北越雪譜 03 北越雪譜初編 / 岡田武松 鈴木牧之 山東京山

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地名一覧

苗場山

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魚沼郡は東南の※地にして○巻機山○苗場山○八海山○牛が嶽○金城山○駒が嶽○兎が嶽○浅艸山等

産す、その在る所は、○金城山○巻機山○苗場山○八海山その外にもあり。その石軟弱して爪をもつても犯すべきほど

苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂に天然

古河

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*1 「許鹿君」古河の城主土井大炊頭利位の号、利位は下総古河藩第十世の藩主

三条

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郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等無双の大力にて人の知る所なり。又鎧潟

肥後国

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日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村にまつる。此所に景清

浅間

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燗をいそぐもをかし。さて眺望ば越後はさら也、浅間の烟をはじめ、信濃の連山みな眼下に波濤す。千隈川は白き糸を

魚沼郡

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深し。是※※の前後したるに似たり。我住魚沼郡は東南の※地にして○巻機山○苗場山○八海山○牛が

○天保三年辰の春、我が住魚沼郡の内浦佐宿の在大倉村の樵夫八海山に入りし時、いかにして

○余若かりし時、妻有の庄に魚沼郡の内に在用ありて両三日逗留せし事ありき。頃は夏

奇也。天奇を出す事一ならず、おなじ国の魚沼郡に又一ツの奇火を出せり。天公の機状かの妙法寺村

魚沼郡清水村の奥に山あり、高さ一里あまり、周囲も一里あまり也

我住魚沼郡の内にて雪頽の為に非命の死をなしたる事、其村の人の

魚沼郡の内にて縮をいだす事一様ならず、村によりて出す品にさだめあり

は雪と人と気力相半して名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親といふべし。蓋し薄雪の地に布の名産あるよし

魚沼郡の内宇賀地の郷堀の内の鎮守宇賀地の神社は本社八幡宮也、上古より

最雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住魚沼郡なり。次に古志郡、次に頸城郡なり。其余の四郡は雪の

郡は日本第一に雪の深降所なり。我その魚沼郡の塩沢に生れ、毎年十月の頃より翌年の三四月のころまで雪を

○こゝに我が魚沼郡藪上の庄の村より農夫一人柏崎の駅にいたる、此路程五里計なり

ヱ門妻へ米五俵賜し事を記しあり。此魚沼郡は大郡にて 会津侯御預りの地なり。元文の昔も今も 御

上の巻雪中の火といふ条に、六日町の魚沼郡西の山手に地中より火の燃る事をしるせしが、地獄谷の火の

人の知る所なれども、其火よりも盛大なるは魚沼郡のうち、かの小千谷の在地獄谷の火なり。唐土に是を火井といふ

魚沼郡|雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の

魚沼郡の官駅十日町の南七里計、妻在庄の山中此へんすべて

魚沼郡堀内より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道

苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山

但馬

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筑紫記行巻の九に、但馬国多気郡納屋村より川船にて但馬の温泉に抵る途中を記したる条に曰、○猶舟にのりて行。右の

東福寺

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此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なりかゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖なりと、安斎

を画く。故事は、仏鑑禅師聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多に住玉ひたる跡の地中より掘いだしたる石に

佐渡

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の名によぶ。 順徳院の御製に承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり「都をばさすらへ出し今宵しもうき身名立の月を見る哉」▲直江津

したる竪額は 順徳院の震筆なりとぞ。佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし門前に直江山城守の制札あり、放火私

京都所司代

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同五年に大阪城代となつた。天保八年には京都所司代となり、翌年には老中となつた。弘化元年に病の為め老中を免ぜ

伊賀

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百樹曰、芭蕉居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩に生る。次男なり寛文六年歳廿四にし

博多

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鑑禅師聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多に住玉ひたる跡の地中より掘いだしたる石に 菅神の※唐土へ

北海

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去れば味ひ美ならず、その味ひ美なるものは北海より長江を泝りて困苦したるの度にあたれるゆゑならん。魚急浪に

黒姫山

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。又高田の藩士材用にて樵夫をしたがへ、黒姫山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似て猿に

山川村

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山川村庄はさらなり、凡物の名の訓かた清濁によりて越後の里言

吉野

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居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月とも

筑紫

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筑紫のしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかく

古くいひつたふるも何か由縁ある事なるべし。菅家の筑紫にて薨じ玉ひたるは延喜三年二月廿五日なり、今を去る事百

御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻後草は筑紫にての御作なり今も世に伝ふ。大納言公任卿が朗詠集に入れ

職を削り、従二位はもとのごとく太宰権帥とし文官筑紫へ左遷に定め玉へり。 寛平法皇此事を聞しめして大におどろかせ給ひ

によれり。姫たちは都にとゞまり幼きはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃愛玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひ

○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草と

雲台山

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を火井とて、博物志或は瑯※代酔に見えたる雲台山の火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪大なるは此谷

伊勢

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いふ条に曰、江州山田の浦の木之内古繁、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の

本名は宮川春暉。南谿はその号。宝暦四年生る。伊勢の人、同国久居の藤堂氏に仕へた。南谿は医を業とした

八海山

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、我が住魚沼郡の内浦佐宿の在大倉村の樵夫八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊を虜り、世に珍とて

も今は人家の億燈となれり。又我国の八海山は巓に八ツの池あり、依て山の名とす。絶頂に八海

岩船郡

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処もあり古志郡海に遠し以上七郡也。城下は岩船郡に村上内藤侯五万九千石ヨ蒲原郡に柴田溝口侯五万石黒川柳沢侯一万石

長岡

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長岡魚沼の川口あたりにて漁したる一番の初※を漁師長岡へたてまつれば、例として※一頭に一頭を一尺といふ米

ぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくし

永光寺

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と語られき。かの淵に※ありといふは、むかし永光寺のほとりに貴人何某住玉ひしに、その内室色情の妬にて夫をうらみ、

沈め、冤魂悪竜となりて人をなやまししを、永光寺の開山名をきゝもらせり血脉をかの淵にしづめて化度し玉ひし

高千穂

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しやうといふ、こは降臨象なるべし。皇孫日向の高千穂の峯に天降り給ひしに象るの心ならんと※翁いへり。猶説

名古屋

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○又尾張の名古屋の人吉田重房が著したる筑紫記行巻の九に、但馬国多気郡納屋村より

天満宮

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といふは、昔より此逃入村の人手習をすれば天満宮の祟ありとて一村の人皆無筆なり。他郷に身を寄て手習すれば

此村の子どもなど江戸土産とて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟りの兆ありし事度々なりしとぞ。されば

ありて盲人をきらふなり、逃入村は墳あるゆゑに天満宮の神※此地を忌玉ふならん。こゝをもつて考ふるに、かの

後年屡神※の赫々たる徴ありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称あり。

丹後

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なるべし。又同書に脊腸をみなわたと訓り。丹後信濃越中越後より貢とする※も見えたれば、古代は※を供御にも

居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居ると旅店毎にきびしくたづねしゆゑ、南※あるじにそのゆゑ

御ふたりを岩城山の神にまつりて社今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ

丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日

が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事

かならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居る

の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜すなりといへりと。南※子此事に遇たり

に類せり。しかれども件の二ツは社ありて丹後の人を忌、墓ありて盲人をきらふなり、逃入村は墳あるゆゑ

峨眉山

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唐土蜀の峨眉山には夏も積雪あり。其雪の中に雪蛆といふ虫ある事山海経に

大阪

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に語て曰、今をさる事五十余年前天明の初年大阪にて家僕四五人もつかふほどの次男年廿七八ばかり利助といふもの、その

ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚の辻売多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚

江南

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湖○赤壁○潯陽江○楊子江の四大江に通じて江南を流湎りて東海に入る。是水路日本道五百里ばかりなり。さて件の

越後国

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ば、楽と苦と雲泥のちがひ也。そも/\越後国は北方の陰地なれども一国の内陰陽を前後す。いかんとなれば

越後国南は上州に隣る魚沼郡なり。東は奥州羽州へ隣る蒲原郡岩船郡なり。

魚沼郡|雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺、村松にあり村上の耕

下総国

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弘智法印は児玉氏下総国山桑村の人なり。高野山にありて蜜教を学び、後生国に皈り大浦

善光寺

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礼をのべ、これまつたく神仏の御蔭ぞとお伊勢さま善光寺さまを遥拝うれしくて足の蹈所もしらず、火点頃宿へかへりしに、

たる双親年頃のねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣させけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守

高辻

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○斯て延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨の浦に日を移しつくしへ抵りた

○高辻の御庭の桜枯たりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に

蒲原郡

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世に越後の七不思議と称する其一ツ蒲原郡妙法寺村の農家炉中の隅石臼の孔より出る火、人皆奇也と

端ににいたりて信濃を流るゝ川と合して、古志郡蒲原郡の中央をながれて海に入る。信濃の流は濁り越後は清し。信水

寺泊○出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる※論を俟ず。此余

は頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等無双の大力にて人の知る所なり。又

百姓丑之介がせがれ塚原の豆腐売春松鎌介がせがれ蒲原郡釈迦塚村百姓新六、いづれも孝子の名一国に高かりき。今存在する

蒲原郡村松より東一里来迎村に寺あり、永谷寺といふ曹洞宗なり。此寺の

蒲原郡五泉の在一里ばかりに下新田といふ村あり。或年此村の者ども

妙法寺村は如法寺村のことである。本書二五九頁に「蒲原郡如法寺村」とある。同村では天然のメタン瓦斯が地中より吹き出すところがあつ

諏訪

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言事、酉陽雑俎に見ゆ。こは本朝にても今猶諏訪の湖水は狐渉しを視て人渉りはじむ、和漢相同じ。狐の火を

奥州

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越後国南は上州に隣る魚沼郡なり。東は奥州羽州へ隣る蒲原郡岩船郡なり。国堺はいづれも連山波濤をなすゆゑ雪多し

鎌倉

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へ一国に威を震ひしが、謀叛の聞えありて鎌倉の討手佐々木三郎兵衛入道西念としば/\戦ひて終に落城せり。此時貴族

富士山

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ず、冷温の二段は地を去る事甚だ遠からず。富士山は温際を越て冷際にちかきゆゑ、絶頂は温気通ぜざるゆゑ艸木

中津川

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して十五ヶ村をなべて秋山とよぶ也。秋山の中央に中津川といふありて、すゑは魚沼郡妻有の庄をながれて千曲川に入る川

道をもとむる所しば/\なり。かくてかの中津川の岸にいたれり。岸の対ひ逆巻村にいたる所に橋あり、猿飛

。秋山に良材多しといへども、村中をながるゝ中津川屈曲深き所浅き所ありて筏をくだしがたく、又は牛馬をつかはざれば

医王山

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我国頸城郡米山の麓に医王山米山寺は和同年中の創草なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を禁

下河原

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記す。○橘菴漫筆に享和元年京の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の

頸城郡

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越後の頸城郡松の山は一庄の総名にて、許多の村落を併合たる大庄也。

郡に三条、三嶋郡に寺泊○出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる※

●さて又頸城郡の海辺に能生宿といふは北陸道の官路なり、此宿より山手に入る

関戸は次第浜の産也。常人にて力士の聞えありしは頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門

。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田の菊女、頸城郡の僧知良、近くは三嶋郡村田村の百合女百姓伊兵衛がむすめ新発田荒川村

銚子

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いふ滝七段あるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子の口不動滝などいふも七ツ釜の内にて、妙景奇状筆を

田中

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礼をのべて立さりけるとぞ。常に我が家に来る田中のものがかたれり。

越前国

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東游記に越前国大野領の山中に化石渓あり。何物にても半月あるひは一ヶ月此渓に浸し

大江戸

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娘たち彩たる羽子板を持て並び立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子擢は辺鄙とはいひながら、かゝる艶姿

楊子江

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に至り荊州に入り、○洞庭湖○赤壁○潯陽江○楊子江の四大江に通じて江南を流湎りて東海に入る。是水路日本道五百里ばかりなり。

雲洞庵

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村上の耕雲寺、伊弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚は、 霜台君の謙信の事親藉にて、

是を火車落とて宝物とする由来は、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備の尊者にておはせり。其頃此寺

、余越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴れて雲洞庵にいたり、塩沢より一里ばかり庵主にも対話なし、かの火車おとしの袈裟

八幡

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終をしらず。白亀の改元、白鳥の神瑞、八幡の鳩、源家の旗、すべて白きは 皇国の祥象なれば、天機白熊を

下野

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御歳六十の時洛に皈玉へり。越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也弘長二年十一月廿

年十五にて御元服、同四年文章生に挙られ、下野の権掾にならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏身まかり

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事を先の山東翁にかたりしに、翁曰世路の灘は総滝よりも危からん、世は足もとを見て渡るべきにやとて笑

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なりたり。下学集より五十三年の后明応五年林宗二堺の町人節用集を作り、文亀のころの活字本あり。これいろは引節用集の権輿也

内出羽のさかひ西は市振頸城郡の内越中の堺に至の道八十里が間都て北の海浜なり。海気によりて雪

をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜すなりといへり

江戸

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江戸   京山人百樹并書  

江戸    京山人百樹 刪定

の人の雪を賞翫するは前にいへるがごとし。江戸には雪の降ざる年もあれば、初雪はことさらに美賞し、雪見の

七人は是也。しかれども住ば都とて、繁花の江戸に奉公する事年ありて後雪国の故郷に皈る者、これも又十人に

故郷の忘がたきは世界の人情也。さて雪中は廊下に江戸にいふ店下雪垂をかやにてあみたるすだれをいふ下し、雪吹をふせぐため

白き児熊を虜り、世に珍とて飼おきしに香具師江戸にいふ見世もの師の古風なるものこれを買もとめ、市場又は祭礼すべて

江戸    京山人百樹 刪定

余一年江戸に旅宿せし頃、或人いふやう、縮に用ふる紵を績にはその

先生の歳時記には松永弾正が婚事より起るといへり江戸にては宝永の頃までも世上一同正月十五日の事とし、祝義の

江戸     京山人百樹 刪定

年を歴て元禄十一年に槙嶋照武駒谷山人が作りたる江戸の人書言字考、一名合類節用集といふ板本あり、宗二が節用集

の食にあつるに足るのみ、通商するにたらず。江戸は利根川にありといへども稀なるゆゑ、初※は初鰹の価に比

初※の貴き事おしてしるべし。これを賞する事、江戸の初鰹魚にをさ/\おとらず。初※は光り銀のごとくに

※一升もあり、小なるは三四合にすぎず。江戸に多くもてあつかふ塩引と唱するは鰺※とて、越後の※とは一

んもしるべからず。生ぜば国益ともならんかし。江戸の白魚はむかしそのたねをうつし玉ひしとぞきゝつるためしもあれば也。

におちいるめり、その危き事いはん方なし。余前年江戸に在し時右の事を先の山東翁にかたりしに、翁曰世路の

前年牧之江戸に旅宿の頃、文墨の諸名家に謁して書画を乞ひし時、前

我が家に江戸に二たとせ居たる僕あり。かれがかたりしに、江戸に寒念仏とて寒行

に二たとせ居たる僕あり。かれがかたりしに、江戸に寒念仏とて寒行をする道心者あり、寒三十日を限りて毎夜鈴が森千住にい

の苦行あらまし件のごとくなれば、他国はしらず、江戸の寒念仏裸まゐりに比ふればはなはだ異也。かゝる苦行をなすゆゑにや、

あるじのつま牧之に、歳こしの夜は鬼の来るとて江戸には厄払ひといふものありて鬼を追ふ事をおもしろくいひたてゝ物乞

といひ、黒くて肥太りたるを黒鬼といふ。おのれ江戸に在し時、厄払が鬼をかいつかみて西の海へさらりと

投たるを見たる事あり、その鬼は黒かりし。江戸の歳越にさへ夜は鬼のありくなれば、こゝらのとしこしには

ツになりぬ。福一はかゝる伶俐ものなりしゆゑ、今江戸にありて宦にもすゝみしと聞ぬ。目でたき事どもなりけり

○さて我塩沢は江戸を去こと僅に五十五里なり、直道を量ばなほ近かるべし。雪なき時

。雪なき時ならば健足の人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞ば縉紳朱門の※はしらず

健足の人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞ば縉紳朱門の※はしらず、市中は千門

江戸の児曹が春の遊は、女児は繍毬羽子擢、男児は紙鴟

江戸に正月せし人の話に、市中にて見上るばかり松竹を飾たるもと

筒切になし、これに※雉の尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比れば甚大なり。これを擢に雪を掘木鋤を用ふ

子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。

遊して大家の造りやうを見るに、楹の太こと江戸の土蔵のごとし。天井高く欄間大なり、これ雪の時明をとるためなり

駭せり、これ皆雪に潰ざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店下を越後に雁木又は庇といふ、雁木の下広く

は雪中にこの庇下を往来の為なり。余越後より江戸へ皈る時高田の城下を通しが、こゝは北越第一の市会なり。商工

あらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍しければ立よりて熟視ば、深さ五寸計の箱

の粉をかけていだせり。氷に黄な粉をかけたるは江戸の目には見も慣ず可笑ければ、京水と相目して笑

なり、これ雪国に一ツの苦状といふべし。我江戸に逗留せしころ、旅宿のちかきあたりに死亡ありて葬式の日大嵐なるに

翁の句集のものにも宗房とあり。延宝のすゑはじめて江戸に来り杉風が家に寄、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪して素宣

ゆるさず翁身を世外に置て四方に雲水し、江戸に趾をとゞめず。終には元禄七年甲戊十月十二日「旅

が目にはとありとは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅搗の時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝ

いでたれば二百年来諸国にもあるは勿論なり。ちかごろ江戸には季によらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。

なり。或人の話に、此事百余年前までは江戸にもありしが、火災をはゞかるために禁下てやみたりとぞ

余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏しく、江戸者の口に魚肉の上らざりし事四十余日、小千谷にいたりてはじめて生鯛

大河なれば今捕しをすぐに庖丁す。味はひ江戸にまされり。一日※をてんぷらといふ物にしていだせり。余岩居

としの二ツもうへの哥妓をつれて出奔し、江戸に下り余が家の京橋南街第一※対ひの裏屋に住しに、

なしとて亡兄もたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚の辻売多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉のつけあげは

にてはつけあげといふ魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんと

いふ。亡兄うちゑみつゝ足下は今天竺浪人なり、ぶらりと江戸へきたりて売創る物ゆゑに天ふらなり、是に麩羅といふ字を

ざるを聞て家製なりとて煉羊羹を恵ぬ、味ひ江戸に同じ。余越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆し、岩居に

のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢のねりやうかんあるは実に大平

てねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷にもあれば此国に市会

によりてさま/″\なる事は諸書に散見せり。江戸の鳥追といふは非人の婦女音曲するを女太夫とて木綿の衣服をうつくしく着

。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒気は江戸にさまでかはる※なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑

なせども寒気は江戸にさまでかはる※なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑組にいへる霜は露のむすぶ所

\く火をもやすゆゑ獣きたらずといへり。余が江戸の目には視る所こと/″\く奇妙なり。唐土には此火を

花姿柳腰の美人等わらじをはいて水をわたるなど余が江戸の目には最珍らしく興あり。酔客ぢんくをうたへば酔妓歩々

も、遠く四方に雷名せるはすくなし。画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり近年相撲に越海・鷲ヶ浜は新潟の産、九

て没したれば火浣布ふたゝび世に絶たり。かの源内は江戸の饒地に火浣布を織しゆゑ其聞え高く、この両人は越後の辟境に

これを観たり。奇鳥なれば乞ふ人も多く、江戸へ出して観物にせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず

、連山は僅に雪を載て白々。寒国の秋景江戸の眼を新になし、おもはず一絶を得などしてしばしながめゐたる

世界へいでたるこゝちぞせらる。一年夏の頃、江戸より来りたる行脚の俳人を停おきしに、謂やう、此国の所々に

小田原町

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あり。延宝のすゑはじめて江戸に来り杉風が家に寄、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪して素宣といへり、桃青は后の名なり

愛宕山

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に曰、○猶舟にのりて行。右の方に愛宕山、宮島村、野上村、石山地名など追続てあり。此石山の川岸に臨

金城山

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て○巻機山○苗場山○八海山○牛が嶽○金城山○駒が嶽○兎が嶽○浅艸山等の高山其余他国に聞えざる

甞火浣布を作るの石を産す、その在る所は、○金城山○巻機山○苗場山○八海山その外にもあり。その石軟弱して

松山

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埋れたれど、その跡とてのこれり。按るに、松山かゞみのうたひは鏡破の絵巻といふものを原として作れる

、農家軒を連ぬ。外百番の謡に見えし松山鏡といふも此地也。そのうたひにある鏡が池の古跡も

○鏡を持たる女秋山中に五人ありとぞ。松山かゞみの故事おもひあたれり。

新潟

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なるゆゑ、これをたとへて天の網といふめり。新潟より三里上りて赤塚村といふあり、山のところ/″\に凹

北海新潟の海門におつる大河は阿加川と千曲川と也。あか川の事は

割野村にちかき所の流にあり。信濃の丹波島より新潟までを流るゝ間に流の滝をなすはこゝのみなり。その総滝と

総滝とは新潟の湊より四十余里の川上、千隈川のほとり割野村にちかき所の流

、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる※論を俟ず。此余の

す。東に岩船郡古くは石に作る海による蒲原郡新潟の湊此郡に属す西に魚沼郡海に遠し北に三嶋郡海に

なり。芭蕉翁が奥に行脚のかへるさ越後に入り、新潟にて「海に降る雨や恋しきうき身宿」寺泊にて「荒海や佐渡に

にいでしゆゑ名をなせり近年相撲に越海・鷲ヶ浜は新潟の産、九紋竜は高田今町の産、関戸は次第浜の産也

にいたらば板額あるひは酒顛童子の旧跡をもたづね、新潟をも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊にのこる

京都

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られき。しかるを近き頃、村田春海大人右の書を京都にて購得てのち、享和三年の春創て板本となし、世の重宝

材木あるひは大石をのせてひくを大持といふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの槻を※

同五年に大阪城代となつた。天保八年には京都所司代となり、翌年には老中となつた。弘化元年に病の為め老中

を著した。文化三年歿す。享年五十三であつた。京都黒谷の光明寺に葬むつた。

大津

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来る者三百余人なり。浄衣その外智月と百樹云、大津の米屋の母、翁の門人乙州が妻縫たてゝ着せまゐらす』

べき書なり『義仲寺にうつして葬礼義信を尽し京大坂大津膳所の連衆被官従者までも此翁の情を慕へるにこそ招ざる

長崎

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の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓を料理して弘めける。是

深川

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て盥に雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟は深川清澄町万年橋の南詰に対ひたる今或侯の庭中に在り、古池

千曲

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はかれが心にありて一定ならずといへども、千曲と魚野の両河の合する川口といふより沙に小石のまじるゆゑ、これより

千住

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とて寒行をする道心者あり、寒三十日を限りて毎夜鈴が森千住にいたり刑死の回向をなす。そのすがたは股引草鞋にてあたゝかに

上野

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百樹曰、芭蕉居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩に生る。次男なり寛文六年歳廿四にして

日本橋

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へといふ。余かたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字を式部小路といふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚ひとりを

大塚

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の祟りの兆ありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳なりと古くいひつたふるも何か由縁ある事

といふあり、にげ入りを里俗にごろとよぶ此村に大塚小塚とよびて大小二ツの古墳双びあり。所の伝へに大なるを

高尾

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位なれば女に美麗を出すにやあらん。二代目の高尾は万治野州に生れ、初代の薄雲は信州に産して、ともに北廓

東京

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である、明治の初年に多少の刪補を加へたものが東京市麻布区飯倉五丁目の山口屋書店より出版になつてゐる、本文庫に収

江戸文渓堂であつた、翁は稿本の刪作を山東京山に依頼し、挿画は翁が自筆のものを京山の子の京水

千曲川

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といふありて、すゑは魚沼郡妻有の庄をながれて千曲川に入る川也川の東西に十五ヶ村あり。東の方に在る村は

は信越の境よりいで、越後の内三十四里を流れて千曲川に伴ひ此海に入る。此川越後の○頸城○魚沼○三嶋○

我国の※は初秋より北海を出て千曲川と阿加川の両大河に泝る、これ其子を産んとて也。女魚

一名を信濃川ともいふ、隈の字をも用ふ千曲川の水源は信濃越後飛騨の大小の川々あまた流れ併て此大河をなす也

千曲川と也。あか川の事はこゝにいはず、千曲川一名を信濃川ともいふ、隈の字をも用ふ千曲川の水源

北海新潟の海門におつる大河は阿加川と千曲川と也。あか川の事はこゝにいはず、千曲川一名を信濃川

。我が友信州の人のかたりしは、同じ所の人千曲川へ夏の夜釣に行しに、人の三人もをるべきほどのをり

京橋

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哥妓をつれて出奔し、江戸に下り余が家の京橋南街第一※対ひの裏屋に住しに、一日事の序に