縮図 / 徳田秋声
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耳に入り、そのうち放浪時代から付き絡っていた、茨城生まれの情婦が現われたりして、彼女が十年働いて溜めた貯金も、
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も、三度に一度はしていた。長岡とか修善寺などはもちろん、彼の顔の利く管内の遊覧地へ行けば、常子がいう
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た今、銀子は時々このお神のことが想い出され、大阪へ落ちて行ったとばかりで、消息も知れない彼女のそのころの、放漫
そのころ大阪ですばらしい人気を呼んだ大衆劇の沢正が、東京の劇壇へ乗り出し、断然
な演技となって醗酵するのであったが、銀子も大阪から帰りたての、明治座の沢正を見ており、腐っていたその劇場
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て女橋を渡り、人目をさけて離れたり絡んだり、水天宮の裏通りまで来て、袂を分かったのだったが、例の癲癇もちの
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時には玉捜しの桂庵廻りであったり、時には富士見町に大きな邸宅を構えている、金主の大場への御機嫌伺いかとも思わ
も株屋で、金融会社をも経営していたが、富士見町は本宅で、鉄の門扉に鉄柵がめぐらしてあり、どんな身分かと思うよう
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その間に「日吉丸」とか「朝顔」とか「堀川」、「壺坂」など、お座敷の間に合うようにサワリを幾段か教わった。
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車にタイヤのパンクがあり、いっそ三台とも乗りすてて、川崎から省線で帰ることにしたのだったが、松の内のことで、彼女たち
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藤川の女将は、年のころ五十ばかりで、名古屋の料亭の娘といわれ、お茶の嗜みもあるだけに、挙動は嫻
の奥二階では、よく花の遊びが初まった。名古屋もののお神も、飯よりもそれが好きだったが、類をもって
、按摩のお神などがあり、藤川のお神は、名古屋で子供まで出来た堅気の嫁入り先を失敗ったのも、多分その道楽が嵩じ
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か水沢の観音とか、または駕籠で榛名湖まで乗し、榛名山へも登ったりした。部屋は離れの一棟を借り、どんなブルジョウアかと思う
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するのであったが、銀子も大阪から帰りたての、明治座の沢正を見ており、腐っていたその劇場で見た志賀の家
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永瀬はこの土地で呼ぶばかりでなく、時には神楽坂へもつれて行き、毘沙門横丁の行きつけの家で、山手の異った雰囲気のなか
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た。ある待合の子息は、出征直前に愛人の芸者が関西へ住替えしたのを、飛行機で追いかけ、綺麗に借金を払って足を洗わ
ばかりとも言えず、ずっと後に近代的な享楽の世界が関西の資本によって、大規模の展開を見せ、銀座がネオンとジャズで湧き返るよう
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「それから別に……。三保の松原とか、久能山だとか……あれ何ていうの樗牛という人のお墓のある処
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そのころ銀子は、箱崎町の本宅へ還る若林を送って、土州橋の交番の辺まで歩き、大抵そこ
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も敷けて各区からの距離も短縮され、草蓬々たる丸の内の原っぱが、たちどころに煉瓦造りのビル街と変わり、日露戦争後の急速な
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小菊は親たちが微禄して、本所のさる裏町の長屋に逼塞していた時分、ようよう十二か三で、安房
翌日親爺の磯貝は、銀子をつれて本所へ出かけて行った。彼は肴屋に蠑螺を一籠誂え、銀子を促した
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くれたのであった。やっと二十五になったばかりの、桑名の出であるこの株屋が、亡くなった父の商売を受け継いでから、まだ間
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ケ島を通り、帰りにはフィリッピンから台湾方面を廻って九州へ帰航するのであり、滝川はすでに幾度もその船に乗り込み、南洋諸島の
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を利かすことも、三度に一度はしていた。長岡とか修善寺などはもちろん、彼の顔の利く管内の遊覧地へ行けば、
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東京への憧れと伸びあがりたい気持に駆られた。彼女は赤坂へと住みかえた。
一夜遊び仲間と赤坂で、松島は三十人ばかり芸者をかけてみた。若い美妓もあり、座持ち
て、小菊には頼もしく思われ、来るのが待ち遠しかった。赤坂で披露目をした時も一ト肩かつぎ、着物の面倒も見てくれた
で、体の小造りな色白下腫れのそのお神も、赤坂で芸者になった人であり、姪を二人まで養女に迎えて商売に就か
「住替えは赤坂に限る。赤坂へ住み替えれば運は必ず嚮いて来るのう。ほかはいかん
「住替えは赤坂に限る。赤坂へ住み替えれば運は必ず嚮いて来るのう。ほかはいかん。」
まるで見当はずれなので、銀子は可笑しくもあり、赤坂の芸者屋と聯絡でも取っているのかとも思い、見料をおいて
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お詣りして、山手の田圃なかの料理屋で、二人で銚子を取り食事をした。
銀子が銚子をもつと、
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三四人と、廻船問屋筋の旦那衆につれられて、塩釜へ参詣したことがあった。塩釜は安産と戦捷の神といわれ、
につれられて、塩釜へ参詣したことがあった。塩釜は安産と戦捷の神といわれ、お守りを受けに往くところだが、銀子
まで見えるような、碧い水を覗いたのだったが、塩釜までのしたのは初めてであった。それも銀子が一座する芸者のなか
通っていることを話して聞かせた。式は銀子が塩釜で遊んでいるころ、仙台の神宮で行なわれ、宮古川で披露の盛宴が
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問屋の慰安会にサ―ビスがかりを頼まれ、一日鶴見の花月園へ行ったことがあった。その時分には病院へ担ぎこまれた染
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ああなると駄目ね。何だかいい儲け口があるから、北海道へ行くとか言ってたけれど、その旅費がほしかったのかも知れないわ
それからまた大分月日がたってから、銀子はまた北海道から電報が来て、金の無心をして来たというのであった
「北海道のどこさ。」
など調度も調っていた。磯貝は見番の役員で、北海道では株屋であったが、ここでは同業者へ金の融通もするらしかった
もなく、借金が殖える一方なので、河岸をかえて北海道へと飛び、函館から小樽、室蘭とせいぜい一年か二年かで御輿を
、仇っぽいところでよく売れる癲癇もちの稲次、お神が北海道時代に貰って芸者屋に預けておいた養女の梅福、相撲の娘で
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、本宅を使うだけで、不断は二人で松島とか、金華山とかへ遊びに出かけるか、土地の料亭で呑むか、家で呑むかし
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均平もそれらの稽古本を開いて見ることもあり、古い江戸の匂いをかぐような気がして、民衆の間から産まれた芸術だと
である彼への敵意と愛着を抱いて、相携えて江戸に走り、結局狂った男の殺人剣に斃れるという陰鬱な廃頽気分に変態
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、踊りや長唄を、そのころ愛人の鹿島と一緒に、本郷の講釈場の路次に逼塞し、辛うじて芸で口を凌いでいた、かつて
そのころになると、とっくに本郷の店も人に譲り、マダムの常子も春日町の借家を一軒立ち退かせ
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出しものは大菩薩峠に温泉場景などであったが、許嫁の難を救うために、試合の相手
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、純綿物があるかと覗いてみたが、一昨年草津や熱海へ団体旅行をした時のようには、品が見つかりそうにも
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に転向した多勢の佐倉藩士の一人で、夫人も横浜の女学校出のクリスチャンであり、一つ女の職人を仕立てるのも面白かろうと
た時から、受けた印象はよくなかった。お神は横浜産で、十四五までの仕込み時代をそこに過ごし、I―町へ来
「どうです、今度パラオへ行ってみませんか。横浜から二週間で行けますよ。」
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銀子が稽古に通っている、千葉神社の裏手に大弓場などもって、十くらいの女の貰い子と二人で暮らして
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ずっと続いていた客であった。議会の開催中彼は駿河台に宿を取っていたが、この土地の宿坊にも着替えや書類や尺八
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な悪さ遊びに耽りがちであった。そこは今の江東橋、そのころの柳原で、日露戦争後の好景気で、田舎から出て来て
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「高野山へ行ってたの。」
「そうですよ。高野山で崖から落っこちて怪我したですよ。ほらね、足も膝皿を挫いて
「高野山に肺病なら必ず癒るという薬草があるのです。これは誰にも秘密だ
時子の病気も、銀子が写真屋にもらって送った高野山の霊草で、少し快くなったような気もしたが、医者に言わせる
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思い切って足を洗い、母や弟妹たちと一緒に、やがて湯島に一軒家をもったが、結局それも長くは続かず、松島の商売も赤字
の島田に結い、小浜の黒の出の着つけで、湯島の家で見た時の、世帯に燻った彼女とはまるで別の女に
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彼女は松島の姑に当たるお婆さんにきいてみた。
座敷を二階へ秘密で断わることもあった。すると松島は近所で聞こえる燧火の音に神経が苛立ち、とんとんと段梯子をおりて来て
一週に一度松島は品子をつれて銀ぶらに出かけるのが恒例で、晩飯はあの辺で食うこと
品子は小さい時分から、松島の第二の妻の姉に愛され、踊りや長唄を、そのころ愛人の
松島は儲けの荒いところから、とかく道楽ものの多いといわれる洋服屋で、本郷
一夜遊び仲間と赤坂で、松島は三十人ばかり芸者をかけてみた。若い美妓もあり、座持ちのうまい年増
行きつけの家で松島はしばらく小菊を呼んでいた。電話でもかけておかないと、時に
松島が座敷へ還って来ると、一人の妓が何の気もなしに、
間一日おいて、松島は小菊に逢い、連れが多勢で、決してお楽しみなどの筋ではなく、
いたと、小菊もお茶を濁そうとしたが、松島はそれでは納まらず、何かとこだわりをつけたがるのであった。
間もなく松島は、房州時代からの馴染の客が一人あることを知った。それは松島
からの馴染の客が一人あることを知った。それは松島と目と鼻の間の駒込に、古くから大きな店を構えている石屋で
しかし客はそればかりではなく、松島も気が揉めるので、ここへ出てから二年目、前借もあらかた消え
に一軒家をもったが、結局それも長くは続かず、松島の商売も赤字つづきで、仕送りも途絶えがちになったので、今度は方
出た。小菊にすると、多勢の家族を控えて、松島一人に寄りかかっているのも心苦しかったが、世帯の苦労までして二号で
も多かった。それにあまり足しげく行かないはずであった松島も、ここは一層気の揉めることが多く、小菊は滅茶々々に頭髪をこわさ
ていて、彼女の浅草での商売は辛かったが、松島も気が気でなかった。しかし堅気にしておけばおいたで、目
大儲けをするから、利子は少し高くてもいいとか、松島の口車に載せられ、男への愛着の絆に引かされ、預金を引き出し引き出し
彼女は松島と同じ家中の士族の家に産まれ、松島の従兄に嫁いだとき、容色も
彼女は松島と同じ家中の士族の家に産まれ、松島の従兄に嫁いだとき、容色もよくなかったところから、相当の分け前を父
育ちのいい彼女は、松島には姉のような寛容さを示し、いつとはなし甘く見られるように
今度も彼女は陶酔したように、うかうかと乗って、松島の最後の要求だと思えば、出してやらないわけに行かなかった。
時代に彼女は店の用事にかこつけ、二日ばかり帰らぬ松島を迎えに行き、小菊に逢ったこともあったが、逢ってみると挨拶
菓子を撮んでお茶を呑みながら、松島は商人らしく算盤を弾いて金の出を計算していたが、ここは
三日ばかり松島は家をあけ、四日日の午後ふらりと帰って来たが、電気の
上がるとすぐ松島は呶鳴る。小菊は誰某と一座で、客は呑み助で夜明かしで呑もうという
松島は出て行く時の、帯の模様の寸法にまで気をつけるのだった
せっかく取りついてみたが松島もつくづくいやになることもあった。抱えの粒が少しそろったところで小菊
松島は小菊の帰りが遅くなると、後口があるようなふうにして電話を
松島は夏になると、家では多勢の抱えの取締りをお篠お婆さん
ばかりの用意周到さで同勢上野へ繰り出すのであった。松島はすらりとした痩せ形で、上等の上布絣に錦紗の兵児帯をしめ、本
小菊は九月の半ば過ぎに、松島から、もう引き揚げるのに足を出すといけないから、金を少し送れという
「とにかく松島を愛していたんだろう。よく一人で火鉢の灰なんか火箸で弄りながら、
竹をも呼び寄せ、本宅を使うだけで、不断は二人で松島とか、金華山とかへ遊びに出かけるか、土地の料亭で呑むか、
ままに、土地の芸者から受け容れるという目当てもあった。松島は主人夫婦にもつれられ、客とも遠出をして、船のなかへ行火
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が七分で、残り三分が源冶店界隈の浪花町、花屋敷に新屋敷などで、大観音の裏通りの元大阪町では、百尺のほか
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か二年かで御輿をあげ、そちこち転々した果てに樺太まで乗し、大泊から汽車で一二時間の豊原で、有名な花屋に落ち着いたの
の娘で小粒できりりとしたお酌の小福、中ごろ樺太から逃げだして来た、これもお神が豊原で貰って花屋に預けておい
て、うんと負けて信州へ住替えさせ、その代りに仕入れた樺太産まれの染福は、自称女子大出の、少し思想かぶれがしていた
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物聴山とか水沢の観音とか、または駕籠で榛名湖まで乗し、榛名山へも登ったりした。部屋は離れの一棟を借り、
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汽車が新緑の憂鬱な武蔵野を離れて、ようやく明るい山岳地帯へ差しかかって来るにつれて、頭脳が爽やかに
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いた。伝馬は米、砂糖、肥料、小倉石油などを積んで、両国からと江戸川からと入って来るのだった。舟にモータアもなく陸にトラック
をしてくれたうえ、自身付き添ってくれたが、そろそろ両国まで来たと思うと患者は苦しみ、橋の袂で休んでまた一本注射したりして、
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あるので、ぶらぶら歩くのは好きでなかった。いつか奈良へ旅した時、歩きくたぶれて、道傍の青草原に、べったり坐って
の寝床が敷かれ、下の玄関わきの小間では、奈良産まれの眇目の婆やと、夏子という養女が背中合せに、一
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足を止めて耳を澄ましていたが、六感で静岡の岩谷だということが感づけた。
のある処……龍華寺? 方々見せてもらって、静岡に滞在していたの。そして土地の妓も呼んで、浮月に流連
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が尋常を出る時分には、すでに寂れていた。ちょうど千葉街道に通じたところで水の流れがあり、上潮の時は青い水が
銀子は千葉や習志野へ行軍に行く兵隊をしばしば見たが、彼らは高らかに「
はあらためて河岸をかえ、体が楽だという触れ込みのある千葉の蓮池から出ることにしたのであった。
の恋愛事件が、世間にセンセイションを捲き起こしていたが、千葉と本千葉との間で轢死を図り、それがこの病院に収容されて
と父は折れ、母も少しは有難がるのだった。千葉から少し山手へ入ったところに逆上に利く不動滝があり、そこへ詰め
銀子が稽古に通っている、千葉神社の裏手に大弓場などもって、十くらいの女の貰い子と二人で
その日のうちに荷造りをしてトラックで運び出してしまい、千葉を引き払った銀子たちがそこへ落ち着いたのは、夜の八時ごろで
借金を切り、早く引き揚げましょうと思っていたので、千葉時代から見ると、気も引き締まっており、お座敷も殊勝に敏捷にして
を搾り、婆やの気に入るように掃除するのは、千葉で楽をしていた銀子にとってかなり辛い日課であった。しかし
でこれと思うようなものも、めったにないので、千葉で挫折った結婚生活への憧憬が、倉持の純情を対象として
銀子は二月ほど前に、千葉で結婚をし損なった栗栖が、この土地の病院の産婦人科の主任となっ
窶れていた千葉時代から見ると、銀子も肉がつき大人になっていた。
そこまで、はっきり考えていたわけではなかったが、千葉で栗栖との結婚談のあった時、妹の一人に養子を取りさえ
箪笥屋があり、鏡台も並んでいるので、銀子は千葉以来の箪笥が貧弱なので、一つほしいと思っていたところな
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を凌ぐのだったが、そこまで来るともう安心で、前橋へ入って来たところで、彼は各自の希望を訊き、ここに留まる
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栗栖は福井の産まれで、父も郡部で開業しており、山や田地もあって
ここは出先の区域も広く、披露目も福井楼界隈の米沢町から浜町、中洲が七分で、残り三分が源冶店
もためになるお客だから、せいぜいお勤めなさいなぞと、福井楼が出していたある出先の女将に言い含められ、春よしのお神
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「仙台はどうかね。家の娘があすこで芸者屋を出しているから、
そこはI―町といって、仙台からまた大分先になっていた。
仙台へついたのは、朝の六時ごろで、銀子も雪景色が珍しいの
仙台で弁護士は下車し、猪野は座席へ帰って来たが、I―町
の空く時はほとんどなかった。東京から来るのもあり、仙台あたりから来るのもあり、尖端的な歌劇の一座ともなれば、前触れに
、また飲み直すのだったが、そういう時倉持はきまって仙台にいる、学校友達をだしに使い、母の前を繕うのであった
な恋愛が発生し、苦しんでいるのだった。彼女は仙台から来た手紙を一々銀子に見せるのだったが、工科の学生と逢っ
の恋愛問題について話し合っていた。小谷さんは今仙台の兵営にいる、同じ村の中学出の青年との間に、時々ラブレタア
な住宅地に三年ほど前に新築した本宅があり、仙台の遊廓で内所の裕かなある妓楼の娘と正式に結婚してから、
てみると、生家も倉持とほぼ同格程度の門地で、仙台の女学校出だと聞いていた通り、ひどく人触りの柔らかな、
聞かせた。式は銀子が塩釜で遊んでいるころ、仙台の神宮で行なわれ、宮古川で披露の盛宴が張られたものだった
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福島あたりへ来ると、寒さがみりみり総身に迫り、窓硝子に白く水蒸気が
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の中旬に倉持が神経痛が持病の母について、遠い青森の温泉へ行っている間に、銀子もちょっと小手術を受けるために、
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なので、河岸をかえて北海道へと飛び、函館から小樽、室蘭とせいぜい一年か二年かで御輿をあげ、そちこち転々した
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銀子は深川で世帯をもった時分、裁縫の稽古に通っている家で、一度この
清元の稽古をして約しく暮らしているのだったが、深川女らしく色が黒く小締まりだったが、あの辺の芸者らしい暢気さも
傍へおくかおかぬに、いきなり切り出してみた。かつて深川で左褄を取っていた師匠は、万事ゆったりしたこの町の生活気分
伺いを立てるやらした。一人が柴又へ走ると一人は深川の不動へ詣り、広小路の摩利支天や、浅草の観音へも祈願をかけ
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晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。
人力車が、一台の自動車と並んで、今人足のめまぐるしい銀座の大通りを突っ切ろうとして、しばしこの通りの出端に立往生しているの
もようやくこの都会の面貌を一新しようとしていた。銀座にはうまい珈琲や菓子を食べさす家が出来、勧工場の階上に尖端的なキャヴァレイ
に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤の可笑しさ身すぼらしさをさえ感じさせたことも
を見張り、笑顔で椅子を譲ったが、今夜に限らず銀座辺を歩いている若い娘を見ると、加世子のことが思い出されて、
行かず、のらくらの良人を励まし世帯を維持するために、銀座のカフエへ通ったこともあったが、女給たちの体が自由なだけ
そのつもりで、自動車のブロカアの連中と、暑さしのぎに銀座会館の裏から築地河岸へと舟遊びに出ており、帰りの土産に大黒屋
世界が関西の資本によって、大規模の展開を見せ、銀座がネオンとジャズで湧き返るような熱鬧と躁狂の巷と化した時分には
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上等の方の定食を註文した。均平が大衆的な浅草あたりの食堂へ入ることを覚えたのは、銀子と附き合いたての、
彼は仲の町の引手茶屋の二男坊であり、ちょうど浅草に出ていた銀子と一緒になった時分には、東京はまだ震災後
いう紐ともいえぬ紐がついていて、彼女の浅草での商売は辛かったが、松島も気が気でなかった。しかし堅気
浅草ではちょうど芸者屋の出物も見つからず、小菊の主人と一直で朋輩で
父が何にも知らず、行き当りばったりに飛び込んで行った浅草の桂庵につれられて、二度目の目見えで、やっと契約を結んだ家
越後へ引きあげることになったところで、銀子はある日また浅草の桂庵を訪れた。
してから、住替えの場合の習慣どおり、銀子の父と浅草の桂庵とが、出しぬけに乗り込み、銀子の手紙で迎えに来たのだ
松竹座の福円などを見たものだったが、そのころ浅草を風靡しているものに安来節もあった。
趣味の匂いを嗅ぐのであった。よく若林と自動車で浅草へ乗り出し、電気館の洋物、土屋という弁士で人気を呼んでいるオペラ
と一人は深川の不動へ詣り、広小路の摩利支天や、浅草の観音へも祈願をかけ、占いも手当り次第五六軒当たってみたが
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持物にも大した趣味がなかった。均平も退屈凌ぎに一緒に日比谷や邦楽座、また大勝館あたりで封切りを見るのが、月々の行事に
そのころ日比谷や池ノ畔、隅田川にも納涼大会があり、映画や演芸の屋台など
「日比谷に桜田赤龍子という、人相の名人があるんですがね、実に
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ており、足場のわるいだらだらした坂を登ると、ちょうど東京の場末の下宿屋のような、木造の一棟があり、周囲に若い檜
もう夜で、食事がすんでから間もなく隆たちは東京へ立っていった。
「さあ、それでもいいんだが、誰か東京から来やしないか。それに己もここは一日のつもりで来た
に出ていた銀子と一緒になった時分には、東京はまだ震災後の復興時代で、彼も材木屋として木場に店を
、震災後避難民として、田舎へ行っていて、東京から追いかけて来た男に売られた話も、断片的に面白可笑しく語られ
東京はまだ復興途上にあったので、下町はバラック建てで営業を始め、
て、また何某かの小遣をくれて行った。彼女は東京でいっぱしの芸者になってからも、それを忘れることはなかった。
堪えられなくなり、客に智慧をかわれたりして、東京への憧れと伸びあがりたい気持に駆られた。彼女は赤坂へと住みかえた
も多かった。洋画家や文学青年も入り込んだ。芸者は大抵東京の海沿いから渡ったもので、下町らしい気分があり、波の音かと
那古は那古観音で名が高く、霊岸島から船で来る東京人も多かった。洋画家や文学青年も入り込んだ。芸者は大抵東京の海沿い
訊き、ここに留まるものは、この町の桂庵に引き渡し、東京を希望のものは、また上野まで連れて行くことになっていた。
し、同じやくざ仲間で、いくらか目先の見える男が、東京で製靴の仕事で、時代の新しい生活を切り開き、露助向けの靴の輸出
もあり、殷賑地帯で、芸者の数も今銀子のいる東京のこの土地と乙甲で、旅館料理屋兼業の大きい出先に、料亭も幾つか
うじゃじゃけていたけれど、笑い顔に優しみがにじみ、言葉は東京弁そっくりで、この稼業の人にしては、お品がよかった。前身
これもこの土地での評判の美人で、落籍されて、東京で勤め人の奥さんで納まっており、子供も三人あるのだった。
、養女が二人あり、みんな大きくなって、年上の方は東京の方で、この商売に取りついており、抱えも五人あって、調子
忙しい方だった。浜龍は東金の姉娘の養女で、東京の蠣殻町育ちだったが、ちょっと下脹れの瓜実顔で、上脊もあり、きっ
抱えの大半が東京産まれだったが、そのころは世界戦後の好況がまだ後を引き、
習志野、下志津などから来る若い将校や、たまには商用で東京から来る商人、または官庁の役人などと違って、こうした科学者に
簿記台に坐りこみ、帳合いをしてみることもあった。東京の親へ金を送ることも忘れなかった。
「東京に二人いるわ。」
たが、実家もすでに兄夫婦親子の世界で居辛く、東京へ出て銀子の柳原の家に落ち着き、渋皮のむけた色白の、柄
母親も今更住み馴れた東京を離れたくはなかった。彼女はこの界隈でも、娘によって楽
そのころ銀子は二度ばかり呼ばれた東京の紳士があり、これが昔しなら顔も拝めない家柄だったが、
この師匠が東京から流れて来て、土地に居ついた事情も親父は知っていた。
気の早い銀子の父親が、話がきまるとすぐ東京へ飛び出して行き、向島の請地にまだ壁も乾かない新建ちの棟割を
のに不思議はなく、苦難は年上の銀子が背負う以上、東京がいいとか田舎がいやだとか、言ってはいられなかった。
田舎でしばしば聞いていた通り、一番稼ぎの劇しいのが東京で、体がたまらないということをよく知っていた。それにその
「先生も春早々東京へお出掛けかね。」
。私らも商売の用事をかね、この五日ばかり東京見物して今帰るところでさ。」
渡弁護士も、担任弁護士の一人であり、彼によって東京の名流が、土地の法廷へも出張して、被告猪野の弁護にも
のには驚いたがね。慣れてしまえば平気さ。東京へ行ってみて雪のないのが、物足りないくらいのものさ。
て商売に就かしており、来てみるとほかにも東京ものが幾人かあって、銀子もいくらか安心したのだった。
わりかた東京ッ児の持てる処なんだよ。だけどあまり東京風を吹かさずに、三四カ月もおとなしく働いていれば、きっと誰か面倒
土地では出たての芸者は新妓といってね、わりかた東京ッ児の持てる処なんだよ。だけどあまり東京風を吹かさずに
なくやって来て、小屋の空く時はほとんどなかった。東京から来るのもあり、仙台あたりから来るのもあり、尖端的な歌劇の一座
の八百屋ではないらしく、土地の中学を出てから、東京で苦学し、病気になって故郷へ帰り、母と二人の小体な暮し
銀子は自分も好きな赤蕪を、この八百屋に頼んで、東京へ送ったりしたことから懇意になり、風呂の帰りなどに、棒立ちに
主人は抱えの読書を嫌い、厳しく封ずるのが普通で、東京でも今におき映画すら断然禁じている家も、少なくなかった。芸者
、上りの汽車を見るのも好い気持ではなかった。東京育ちの、貧乏に痛めつけられて来たので、田舎娘のように自然に
来て、貴女方に食べさせたいくらいだね。僕今度東京へも寄って来たけれど、あんなアイス・クリームはどこにもないね。
して、場末の二流三流の商店へ卸すために、時々東京へ出るので、このころにもそのついでに、罐詰を土産に、錦糸
と、肌触りも冷やかに海風か吹き通り、銀子は何となし東京の空を思い出していた。
これは僕を信じて、ぜひ呑んでもらいますよ。わざわざ東京へ寄って、製剤して来たもんだからね。」
「あとで戴くわ。それにそんな良い薬なら、東京の妹にも頒けてやりたいんです。このごろ何だかぶらぶらしている
「僕も写真をやるくらいなら、いっそ東京へ出て、少し資本をかけて場所のいいところで開業してみたい
は鈍重であり、しんねりした押しの強さが、東京育ちの銀子にずうずうしくさえ思えるのだった。写真屋も銀子をわが物顔に
夏父親がやって来た時、彼は東京へ出るたびに、罐詰を土産に親類か何ぞのように錦糸堀の
に釜飯くらいうまいものはないと言ってるくらいだもの。ただ東京へ行くから、何か家へ言伝がないかと煩くいうから、干物なんか
だこの土地も、見るもの聞くものが、不愉快になり、東京から人の来るのが待遠しくてならず、気を紛らせに、家へ遊び
「東京では躯がそう楽というわけに行きませんが、それさえ辛抱し
用いる手もあるのだったが、分寿々廼家では東京から揚げ見に来たとはもとより知らず、二日ばかりしてから、住替え
この土地もちっと居辛くなったそうで、本人が急に東京へ帰りたいと言ってよこしましたから、お父さん同道で、昨夜の九時
やがて金と引換えに、証書を受け取り、東京からもって来た鏡台や三つ抽斗、下駄や傘なども一つに
あり、銀子が父のあとから土間へ入って行くと、東京を立つ時にはまだ這い出しもしなかった末の妹が、黒い顔に
かあの温順やかな写真屋さんな――あの人も一度東京へ用があって来たとか言って、寄って行ったけれど、罐詰
民子は浦和の小地主の娘として生まれ、少女時代を東京で堅い屋敷奉公に過ごし、その屋敷が時代の英傑後藤新平の家であり
の豊原で、有名な花屋に落ち着いたのだったが、東京へ舞い戻って芳町へ現われた時分は、もう三十の大年増であり、そこ
同じだと解り、ある特志な養蚕家に救われてようやく東京へ帰り、春よしの開業とともに、一人の母親と弟を見るため
もその時分はすでに二十六七の中年増であり、東京は到る処の花柳界を渉りあるき、信州へまで行ってみて、この世界
、棄てられて毒を仰いで死にきれず、蘇生して東京へ出て来たものだったが、気分がお座敷にはまらず、金遣いも
ころ大阪ですばらしい人気を呼んだ大衆劇の沢正が、東京の劇壇へ乗り出し、断然劇壇を風靡していたが、一つは水際
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ないから、靴足袋の一足も買ってやりましょうと思って、上野の松坂屋まで行って、靴足袋とワイシャツを買って、坊やと三人で食堂
気がして、それから少したってから、三人で上野辺を散歩して、鳥鍋で飯を食い、それとなし小菊の述懐を
され、漬物桶を担ぎ出さないばかりの用意周到さで同勢上野へ繰り出すのであった。松島はすらりとした痩せ形で、上等の上布
て行ったのだったが、どうしたのか午後に上野を立った彼女は、明くる日の昼ごろにもう帰って来ていた。
この町の桂庵に引き渡し、東京を希望のものは、また上野まで連れて行くことになっていた。
は大分時代の違う按摩の娘は、この二三年二人とも上野の料亭山下に女中奉公をしているうちに、亀井戸に待合を買って
銀子が出向いてきた主人夫婦につれられて上野を立ったのは十日ごろであった。父はその金は一銭
しかし父親は上野まで見送り、二十円ばかり銀子にもたせた。
た。上玉をつれて帰るというので、彼は今日上野を立つ前に家へ電報を打ったりしていたが、弁護士にも
で腕の好い左官屋の娘である春次より年嵩の、上野の坊さんの娘だという福太郎を頭として、十人余りの抱え
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た。銀子が今度出たときからお馴染になった、赤羽辺の大地主や、王子辺のある婦人科の病院長の噂をして
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逼塞し、辛うじて芸で口を凌いでいた、かつての新橋の名妓ぽん太についてみっちり仕込まれたものだったが、商売に出す
「小菊さんですか。小菊さんなら昨日新橋で一人でぼんやりしていたと言うわ。」
柄がいいのでみすみす田舎芸者にするのが惜しまれ、新橋の森川家へあずけて、みっちり仕込んでもらっただけに芸でも負けは
になり、自身の手で子供を教育するため、彼女は新橋で左褄を取り、世間のセンセションを起こしたのだった。
に芽出しはじめ、凄い相手をでも見つけるつもりで、彼女は新橋から芸者としての第一歩を踏み出したものであった。
に訣れ、胎児をも流した果てに、死から蘇って新橋へ身を投じたのも、あながち訳のわからぬ筋道でもないので
しかし新橋や柳橋に左褄を取るものが、皆が皆まで玉の輿に乗るものとは
もいくらか下地はあったが、もちろん俄仕込みで、粒揃いの新橋では座敷の栄えるはずもなく、借金が殖える一方なので、河岸を
豊原で貰って花屋に預けておいた養女の五十奴、新橋から移って来た、品が好いので座敷の光る梅千代など、お
を踏んで、どことも知らず姿を消してしまい、新橋から住み替えて来た北海道産の梅千代という妓も、日本橋通りの蝙蝠傘屋
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ことを知った。それは松島と目と鼻の間の駒込に、古くから大きな店を構えている石屋で、二月か三月に
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解決に乗り出し、千住辺へ出かけた時とか、または堀切の菖蒲、亀井戸の藤などを見て、彼女が幼時を過ごしたという
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の桂庵にかかり、銀子の後見として解決に乗り出し、千住辺へ出かけた時とか、または堀切の菖蒲、亀井戸の藤などを
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たのだったが、もう十四にもなった銀子が、蔵前のある靴工場へ通い、靴製造の職を仕込まれた時分には、
を覚えるつもりで、靴の徒弟に住みこんだのは、ちょうど蔵前の大きな靴屋で、そのころハイカラな商売とされた斯界の先達であり
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銀子はもとちょっと居た人形町の家へも行きづらく、その土地で人に顔を見られるのもいや
春よしは人形町通りを梅園横丁へ入ったところで、ちょうど大門通りへぬける路地のなかに
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いる、それがまず目に浮かぶのであった。彼女は稲毛の料亭にある宴会に呼ばれ、夜がふけてから、朋輩と車を
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「お母さんは巣鴨の刺ぬき地蔵へ行った。お御符でも貰って来るんだろう。」
巣鴨から煎餅なぞもって帰って来た母親が、二階へ上がってみると
「お前これちょっと卸しておくれ、巣鴨まで行って来て肩が凝ってしまった。」
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と近所付き合いの小山へ縁づいたのであった。小山は日本橋のデパアト納めの子供服を専門に引き受けた。
彼は日本橋の国府へ納める荷物の中に、幾割かのロオズ物があり、それ
新橋から住み替えて来た北海道産の梅千代という妓も、日本橋通りの蝙蝠傘屋に落籍され、大観音の横丁に妾宅を構えるなど、人
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の父親が、話がきまるとすぐ東京へ飛び出して行き、向島の請地にまだ壁も乾かない新建ちの棟割を見つけて契約し、その
、多摩川に大規模の享楽機関を造り、一号格の向島の女にそれをやらせていた。
雰囲気のなかに、彼女を置いてみたり、ある時は向島の一号である年増の家へも連れて行き、彼女を馴染ませて
を出したこともなかった。それというのも、わざと向島へつれて行ったりして、暗に幾人かの女を世話している
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は出先の区域も広く、披露目も福井楼界隈の米沢町から浜町、中洲が七分で、残り三分が源冶店界隈の浪花町、花屋敷に
酔って、銀子の晴子と客のことで大喧嘩となり、浜町の出先の三階から落ちて打撲傷で気絶してしまい、病院へ担ぎこまれ
ているというので、教えられた通り、大川端に近い浜町の待合へ行ってみた。その時間には若林の来る心配もなかった
浜町の待合では、福太郎に春次も来ており、お酌なども取り交ぜて
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春よしでは、神田で腕の好い左官屋の娘である春次より年嵩の、上野の坊さん
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そのころ日比谷や池ノ畔、隅田川にも納涼大会があり、映画や演芸の屋台などで人を集め、大川
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も二人は国技館のお化け大会を見に行った帰りに、両国橋のうえをぶつぶつ喧嘩をしながら、後になり先になりして渡って