長篠合戦 / 菊池寛

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地名一覧

極楽寺山

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此時四十二歳)自らは柴田勝家を従えて、設楽村極楽寺山に本陣を据えた。嫡男信忠(年十九)は河尻秀隆を従えて、矢部村

桶狭間

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はこの一戦で敗亡の形を現したのである。桶狭間では必死奇兵を弄して義元を倒した信長は、ここでは味方の多勢

岡崎

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に囚われ、勝頼を詐いて城壁に近より、「信長は岡崎まで御出馬あるぞ、城之介殿は八幡まで、家康信長は野田へ移ら

旗下の諸将多く、家康も必勝を期せず、子信康を岡崎に還らしめんとした位である。

浜松

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年十二月二十二日、三方ヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家康を獲んとした。夏目次郎左衛門等の

天神城を開城せしめた。家康は、わずか十里の浜松にありながら後詰せず、信長は今切の渡まで来たが、落城と聞い

長篠城

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た。勝頼は聴かない。そこで馬場等は、では長篠城を攻め抜いた後に退けば、武田の名にも傷つくまい。今城に鉄砲

の言を聴いて許さない。非戦論者達は、では長篠城を抜いて勝頼を入れ、一門の武将は後陣となり、我等三名は

大野川

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争奪されたる所以である。城は、豊川の上流なる大野川滝川の合流点に枕している。両川とも崖壁急で、畳壁

壁急で、畳壁の代りを成している。東は大野川が城濠の代りをなし、西南は滝川が代りを成している。

野田城

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新年を迎え、正月十一日刑部を発して、三河に入り野田城を囲んだ。が、城陥ると共に、病を獲て、兵を収め

大手門

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を投げたが、夜襲成功と見て、城将貞昌は、大手門を一文字に開いて之を迎えた。奥平美作守貞能一番乗であっ

京都

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、三河より尾張に入り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったからだ。

岐阜

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康を攻めんとするのではなく、三河より尾張に入り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったから

の進出を阻み、鉄砲で打ちひしごうと云うのであるが、岐阜出陣の時、既に此の事あるを予期して、兵士に各々柵抜を

松山

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に兵三千、菅沼新八郎を教導として進発した。松山越の観音堂の前で各々下馬して、甲冑を荷って嶮所をよじ

蒲生

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長秀なんぞの勇将が控え、以上四陣地の東方には、蒲生忠三郎氏郷、森庄蔵長可、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛光秀等が陣した。

所で討死した。土屋右衛門尉も、池田紀伊守、蒲生忠三郎の備えを横合から突崩した。側の一条右衛門大夫信就に向って

大宮

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した。これ信長の新戦術である。北は丸山、大宮辺から南は豊川の流れ近い竹広あたりまで二十余町の間、二重

て正々堂々の攻撃を為すつもりである。即ち、浅木附近大宮表へは馬場美濃守信房先鋒として、部将穴山陸奥守梅雪(勝頼

の堅甲を射抜くべく待ち構えて居たのである。丸山、大宮を守る佐久間右衛門尉が五千騎に向って、浅木辺より進軍する武田勢

大久保

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布陣した。これが本営であって、左翼の先陣は大久保忠世兄弟、本多忠勝、榊原康政承り、右翼の軍には石川数正、酒井

の陣に来って、先陣せよと下知を伝えた処、大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門信成、金の軍配団扇に七曜の指物さした

手を負わしたと云うから大したものである。山県勢、大久保勢と押しつ押されつの激戦をくり返して居るうちに、弾丸で死する

小菅五郎兵衛赤のを指して、揚羽の蝶の指物した大久保七郎右衛門、金の釣鏡の指物の弟次右衛門と竹広表の柵の内外を

。物凄い中央突破である。昌景即ち人数を二手に分け、大久保勢の柵内に逃げ帰るを防いだ。山県の士広瀬郷左衛門、白の幌

も嶮しいので、渡ることが出来ない。徳川の士、大久保七郎右衛門、同弟次右衛門、六千の兵をもって、竹広の柵の前