本所松坂町 / 尾崎士郎

本所松坂町のword cloud

地名一覧

本所

地名をクリックすると地図が表示されます

て、彼は折角、新築したばかりの呉服橋の邸宅から本所(本庄)松坂町の新邸へ移ることになった。

清水寺

地名をクリックすると地図が表示されます

遠州が建築指揮にあたったといわれる華蔵寺は京都の清水寺を模してつくったといわれ、本堂から長い渡り縁をつたわって一段下った

江戸城

地名をクリックすると地図が表示されます

の名君、禄は僅かに四千二百石ではあっても、江戸城内における彼の権勢と、領地における実収入は優に四五万石の大名

てみれば、義定との関係がどうあろうにもせよ、江戸城内における彼の地位は牢として抜くべからざるものがある。

をうしろ楯として、将軍綱吉の知遇に任ずる上野介義央が江戸城内においてどのような権勢を保っていたかということは想像に絶するもの

の供養を行った。彼にしてみれば、今や江戸城内における彼の地位は位人身をきわめたというべきものである。

元禄十四年、三月――江戸城では恒例の勅使を迎えることになり、このとき六十一歳になった上野介は

つながりこそないが、家康との縁故による彼の地位は江戸城内に厳としてそびえている。六十をすぎて現世に望みを絶とうと

れているが、上野介の精神分析を試みて、彼が江戸城においては暴虐にして冷酷無慚な所行を繰返しながら、領地へかえって

本庄

地名をクリックすると地図が表示されます

彼は折角、新築したばかりの呉服橋の邸宅から本所(本庄)松坂町の新邸へ移ることになった。

岡崎城

地名をクリックすると地図が表示されます

今日はわが身の上である。家臣たちに迎えられて広忠が岡崎城に帰る日が来た頃には、吉良一族は、城主持広の歿後戦乱

江戸

地名をクリックすると地図が表示されます

た。赤馬は上野介の愛撫した彼の乗馬である。江戸から、毎年のように領地へ帰ってくるごとに、彼は一人の従者も

ていた。こんどの上野介の帰国の目的は、ひと足おくれ江戸を発足することになっていた養子左兵衛義周(春千代)を華蔵寺へ

て、祖先の回向が滞りなく終ると、上野介の一行は江戸へひきあげていった。

一年が経ち、二年がすぎる。江戸からの消息は打ってひびくようにすぐ村へ伝わってくるが、吉良荘の

一学の人気は江戸の屋敷の中でも大へんなもので、彼はその頃、二刀流の剣士と

これは上野介に一杯喰わされたぞというので慌てて江戸市中の畳屋を狩りあつめ、宿房普光院の畳二百畳を一夜のうちにとり替えさせ

「近頃、浅野の痩浪人どもが江戸の街をうろついているそうだ、それについて新らしい噂は聞かぬか?

江戸からの噂は連日のように横須賀村へ流れてくる。村から選抜され

嘲罵の声はもう村境までひたひたと迫っている。おくれて江戸から帰ってくる連中も、三州吉良の住民だというと、もう誰からも

横須賀村

地名をクリックすると地図が表示されます

私の郷里は正確にいうと愛知県幡豆郡横須賀村であるが通称「吉良郷」と呼ばれ、後年この土地に任侠の気風が

まで行ってごらんになるといい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野の悪口を一言半句でも囁いたら、どんな結果を生ずるか

今もなお、横須賀村の外郭に黄金堤という名前で呼ばれている堤防の一部が残っている

それも徳川家康の父広忠の代までは、横須賀村の東端、駮馬東条の街道にちかき丘の上に小なりとはいえ一城

桔梗屋というのは、山麓の横須賀村に隣接する富田郷のつくり酒屋の主人である。五十はとっくにすぎている

とって何よりも好都合なことは領主吉良上野介が次の日に横須賀村へ到着するという消息の入ったことである。利右衛門は久しい以前から気さくな

たたきこまれた吉良上野に何故同情しないのであろうか。横須賀村の言い分は大石一党の斬込にいたる必然の動きを否定しているので

殿中刃傷の噂が風のように横須賀村につたわってくると、村民の代表者たちは、主君上野の安否を気づかって鎮守

江戸からの噂は連日のように横須賀村へ流れてくる。村から選抜されて吉良邸に仕えていた百姓の

てくる。忠臣蔵が方々であたらしい感動をよびおこすにつれて横須賀村の住民たちは肩身の狭い思いをしなければならなかった。しかし、いつまで

二百五十年間、横須賀村は門戸をとざし、節をまもりとおした。誰れひとり藤作に会った男なぞは

岡崎

地名をクリックすると地図が表示されます

は夢にも忘れたことはござらぬ――成人したら岡崎へ来られるがよい」

ある晩、岡崎の町までいって、こっそり忠臣蔵の芝居を見て帰ってきた男が

九州

地名をクリックすると地図が表示されます

の雄藩、謙信入道の直系である東北の雄藩上杉と、九州の名門島津をうしろ楯として、将軍綱吉の知遇に任ずる上野介義央が江戸城

瀬戸村

地名をクリックすると地図が表示されます

が、永禄十二年、吉良荘に帰ることをゆるされ、瀬戸村にささやかな草庵を結んで侘しい生活をつづけていた。

たものらしい。天正七年正月、鷹狩に名を託して瀬戸村へやってきた。家忠日記によると、彼は俊継尼を伯母とし

いかに気の長い家康といえども、義定を一喝して瀬戸村へでも追い返してしまったであろうが、しかし堂々たる決戦に勝利を占め、

岡山

地名をクリックすると地図が表示されます

史実なりと誤認するより起る。宮迫村出生の清水一学、岡山出生の鳥居理右衛門、乙川出生の斎藤清左衛門等を、松の間刃傷後、

田園に一変するが、しかし、これに隣接する他領、特に岡山以北の土地は矢作川大平川の下流が逆流することになるので隣接

にして天命を知った彼は、父祖の霊をまつる岡山の華蔵寺に梵鐘の供養を行った。彼にしてみれば、今

京都

地名をクリックすると地図が表示されます

小堀遠州が建築指揮にあたったといわれる華蔵寺は京都の清水寺を模してつくったといわれ、本堂から長い渡り縁をつたわっ

上野

地名をクリックすると地図が表示されます

しからざる人物」の折紙をつけられる筈もなく、名君吉良上野の令名は日本全国を風靡していたであろう。

もし、私の郷里の殿様である吉良上野が元禄十三年の秋、中風か何かで死んでいたとしたら

たったのも、彼等が尊敬措く能わざる領主、吉良上野に対する愛情の思い止みがたきものに端を発しているといえないことも

といい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野の悪口を一言半句でも囁いたら、どんな結果を生ずるか、私(作者

に発しているのである。私の少年時代には吉良上野顕彰の意味をふくめて郷土人形の赤馬をつくる「赤馬会」というもの

封建制下における領主と領民との関係だけで、吉良上野の仁徳を讃えているのだとしたら、吉良家の存続するあいだは

あの一日の偶然によって悲運のどん底にたたきこまれた吉良上野に何故同情しないのであろうか。横須賀村の言い分は大石一党の斬

浅い男ではない。今日、賄賂といえば、直ちに吉良上野を聯想するのが、「忠臣蔵」によって煽られた民間常識と

、大体次のような順序によって浅野内匠頭は吉良上野のつくったワナにひっかかっている。

(第四)三月十一日、勅使の芝上野参詣の接伴にあたった内匠頭は、その前日休息所の畳表をあたらしくす

「何の御用でござるか、上野が承わりましょう。内匠頭に仰せられてもあのとおりじゃ、お役目のつとまる

横須賀村につたわってくると、村民の代表者たちは、主君上野の安否を気づかって鎮守の神社にあつまり祈願を凝らした。華蔵寺には

気持がわかってたまるもんかい、よし、ひと口でも吉良上野の悪口をたたいてみやがれ、そのままにしておくものか」