光をかかぐる人々 / 徳永直

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地名一覧

牡鹿半島

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元文五年六月に、漸く日本本土を望見しつつ、牡鹿半島の長坂村沖合に達し、住民らと手眞似をもつて、煙草と鮮魚と

は旗本三十名以下、大筒役石火矢係など多數の武士を牡鹿半島に急行せしめ、石卷港は凡ゆる船の出入を停止、「――此間

加賀藩

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は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲から佃島を、加賀藩は芝口を――といつたぐあひに萬一に備へた。幕閣では

九州

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、もちろんこのオランダ渡りのハンドプレスそのものが、三十年前九州の片田舍で私の使つてゐた機械ではあるまい。しかし電動機が

なつて、日本でも製作され、同じ型のものが九州の片田舍では何十年も使用されてゐたのであらうか。

水戸藩

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漁夫を通じて交易せんとする商人が續出した。水戸藩廳ではおどろいて商人、漁夫ら三百餘人を捕へたが、異國船

出島

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、彼の新大工町とはつい眼と鼻のちかくにある出島の蘭館に、館附醫員として血氣二十六歳のフオン・シーボルトが來朝

きて趣きをレザノフに傳へたが、日本側の意志は出島の和蘭商館長ヅーフの策謀によつて、より冷たく誇大してロシヤ側に傳へ

英文典初歩」が印刷發行、文久元年には印刷工場を出島の商館内に移し、シーボルト著の「Open Brieven uit Japan」、翌二年に

。その一は安政二年より三年にかけて昌造は出島の蘭館で活版技師インデル・モウルを監督して「蘭話字典」を印刷し

清見寺

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從今日奉待候――三月廿二日、金地院、拜呈清見寺侍衆閣下」といふのであるが、「物書衆」といふのは原稿の

ローマ

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はこび、その上流はスイスへはこびフランスへはこんだし、殊にローマへヴエニスへはこんだ。ヴエニスは十五世紀から十六世紀へかけて全歐洲での印刷文化

ボストン

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とスミスが「ワシントン・プレス」を作り、一八二〇年にはボストンのダニエル・トリードウエルが世界最初の足踏印刷機を發明した。木が鐵にか

香港

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必要あるは痛切に感ずる所なり。英國は既にシンガーポール、香港の支那海に於ける二大關門を手中に收め――支那貿易を獨占せ

プーチヤチン一行が香港を出發したのは嘉永六年の六月一日、颱風の中を一路東

。しかも支那海一帶は英佛艦隊の勢力範圍である。香港でそのニユースを知つたプーチヤチンはペルリの歸來を待たずに、長崎へむかつた

十九日に那覇出帆、アメリカ東印度艦隊根據地の上海から香港を經て、カープホーレルと譯されたケープトーンつまり喜望峰を※つて本國

※つて本國に歸つた。この手紙に琉球のことも香港のことも書いてないのは、先方の政治的意圖に制限されてゐるもの

大阪

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? 歴史に從へば、活字はつひに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していつてゐるのである。

れてあつて、江戸へ四百七十里、京都へ二百四十八里、大阪へ二百三十五里、薩摩へ九十七里、對馬へ九十九里半などとなつてゐる。つまり

。同じ九月の十八日にはまたロシヤ使節の船が大阪安治川尻にあらはれて、幕府の諭書によつて十月下田へ※航。

で、三谷氏の「――昌造先生も安政元年には大阪に於て魯國と談判するに際しては五代友厚氏なり、或は桂小五郎

の貴官と治定の談判を遂んかため、此地より直接大阪に赴くへし。――日本政府の望み江戸に於て治定の談判ありた

江戸に於て治定の談判ありたしとならは其旨大阪に告示あらんことを乞ふ、速に江戸表へ來るへし。」

成立後、ペルリの退帆が六月で、九月下旬大阪の安治川尻にあらはれたプーチヤチンの船へ幕府の諭書を持參するまでの

海路國許エ差遣シ、船手之モノ共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下候

などはさうであつても、當時江戸の杉田成卿とか大阪の緒方洪庵などは東西に大きな塾を開いてゐてなかなか旺んであつた。

二十一歳で長崎へ遊學したのは安政元年で、大阪の洪庵塾へ入つたのは同二年であるが、當時も「内塾生

を超えてゐたらうし、「緒方の塾生」といへば大阪では有名だつたと謂はれる。「福翁自傳」などでみると、某

が如何にも詳に書いてあるやうに見える。私などが大阪で電氣の事を知たといふのは、只纔に和蘭の學校讀本

云ふと『左樣さ。何れ黒田侯が二晩とやら大阪に泊ると云ふ。御出立になるまで彼處に入用もあるまい』『左

と苦鬪しつつあつた時代に、同じ長崎でも、大阪でも、江戸でもその科學的飛躍の母體が徐々に生誕しつつあつ

活字」も行衞不明のままである。昌造の活字を大阪から東京にひろめ、印刷機械を日本で最初に製作した平野富二について

マニラ

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、勝麟太郎一行のうちの誰かの日誌らしいが、途中マニラに寄港したことや、大統領に歡待されることなどが出てくる。殊に

薩摩の間を往來する日本帆船が漂流して、フイリツピンのマニラやハワイ邊まで漂着した事實を傳へてをり、四國沖を航海する鹽を

下田

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新知識といはれた川路でさへが、その翌年プーチヤチンが下田へきて、例の海嘯で破損した「デイヤナ」が宮島沖で沈沒し

港を開けと主張し、二月二十五日の會見では下田及び箱館開港の豫約が出來、三月三日の會見によつて、遂に

取結び、場所人柄の差別無之事」にはじまつて、下田は條約批准後即時にも開港し、箱館は翌年三月から開港「亞米

ペルリの蒸汽軍艦は四月十八日に江戸灣小柴沖から下田へ※航、下檢分旁々二十五日を碇泊。五月十三日にこれも下

の「日本遠征記」もそれを書いた。「――下田でも箱館でも印刷所を見なかつたが、書物は店頭で見受けられた

付の飜譯文があるので、恐らくペルリ一行が箱館から下田へ歸つて、琉球那覇港へむかつた六月二十八日頃までではなからうか

右書状は下田え渡來之アメリカ船、又は長崎之ヲランダ船へ御托與被下度、

月十四日、プーチヤチンの軍艦「デイヤナ號」以下三隻は下田へ※航してきた。筒井、川路らは同月十七日再び任命され

た。筒井、川路らは同月十七日再び任命されて下田へ出張。十一月一日から「下田談判」は始まつてゐる。同四日に

から「下田談判」は始まつてゐる。同四日には下田の大海嘯で一帶の大被害、魯艦一隻も大破損、のち修理をもとめ

までかかつて「日露修好條約」は成立した。箱館、下田、長崎三港をロシヤ船及び同漂民のために開いたこと。日露の國

を得ざる事ある時は、魯西亞政府より箱館、下田の内一港に官吏を差置くべし」とあり、同附録第六條には、

戸田村は下田から十里餘を距てた駿河灣の内懷にあるが、このときから日本

し、長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印のその日から捕鯨船などがやつてきて、アメリカ人が上陸

長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印のその日から捕鯨船などがやつてきて、アメリカ人が上陸徘徊する

昌造が病躯をおして駕籠にゆられながら十里の山道を下田に越えねばならぬのも「餘儀なき」ことであつた。

下田の町を歩き※るのは玉泉寺のアメリカ人ばかりではない。プーチヤチン歸國後

昌造が下田から長崎へ戻つてきたのは、安政二年の何月だか現在の

七月、長崎の通譯本木昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて江戸に入る。八月廿九日、豐信(容堂侯

志士に暗殺された人である。この文にいふ「下田に來るの途次、轉じて江戸に入る」といふところは、前記したやう

てゐる。「されば安政の初に清水卯三郎が、阮甫が下田に居る所へ行つて弟子入りを頼むと、阮甫はそれを探偵と思つた

神奈川

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長崎から江戸まで早駕籠をもつて參着、二月一日付で神奈川へ差遣されたのであるが、この林、井戸の書翰にみても

昌造が長崎より神奈川の横濱村に參着したのは、「長崎談判」が終つて御用濟

して「一、長崎通詞森山榮之助、昨夕着、今日、神奈川へ被遣候」とあるから、たぶんそれと一行したか、その前後で

異國船打拂令改正」以前のやうにも思へ、また神奈川及び下田條約以後の、つまり萬延、文久頃の五ヶ國條約實施問題

が、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐ

大阪市

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軍艦は九月十八日に思ひがけなく兵庫洋にあらはれた。大阪市内には城代からの緊急町觸れが出て、畏くも同月二十三日に

琉球

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沿うて南下しつつあつたのである。また南方薩摩、琉球のむかふには、ジヤワ、スマトラに根城をおくオランダ艦隊と、印度、マライ

東上しつつ、オランダ艦隊が臺灣を掠めとれば、イギリス艦隊は琉球に上陸した――。

も急速ではげしかつた。當時の幕閣には薩摩、琉球より南の方についてどれほどの理解が養はれてゐただらうか

ある。しかも記録にものこらない、北は蝦夷から南は琉球までの日本海岸で、そんな事柄は澤山あつたらうと想像することは困難でない

樣――」と強調して長崎港以外に、箱館、琉球にも港を開けと主張し、二月二十五日の會見では下田及び箱館

つまり喜望峰を※つて本國に歸つた。この手紙に琉球のことも香港のことも書いてないのは、先方の政治的意圖に制限さ

喜望峰

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船は享保十九年(一七三三年)クロンシユタツトを出て、遠く喜望峰を迂囘しながら太平洋を北上しつつ、二年後にオホツクに到着、五

伊豆

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の發見と、その性能の理解にあつたと謂はれる。伊豆の代官江川太郎左衞門が韮山に反射爐をきづいて、攝氏千三百度以上

、つまり下田談判の中途から、彼はロシヤ人と共に伊豆の戸田村にゐたことが、「古文書幕末外交關係書卷ノ八」の

蝦夷

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親しみやすいものである。しかも記録にものこらない、北は蝦夷から南は琉球までの日本海岸で、そんな事柄は澤山あつたらうと想像すること

重大な書翰がどんな交通機關によつて搬ばれたか、蝦夷から江戸に何時到着したか明らかにしないが、恐らく「薪水食糧を

、急速に忙しくなつてゐた。新たに開港された蝦夷の箱館にも常住の通詞をおくらねばならなかつたし、長崎は長崎

金地院

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越候則從今日奉待候――三月廿二日、金地院、拜呈清見寺侍衆閣下」といふのであるが、「物書衆」といふ

平戸

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太夫のとき本木姓を名乘り、松浦侯に仕へ肥前の平戸に住したとある。庄太夫より祐齋、つづいて同じ名の二代庄

らしい。ただここで腑に落ちぬ點は、和蘭商館が平戸から長崎出島に移轉したのは寛永十八年のことであつて、庄太夫

太夫十九歳以前のこととなる。同じ肥前であつても平戸と出島は、當時の交通からみてはよほどの距離であるし、移轉後

のごとく將軍家光は切支丹禁制の施政を強化するために、平戸にあつたポルトガル、支那、和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を

はとほく弧をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番諸侯の屋形所在地

寛永寺

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して創つたのだらう? 私は會場を出て寛永寺の坂を廣小路の方へくだりながら、そんなことを考へた。プレスやロール

島原半島

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秀吉、家康に至る日本の政治的事情は、西洋印刷術を島原半島の加津佐から天草に逐ひ、天草から長崎に逐ひ、つひには長崎から國

蝦夷地

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北は誌されてない。歴史に從へば、江戸時代が蝦夷地の經營に直接身を入れだしたのは寛政以後、松平樂翁以來のこと

の日本の、自分らの位置を知る氣がした。蝦夷地のむかふ、エトロフや、アラスカや、カムチヤツカの、氷に鎖された地圖

月、暴風の中を津輕海峽に達し、北上して蝦夷地の繪鞆(室蘭)に入港投錨したのであつた。

薩摩藩

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運轉したのは翌二年の八月だが、薩摩藩の昇平丸が江戸へ※航してきたのは同じ二年の四月

氏の「封建社會崩壞過程の研究」によれば、薩摩藩は嘉永五年に蘭書に基いて蒸汽船雛型を作つた。表面は琉球

長崎市

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の學生たちにも珍重され、ポンペの醫術書は、長崎市大徳寺内につくられた幕府公認の學校「精得館」の生徒たちのため

長崎奉行所

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何によつたかは活字以上に明らかでないが、のち長崎奉行所が印刷所を設けたとき「プレスによる印刷法長崎に擴まる」とあるから、

側全權川路左衞門尉のために大通詞森山榮之助が長崎奉行所に押收してある英書を飜讀して北邊事情を紹介したが、

安政四年に次男小太郎が産れてゐること。その九は長崎奉行所の「入牢帳及犯科帳」にも記録がないこと等であつて、この

パリ

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があつたといふ。ヴエニスのマヌチウス父子、ウエストミンスターのカクストン、パリのロバートらその他、それぞれに華やかな第一期西洋活字文化の花を咲か

ハワイ

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斷してアラスカまで來つたが、果さずして一七七九年ハワイで死んだ。するとこんどはイギリスに代つて、フランスのルイ十六世が、

間を往來する日本帆船が漂流して、フイリツピンのマニラやハワイ邊まで漂着した事實を傳へてをり、四國沖を航海する鹽をつんだ

はベーリング海峽をこえて、オホツクから沿海州一圓に至り、ハワイを通過する船はつひに鳥島をこえて、文政三年(一八二〇年)頃に

筑前

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奉行所の右手海岸はとほく弧をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番

佐賀藩

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は錯雜して、時の長崎奉行松平圖書をはじめ佐賀藩の重役五名が責をひいて切腹したといふ事實である。當時庄

に、當時日本では數少い鐵製錬所をもつてゐる佐賀藩が自慢にしてゐた洋式新臺場をみて「鎖國の弊は到ら

土佐藩

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たらうと想像することが出來る。寺田志齋は東洋と同じく土佐藩の仕置役として藩政に參畫し、容堂の側用人を勤めたことがある

ロンドン

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、おぼろげながら日本印刷術の輪廓がわかつてきた。ロンドンの大英博物館に世界最古の印刷物として保管されてゐるといふ陀羅尼經

種字の意味であらう。西洋の印刷歴史書では、彼がロンドンの活字鑄造所で見覺えた趣きも書いてあるが、「自傳」

の鐵製のハンドプレスを作り、それと應へるやうにロンドンでも數學者スタンホープが「スタンホープ式ハンドプレス」を完成して伯爵

オレゴン州

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對岸(ずゐぶん遠い對岸であるが)アメリカ合衆國のオレゴン州コロンビア河口に流れついたなどいふ記録や、もつと北方のカナダ海岸に漂着し

江戸

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攝州三田の人。幼い時藩の造士館に學び、二十歳江戸に出て足立長雋の門に入り、後坪井信道に就いて蘭醫學を受け、

「オランダ文法の單語篇ですがネ、江戸で印刷されたものだといふことは明らかのやうですよ。」

は、本木昌造も既にこれをつくり出してゐるが、長崎と江戸と距てては相知るところがなかつたであらう。そしてもつとはるかなる感慨は

。いまは疑問の儘に一應措くより外ないが「江戸の活字」が歐文から始まつたといふ事實は、永年の印刷工であつた

ておいて、私は考へねばならぬのだ。「江戸の活字」も木村嘉平だけではなかつたか知れない。電胎法による字母

も完成されたのだ。しかも、しかも何故に活字は江戸に生れず、長崎に生れたのだらうか※

、昌造が元祖か、そんなことは大きな問題ではない。江戸で生れず長崎で生れねばならなかつたその社會的事情、ああその

林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。

その他私には作者未詳の「八王子の活字」や、江戸で作られた「オランダ單語篇」がまたさうだつたといふことなど、

の考へは飛躍するのであるが、では長崎よりも江戸においてはより澤山の活字の研究者があり、學者があつたのに

研究者があり、學者があつたのに、何故それが江戸でなくて、長崎でより早く完成しただらうか? 歴史に從へば

歴史に從へば、活字はつひに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していつてゐるのである。

してゐた人間だつたこと。つまり昌造のやうな、江戸の洋學者たちと同じく、近代活字の製法にふかい關心を持つた人間が

ば當時洋書を讀むことは一般に禁ぜられてをり、この頃江戸で青木文藏(昆陽)等が運動して、吉宗將軍をして「洋書

といふ事實である。當時庄左衞門は公用を以て江戸に在つたが、「英船事件」發生に遭ふや滯留を命ぜられ、

であつたらう。語學といふものも白石、昆陽以來、江戸その他において有力な洋學者があらはれて「蘭學事始」のごとき

と「通詞の蘭學」の區別をみることが出來よう。江戸や京阪の洋學者たちは、最初はしばしば長崎を訪ね通詞らの門を

航路とでもいふべき海上里程が誌されてあつて、江戸へ四百七十里、京都へ二百四十八里、大阪へ二百三十五里、薩摩へ九十七里、對馬

九十九里半などとなつてゐる。つまり南は薩摩、北は江戸へ及んでゐるが、江戸から北は誌されてない。歴史に從へば、

。つまり南は薩摩、北は江戸へ及んでゐるが、江戸から北は誌されてない。歴史に從へば、江戸時代が蝦夷地の經營に

が日本海岸に出現したと、時の伊達藩廳が江戸へ早打ちをもつて注進したのは、既に元文五年(一七三九年)に

ゐたといふ。「異國船再び來る」の報は江戸へも飛んで、老中松平伊豆守は事態容易ならずとして、松前若狹の

このときは江戸から目付遠山金四郎が下向してきて趣きをレザノフに傳へたが、日本側

奉行服部備後守との會見によつてロシヤ側の希望は江戸へ申送られ、囘答は翌文化十一年エトロフにおいてなすべきことが約さ

元年五月、異國船が突如江戸灣に出現して江戸の役人たちをおどろかせた。それはイギリス商船「ブラザース號」で、しかも六十五

意圖ももたない私船で、長崎を無視してのこのこと江戸へやつてきたこの船は、日本の許可を得て貿易をしたいと

、何ら得るところなく退散しなければならなかつた。江戸から到着した「諭書」はつまり、「開國勸告など無用にねが

手がとどかぬ憾みがあつたらうし、いま一つ加へて江戸の嘉平が白晝灯をともした室で、人目を忍んで研究せねば

出島版」は長崎を訪れる志ある日本青年のみならず、江戸の學生たちにも珍重され、ポンペの醫術書は、長崎市大徳寺内に

日本製の洋書。アルハベツトにはじまつた「江戸の活字」。當時の學生が大福帳型の教科書の洋活字の一方に筆で

やうに、アメリカのオリフアント會社仕立船「モリソン號」が、江戸や鹿兒島で砲撃を喰つて退出してから八年めの弘化二年に、

外國の使節が長崎にきて、江戸の應接係がそこへ到着するのに半年ちかくもかかるのはいつもの例で

ちかくもかかるのはいつもの例であるが、このときは江戸と長崎の間が遠いからばかりではなかつた。周知のやうに、このとき

たが、しかしいまは、蒸汽軍艦が二日で長崎から江戸までいつてしまふ。魯戎の氣心はペルリとちがつて、何といつて

拒絶」を納得させておきながら、彼らの軍艦を江戸へやらぬやうにしなければならない。筒井、川路の奮鬪がどれほど深刻

が、そのとき長崎にきたプーチヤチンの「デイヤナ」も、江戸にきた「ペルリの黒船」も、せいぜい四百噸ないし五百噸以下の蒸汽船

使節の「パレムバン」が來たときオランダ國王の親翰を江戸へ護送した責任者の一人、そして高島秋帆が師事して砲術を教はつた

右手には兩名の長崎奉行が座に着き、左には江戸から來た高官とおぼしきものが更に四人ゐた。全權達の背後に

に乘りこんで宇内の知識をきはめんとて、若い吉田寅次郎が江戸から長崎へむかつてすたこらいそいでゐたのを思ひだすだらう。

で江戸灣に入つてきた。舞臺はたちまち長崎から江戸へと擴がつたのであるが、昌造にとつてこの「安政の開港

榮之助で、彼は「長崎談判」が終るや、長崎から江戸まで早駕籠をもつて參着、二月一日付で神奈川へ差遣されたので

所を許容なからんには、某決して國に歸らず、江戸への貢獻物もいかに取はからふべき方なければ、何時迄も此海上

て同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つて心を痛めねばならなかつた。「――

さる島へかかりたるはアメリカ船にてペルリの黨なるべし、江戸にてはいかにやと昨日は少もねられ不申候」。川路の日記で

川路の行列を追ひぬいたか、特別な便船で海上を江戸へむかつたかといふことになるが、恐らく確實性のある前者によつただらうと

とにかく當時でも江戸のニユースが下關へんまで十數日でつたはつてゐることがわかるが、海防

樣、前々御申上置可被下候――」と江戸老中宛に書いてゐる。

―箱館において差出され候横文字並に漢文之書翰、江戸到着致し、老中披見に及び候、大阪港は外國應接之地に無之故、

――もはやその事果て、箱館に來り、此一書を江戸に送つて、フレガツトに薪水食糧を貯んとす。――日本政府の貴官と

地より直接大阪に赴くへし。――日本政府の望み江戸に於て治定の談判ありたしとならは其旨大阪に告示あらんこと

書翰がどんな交通機關によつて搬ばれたか、蝦夷から江戸に何時到着したか明らかにしないが、恐らく「薪水食糧を貯」

考へる。つまりプーチヤチンの手紙が、彼の船よりおくれずに江戸へ着くことが出來たらば、「兵庫洋にあらはれた異國船」の正

荷物が輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことで

の名が出てくるが、恐らく彼は九月中旬まで江戸にゐて幕府天文方の仕事をしてゐたのだと思はれる。つまり

わけであるが、「東洋傳」によれば、昌造は江戸において最初の洋式船舶建造の功勞者といふことになつてゐる。

昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて江戸に入る。八月廿九日、豐信(容堂侯)昌造を召して海外の事情

作らしめ、幕府に請ふて試運轉を爲す。是れ江戸に於て、洋式船舶製造の濫觴なり――」

ある。この文にいふ「下田に來るの途次、轉じて江戸に入る」といふところは、前記したやうな昌造の動靜から推して

翌二年の八月だが、薩摩藩の昇平丸が江戸へ※航してきたのは同じ二年の四月である。土屋喬雄

う。そして昌造の雛型及び監督によつて建造された江戸において最初の蒸汽船はどんなものだつたらう。同じく土佐藩記録はその伺

、海路國許エ差遣シ、船手之モノ共爲習練、江戸大阪共爲致往還度、彼是相伺候、可然御差圖被成可被下

送つて藩の船手共へ習練させる、上達したらば江戸、大阪間を往復させるといふ意味であるが、文中幸八の名があつて

の名が出ないのは、昌造は長崎奉行配下で目下江戸出役中ゆゑ、幕府へは憚りあつたのであらう。

ニ御上リ、余モ亦隨フ、此船余前官ニテ江戸ニアリテ頗ル此議ニ預ル、只迅速ナラザルノ恐アリシニ、果シテ進ムコト遲々

の情勢と對應してゐて興味ふかい。安政二年江戸から歸國後、直ちに永井、勝らの海軍傳習所の通譯係を任命され

氏は牢獄の人となつた。その理由は、氏が江戸に滯在中、天文臺の諸役人より依頼を受けて、天文に關する蘭書の

なりしため、昌造氏の購求し居る洋書類を、密かに江戸の武士達に賣付けた。洋書に趣味なき武士達は、これらの蘭書

と思つたと見え、なかなか許さない。段々頼んだ所、江戸へ行つてから教へてやらうといふ約束で、清水は其後江戸で阮甫の

行つてから教へてやらうといふ約束で、清水は其後江戸で阮甫の門に入つた。」また「西洋の書物の飜譯や其出版の

政治的場面にある阮甫などはさうであつても、當時江戸の杉田成卿とか大阪の緒方洪庵などは東西に大きな塾を開いてゐて

その民族の文字がもつ宿命は何と大きいであらうか。江戸の嘉平の洋活字、長崎の活字板摺立所の洋活字は、まがりなりにも

といはれる昌造の「蘭話通辯」をのぞけば、江戸の嘉平、長崎の昌造の苦鬪にも拘らず、今日何一つのこるほど

いへよう。幸民の「電胎法」(ガラハニ)が「江戸の活字」に影響してゐるだらうといふ推測は前に述べたが、電

つつあつた時代に、同じ長崎でも、大阪でも、江戸でもその科學的飛躍の母體が徐々に生誕しつつあつたのである

であらう。昌造らの苦心はまだつづかねばならない。江戸の嘉平も幕府の眼を避けながら手燭を灯した密室で慘憺しなければなら

がつて私の主人公は一人昌造のみではない。まだ「江戸の活字」も行衞不明のままである。昌造の活字を大阪から東京に

サンフランシスコ

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カープホーレルを※り、ネウヨルクえ罷歸申候。其節ホノリリユ、サンフランシスコ、パナマ、カウヲ、フアルハレリ、リヲゼナイロに立寄申候。

柳川

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をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番諸侯の屋形所在地がつづいてゐる

北海道

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持越候石炭積請」といふのが、べつの記録に北海道室蘭から石炭を積んできて出發直前に補給したといふ事實がある

薩摩

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製し又玻※版寫眞を作り、又阮甫と前後して薩摩の邸に出入して、島津齊彬侯の爲に理化學上の事などを

江戸へ四百七十里、京都へ二百四十八里、大阪へ二百三十五里、薩摩へ九十七里、對馬へ九十九里半などとなつてゐる。つまり南は薩摩、北

里、對馬へ九十九里半などとなつてゐる。つまり南は薩摩、北は江戸へ及んでゐるが、江戸から北は誌されてない。歴史

特別以外の航路としてはなかつたのであらうし、薩摩の更に南方琉球との航路も、直轄島津藩との間にのみあつた

よりも豐富だが、その記録でさへが、長崎と薩摩の間を往來する日本帆船が漂流して、フイリツピンのマニラやハワイ邊まで漂着

それよりも急速ではげしかつた。當時の幕閣には薩摩、琉球より南の方についてどれほどの理解が養はれてゐただら

藩は昔から船では名のある國で、土佐と薩摩は建艦競爭してゐたといふから、「禁止令」解放後先鞭を

上海經由で輸入された形跡はたぶんにあり、昌造が薩摩の島津屋舖から慶應年間に讓りうけたハンドプレスや、明治初年に平野富二が

長崎

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頃、ポルトガルの宣教師たちははるばる太平洋を越えて、肥前長崎に西洋印刷術を傳へてゐる。所謂切支丹版のことで、これは「

から天草に逐ひ、天草から長崎に逐ひ、つひには長崎から國外に斥けて以後、徳川三百年間はその後を絶つた。「印刷

印刷術を島原半島の加津佐から天草に逐ひ、天草から長崎に逐ひ、つひには長崎から國外に斥けて以後、徳川三百年間は

朝鮮征伐、銅活字の土産物に始まつてゐて、切支丹を長崎から逐つた同じ家康が、その活字を模倣してほぼ同數の銅活字を

れねばならなかつたにちがひない。三百年前肥前長崎から逐はれた「活字鑄造機」のことを思ひだすよすがもなかつた人々

日本渡航記」はロシヤ使節プーチヤチンの長崎來航で、いはゆる長崎談判、この文章のうちに通詞として「昌造」といふ名が二

かをあげた。「日本渡航記」はロシヤ使節プーチヤチンの長崎來航で、いはゆる長崎談判、この文章のうちに通詞として「昌造

や「註」が新らしいものだつた。それは氏が長崎や福岡へんまで行脚して、本木の遺族や平野の未亡人などから聽き

ば同時代的な期間もあつたに違ひなく、また同じ長崎通詞のうちでも航海や造船術の先覺でもあつた昌造に對し

たものである。源一郎は櫻痴と號し、天保十二年長崎の生れ、やはり和蘭通詞の出身で、昌造とは十七年の後輩である

をかりて、洋學の傳統とか、幕末の事情と長崎通詞の關係などを知らうと努めた。また江戸末期の印刷についてく

大部分であらうと思はれるが、昌造の友人とすれば或は長崎通詞で隨行した人かも知れない。M・T氏も小首を傾げて

。我邦における活字の開祖としいへば、世人長崎の平野富治を推すも、此は西洋の機械を初めて輸入して製作し

これより少しさき、安政三年から四年へかけて、長崎奉行所でも和蘭文法書の「成句篇」「單語篇」が刊行さ

と訊いた。私は少しまへに長崎通詞のことで、友人の紹介で一度I・K氏を訪ねたことが

年には、本木昌造も既にこれをつくり出してゐるが、長崎と江戸と距てては相知るところがなかつたであらう。そしてもつとはるか

「本邦に活版印刷の業未だ起らず」愼吾の紹介で長崎の宣教師フエルベツキに逢ひ、フエルベツキまた上海の傳道印刷會社ガンブル商會を紹介して

して宇内の新知識を究めんと欲すること多年。――偶々長崎人蔡愼吾と交情あり、一日愼吾勸めて曰くに、開成所の

關するものであつた。「薩藩洋學の教師高橋新吉、長崎にあり。洋行して宇内の新知識を究めんと欲すること多年。――偶々

」たい志は、猶やむことなくして、その頃の長崎にうろついてをり、とほく太平洋を睨んでゐたのであらう。

のだ。しかも、しかも何故に活字は江戸に生れず、長崎に生れたのだらうか※

か、そんなことは大きな問題ではない。江戸で生れず長崎で生れねばならなかつたその社會的事情、ああその事情、それ

長崎と通詞

かがある氣がする。たとへば周知のやうに彼はしばしば長崎を訪れてゐる。出島の蘭館にも出入して彼自身の筆になる

しただらうか? 歴史に從へば、活字はつひに長崎に誕生して大阪から江戸へと東漸していつてゐるのである。

者があつたのに、何故それが江戸でなくて、長崎でより早く完成しただらうか? 歴史に從へば、活字はつひに

でまた私の考へは飛躍するのであるが、では長崎よりも江戸においてはより澤山の活字の研究者があり、學者が

從つて明治二年米人技師ガンブルが上海から歸國の途次、長崎に寄港したとき、偶々電胎法による活字字母の製法を、本木

いへば、二つあると思ふ。その一つは當時の長崎は、唯一の海外文化の入口であつたこと。從つて明治二年米人

一つは、「地の利」といふもの、當時の長崎がもつた國内と國外關係を究めること。いま一つは、洋

にゐたといふことになる。もちろん和蘭通詞も幕末の長崎では百人を超えたと謂はれるから百人のうち偶々それが本木

昌造は文政七年、長崎の新大工町に生れた。父は町の乙名(區長)北島三

といふくだりもあつて、昌造が物心つくころには、長崎ぢゆう好學の氣分が溢れてゐたのだから、よほどのボンクラで

のである。洋學年表文政八年の項に、「長崎の東郊鳴瀧の地に校舍を建てシーボルト講學の場とす」と

に弟子入りしてゐるが、翌文政八年には、長崎の郊外鳴瀧に校舍が建てられ、このドイツ生れの新知識をたづねて、

二十一歳の高野長英が遙々東北の水澤から笈を負うて長崎に來、シーボルトに弟子入りしてゐるが、翌文政八年には、

た文政七年は西暦にすると一八二四年で、當時の長崎を歴史的に想像してみると、その前年文政六年には、彼の

のどの土地よりも直接ひびいたらうし、通詞といふ職業柄、長崎ぢゆうの誰よりも現實的に影響したにちがひない。

」と「開國」は、海外文物の入口であつた長崎では、日本ぢゆうのどの土地よりも直接ひびいたらうし、通詞といふ

。おまけに長崎は幕府直轄の地であるし、通詞は長崎奉行の支配下にあつたから、政治的影響も色々と身にしみながら成長し

から、その影響度合もはげしかつたにちがひない。おまけに長崎は幕府直轄の地であるし、通詞は長崎奉行の支配下にあつたから

問はず、同じ洋學をやる昌造には、ニユースの早い長崎で、何かと感ずるところがあつたと思はれるし、天保十三年の

、日本の土地のどこに漂着しても、必ず一度は長崎におくられてきた、毛色眼色のちがつた異國人たちに接して

考へて、その一面を推し測つてみるのだが、長崎といふ地にあつて、通詞を職とする家にあれば、その影響

齋、つづいて同じ名の二代庄太夫がはじめて平戸より長崎に移住、通詞としての本木家元祖となつた。

、洋學年表では「平戸人本木庄太夫――是年長崎に移住す、後寛文甲辰小通詞となり、又五年寛文戊申大通詞

太夫は、その管轄領主であつた松浦侯に仕へながら、長崎移住後も何らか和蘭商館に關係ある役柄でも勤めてゐたの

ただここで腑に落ちぬ點は、和蘭商館が平戸から長崎出島に移轉したのは寛永十八年のことであつて、庄太夫移住

、平戸にあつたポルトガル、支那、和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を築いて、そこへすべてを收容したが、

、野呂元丈二十四歳などと、年齡順にきて、「長崎人本木仁太夫二十二歳」と書いてある。

學事始の所傳の信じ難いことは古賀十二郎氏も「長崎と海外文化」に於て夙く指摘せられてゐるのである」云々。

たい。ましてや三谷氏の本木傳にみる、青木昆陽が長崎を訪れて良固らと洋書解禁のことを圖つた云々は、素人の

と其志を同じくせしぞめでたき。余の祖父玄澤は長崎に遊學し本木、吉雄の兩家に益を請れ、本木も蘭學

學者の欄に庄左衞門の名が出てをり(長崎大光寺、享年五十六)とある。これでみれば死歿の年に相違がある

にあつたため、出來事は錯雜して、時の長崎奉行松平圖書をはじめ佐賀藩の重役五名が責をひいて切腹し

船事件」とは有名な、和蘭の國旗を掲げて長崎港に不法侵入してきた英國軍艦「フエートン號」のことである。

洋學者を一緒にしてきたやうである。なるほど長崎における和蘭通詞と蘭學の發達は切つても切れない關係がある

「幕府譯官」などと敬稱されるが、普通には「長崎通辯何の何兵衞」といつた卑しい言葉で、そこらの輕輩

通詞は平戸時代からあつた。但、その整然たる階級は長崎時代になつてから出來たもののやうである」と、板澤氏は「

た。ヅーフは蘭領がすべて失はれたとき、ひとり日本の長崎でだけ同國旗を飜し得た和蘭歴史の功勞者となつた。

の目的を達するためには、二人の過去の小事實を長崎奉行へ密告して生殺與奪の權を自身で握つたことを「日本

謂はれ、平賀源内、前野良澤、大槻玄澤ら、また長崎を訪れた。しかし彼等はすべて自分のものとしたのだ。

出來よう。江戸や京阪の洋學者たちは、最初はしばしば長崎を訪ね通詞らの門を叩いてゐる。しかし彼らは最初から學問を

私はむかしの長崎繪圖を都合三枚みることができた。最初の一枚は帝國圖書館

長崎奉行所がひかへ、その裾を八の字にひらいた長崎の町々の、港を中心に繁榮してゐるさまが描かれてある。

出島と橋一つでつないだ、やや圓型の突端に長崎奉行所がひかへ、その裾を八の字にひらいた長崎の町々の、

の支流にわかれてゐる。左の支流は、後年シーボルトが長崎奉行の肝煎りで新知識普及の道場とした鳴瀧に源を發してをり、

安永の墨一色の「長崎之圖」は、大畠文治右衞門といふ人の作で、可なり精細で

「長崎之圖」の奧附のそばに、當時の國内航路とでもいふ

天保年間とおぼしき長崎之圖は、安永のそれと比べて、ほとんど名所錦繪であつて、

ゐる。ナンキン船などどつかへすつこんでしまひ、二百餘年間長崎港の花形であつたオランダ船でさへ、隅の方にちひさくなつて

しかし私の興味は三枚の長崎繪圖をとほして、沖合にかかつてゐる外國船の形の變遷にあつ

慶應のそれまで約三十年、通じて約一世紀の、長崎港の沖合にかかる外國渡來の船の姿のうつりかはりは、誰に

らがそれを拾ひあげるまで、四世紀にわたつて長崎の海邊に漂つてゐたわけである。

意義は、おそらく黒船の形にあつたのではなからう。長崎港を無視して、禁制の江戸灣へ侵入してきたことと、

」などとあつて、三人のうち、恐らく僧侶龍門の長崎知識によつて判斷したのだらうと附記してある。スパンベルグは

僞つて毛皮と米薪炭を交換したが、間もなく長崎沖にいで、奄見大島へぬけ、臺灣海岸に上陸、蕃人と合戰し

まで眞實か知らないが、その後數年を經てから長崎に來た林子平は、和蘭商館長からこのことを聞知して、彼

なかつたので、和蘭商館長がこれを蘭譯して長崎奉行に提出した。日本文になつてゐる「ウシマにおいて、ば

か、ドイツ語、ラテン語による北邊事情を密告した。長崎通詞中にはもちろん右二ヶ國語に通ずるものはなかつたので、和蘭

に記録よりも豐富だが、その記録でさへが、長崎と薩摩の間を往來する日本帆船が漂流して、フイリツピンのマニラやハワイ

つたへて、この時江戸評議の延引や、ラクスマンへ「長崎入港許可書」を與へたことやを基礎にして、松平越前は或は

撃攘する事我國法にして、若し漂民あらば、必ず長崎に護送すべし、國書をもたらすとも、受領する事能はず」と云つ

全部長崎奉行からおくりかへされて、記録は「ラクスマンの「長崎へゆけば」は誤解であつたことが明瞭」になつただけである

通商は拒絶、ロシヤ側の贈物も法規に基いて、全部長崎奉行からおくりかへされて、記録は「ラクスマンの「長崎へゆけば」は

使節國務顧問兼侍從ニコライレザノフは、文化元年七月に長崎に到着した。「ナデジユダ」「ネワ」の二軍艦をもつて、國

ラクスマンが歸國して十一年目「長崎へゆけば國書が受理される」といふ彼の誤解? をもと

つまり「和蘭の妨害」もあつて、このときのことを長崎人蜀山人太田直二郎は「瓊浦雜綴」に次のやうに書き誌した。「―

うちに誌した。「――魯西亞の使者を半年長崎に留めて上陸も許さず――魯西亞は北方の邊地不毛の土

それに「長崎」は「松前」とはちがつてゐた。ここは日本の玄關の

、日本帆船を拿捕しようといふ計畫で、このことは既に長崎退帆の歸途、一行の海軍大佐フオン・クルーゼンステルンが、沿岸の要衝を密か

大したものでなかつたらう。そして半年後に失望のうちに長崎を退帆したニコライ・レザノフは、幕閣も、蜀山人も、司馬江漢も

ところをきいてみよう。シーボルトのこの觀察は、レザノフが長崎を去つて、ひたすら武力による日本遠征を企てた一八〇五―七年から三十

してゐた。一説によると彼は長崎碇泊中、長崎通詞らをとほして得た知識によつて、佐幕派に對立する勤皇派

までもなく承知してゐた。一説によると彼は長崎碇泊中、長崎通詞らをとほして得た知識によつて、佐幕派に

あり學者であつた。オランダ國旗を唯一つ日本長崎で護り通し祖國の歴史を辱しめなかつた甲比丹ヅーフは、日本へ對するヨーロツパの

てなすべきことが約された。幕閣の囘答は嘗て長崎においてレザノフに示されたと同樣であつたが、しかし翌年、日

は絶えたわけでなく、半世紀後、本木昌造が「長崎談判」「下田談判」に通詞として活動する運命も、かうした

終つて、またプーチヤチン提督が四隻の軍艦を率ゐて長崎沖に出現するまで、約半世紀が經つ。しかも日露國境問題も

、すすんで出先日本長崎の同商館を占領しようとして長崎沖に出現したのである。もちろん目的は商館の占領よりも、日本

、バタビヤの和蘭政府の實權を掌握、すすんで出先日本長崎の同商館を占領しようとして長崎沖に出現したのである。

ても、實際にこれを知つてゐたのは長崎通詞のみであつたといふことにもあらはれてゐる。

ないが、尠くとも表面は長崎奉行まかせであつて、また長崎奉行の目付ともいふべき代々の和蘭甲比丹から具申する海外ニユースをたよりに

傳統が失はれたとも思へないが、尠くとも表面は長崎奉行まかせであつて、また長崎奉行の目付ともいふべき代々の和蘭甲比丹

」である。本國の政治的意圖ももたない私船で、長崎を無視してのこのこと江戸へやつてきたこの船は、日本の許可

ない。弘化三年になると、フランス軍艦「クレオパトラ」が長崎港外に訪れて、日本への交誼をもとめてゐる申出のうちに、「

上、南の長崎も北の松前も無視してゐる。長崎の目付役? 和蘭商館さへ事前に豫知できぬやうなやからである。

しかもこれらの船の性質上、南の長崎も北の松前も無視してゐる。長崎の目付役? 和蘭商館さへ事前

と史家たちは云つてゐる。單に漂民の護送ならば長崎で充分であるものを、避けて江戸灣にむかつたのも、和蘭

のである。ある史家はモリソン號が通商に野心なく、長崎港にはいつてきたならば問題はなかつた筈だと述べてゐる

した内容については翌年になつて和蘭商館長より長崎奉行宛への報告がはいるまで幕閣は何ら知る處がなかつた。江戸

老中筆頭水野越前守は翌年長崎奉行を通じて和蘭商館長からの報告によつてモリソン號の目的を知り

の軍艦「パレムバン」が、日本ではじめてみる蒸汽軍艦が長崎にあらはれたのであつた。

ふくまれてゐただらう。しかし蒸汽軍艦「パレムバン」は長崎碇泊五ヶ月の後、何ら得るところなく退散しなければならなかつた

であつた。「パレムバン」はやむなく國王よりの贈物を長崎出島に遺留して退去したが、當時の幕閣がこの囘答をする

「パレムバン」が追ひ返されてから五年めで、「長崎通詞本木昌造及び北村此助、品川藤兵衞、楢林定一郎四人相議し、鉛製活字版

一式」だけで、それより七年後、幕府の命で長崎奉行所が印刷所を設置したごとくであるからである。

私はそれを判斷する力を持たない。しかしそれがほんの長崎での傳説であつたとしても、甚だ信じ得る事柄ではある

がつて、たとへば慶長年間に、「きりしたん活字」がそのまま長崎にとどまつたとしても、どれくらゐ發達しただらう?

はこのときより數年後、安政年間の作である。長崎の諏訪神社に傳へられるところの「流し込み鑄型」も嘉永年間のものではない

いまは見ることが出來ない。もちろん圖書館にもなく、長崎にすら現存しないといふ。したがつていま私がたよりにする唯一

福島惠次郎氏(長崎共益館書店主)

早稻田米次郎氏(長崎古道具店主)

のち長崎奉行所が印刷所を設けたとき「プレスによる印刷法長崎に擴まる」とあるから、このとき二十八歳の青年昌造は輸入のアルハベツトに

何によつたかは活字以上に明らかでないが、のち長崎奉行所が印刷所を設けたとき「プレスによる印刷法長崎に擴まる」とある

をもつて買上げ、此節奉行所に於て摺立方試み、長崎會所に於て一般志願者へ賣渡せば世上便利なる事」等といふ

事。三、先年紅毛人の持來りし活字版を、先勤長崎奉行の許可を得て、蘭通詞共引受所持せるを、このたび會所銀

つの記録を編んだわけであつた。同年六月、長崎奉行荒尾岩見守は老中阿部伊勢守へ「阿蘭陀活字版蘭書摺立方建白書」

よつて阿部伊勢守は同年八月これを採用した。長崎奉行は昌造に活字版摺立係を任命して、海岸に面した西役所

文章のごとく理解するは誤りであらう。とにかく右のやうな長崎奉行の建白によつて阿部伊勢守は同年八月これを採用した。

方に納本され、他は一部につき金二歩にて長崎會所より一般に賣り出された。翌四年には「英文典初歩

」刷りにしただけであつて、そのプレス式印刷も長崎の小範圍から遠くは出なかつたやうである。

學ぶところは大したものではなかつたらうと想像される。この長崎奉行所印刷工場が日本の印刷術に與へた功績の若干は、主とし

はまつたく行はなかつたやうである。それはこの長崎奉行所の印刷工場が活字の凡てを和蘭から補給せねばならぬため採算

れねばならなかつた。シーボルトの「出島版」は長崎を訪れる志ある日本青年のみならず、江戸の學生たちにも珍重され

にしても私らは二百數十年前、この同じ長崎の地から追放された西洋印刷術を思ひ出すとき感慨新たなるものがある

長崎奉行所の印刷所は日本の近代印刷術の歴史に魁けたもので、「プレス

喧傳される所以といふものは、船の形でも、長崎を無視して江戸灣にはいつたといふことでもなくて、浦賀

述べたやうに異國船渡來の歴史にみて、とにかく長崎、松前以外で國書を受取つたことは確かに異例であるにちがひない

。「――此所は外國と應接の地にあらす、長崎におもむくへきのよし、いく度も諭すといへとも、使命を恥しめ

て參考にするならば、同じ嘉永六年の七月に長崎に來航したロシヤ遣日使節の祕書ゴンチヤロフは「日本渡航記」のうち

てゐられたこともある――。」この文章には長崎での云ひつたへをそのまま書いたやうなふしもあるが、「急激

からは――佐幕黨なりとの誤解を受け――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、それらの志士が頻りに出入して

ヒネくつてゐるわけにゆかなくなつた。そしてこのときの長崎談判以來、「日露修好條約」の成立した翌々年安政二年春まで、

そして江戸灣からペルリが去つてわづか一ヶ月、ニユースのはやい長崎でも、まだペルリの噂で持ち切りだつたらうと思はれる七月の十六日

側全權川路左衞門尉のために大通詞森山榮之助が長崎奉行所に押收してある英書を飜讀して北邊事情を紹介した

。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、このとき「長崎談判」の日露國境協定について、日本側全權川路左衞門尉

の御沙汰があつたとき、「印刷文明史」の著者は長崎に訪れて、まだ在世中の昌造の友人や門人などから知り得た昌造

小笠原島二見港についたのが同じ六月二十八日、長崎沖にあらはれたのが七月十五日である。從來のロシヤ遣日使節

そのニユースを知つたプーチヤチンはペルリの歸來を待たずに、長崎へむかつたわけであつた。

「――長崎灣の入口の目標になつてゐる野母崎が見えだした。皆は甲板に

の十六日、ちやうど盂蘭盆の精靈舟がただよつてゐる長崎港に入つてきたのであるが、ここにいふケムペルとは、ドイツ人

幕府のロシヤ應接係筒井肥前守、川路左衞門尉などの長崎到着が六年の十一月二十七日で、正式の日露會談開始が十二月

長崎港に入つたロシヤの軍艦は、七月の中旬から、翌年安政元年正月

この「長崎談判」がロシヤ側から云はせれば不調に終つたことは周知のとほり

かかるのはいつもの例であるが、このときは江戸と長崎の間が遠いからばかりではなかつた。周知のやうに、このときも

外國の使節が長崎にきて、江戸の應接係がそこへ到着するのに半年ちかくもかかる

よかつたが、しかしいまは、蒸汽軍艦が二日で長崎から江戸までいつてしまふ。魯戎の氣心はペルリとちがつて、何

ところが、そのとき長崎にきたプーチヤチンの「デイヤナ」も、江戸にきた「ペルリの黒船」

。殊に當時の制度では、海外知識の觸角であつた長崎通詞など、すぐれた人物は一樣にそんな氣持だつたと想像できる。大

そして雙方禮を交した。全權の右手には兩名の長崎奉行が座に着き、左には江戸から來た高官とおぼしきものが更に

三世紀にわたる鎖國の行詰りから救ひ、蒸汽軍艦を長崎で喰ひとめ、むげには「六十斤砲」を發射させなかつた

こんで宇内の知識をきはめんとて、若い吉田寅次郎が江戸から長崎へむかつてすたこらいそいでゐたのを思ひだすだらう。

沖にゐるロシヤ使節の船を訪れる御檢視といふのは長崎奉行の與力以下で、その從者といふからには至つて身分のかるい

てゐたのである。ロシヤ側からの贈物は、勿論長崎奉行の承認を經てから受取つたものであるが、それがどういふ名義

まだ固い蕾が思ひきり雨をあびたやうなものである。長崎に住んで、外國人と接するなどめづらしくはないが、ヨーロツパを相手

七隻で江戸灣に入つてきた。舞臺はたちまち長崎から江戸へと擴がつたのであるが、昌造にとつてこの「

さて、プーチヤチンの黒船が長崎を退帆すると、わづか九日めには、ペルリの黒船がこんどは

。すると同じ安政二年の七月にはイギリス軍艦が長崎へ入港、當時はクリミヤ戰爭の最中で、歸國途次のロシヤ使節一行中の

三隻が、機微な交渉のうちに再渡を約して長崎港から退帆したのが安政元年の正月五日。アメリカの使節ペルリ

留守中に、ロシヤ使節が上海にきて、待ちかねて長崎へ行つたといふ情報を、根據地の上海へ戻つてから知り、ロシヤ

前、ロシヤ使節に對して、筒井、川路の應接係を長崎に差遣するときも、硬派の中心齊昭の頑張りで「通商拒絶」を

アメリカ應接係たちも老中宛の書翰に書いた。やつと長崎を退帆させたばかりのロシヤへの振合も考へねばならず

通詞森山榮之助で、彼は「長崎談判」が終るや、長崎から江戸まで早駕籠をもつて參着、二月一日付で神奈川へ差遣され

文中の「榮之助」は大通詞森山榮之助で、彼は「長崎談判」が終るや、長崎から江戸まで早駕籠をもつて參着、二月一日

すること自體が、新らしい大事實であつた。從來も長崎港では漂民、漂船に缺乏品を與へたことは澤山例があるけれど

などは、つい數ヶ月前ロシヤ使節の軍艦が半年餘を長崎沖に碇泊しても、和蘭使節の軍艦「パレムバン」が五ヶ月を海上

ことであつて、たとへば第五條のうちにいふ「――長崎に於て、唐和蘭人同樣、閉籠め、窮屈の取扱無之、下田

候儀、猶豫無之樣――」と強調して長崎港以外に、箱館、琉球にも港を開けと主張し、二月二十五

月一日付の「村垣公務日記」として「一、長崎通詞森山榮之助、昨夕着、今日、神奈川へ被遣候」とあるから、

が長崎より神奈川の横濱村に參着したのは、「長崎談判」が終つて御用濟となつた正月五日から、神奈川條約文

昌造が長崎より神奈川の横濱村に參着したのは、「長崎談判」が終つ

傳習係通譯のことは、「幕府時代と長崎」(長崎市役所編)のうちに「――傳習係通譯岩瀬彌七郎、本木昌造

。また海軍傳習係通譯のことは、「幕府時代と長崎」(長崎市役所編)のうちに「――傳習係通譯岩瀬彌七郎

伊豆地に居り、同年夏以來、幕府の海軍傳習所が長崎に出來るや、傳習係通譯となつてゐる。安治川尻での魯艦

ペルリの來航當時、長崎通詞は堀達之助、立石得十郎らの先任出役中のほか、前記榮之助、

食事をするといふことが大變な光榮であり、また長崎通詞の過去の歴史にみても前代未聞のことだつたのである。

備へてゐることなどにも刺戟されたであらう。「長崎談判」以來の功勞で、在府中だけ帶刀御免をされた榮之助は

の通譯官といふのが同時に外交官であつて、「長崎通詞」とは比較にならぬ權限とはたらきを備へてゐることなどに

の一つには後者では條約が成立したこと、長崎とちがつて横濱ではそれが未經驗であつたことなどもあるだらう

の差であるが、たとへば榮之助だけにみても、「長崎談判」のときの彼の活動權限と「神奈川條約」のときのそれ

と學問的になつてくるやうに、のちの昌造の「長崎製鐵所頭取」となると、さらに範圍が廣くなる。つまり通詞といふ

右書状は下田え渡來之アメリカ船、又は長崎之ヲランダ船へ御托與被下度、又はヱゲレス船、フランス船へ

前に述べた通り、また昌造も祖父庄左衞門以來、長崎通詞中で英語の家柄であつたから、多少の程は知らず、出來

、注目なり、親しみなりを與へてゐるといふことは、長崎通詞一般とはちがつた何かが、たぶんはヨーロツパ文明のどの方面へか

江戸參着といふ「村垣日記」と照合すれば、榮之助たち長崎通詞は十日間くらゐの早駕籠で筒井、川路の行列を追ひぬいたか、

ねられ不申候」。川路の日記で考へると、その長崎出發直前に榮之助は挨拶にきてゐるのであるから、前記一月

の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つ

」と「魯戎」は相はからつて、魯戎が長崎でネバつてゐるうちに一方墨夷に先乘りさせる魂膽だ、といふ

してはきはだつてハイカラになつてゐる。「我長崎の港に至りし度、日本政府の貴官に告しは、二ヶ月を

」とはじまつてゐるが、この飜譯文などは從來の長崎通詞の譯文としてはきはだつてハイカラになつてゐる。「我

かつて「日露修好條約」は成立した。箱館、下田、長崎三港をロシヤ船及び同漂民のために開いたこと。日露の國境

も活動したのであるが、他の通詞たちも、長崎から出役してくるほどの者はそれぞれにすぐれてゐたにちがひなく、

「日露修好條約」の場合も、蔭にかくれた長崎通詞らの活動を考慮にいれなければならぬ。川路は「日米修好條約

なかにあつたので、ペルリの比ではない。「長崎談判」以前から始まつてゐたクリミヤ戰爭は、そのころは日本の海岸まで

と戰ひ、かれも海上にて一たひは戰ひけむ、長崎にてみたりし船は失ひて、今は只一艘の軍艦をたのみ

「――長崎以來の心盡しを不被顧、斯迄申談候儀をも、

の生死に拘るといひ、この上は筑後守(さきの長崎奉行で、次席應接係であつた)へ引渡して自分は取扱はぬ、

に劣つてゐたとも思はれないが、そのへんに長崎通詞一般とちがつた、どつか己れの科學的才能と共に思ひをひそめた

ふことは、常識的にみて不審の一つである。長崎談判以來、大きな外交事件には引續き拔擢されて參加してゐる

初代庄太夫以來世襲的な「通詞目付」として、長崎通詞最高の家柄であつた彼が「小通詞過人」から陞らな

だ。ペルリの「日本遠征記」などには、當時の長崎通詞が殆んど殘らず記録されてあるのに、昌造だけがない。しかも

輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことであつ

有之候――スクーネル船日本にて御用ひ被成候節は長崎まで三日程にて相※り申候、隨分御用辨に相成可申

アメリカ人が上陸徘徊するといふ次第で、長崎通詞はいまや長崎だけの通詞であることが出來なくなつてゐた。

やつてきて、アメリカ人が上陸徘徊するといふ次第で、長崎通詞はいまや長崎だけの通詞であることが出來なくなつてゐた。

常住の通詞をおくらねばならなかつたし、長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印のその日

にも常住の通詞をおくらねばならなかつたし、長崎は長崎で新たに英國にも開港した。下田は下田で條約調印の

小通詞助以下三人早々當表え差越候樣、長崎奉行え被仰渡候――」云々といふのは、二月二十五日

之趣も有之、いづれにても増人被仰付――尤も長崎表之儀も當節御人少之由、殊に重立候もの當表

、進んで通詞にならうとはしなかつたらう。おまけに長崎通詞は蘭語が主であるが、條約を結んだ相手は米、露等

扱はれてゐたから、前文中にも見えるとほり、長崎奉行の支配を受けねばならず、たとひ蘭語が喋れる學者や

まつたく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることが出來なくなつたばかりでなく、「オランダ語の

まつたく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることが出來なくなつたばかりでなく

第三囘めのロシヤ使節が長崎へ來た嘉永六年は昌造三十歳であつて、この年はじめて父と

、「洋學年表」元祿八年の項に「十一月長崎和蘭通詞目付の員を設け衆員を監督せしむ、本木庄太夫始て

として羽振りをきかせてゐた。そのことは「長崎談判」の折、ロシヤ使節側から幕府委員及び立會の通詞たちに贈物

昌造の友人諏訪神社宮司立花照夫氏、門人境賢次氏などを長崎に訪ねて、昌造についての感想を求め、次のやうに書いて

そして彼のこの特徴的な性格は、「長崎談判」のときプーチヤチンから彼と楢林榮七郎だけに贈られた「書籍一

ことは前記した通りだから、夏には確實に長崎へ戻つてゐたわけである。嘉永六年七月以來足かけ三年、

長崎に戻つたか否かもわからない。しかし同年七月長崎に出來た永井玄蕃頭、勝麟太郎らを主とする海軍傳習所の傳

大名などに招かれたりしてゐるから、眞ツすぐに長崎に戻つたか否かもわからない。しかし同年七月長崎に出來た永井

昌造が下田から長崎へ戻つてきたのは、安政二年の何月だか現在の私

「安政元年七月、長崎の通譯本木昌造、公用を帶びて下田に來るの途次、轉じて

ニ付、八ツ頃再ビ出動、直チニ退ク。長崎鹽田氏幸八ト云者、蒸汽船雛型持出シ、御馬場ニ於テ御覽

轉してみせた。「晴、四ツニ出ヅ、今日長崎譯官本木昌造、蒸汽船雛型持出シ御覽アリ。朔日ニ上ツリタルヨリハ大ニシテ

ここでいふ「鹽田氏幸八」は昌造が長崎から同道してきた大工幸八のことで、寺田の日記にみても

面々モ馬乘ニ申付、砂村屋舖ニ相越シ、長崎之通辭召連レ、蒸汽船一覽セラル」とか、同八日に

、築地於屋舖内、手職人エ申付爲造立度、尤長崎住居大工幸八ト申者、此節致出府居候ニ付、屋舖エ呼

名があつて昌造の名が出ないのは、昌造は長崎奉行配下で目下江戸出役中ゆゑ、幕府へは憚りあつたのであらう。

「この年氏は長崎へ歸りしが、時の長崎奉行水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申付け

「この年氏は長崎へ歸りしが、時の長崎奉行水野筑後守は幕府の命によりて

あつた筈である。しかも昌造は「長崎談判」以來、長崎通詞中功勞のあつた人間である。嘉永の初期とちがつて尠くとも表面的

ば相當の力もあつた筈である。しかも昌造は「長崎談判」以來、長崎通詞中功勞のあつた人間である。嘉永の初期とち

二年には蘭書の輸入が間にあはなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくつて「日本製洋書」をこしらへた程で

安政四年に次男小太郎が産れてゐること。その九は長崎奉行所の「入牢帳及犯科帳」にも記録がないこと等であつて

の相違があつたやうに見えるが、また一方では「長崎談判」の折森山榮之助が譯述して公用に役立つた英書を同じ應接係

かなり寛やかだつたやうでもある。福澤諭吉が二十一歳で長崎へ遊學したのは安政元年で、大阪の洪庵塾へ入つたの

おのづと明らかだから述べないが、とにかくその危險は長崎に生れ通詞の家に育つた彼の宿命の一つであり、しかも士分

目付庄左衞門は同じやうな事を甲比丹ヅーフから時の長崎奉行に密告されたことがあつたが、そのことで庄左衞門の

、某公卿とは何人であるかわからぬし、たぶんに長崎での云ひ傳へをそのまま記録したやうなふしもあるが、全體と

は鎖國論者の非常な的となられ――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、夫等の志士が頻りに出入した

さて、昌造の萬延元年以後、日本で最初の長崎飽ノ浦製鐵所の技術者時代は後半に述べるとして、安政二年

歴史上劃期的なことであつた。たぶんは幕府直參なり長崎奉行所配下の士分であつたらうと思はれる赤沼、保田、今井について私

川田久長氏の「蘭書飜刻の長崎活字版」(昭和十七年九月號學鐙所載)によれば、このときの

册現存して、安政元年にイギリス船へも開港した長崎の商取引のため、若しくは蘭語から英語にうつりつつあつた時代に魁けたもの

なるべき日本文字をおくつたといふ。「日本文典」は長崎に一册現存するさうで、私はまだ見たことがないから、いづれ後半

と「物理の本」については、「蘭書飜刻の長崎活字版」は詳細な記述をかかげて三谷説を反駁してゐる。三谷氏

もやつたと思はれるふしがある。前記「蘭書飜刻の長崎活字版」の文中掲げる寫眞、「セイタンキシス」及び同じく九月に發行された

の「蘭話通辯」をのぞけば、江戸の嘉平、長崎の昌造の苦鬪にも拘らず、今日何一つのこるほどのものが

は何と大きいであらうか。江戸の嘉平の洋活字、長崎の活字板摺立所の洋活字は、まがりなりにも比較的容易に印刷に堪へ

方法によるかしかなかつた。その意味で明治二年長崎で、日本の誰よりも魁けて昌造が、ガムプルから電胎法を學び

てびつくりした。それは安政の元年正月で、場所は長崎出島の蘭館においてである。

時代だと謂はれる。そして私は箕作阮甫の「陝西紀行長崎日記」のうちにはしなくも吉雄圭齋が電氣分解の實驗

流の祖となつた吉雄耕牛である。吉雄家は代々長崎通詞であり「日本醫學史」によれば耕牛は吉雄流外科の道を

デルベルグについて私は未だ知らないが、吉雄圭齋は長崎人、吉雄流外科醫で幸載の子、幸載の伯父が吉雄流の祖

「後に三寶寺に來り」といふその寺は、「長崎談判」のため筒井、川路に隨從してきた彼の宿舍であつ

」とは云はなかつたのである。昌造もまた同じ長崎に住んで、とにかく友人ではあつただらう圭齋のその實驗を

「流し込み活字」と苦鬪しつつあつた時代に、同じ長崎でも、大阪でも、江戸でもその科學的飛躍の母體が徐々

五十年である。「ワシントン・プレス」が上海を經て長崎奉行所の印刷工場に使用されたか知れぬといふ川田久長氏の説

洋學者の行衞や、當時東洋の文化都市上海と長崎の交通的事情やも、日本の活字誕生にとつては缺くべからざるもの

たとへば長崎に渡來した鉛活字を、海のむかふは別とすれば簡單

船はすすむであらう。私はつぎの卷において、長崎に渡來した「電胎法」による活字を、逆に日本から上海

下谷

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ある。H君は關西の人だが、最近上京して下谷方面の印刷工場で植字工をしながら、「本木昌造傳」を小説風

福岡

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註」が新らしいものだつた。それは氏が長崎や福岡へんまで行脚して、本木の遺族や平野の未亡人などから聽き得た

佐賀

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は錯雜して、時の長崎奉行松平圖書をはじめ佐賀藩の重役五名が責をひいて切腹したといふ事實である。

右手海岸はとほく弧をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番諸侯

この事件におけるヅーフの策謀、奉行松平圖書をはじめ佐賀藩士數名の引責自害その他、昌造の祖父庄左衞門らの活動

に、當時日本では數少い鐵製錬所をもつてゐる佐賀藩が自慢にしてゐた洋式新臺場をみて「鎖國の弊

京都

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べき海上里程が誌されてあつて、江戸へ四百七十里、京都へ二百四十八里、大阪へ二百三十五里、薩摩へ九十七里、對馬へ九十九里半など

千葉

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仙臺藩領田代島三石崎沖に假泊してゐるとき、藩吏千葉勘左衞門、名主善兵衞、大年寺住職龍門の三名は船を訪れて

水戸

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津濱に上陸、十六名は武裝してゐたが、水戸藩吏に捕へられた。のち取調によつて、食糧補給以外他意なきこと

漁夫を通じて交易せんとする商人が續出した。水戸藩廳ではおどろいて商人、漁夫ら三百餘人を捕へたが、異

似をもつて意志を通じながら、附近の沖合にゐた水戸の漁夫たちと、ヨーロツパ雜貨と、米や煙草などと交換した。漁夫

あつく、閣老阿部も「憂悶措く能はず」、つひに書を水戸齊昭におくつて意見を叩き「限るに六日登營の刻を

するは策を得たるものにあらず」と云ひ、「水戸老公の――趣意については――一同に於ても異存毫もなし

をめぐつて、幕閣でも、議論はいろいろわかれた。水戸齊昭は阿部へむかつて、「千騎が一騎に相成共」夷狄

水戸齊昭も「――ぶらかし候儀、しかと御見留有之、出來候

からばかりではなかつた。周知のやうに、このときも水戸齊昭の頑張りによつて「通商拒絶」といふ方針が決するまでは、

關係してゐた。從つて私はプーチヤチンもペルリも、水戸齊昭も川路左衞門尉も、その他いろんなものをおつかけてゆくの

振ひ不申、いたづらに切齒するのみ」と、水戸齊昭の手記にみえるが如き空氣であつた。伊賀守は三奉行

もちろん、家慶將軍歿後は、水戸家は幕閣中の最高決定者であるし、「登城延引」の強硬態度

されたと殘念ながら認めねばなるまい。たとひ水戸齊昭でなくとも、當の林大學でさへ「殘念至極に候得共

し、北氷洋から千島列島を南下することも出來た。水戸齊昭の主唱によつて幕府の「大船建造禁止法」はまづ打ち破られた

でも「招かれざる客」である。ロシヤ使節に對する水戸齊昭のある種の意見、阿部の返翰などの記録がそれを物語つ

名を藉りて幕府の許可を得てゐたもので、水戸齊昭の主唱によつて「大船建造禁止令」が打破されるや、

福島

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福島惠次郎氏(長崎共益館書店主)

那覇

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基地を作り、浦賀を退出するや、七月には琉球那覇港に上陸して、ここでも海軍基地を作つてゐた。「

ので、恐らくペルリ一行が箱館から下田へ歸つて、琉球那覇港へむかつた六月二十八日頃までではなからうか? 七月の

帆後、七月十一日琉球那覇着、同十九日に那覇出帆、アメリカ東印度艦隊根據地の上海から香港を經て、カープホーレルと譯

アメリカ使節一行は、日本退帆後、七月十一日琉球那覇着、同十九日に那覇出帆、アメリカ東印度艦隊根據地の上海から香港

鳥取

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各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲

福井

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周知のとほり。正月以來各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を

高知

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年豐信參覲交代の期に際し、歸國の後之を高知に※漕し、浦戸港内に泛べ、豐資その他連枝及び諸士に縱覽

深川

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品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲から佃島を、加賀藩は芝口を―

上野

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あるとき、私は上野の美術館に「日本文化史展」を觀に行つた。昭和十五年五月

印刷に關する書物では、大橋圖書館にくらべると、やはり上野の圖書館の方がはるかに豐富であつた。

私はときをり上野の帝國圖書館や、九段下の大橋圖書館に通つて、印刷

九段下

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私はときをり上野の帝國圖書館や、九段下の大橋圖書館に通つて、印刷に關する文獻を讀み漁つた

東京

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またこの圖書館の食堂は、私の知るかぎり東京の圖書館食堂で一等貧弱だと思へた。貧弱はかまはぬが、場末

協力者であつて、彼が昌造の活字を船につんで東京へ賣捌きに出たのは明治四年の夏のことであるから、

小西清七郎氏(東京菊坂町書店主)

になつてから、民間に始めて出來た活字製造會社「東京築地活版」の社長となつた人である。のち、昌造は後妻タネを

ないし四十年である。ドイツ人ケーニツヒの「シリンダー式印刷機」を東京朝日新聞社で使用したのが明治十年だ。西暦にすると一八七七年だ

も行衞不明のままである。昌造の活字を大阪から東京にひろめ、印刷機械を日本で最初に製作した平野富二についても

銀座

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竹口芳五郎といふ人は、平野富二に見出されるまで、銀座街頭で名札を書いてゐたといふ話や、その他最初のルラーの

年間に讓りうけたハンドプレスや、明治初年に平野富二が銀座の古道具屋から發見した某大名からの流れものといふ形状不明のハンドプレス

五反田

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ひどく暑い日だつた。私たちは澁谷で一緒になつて、五反田驛で降り、それから市電で赤羽橋まで行つた。停留場の近所で、見舞

て私達は、新聞包みを抱へて病院を出たが、五反田驛まできてもすぐには電車に乘れない氣がして、驛前

品川

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「他人といふのは、品川梅次郎のことですか?」

から五年めで、「長崎通詞本木昌造及び北村此助、品川藤兵衞、楢林定一郎四人相議し、鉛製活字版を和蘭より購入」と、洋

嘗て「植字判一式」購入當時の同志、北村此助も、品川藤兵衞も、楢林定一郎も、いつかこの活字の歴史からは消えていつた

とほり。正月以來各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路

敷衍して「――然るに氏の實兄であつた品川梅次郎なるものは、遊蕩の性なりしため、昌造氏の購求し居る洋書類

日本橋

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ある日、私は日本橋のSビルの一室にある「印刷雜誌」社を訪ねた。そこには

神田

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「江戸神田の木村嘉平といふ人が安政年間に島津齊彬に頼まれてそれをやつ

、本木昌造より一年早く、文政六年の生れ、江戸神田小柳町に住んだ。代々彫刻師で、十八歳にして業を繼ぎ、

。「右活字は安政年間、薩摩守齊彬公樣より江戸神田小柳町において代々彫刻を業とせる木村嘉平に命じ、嘉永元年より元治

八王子

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K・H氏もまだ見てないらしいが、同氏が「八王子の活字」と名づけてゐるところの所以たる、ある文獻を貸してくれ

型のオランダ單語篇と、同じくK・H氏が「八王子の活字」と稱ぶところの、やはり蘭書「濟生三方附醫戒」である

練造氏の文によれば秋山氏は代々八王子に住んで、「濟生三方附醫戒」を出版した先代方齋は「

あつたと謂はれ、その他私には作者未詳の「八王子の活字」や、江戸で作られた「オランダ單語篇」がまたさう

巣鴨

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ある日の午後、私は巣鴨の奧にI・K氏を訪ねた。二階の室に一時間ばかり

大塚

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K氏の家を出た。既に日暮れで癌研究所前から大塚驛の方へ歩きながら、嘉平の活字の行衞は益々紛亂してわから

ねばならぬ要素の一つだと、私はいつか大塚驛前を通りすぎ、白木屋の前に出てしまつてから氣がつい

駒込

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であるが、七日夕刻には伊勢守が齊昭を駒込の邸に訪れてゐる。記録によると、このとき「齊昭も胸襟

浦賀

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嘉永六年(一八五二年)アメリカの黒船四隻が浦賀へきて、日本をおどろかしたと謂はれるが、そのおどろきの劃期的な意義

船長の方でもおどろいて早々に引揚げた。しかしこのとき浦賀に碇泊したわづか一晝夜のうちに「雜貨類の交易に熱心」

一八五三年七月八日)、アメリカ軍艦四隻について浦賀奉行戸田伊豆守が、閣老阿部伊勢守へ報告した一節であるが、この

れ、心中是非本願の趣意貫きたき心底と察したり。旁々浦賀の御武備も御手薄につき、彼の武威に壓せられて國書

て江戸灣にはいつたといふことでもなくて、浦賀奉行の報告にいふ「殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意

出る幕ではあるまい。間違ひのないところだけいふと、浦賀奉行の報告によつて、直ちに老中、三奉行、大小目付に至るまで召集

護られながら、急設された應接所にはいつて、浦賀奉行戸田伊豆守と會見、大統領親翰を手交した。十日には、軍艦

は彼の蒸汽軍艦から發射する禮砲におくられて、浦賀港に上陸した。そして四百名の武裝陸戰隊に護られながら、

中旬に小笠原父島二見港にあがつて海軍基地を作り、浦賀を退出するや、七月には琉球那覇港に上陸して、ここで

氏の「幕末外國關係史」に據ると、たとへばペルリは浦賀沖に出現する以前、五月中旬に小笠原父島二見港にあがつて海軍

「併呑」政府とは英國の渾名である。しかもペルリが浦賀沖に出現したころには、ロシヤの第三囘遣日使節が旗艦

みえてゐて、詳述する必要はあるまい。前年七月浦賀にきて、アメリカ漂民の取扱及び日米國交と通商に關する大統領親翰を

蒸汽軍艦と四隻の帆前軍艦とは、前年碇泊地の浦賀を通りぬけ、無數の警衞船の制止もきかず、横濱近くの小柴沖

しかし二月七日に浦賀奉行組頭黒川嘉兵衞は、アメリカ軍艦に參謀アーダムスを訪れて、應接所

、公式な記録には、ごく些細な事務的折衝でゆく、浦賀奉行配下拾石五人扶持くらゐの同心にでも「――榮之助を召伴れ

かつた。「――長門下關え着――一昨日より浦賀え異國船渡來の説、いろいろと申――さる島へかかりたるは