っていなかった。人も知るごとく河内の葛井寺はフヂヰデラと読んでいる。昔の藤布の中には紫の
貯蔵の酒には品質の高下があって、奈良とか河内の天野とか、佳い酒ができると、その評判が高くなり、人がその
、京都附近ですら足利期の中頃、それも奈良とか河内の天野とかの、おかしな話だが御寺から譲ってもらうものになってい
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半てんを引掛ける風があるということを、私は九州に行って学んだのである。麻布は肌着に冷たく当って、防寒の用
もアヒダも同じことで、働かぬ時という意味だ。九州の島々、壱岐・対馬・天草などではケギという。ケギのケは不断
はくだけで、その上衣はできるだけ短くした。それ故に九州の南の方、鹿児島県や宮崎県ではこれをコシギンと謂っている。中国地方
上衣を、コギノ、コイノ・コギンという処は、東北から九州の山の中まである。
昔の日本語はテナシまたはタナシであったように思う。九州の南の方には今でもその言葉が残り、その中でも特に短い
人たちが、男も女も是をよく着ている。九州ではカタギン、東北地方ではツンヌキ、その他色々さまざまの名と形とが
かなり著しい誇張があり笑話化がある。地蔵浄土も東北と九州とに伝わるものは、地下仙郷譚のなつかしい原型がやや窺われるが、他の
、利用し得られるには条件があった。現に離れ島や九州の外側海岸などには、今も豆腐は知っていても、家には
存し、褻衣という語も対馬・五島・天草など、九州の島々には方言として行われている。すなわち一部には今も活き
これを説いている。奥羽で一般に一パイと謂い、九州ではゴ一つと称えたのは、ともに今日の桝目の約二合
とも謂っている。ナカマはすなわち中間食の意で、九州でも薩摩の南端でナカンマとも呼んでいるから、かなり古くからの名であっ
では主として仏事の小宴が御茶だが、九州では誕生・婚姻のごとき、吉事にも人をこの御茶に招いている
であった。是もホウトウをそう訛ったのである。九州では豊後の或る部分に、小麦粉を練って味噌汁に落したものをホウチョウと
と思う。白餅という名は東海道の諸国から紀州まで、九州でも北岸の島々ではシラモチと謂い、阿蘇の山村ではシイラ餅と謂っ
いるものはジロである。私の気づいただけでも、九州で宮崎県の南部、熊本県の球磨・葦北二郡、それからずっと飛んで信州の
の、かなり前からの標準語であるのみならず、西は九州の東岸から四国・中国の弘い区域、北はまた奥羽の各地にも行われ
ている。そういう中でも注意せらるべき一事は、九州などにこそR子音の脱落があって、ユルイという語の行われるのは
ことわざは、地方によって色々の言いかたがある。まず九州の日向では横座弁慶、横座は炉の正面の主人の座である。陸中
で知られている区域は必ずしもそう弘くなかった。まず九州は南部の各県でヒオコシ竹というのがこの物の普通の名であった
は疑いがない。この酒を岐阜県などではオチフレ、また九州の東半分でヤツガイともエイキとも謂っている。意味はまだはっきりせぬが
九州の或る島などの方言集には、サカモリと謂うのは男女相会して酒
守る者が無くなり、生活の根拠は覆ったのである。九州の盲僧などと比べてみて、仏寺の勢力の及ばなかったのが興味ある
と呼んでいる土地がある。十月雨の少ない中国や九州では、今でも収穫の作業を田で片づける風があり、遠くから見通し
において次のような見聞をしている。是も九州の沿道筋の事と思われるが、彼の言に依れば、稲扱きは極度
、我々が囲炉裏の炭火をすくう道具、奥羽ではオキカキ、九州では火スクヒなどというものに占領せられていた。今はその意味
と一家総員とが食物をともにすることであった。九州の各地で古語のままに、ノーレー(ナホラヒ、直会)と謂っているのも
以下をつれて別居する風は、伊豆の島々にもまた九州の海岸にもあり、是が同列分家の一つの原因にもなったらしい
向う側はカカ座、また腰元ともたな元とも謂い、九州では茶煮座とも謂って、争う者のない家刀自の座席である。
参与することは、我邦でもむしろ法則であって、九州の二三の島では、今なおその場合だけを酒盛りと呼んでいるものが
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のに、ヰロリと明瞭に謂うものはむしろ少なく、東北は弘前市のエリギを始めとし、秋田市のエルギまたはエルゲ、その隣の山本郡のエヌギ
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、さらに南へきて『遠野方言誌』にはスビト、東山地方ではスブト、仙台も盛岡も古い採集録にはかえってスビトと出ている。
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と、噴火口はカナドである。ヰロリをカナゴと謂う例は丹波の天田・何鹿辺に一つあり、クヌギすなわち薪材をカナギという例は三河
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日本海側では越後や出雲、太平洋側では紀州の熊野、備中あたりにも分布している。或いは炒米と甘藷とを合せ炊き、または豆飯であっ
各地にも行われ、その中間の関東と北陸、佐渡と熊野と淡路などに、ホドと最も近いヒドコという語があって、すべて今風
とも彼らの動く力には系図があるのである。熊野を振り出しに伊勢や熱田のあたりへ移って来て、やがて第二の勢力に
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に残った前夜の飯の余りを食う場合もあるが、東日本では普通そのために焼餅というものがある。稗や蕎麦の粉や屑米
をも、御茶と謂っている処は方々にある。東日本では主として仏事の小宴が御茶だが、九州では誕生・
以前は是もまた稲ニホであったかと思われる。東日本でこれをニホまたはニョーと謂うに対して、西の方にはホヅミと
敬語であったことは是でわかる。他の府県殊に東日本の方には、オカタというのがまた主婦のことで、是も決して新しい
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は木綿は作れないから、一方には多量の木綿古着を関西から輸入して、不断着にも用いているが、冬はかえってその上へ
いる。その三つというのは、一つは晴着。関西ではヨソ行キとも謂うが、おもにお祭や節供の日に着るからこれ
た痕跡であることは疑いが無い。多くの農家には関西でゲビツ、東北でケシネギツなどという糧米櫃があって、その中にはほぼ
練って汁の中に投じて煮たものであった。関西ではこれを汁団子、または単に汁ワカシとも謂って、冬分三
餅をつみ入れた汁類のことであり、出来た食品が関西のハッタイとはまったく違っているために、両者もとは共にハタキモノの義
いうことで、婚礼の日に限るべき理由はない。現に関西では盆正月の藪入がゲンゾ、古い奉公人の旧主訪問がまたゲンゾである。
。神楽の獅子舞などにも、東北ではヲカシといい、関西では狂言太夫というものが附いていて、あの怖しい面を被ったもの
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貫目を扱けばよいことになっていた。ところが名古屋産の千把コキを使うと、たちまち能率はその二倍になったとある
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並んで、山中の隠れ里として有名であった阿波の祖谷山などは、小民の家はみな竹の簀の子で、あの頃はまだ夏冬
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紀州まで、九州でも北岸の島々ではシラモチと謂い、阿蘇の山村ではシイラ餅と謂っているとともに、一方秋田県の鹿角地方など
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一般にこの藤布が用いられていた。また大和の十津川でも、麻を作ることが困難で、藤で織ったあらあらしい布を着て
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と謂う方言があるほかに、島では鹿児島県の宝島と種子島、東京府下では八丈島、日本海では佐渡島外側の海府地方と、羽後
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島々にもあり、またジロという語のすでに忘れられた秩父地方などにもある。炉の四側の家の者が坐臥飲食する場所に、
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古事談』に出ている。現在でも酒屋の酒造り、灘で蔵人とも百日男ともいう者を、トウジと呼ぶのは普通で、
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で、最も古くから文献の上に見え、一方にはまた北海道の原住民の中にも、採用せられているのがシトギという語である
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た。その二三の例を挙げるならば、同じ駿河国の志太郡東川根村大字梅地あたりでは、藤布を織って木綿古着の上に着ると
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ものはむしろ少なく、東北は弘前市のエリギを始めとし、秋田市のエルギまたはエルゲ、その隣の山本郡のエヌギ、鹿角郡のユルギがあり、福島県
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つの語から分化したものと思っている。クドは京阪を含んだ近畿地方の、かなり前からの標準語であるのみならず、西は
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樹木のキと区別する必要からかと思うが、それを四国と中国の一部で、キノと謂っているのを見ると、元はキノヲで
からの標準語であるのみならず、西は九州の東岸から四国・中国の弘い区域、北はまた奥羽の各地にも行われ、その中間の関東と
だから、そう大きな入れ物にならなかったかと思われる。四国・九州の多くの土地では、今でも祝宴の翌日または翌々日、手伝い人や
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ている。ナカマはすなわち中間食の意で、九州でも薩摩の南端でナカンマとも呼んでいるから、かなり古くからの名であったことが
多く、食事と食事との間の時間を、ヒトコマンチャなどと薩摩では謂っており、単にチャドキといえば午後三時もしくは午前十時頃を
という煙草の種があって名産になっていた。薩摩の冠岳には蘇我煙草と称して、蘇我馬子と関係づけられていた天然
はずだから、一層普及が容易であったのである。薩摩の知覧で稲扱きをカナクダ、土佐の中村辺でこれをカナバシと謂ったという
たのだそうである。それからまた男に着せるシボハッピ、薩摩の下甑島でニンブという裂織なども、材料はいずれも粗末なものであっ
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志摩のあねらは何食て肥える
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一種には限っていなかった。人も知るごとく河内の葛井寺はフヂヰデラと読んでいる。昔の藤布の中には紫の藤でなく
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て、是をヨナガというのは夜長であろう。肥前の島原半島などでは是をヨナガリとも謂うそうである。妙な言葉であるがその
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出来た『駿河国新風土記』には、府中すなわち今の静岡市の物産の中に栲布というものがあって、是は「安倍山中にて
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。佐渡のユリナタは山形県の最上地方ではユリバタ、信州の小谷ではヰルブチ、能登と加賀ではエンナタであった。私の想像では、
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方面にはハットという語があって、只その川上から甲州の盆地にかけて、是をホウトウと謂うのである。ホウトウは現在の細く
佐久の川上地方から、諏訪・伊那にかけて南信一円、甲州のほぼ全部、駿河の富士川以東と伊豆の片端に、ヰロリとヒジロという語
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最上地方ではユリバタ、信州の小谷ではヰルブチ、能登と加賀ではエンナタであった。私の想像では、是らの炉端を意味する
『卯辰集』に存録せられた加賀の山中温泉の「三吟歌仙」のうち、次の一続きはわけても有名であるが、
の行われている区域は、日本海側では越前・加賀・能登などで、ミテルを終了するの意味に用いている地方ならば、稲こき
を脅して貯えの酒を飲むのである。それからまた加賀の白山の菊酒の由来として、昔或る美女が路傍の家で酒を売って
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の気づいただけでも、九州で宮崎県の南部、熊本県の球磨・葦北二郡、それからずっと飛んで信州の下高井郡、越後の魚沼地方、秋田県の仙北郡および岩手県
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は誰も是が袴だとは思っていないが、関東や東北でモッペまたはモンペという袴と、もとは一つのもの一つ
十時頃と、午後三時頃とに給与せられる。関東では普通に是をコヂウハン(小昼飯)、もしくはコヂハンなどと謂うが、東北
で、カクというのは攪拌することであったらしい。関東の山村でカッコというのは蕎麦カキのことだが、岡山地方の田処で
は変化を加えたのである。信州の北部でツメリ、関東でツミイレと謂ったのは、通例粗米の粉を水で練って汁の
、北はまた奥羽の各地にも行われ、その中間の関東と北陸、佐渡と熊野と淡路などに、ホドと最も近いヒドコという語が
のである。或いは枯草や木の葉もそのかわりに使った。関東・東北では燐寸の御時世になっても、なお火を作ることをフッタケルと謂って
の、または改まった人に対面することを意味する。関東では聟が始めて嫁の家を訪い、または双方の身内が親類と
落ちなかった。幽かな記憶が私には蘇ってくる。関東の田舎でも四十何年か前には、縁日の掛け茶屋の片隅に、夕方
の瞽女、越後のゴゼということにきまっていた。関東の田舎でも格式を守る旧家では、毎年定まった盲女しか迎えなかった
別にまたマハリゾレという名もあったように聞いた。関東の御前たちと異なっているのは、眼が見えることだけというくらいによく
関東・東北でカラハシと謂っていた稲扱具は、鉄製のものではなかった。実物
かね、還俗して平の神職に編入せられた。関東・奥羽の田舎には、堂を抱えたままで農民になり切った者も
、そう遠くの国まででなかったであろうから、是で関東にもあの頃はまだユヒがあったことが知れるのである。
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方言があるほかに、島では鹿児島県の宝島と種子島、東京府下では八丈島、日本海では佐渡島外側の海府地方と、羽後の飛島と
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分化したものと思っている。クドは京阪を含んだ近畿地方の、かなり前からの標準語であるのみならず、西は九州の東岸から四国
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つのうちの、働く着物の話だけをする。仕事着を東北地方や北陸地方では、デタチまたはデダチという。腹掛だけをヅタツと謂ったり
も女も是をよく着ている。九州ではカタギン、東北地方ではツンヌキ、その他色々さまざまの名と形とがあるが、いずれも働く
は、やはりこのオノリを注いだものと思う。同じ習慣は東北地方、ことに旧南部領の盆の墓祭りの時にもある。やはり多くの
の語の関係とよく似たものが、今一つは東北地方の、ホドとヒホドとの間にも見いだされる。ホドを現在ヰロリの意味に
同じ東北地方の、しかも相隣した村々の中に、数は少ないが炉をジロと謂う
た。本名を何というか知らぬと謂っている。東北地方では福島県南部の、県道交叉点に臨んだ一旅亭で、その越後から
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及んでいたようである。今日の内地のニホまたは稲村なるものは、名は稲村であるが実は藁ばかりを積んでいる。余程
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それから東に進んで中国地方、近畿は一帯に火吹竹の領分だったはずであるが、大和の南
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雲まで赤くなるようなタタラ吹きは無いから、信州とか筑前とかの地名だと言われる。東北大学の先生たちの共同研究も本になって
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その二三の例を挙げるならば、同じ駿河国の志太郡東川根村大字梅地あたりでは、藤布を織って木綿古着の上に着るということ
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ものであったろうかと思う。そうして強飯でもなく萩の餅よりもさらによく潰された新式の餅が、世に現われて喝采せ
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と、同じ陸中でも上閉伊郡にはヒボトが有るのに、和賀郡には外南部や津軽・秋田の一部とともに、これをヒブトと謂う者が
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オケヂャもしくはウケヂャという食物は、日本海側では越後や出雲、太平洋側では紀州の熊野、備中あたりにも分布している。或いは炒米
ロブチ弁慶、是も判っている。信州諏訪ではヰベンケイ、出雲ではイノチベンケイと謂うが、『方言考』の後藤氏は「家の内
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技術であった。その二三の例を挙げるならば、同じ駿河国の志太郡東川根村大字梅地あたりでは、藤布を織って木綿古着の上
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が、それでもまだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、聯想
江戸の左右むかひの亭主登られて 芭蕉
ながら、娘や男が朝草を苅りに出かけるのである。江戸でも以前はそういう生活があったと見えて、楽な仕事だ小さな骨折り
番所までは、年老いたる男に送られて来ている。江戸・大阪の浄瑠璃に出てくる抱え遊女は、駆落ちの際でもなければ外
たらしい。現に越前三国の某という遊女俳人が、江戸に出て来て昔馴染の家を、遊びまわったという話などは、是から
、精彩を帯びたる生活描写はかつて無かったのである。江戸でも近代の市井学者の中には、俳諧を無意識の世相史料とし
ているかということを、尋ね究めようとした人は江戸の町学者の中にも幾人かあった。事業があまりにも断片的
三宅・八丈を刑罰に利用した時代であり、したがって江戸にその消息の頻りに伝わったことを、想像してみればよくわかる。
もあった。高野聖は一名を呉服聖とも謂い、江戸の呉服町などはこの呉服聖が開いたと、『慶長見聞集』という書
だから女房を山の神と謂うのだとの説もある。江戸などで山の神の祭をした頃は、神に扮して舞う者は、必ず
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ば、同郡木郎村では収穫終りの休日をコキンテ、宝立村ではコキンチョ、直村ではコキンチョウと謂って、いずれもこの日を祝い牡丹餅など
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ても是が身や心を累わさぬはずはない。越前の西ノ谷は男たちは遠くの鉱山に往ってしまい、女は徒然のあまりに
であり、祭礼の折にその語が現われてくる。たとえば越前敦賀郡の東郷村の諏訪社では、シトギは三合三勺の米を
つあり、クヌギすなわち薪材をカナギという例は三河にも越前にもあって、カナドもまた一つの炉を意味する名詞だったらしい。
この語の行われている区域は、日本海側では越前・加賀・能登などで、ミテルを終了するの意味に用いている地方ならば
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の皮で、アツトシというものを作って着るのは、奥州の民家でこのシナの木の皮を採ってシナタフを織り、農業その他の
を、伊勢ではやはりカイノコ汁というのは、是も奥州のカッケのごとく、のちに調理法がやや改良したのである。多くの
飾ることである。是を桝形の餅とも称して、奥州では正月に人の家に贈る餅の、定まった一つの形となっ
れる。ホドを現在ヰロリの意味に使っているのは、奥州では南部の沼宮内、陸前の気仙郡、羽後の飽海郡などの数カ所だけであって
数年前に私の家のオシラ様を遊ばせに、奥州の八戸から来てくれた石橋おさだというイタコは、何がすきかと
、断じてこの権能は代行せしめなかったのである。奥州などは村が遠くて、家と田畠との間の七八町もあるところは
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曾良は師翁に随伴して加賀国にくる数日前、越後の市振という海端の駅にとまって、測らず
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デダチという。腹掛だけをヅタツと謂ったり(北飛騨から能登)、袴だけをデンタツという処もあるが(秋田県)、元来は「出立ち
能登ではカイノゴは三番以下の籾まじりの粗米で、団子の材料にする
て神棚や仏壇に、※の葉をもって注ぎかける。能登の穴水地方では是を人根(ニンゴン?)と謂うそうである。旧
などはすでにただの餅をそう謂っているのである。能登の北川村の諏訪神社九月二十七日の祭に作るヒトミダンゴ、是もシトギの訛音らしいが、
たが、ほかにまだ一つの別系統の語が、能登から越中にかけてかなりよく残っている。エンナカもしくはインナカというのがその最も
山形県の最上地方ではユリバタ、信州の小谷ではヰルブチ、能登と加賀ではエンナタであった。私の想像では、是らの炉端を
容易く同意をした人々の、心持はまだ神秘である。能登の長尾村には、昔弘法大師から授かったという煙草の種があって
生き残ったという信仰さえあったのである。佐渡では能登と土佐と二つの国から漂着した男女が、行き逢うてここに島人の
れている区域は、日本海側では越前・加賀・能登などで、ミテルを終了するの意味に用いている地方ならば、稲こきの完成
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た。そのために政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が
あった。それを汁に入れて再び煮たものを、伊勢ではやはりカイノコ汁というのは、是も奥州のカッケのごとく、のちに
て食い、口の端を真白にして喜んでいる。伊勢の松阪あたりの山神祭りの飾り人形に、白餅喰いというのがあったこと
ホドという語の分布は、伊勢の南端において竈をヒノボトという以外に、まだ中部・関西に及んで
動く力には系図があるのである。熊野を振り出しに伊勢や熱田のあたりへ移って来て、やがて第二の勢力にその地位を譲っ
から、群をなして女が雇われに来るのである。伊勢の一志郡などでいう島の女、信州川中島附近の越後の田植女、秋田県
から初期の俳諧師は、必ず連歌師の門から出ている。伊勢の荒木田守武のように、徹頭徹尾戯れの句ばかりを続けた人も無いでは
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の、働く着物の話だけをする。仕事着を東北地方や北陸地方では、デタチまたはデダチという。腹掛だけをヅタツと謂ったり(北飛騨
たちが休日の慰みに、担いで力を試した力石、北陸地方でバンブチとも番持ち石ともいうものには、驚くほど大きなのがあって
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では収穫終りの休日をコキンテ、宝立村ではコキンチョ、直村ではコキンチョウと謂って、いずれもこの日を祝い牡丹餅などをこしらえて、神
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とともに煮たものをアヅキボウトウとも謂っている。三河の渥美半島では三十年余り以前、私も是をドヂョウ汁と謂って食わされて喫驚
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奥羽の各地にも行われ、その中間の関東と北陸、佐渡と熊野と淡路などに、ホドと最も近いヒドコという語があって、すべて
場所に、必ず総名のあるべきは当然で、それが佐渡のごときジロという語を知る土地でも、なお別にユリナタであったの
土地でも、なお別にユリナタであったのである。佐渡のユリナタは山形県の最上地方ではユリバタ、信州の小谷ではヰルブチ、能登と
のみが、生き残ったという信仰さえあったのである。佐渡では能登と土佐と二つの国から漂着した男女が、行き逢うてここ
たことが、それぞれの郡の方言誌に見えている。佐渡の島は色々と古い言葉の遺っている土地であるが、彼処にもまだ
はフリボーとも謂っている。福島ではフリウチまたはフリウチバイ、佐渡ではフリバイと謂うそうである。バイもボウも棹も同じことで、フルチ
という歌が、佐渡の島にはあって有名である。山本修之助氏の『佐渡の民謡』と
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、是は最近の都市生活にもやや行われているが、長崎市周囲の漁村などにもあるというから、新しい発明ではない。信州諏訪湖
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、鹿角郡のユルギがあり、福島県では石城郡のイルギ、最上や会津や相州浦賀等のユルギのほかに、飛んで隠岐五箇浦のエリリがある。
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群をなして女が雇われに来るのである。伊勢の一志郡などでいう島の女、信州川中島附近の越後の田植女、秋田県由利郡など
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、弘く他の地方にも行われているのである。伊豆の新島でネリコと謂ったのは、甘藷の粉を米麦飯の中に入れ
かけて南信一円、甲州のほぼ全部、駿河の富士川以東と伊豆の片端に、ヰロリとヒジロという語が今も行われている。諏訪で
に関しては今はまだそういった話を聴かない。伊豆の三宅島なども家の炉はジロと謂ったらしいが、火山の火坑だけ
私の見たところでは、三宅か八丈かとにかくに伊豆の島々のうちであった。空で想像したものとは思われぬの
『奥の細道拾遺』の句である。伊豆の島には対馬・五島などのように、鹿は住んでいなかったから
皮肉な見方だが、麻の衣服は少しく長く持ちすぎる。伊豆の新島から友人が写してきた写真では、七十二三の老女が
者に渡して、次男以下をつれて別居する風は、伊豆の島々にもまた九州の海岸にもあり、是が同列分家の一つの
が生まれても妻はなお実家にいたのである。伊豆の島などはほんの近い頃までそれが普通の習わしで、婚姻の式は夫
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では、正月の餅花につける飾り団子をオマルと謂い、山梨でもカラコの白餅だけを、特にオダンスという村がある。団子は古くは
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。吾山の『物類称呼』を見ても、稲扱きを畿内ではゴケタフシ、越後ではゴケナカセと謂うとある。その説明は『和漢三才
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の籾を落す作業が必要になってくるのである。関東平野では是をボッチャラウチまたはボウジブチなどと謂って、以前の籾納のころに
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て笠の形をした焼餅を作る日もあった。中部地方では二月涅槃の日にヤセウマという長い団子をこしらえ、または同じ月
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という意味にこの語を使っている。コバシャゲは隣の富山県ではコエバシアゲ、新潟県に行くとコロバシアゲと謂う村もあったが(『温故之
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に上覆いに着ていると見えて、私も羽後の由利郡の山村をあるいた時に、小学校の生徒がみなこの木綿のアツシを着て
いう島の女、信州川中島附近の越後の田植女、秋田県由利郡などの荘内の早乙女などは、今では年々の檀家のごときものができて
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ているのがある。是も現在まだ備中西部の島々、伊予の上七島を始め、多くの土地に行われている。すなわち嫁が聟の
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聴いて、ふと気がついたことが一つあった。琉球の旧王室では、以前地方の祝女の頭たちが拝謁に出たときに
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、働かぬ時という意味だ。九州の島々、壱岐・対馬・天草などではケギという。ケギのケは不断着のフダンも同じで、
語は標準語中にもなお存し、褻衣という語も対馬・五島・天草など、九州の島々には方言として行われている。
奥の細道拾遺』の句である。伊豆の島には対馬・五島などのように、鹿は住んでいなかったから是だけは無理な
。島には大体に古い仕来りが残るものと見えて、対馬でも種子島でも、この最初の足入れの日には、嫁はふだん着の
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である。東京の近くでは信州佐久の川上地方から、諏訪・伊那にかけて南信一円、甲州のほぼ全部、駿河の富士川以東と伊豆の片端に
、ヰロリとヒジロという語が今も行われている。諏訪では是をまたヒタキジロとも謂うのを見ると、ヒジロはすなわち火を焚く
て是を聴いていた結果であろうと思う。最近に諏訪の山浦地方で、土地の老人老女の覚えていた歌を数百首、小池
つの組織を具えていた。私の知るかぎりでは諏訪にも松本にも、また静岡にもそれぞれの記録があるが、上越後で
入込に諏訪の涌湯の夕ま暮 曲水
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は我々の最も注意すべき点で、阿波という国は関東地方に向かって、穀の木の普及を図りたまうと伝えられる天日鷲命の本国
持物になってしまった事情も想像するに余りがある。関東地方の粉の需要は、それでもまだ足りなくて粉屋という商売が起こり、
ある。木綿は我邦では暖かい土地にしか作れない。関東地方が多分その北限であった。すなわち東北隅の三分の一だけは、綿
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分布している。たとえば大分県の別府温泉の西に聳え立った由布岳は、『豊後風土記』の逸文にも、ユフの採取地である故にこの
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いるから、かなり古くからの名であったことがわかる。山陰地方は一帯に、この食事をハシマと謂って通ずる。ハシマもハサマもまた中間の
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が承け継いでいる。スリコギのコギは小杵であるが、八重山の島などでは是をダイバノブトと謂う。ダイバはライバンの訛ですなわち擂盆。
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往ってしまい、女は徒然のあまりに若い同士誘い合って、大阪の紡績工場に出て働く習いであったが、もう十年も昔に自分
附近の農村一帯から集めてくるが、古襤褸の多量は大阪を経由し、殊に古麻布を主として東北の寒い地方から、仰いで
女郎は大阪の新町に
は、年老いたる男に送られて来ている。江戸・大阪の浄瑠璃に出てくる抱え遊女は、駆落ちの際でもなければ外へは
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同じ三重県でも『度会郡方言集』、すなわち神宮周囲の村落の語では、今で
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だという。原料にはよらなかったのである。秋田県河辺郡のネリガユは、粃米の粉であってこれを午食用に供し、三重県南海岸
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煙草の種があって名産になっていた。薩摩の冠岳には蘇我煙草と称して、蘇我馬子と関係づけられていた天然の煙草
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分の一にも届かなかったと思う。現に江戸初期の長崎貿易は、主として支那からの絹糸の買入れを目あてとしてい
はその効用を名にしているのである。佐賀・長崎の方面には、またフスリ竹という名もある。フスルは燻るという
もあるが、日本に行われていたものは前の長崎茂木浦などの例のごとく、聟の家に従属せしめたものはあまり
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衣服には供しなかったようにいうが、近年まで木曾の福島に問屋があって、盛んに関西地方に送り出していたタフなるものも
茨城県などではフルチガヘシ・フルチボーまたはフリボーとも謂っている。福島ではフリウチまたはフリウチバイ、佐渡ではフリバイと謂うそうである。バイも
世の中に知られていて、是は多くの地方では福島・栃木などでいうカラハシ、すなわち竹製の稲扱器のことを意味してい
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文芸に繰返されている。『徒然草』の著者の見た京都は、すでに荒々しく下品な退化であった。『古今集』の序文にも
は文禄頃の『鹿苑日録』の中にはあった。京都では大抵あの頃くらいが始めで、地方はもっと後と見ておいて
たということは、ちょっと珍しい現象である。足利後期の京都人の日記など見ると、別に「ゐなか」という酒が地方
用いられていたことだけは明白である。何にもせよ京都人が田舎に所領を控え、その田の産米を取寄せるようになって
れる。私などの見たところでは、貞徳の門流は京都を本山とし、古式の風雅を尊重して止まなかった故に、いわゆる
武士が郷里から携えてきた語だとしても、京都語の北の方や東の対などと別のものでなく、起こりは
是が中世以前の京都上流の間にも行われた婚姻方式であったことは、『源氏物語
の帯を織るというだけでなく、その中には中世京都の貴婦人淑女たちが、かつて優雅なる三十一文字によって、表現していた
たわけでなく、造り酒屋の一般になったのは、京都附近ですら足利期の中頃、それも奈良とか河内の天野とかの
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いうのを見ると、ゴは着物のことと思われる。仙台では前にはこの晴着をモチクヒイシャウと謂っていた。是を着る日
『遠野方言誌』にはスビト、東山地方ではスブト、仙台も盛岡も古い採集録にはかえってスビトと出ている。こうなると炉
を祀っている者が尠なくない。シンメ様というのは仙台附近でトウデ様、南部領でオシラ様というのもほぼ同じで、通例
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称して、炒ってはたいて食うものがある。津軽・秋田等のシラゴメは、八月十五夜の正式の供物で、或いは女には
ている。或いはそのまん中の熱い灰、すなわち信州でクヨウクリ、秋田ではカラスアク、雅語でオキともいう焚き落しの部分が、ホドというもの
はヒボトが有るのに、和賀郡には外南部や津軽・秋田の一部とともに、これをヒブトと謂う者がある。その津軽でも
立てて置くことができたからの名と思う。津軽・秋田その他では是をマサツケギ、またはタウチケゲとも謂っている。唐附木と
今の内に聴いておきたいと私は念じている。秋田地方の風習には、雨乞に婦女が裸参りをする例が二三ある。それ
ある。その風が遠い田舎にはまだ伝わっていて、秋田地方ではこれをチヂミサシ、津軽は一般にこれをコギンと謂っている。
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の山村でカッコというのは蕎麦カキのことだが、岡山地方の田処で、カキコと謂っているのは米の粉を湯でかきまぜ
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方言誌』にはスビト、東山地方ではスブト、仙台も盛岡も古い採集録にはかえってスビトと出ている。こうなると炉や火桶
、さらに南部領から気仙方面にかけてはシブトがある。盛岡は鹿角地方とともに炉をヒビトというと報ぜられているが、是
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謂っている。秋田県の鹿角ではエノナカベンケ、是も石川・富山のエンナカと同様に、炉側のことではないかと思う。人が
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地方ではその効用を名にしているのである。佐賀・長崎の方面には、またフスリ竹という名もある。フスルは燻る
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少なくともその貯蔵の酒には品質の高下があって、奈良とか河内の天野とか、佳い酒ができると、その評判が高くなり
たのは、京都附近ですら足利期の中頃、それも奈良とか河内の天野とかの、おかしな話だが御寺から譲ってもらうもの
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とも謂っている。意味はまだはっきりせぬが、鹿児島・熊本等の諸県でダイヤメまたはダリヤミと謂っているのは、明らかに疲労を
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もエイキとも謂っている。意味はまだはっきりせぬが、鹿児島・熊本等の諸県でダイヤメまたはダリヤミと謂っているのは、明らかに
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市振という海端の駅にとまって、測らずも二人の新潟の遊女と同宿した。そうして彼らの境涯を憐みつつも、
のように、考える人が有るかも知れない。しかしこの新潟の女たちの旅は、伊勢に参るというのが心ざしで、国境の
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。私の知るかぎりでは諏訪にも松本にも、また静岡にもそれぞれの記録があるが、上越後では高田を中心とした
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、語の起こりはまだ確かには知られていない。那覇の市街の片端を三カ所まで区画して、彼らを集め住ましめた
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ことになったが、そのかわりには事業は最初から、大津の町に売っていたようなちっぽけなもので無かった。僅かな線
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思い及んだのはこのころの常識であったろう。それから『深川集』の有名な一つづき、
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ば、その説は少なくともこの久しい歴史を忘れている。東京の町などでは三十年余り前に、裸体はもとよりはだしまでも禁制し
)と謂ったり、ヨウマアサマ(伊豆新島)と謂ったりする。東京近くではアヒダキモノ、またアハヒノキモノ(富士郡)、信州越後ではマンバとも
、多数の働く人々をヘウヘウ組などとも謂っている。東京の近く、房州の漁師たちは、是をウデヌキともトウロクともいい、信州
ように、いわゆるソデナシが盛んに用いられたのである。東京では年寄か小さな児だけが袖なしを着るが、他の地方では若い
た。その形が鯉の頭に似ているからコヒグチと東京では謂い、東上総ではブタグチとも謂っている。千葉県も南の
なければならぬわけである。私たちの知るかぎりでは、東京で以前ツキヌキ団子と謂ったものが、この一期前の餅製法を伝え
する場合が無くなった。家々の家族は毎日のように、東京でいわゆる御惣菜ばかりで御飯を食べている。これに反して田舎では
て、その他の間食はみな御茶と謂っている。東京でも職人には必ずこの御茶が給与せられる。それがさらに拡張し
大和ではコバシ、土佐ではトガシとも謂っている。東京附近のコウセンは、香煎との混同だと思っている人も多いが、
で中程に指で窪みを附けたものであるという。東京でも婚姻の祝に配る鳥の子または鶴の子というのが、一部分
方言があるほかに、島では鹿児島県の宝島と種子島、東京府下では八丈島、日本海では佐渡島外側の海府地方と、羽後の
が漢語から、成り立ったものとは言い切れぬのである。東京の近くでは信州佐久の川上地方から、諏訪・伊那にかけて南信一円
地方ではホドもクドも同じものだと謂っている。東京郊外から下総の西部にかけては竈をカマダン、上州邑楽郡ではカマンデェ、
労働する者が慰労に飲まされる酒の意であった。東京ではまた是をオシキセとも謂っているが、シキセは元来奉公人に給する衣服
その末流とも見られる者が、鑑札を受けて立派に東京で飯を食っている。自分らが目撃しているのは、無論頽廃
で、今でも全国に共通した方言であるが、東京の近くだけはもうこの語をあまり使っておらぬ。上総念仏の団体が
立つが、それでも時々は女が参加した。たとえば東京では二十年前まで、目黒・渋谷の娘たちも仕事着になると、
よほど汽車から離れた土地へ入って行かなければならぬ。東京近郊の女の人などは、よく働くとは言っても、もうよほど以前
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の銭だのというのが、何となくその遊女の高尾・薄雲ではなかったことを想わしめる。遊女は元来がウカレメということ
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参加した。たとえば東京では二十年前まで、目黒・渋谷の娘たちも仕事着になると、平気で肥料車の後押しをして市
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女が参加した。たとえば東京では二十年前まで、目黒・渋谷の娘たちも仕事着になると、平気で肥料車の後押しをし
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あり、福島県では石城郡のイルギ、最上や会津や相州浦賀等のユルギのほかに、飛んで隠岐五箇浦のエリリがある。だいたいに