北越雪譜 06 北越雪譜二編 / 岡田武松 鈴木牧之 山東京山
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産す、その在る所は、○金城山○巻機山○苗場山○八海山その外にもあり。その石軟弱して爪をもつても犯すべきほど
苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂に天然
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に語て曰、今をさる事五十余年前天明の初年大阪にて家僕四五人もつかふほどの次男年廿七八ばかり利助といふもの、その
ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚の辻売多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚
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湖○赤壁○潯陽江○楊子江の四大江に通じて江南を流湎りて東海に入る。是水路日本道五百里ばかりなり。さて件の
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郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等無双の大力にて人の知る所なり。又鎧潟
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筑紫のしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかく
古くいひつたふるも何か由縁ある事なるべし。菅家の筑紫にて薨じ玉ひたるは延喜三年二月廿五日なり、今を去る事百
御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻後草は筑紫にての御作なり今も世に伝ふ。大納言公任卿が朗詠集に入れ
職を削り、従二位はもとのごとく太宰権帥とし文官筑紫へ左遷に定め玉へり。 寛平法皇此事を聞しめして大におどろかせ給ひ
によれり。姫たちは都にとゞまり幼きはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃愛玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひ
○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草と
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いふ滝七段あるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子の口不動滝などいふも七ツ釜の内にて、妙景奇状筆を
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越後国南は上州に隣る魚沼郡なり。東は奥州羽州へ隣る蒲原郡岩船郡なり。
魚沼郡|雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺、村松にあり村上の耕
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弘智法印は児玉氏下総国山桑村の人なり。高野山にありて蜜教を学び、後生国に皈り大浦
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○斯て延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨の浦に日を移しつくしへ抵りた
○高辻の御庭の桜枯たりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に
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たる双親年頃のねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣させけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守
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日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村にまつる。此所に景清
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を火井とて、博物志或は瑯※代酔に見えたる雲台山の火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪大なるは此谷
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寺泊○出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる※論を俟ず。此余
は頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等無双の大力にて人の知る所なり。又
百姓丑之介がせがれ塚原の豆腐売春松鎌介がせがれ蒲原郡釈迦塚村百姓新六、いづれも孝子の名一国に高かりき。今存在する
蒲原郡村松より東一里来迎村に寺あり、永谷寺といふ曹洞宗なり。此寺の
蒲原郡五泉の在一里ばかりに下新田といふ村あり。或年此村の者ども
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燗をいそぐもをかし。さて眺望ば越後はさら也、浅間の烟をはじめ、信濃の連山みな眼下に波濤す。千隈川は白き糸を
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越後国南は上州に隣る魚沼郡なり。東は奥州羽州へ隣る蒲原郡岩船郡なり。国堺はいづれも連山波濤をなすゆゑ雪多し
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最雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住魚沼郡なり。次に古志郡、次に頸城郡なり。其余の四郡は雪の
郡は日本第一に雪の深降所なり。我その魚沼郡の塩沢に生れ、毎年十月の頃より翌年の三四月のころまで雪を
○こゝに我が魚沼郡藪上の庄の村より農夫一人柏崎の駅にいたる、此路程五里計なり
ヱ門妻へ米五俵賜し事を記しあり。此魚沼郡は大郡にて 会津侯御預りの地なり。元文の昔も今も 御
上の巻雪中の火といふ条に、六日町の魚沼郡西の山手に地中より火の燃る事をしるせしが、地獄谷の火の
人の知る所なれども、其火よりも盛大なるは魚沼郡のうち、かの小千谷の在地獄谷の火なり。唐土に是を火井といふ
魚沼郡|雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の
魚沼郡の官駅十日町の南七里計、妻在庄の山中此へんすべて
魚沼郡堀内より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道
苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山
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東游記に越前国大野領の山中に化石渓あり。何物にても半月あるひは一ヶ月此渓に浸し
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娘たち彩たる羽子板を持て並び立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子擢は辺鄙とはいひながら、かゝる艶姿
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に至り荊州に入り、○洞庭湖○赤壁○潯陽江○楊子江の四大江に通じて江南を流湎りて東海に入る。是水路日本道五百里ばかりなり。
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村上の耕雲寺、伊弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚は、 霜台君の謙信の事親藉にて、
是を火車落とて宝物とする由来は、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備の尊者にておはせり。其頃此寺
、余越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴れて雲洞庵にいたり、塩沢より一里ばかり庵主にも対話なし、かの火車おとしの袈裟
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いふ条に曰、江州山田の浦の木之内古繁、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の
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も今は人家の億燈となれり。又我国の八海山は巓に八ツの池あり、依て山の名とす。絶頂に八海
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処もあり古志郡海に遠し以上七郡也。城下は岩船郡に村上内藤侯五万九千石ヨ蒲原郡に柴田溝口侯五万石黒川柳沢侯一万石
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御歳六十の時洛に皈玉へり。越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也弘長二年十一月廿
年十五にて御元服、同四年文章生に挙られ、下野の権掾にならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏身まかり
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ぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくし
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と語られき。かの淵に※ありといふは、むかし永光寺のほとりに貴人何某住玉ひしに、その内室色情の妬にて夫をうらみ、
沈め、冤魂悪竜となりて人をなやまししを、永光寺の開山名をきゝもらせり血脉をかの淵にしづめて化度し玉ひし
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筑紫記行巻の九に、但馬国多気郡納屋村より川船にて但馬の温泉に抵る途中を記したる条に曰、○猶舟にのりて行。右の
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此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なりかゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖なりと、安斎
を画く。故事は、仏鑑禅師聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多に住玉ひたる跡の地中より掘いだしたる石に
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の名によぶ。 順徳院の御製に承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり「都をばさすらへ出し今宵しもうき身名立の月を見る哉」▲直江津
したる竪額は 順徳院の震筆なりとぞ。佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし門前に直江山城守の制札あり、放火私
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○又尾張の名古屋の人吉田重房が著したる筑紫記行巻の九に、但馬国多気郡納屋村より
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といふは、昔より此逃入村の人手習をすれば天満宮の祟ありとて一村の人皆無筆なり。他郷に身を寄て手習すれば
此村の子どもなど江戸土産とて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟りの兆ありし事度々なりしとぞ。されば
ありて盲人をきらふなり、逃入村は墳あるゆゑに天満宮の神※此地を忌玉ふならん。こゝをもつて考ふるに、かの
後年屡神※の赫々たる徴ありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称あり。
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百樹曰、芭蕉居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩に生る。次男なり寛文六年歳廿四にし
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内出羽のさかひ西は市振頸城郡の内越中の堺に至の道八十里が間都て北の海浜なり。海気によりて雪
をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜すなりといへり
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○さて我塩沢は江戸を去こと僅に五十五里なり、直道を量ばなほ近かるべし。雪なき時
。雪なき時ならば健足の人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞ば縉紳朱門の※はしらず
健足の人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞ば縉紳朱門の※はしらず、市中は千門
江戸の児曹が春の遊は、女児は繍毬羽子擢、男児は紙鴟
江戸に正月せし人の話に、市中にて見上るばかり松竹を飾たるもと
筒切になし、これに※雉の尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比れば甚大なり。これを擢に雪を掘木鋤を用ふ
子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。
遊して大家の造りやうを見るに、楹の太こと江戸の土蔵のごとし。天井高く欄間大なり、これ雪の時明をとるためなり
駭せり、これ皆雪に潰ざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店下を越後に雁木又は庇といふ、雁木の下広く
は雪中にこの庇下を往来の為なり。余越後より江戸へ皈る時高田の城下を通しが、こゝは北越第一の市会なり。商工
あらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍しければ立よりて熟視ば、深さ五寸計の箱
の粉をかけていだせり。氷に黄な粉をかけたるは江戸の目には見も慣ず可笑ければ、京水と相目して笑
なり、これ雪国に一ツの苦状といふべし。我江戸に逗留せしころ、旅宿のちかきあたりに死亡ありて葬式の日大嵐なるに
翁の句集のものにも宗房とあり。延宝のすゑはじめて江戸に来り杉風が家に寄、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪して素宣
ゆるさず翁身を世外に置て四方に雲水し、江戸に趾をとゞめず。終には元禄七年甲戊十月十二日「旅
が目にはとありとは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅搗の時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝ
いでたれば二百年来諸国にもあるは勿論なり。ちかごろ江戸には季によらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。
なり。或人の話に、此事百余年前までは江戸にもありしが、火災をはゞかるために禁下てやみたりとぞ
余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏しく、江戸者の口に魚肉の上らざりし事四十余日、小千谷にいたりてはじめて生鯛
大河なれば今捕しをすぐに庖丁す。味はひ江戸にまされり。一日※をてんぷらといふ物にしていだせり。余岩居
としの二ツもうへの哥妓をつれて出奔し、江戸に下り余が家の京橋南街第一※対ひの裏屋に住しに、
なしとて亡兄もたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚の辻売多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉のつけあげは
にてはつけあげといふ魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんと
いふ。亡兄うちゑみつゝ足下は今天竺浪人なり、ぶらりと江戸へきたりて売創る物ゆゑに天ふらなり、是に麩羅といふ字を
ざるを聞て家製なりとて煉羊羹を恵ぬ、味ひ江戸に同じ。余越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆し、岩居に
のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢のねりやうかんあるは実に大平
てねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷にもあれば此国に市会
によりてさま/″\なる事は諸書に散見せり。江戸の鳥追といふは非人の婦女音曲するを女太夫とて木綿の衣服をうつくしく着
。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒気は江戸にさまでかはる※なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑
なせども寒気は江戸にさまでかはる※なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑組にいへる霜は露のむすぶ所
\く火をもやすゆゑ獣きたらずといへり。余が江戸の目には視る所こと/″\く奇妙なり。唐土には此火を
花姿柳腰の美人等わらじをはいて水をわたるなど余が江戸の目には最珍らしく興あり。酔客ぢんくをうたへば酔妓歩々
も、遠く四方に雷名せるはすくなし。画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり近年相撲に越海・鷲ヶ浜は新潟の産、九
て没したれば火浣布ふたゝび世に絶たり。かの源内は江戸の饒地に火浣布を織しゆゑ其聞え高く、この両人は越後の辟境に
これを観たり。奇鳥なれば乞ふ人も多く、江戸へ出して観物にせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず
、連山は僅に雪を載て白々。寒国の秋景江戸の眼を新になし、おもはず一絶を得などしてしばしながめゐたる
世界へいでたるこゝちぞせらる。一年夏の頃、江戸より来りたる行脚の俳人を停おきしに、謂やう、此国の所々に
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鑑禅師聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多に住玉ひたる跡の地中より掘いだしたる石に 菅神の※唐土へ
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あり。延宝のすゑはじめて江戸に来り杉風が家に寄、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪して素宣といへり、桃青は后の名なり
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に曰、○猶舟にのりて行。右の方に愛宕山、宮島村、野上村、石山地名など追続てあり。此石山の川岸に臨
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甞火浣布を作るの石を産す、その在る所は、○金城山○巻機山○苗場山○八海山その外にもあり。その石軟弱して
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。又高田の藩士材用にて樵夫をしたがへ、黒姫山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似て猿に
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我国頸城郡米山の麓に医王山米山寺は和同年中の創草なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を禁
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記す。○橘菴漫筆に享和元年京の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の
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居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居ると旅店毎にきびしくたづねしゆゑ、南※あるじにそのゆゑ
御ふたりを岩城山の神にまつりて社今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ
丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日
が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事
かならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居る
の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜すなりといへりと。南※子此事に遇たり
に類せり。しかれども件の二ツは社ありて丹後の人を忌、墓ありて盲人をきらふなり、逃入村は墳あるゆゑ
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居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月とも
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郡に三条、三嶋郡に寺泊○出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる※
●さて又頸城郡の海辺に能生宿といふは北陸道の官路なり、此宿より山手に入る
関戸は次第浜の産也。常人にて力士の聞えありしは頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門
。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田の菊女、頸城郡の僧知良、近くは三嶋郡村田村の百合女百姓伊兵衛がむすめ新発田荒川村
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、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる※論を俟ず。此余の
す。東に岩船郡古くは石に作る海による蒲原郡新潟の湊此郡に属す西に魚沼郡海に遠し北に三嶋郡海に
なり。芭蕉翁が奥に行脚のかへるさ越後に入り、新潟にて「海に降る雨や恋しきうき身宿」寺泊にて「荒海や佐渡に
にいでしゆゑ名をなせり近年相撲に越海・鷲ヶ浜は新潟の産、九紋竜は高田今町の産、関戸は次第浜の産也
にいたらば板額あるひは酒顛童子の旧跡をもたづね、新潟をも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊にのこる
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材木あるひは大石をのせてひくを大持といふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの槻を※
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来る者三百余人なり。浄衣その外智月と百樹云、大津の米屋の母、翁の門人乙州が妻縫たてゝ着せまゐらす』
べき書なり『義仲寺にうつして葬礼義信を尽し京大坂大津膳所の連衆被官従者までも此翁の情を慕へるにこそ招ざる
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の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓を料理して弘めける。是
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て盥に雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟は深川清澄町万年橋の南詰に対ひたる今或侯の庭中に在り、古池
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百樹曰、芭蕉居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩に生る。次男なり寛文六年歳廿四にして
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へといふ。余かたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字を式部小路といふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚ひとりを
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の祟りの兆ありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳なりと古くいひつたふるも何か由縁ある事
といふあり、にげ入りを里俗にごろとよぶ此村に大塚小塚とよびて大小二ツの古墳双びあり。所の伝へに大なるを
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位なれば女に美麗を出すにやあらん。二代目の高尾は万治野州に生れ、初代の薄雲は信州に産して、ともに北廓
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哥妓をつれて出奔し、江戸に下り余が家の京橋南街第一※対ひの裏屋に住しに、一日事の序に