乱世 / 菊池寛
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血気の若武者は、桑名城を死守して、官軍と血戦することを主張した。が、それが無謀
、意気揚々として、桑名藩へ殺到しようとして、桑名城の南、安永村に進んで、青雲寺という寺に本営を敷いた。
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つしかない。それは、城をいったん敵に渡して、関東に下り、藩主越中守の指揮に従い、幕軍と協力して、敵に当るより
士卒を城中に呼び集めて、評定の経過を語った後、関東へ発足するについての用意を命じた。命じられた藩士たちは、
関東へ下るということは、将軍家及び藩主定敬公と協力して官軍に当ると
場合には、我々が捨てぬでもよい城を捨てて関東へ下ったことは、全然徒労になる。その上、そこまで官軍に反抗する
「有様は、関東へ下って、慶喜公の麾下に加わって、一働きいたそうとの所存と見え
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に並べている時だった。燃ゆる赤熊の帽子を着た鳥取藩の士官が空地へ現れた。士官が、何か合図すると、大工たちは
それをきいた鳥取藩の隊長は、苦い顔をした。
市左衛門に指さされて、鳥取藩の隊長は、墓地を越えて、板塀の方を見た。彼の目に
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あることは、誰にもわかっていた。隣藩の亀山も、津の藤堂も勤王である。官軍を前にしては、背後に
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十人、隊を組んで、鳥取藩士は四日市、桑名、名古屋を中心に、美濃、伊勢、尾張の三国の村々在々を隈なく捜索した
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と、夜中潜かに軍艦に投じて、逃るるように江戸に下ったこと、幕軍をはじめ、会桑二藩の所隊は、算を
た。東海道筋には、官軍が満ち満ちている故に、江戸へ下り得るはずはない、近在に潜んでいるに違いないとあって、十人
寺ニ謹慎仰付候ニモ拘ラズ潜カニ脱走ヲ企テ江戸ニ下向再ビ錦旗ニ抵抗致サントシタル段重々不埒至極依テ銃殺ノ上梟首スルモノナリ
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桑名は、東海道の要衝である。東征の軍にとっては、第一の目標
桑名藩の本隊と分かれ、思い思いの道を取って本国の桑名に帰っていたものが、すべて十三人。彼らはいわゆる「浪花ヨリ分散
運命は決ったといってもよかった。官軍では、桑名の投降をいれると同時に、錦旗に発砲したこれらの諸兵を斬っ
処分はいい渡されなかった。が、万之助及び重臣たちが、桑名に帰されずに、四日市の法泉寺に抑留されたように、十三人の
彼が、奈良から、伊賀街道を伊勢に出で、桑名に達したのは、一月の十二日であった。
そのあくる朝、桑名の藩士たちは銘々、覚悟を決めて床を離れた。が、起き出でた
、二十人、隊を組んで、鳥取藩士は四日市、桑名、名古屋を中心に、美濃、伊勢、尾張の三国の村々在々を隈なく捜索
桑名の西北六里、濃州街道に添うて、石榑という山村があった。
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桑名藩で、馬回り使番を勤めて、五十石の知行を取っていた新谷格之介も
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次いで、同月十八日、官軍の先鋒が鈴鹿を越えたという報をきくと、同文の嘆願書を隣藩亀山藩へ送っ
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有栖川宮の先発たる橋本少将、柳原侍従が、錦旗を擁して伊勢へ入ったと同時に、近江から美濃へ入った官軍の別働隊があった。
鳥取藩士は四日市、桑名、名古屋を中心に、美濃、伊勢、尾張の三国の村々在々を隈なく捜索した。その中の一隊は、
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今般大阪表の始末柄、在所表へ相聞え、深奉恐入候に付き上下一同謹慎
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た。その上、元治元年の四月に、藩主越中守が京都所司代に任ぜられて以来、薩長二藩とは、互いに恨みを結び合って
の夢円かであった格之介は、その夏、不意に京都在番を命ぜられて、数人の同僚と出京して以来、所司代屋敷の
有様が、まざまざと目の前に浮んできた。旧臘京都を立つ前に、藩の御用飛脚から受け取った妻の消息の文面が、
なんとか御沙汰があるはずじゃが、もしかすると、京都へいったん伺いを立てたのかな。もしそれだと往復四日かかると
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法泉寺に抑留されたように、十三人の敗兵は、鳥取藩士の警護に付されて、四日市の北一里にある海村、羽津
好意によって、手回りの品物が給せられた。警護の鳥取藩士は、彼らにかなり寛大だった。が、生死の間に彷徨
かけようとする広い空地があった。そこで時々、警護の鳥取藩士が、調練をしていた。
に並べている時だった。燃ゆる赤熊の帽子を着た鳥取藩の士官が空地へ現れた。士官が、何か合図すると、大工
各々方、今夜はお別れでござる。我々に無礼を働く鳥取藩士への面当に、明日は潔い最期を心掛けようではござらぬか
築麻市左衛門から、格之介逃亡の旨を、警護の鳥取藩士に申し出でた。さすがに、その推定された逃亡の理由までは
それをきいた鳥取藩の隊長は、苦い顔をした。
市左衛門に指さされて、鳥取藩の隊長は、墓地を越えて、板塀の方を見た。彼の
寺という寺に本営を敷いた。その夜である。鳥取藩と芸州藩の諸隊が、この青雲寺を取り囲んだのは。錦の
ないとあって、十人、二十人、隊を組んで、鳥取藩士は四日市、桑名、名古屋を中心に、美濃、伊勢、尾張の三
その誤解は、うちとけた哄笑で済んでしまったけれど、鳥取藩士の格之介に対する追及は、それでは済まなかった。彼ら
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中の小道を南へ走ったのである。それが、奈良街道へ出たときも、彼は後悔していなかった。乱軍の場合
彼が、奈良から、伊賀街道を伊勢に出で、桑名に達したのは、一月
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た。三百名に近い下士たちは、足軽組頭矢田半左衛門、大塚九兵衛を筆頭として、東下論に反対した。彼らの言い分は