川中島合戦 / 菊池寛
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諱字を賜り、晴信と称した。この年父信虎信州佐久の海ノ口城の平賀源心を攻めたが抜けず、囲を解いて帰るとき
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(4)木曾義康(木曾谷、福島城〈福島〉)
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裡、一万二千を以て、西条村の奥森の平を越え倉科村へかかって、妻女山に攻めかかり、明朝卯の刻に合戦を始める。謙信は
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関東の諸大名を威服し、永禄四年に北条氏康を小田原城に囲んで、その城濠蓮池のほとりで、馬から降り、城兵が鉄砲で狙い打つ
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かくて十日の午前二時半頃越軍は犀川の南方に東面して陣取り、剛勇無比の柿崎和泉守を先陣に大将謙信は
た。ただ小荷駄の直江大和守は北国街道を北進して犀川を小市の渡にて渡り善光寺へと退却せしめた。甘粕隊は遠く南方
味方の備を廻って立ちきり幾度もかくの如く候て犀川の方へ赴き候」との報告、信玄公聞召し、「さすがの浦野と
をみとどけて最後に退いたが、甲軍の追撃猛烈のため犀川に退却するのが困難になったので、東方に血路を開き三牧畠の
追撃をうけて或は討死し或は溺れる者が続出した。犀川は水量が相当に多いのである。
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(1)平賀源心(佐久郡。平賀城)
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糧食は今後将に十日にして尽きん。速に春日山の留守隊に来援を命じ甲軍の背後を衝かしめられては如何」と進言
ば策の施すべきなし」といえば、謙信笑って「春日山は厳重にしてあるから不安はない。晴信もし越後に入らば我亦甲府
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川中島に於ける上杉謙信、武田信玄の一騎討は、誰もよく知って居るところである
は、善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を南進し、海津城の前面を悠々通って妻女山に到着した。
。謙信は勝っても負けても必ず川を越えて、川中島に出でるであろう。その時信玄旗本八千を以って途中に待ち受け、前後より攻撃
あろう。越後の軍より草刈の農夫に化けた斥候が、川中島を右に左にはい廻ったのであろう。謙信は斥候を放って敵の
神号旗と孫子の旗がひるがえっている。時に濃霧(川中島の名物)が深く立ちこめて一寸先もみえない。甲軍は越軍が川中島に
柿崎隊と典厩隊との白兵戦は川中島の静寂を破り、突き合う槍の響き、切り結ぶ太刀の音凄じく、剣槍の閃き
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の
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(2)諏訪頼茂(諏訪郡。上原城)
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(3)小笠原長時(筑摩、安曇郡、深志城〈松本〉)
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。信玄案に相違して、諸方に斥候を放つと、旭山城に謙信の伏兵あるを知り、茶臼山の陣を撤して海津城に入った。
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(3)小笠原長時(筑摩、安曇郡、深志城〈松本〉)
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)村上義清(小県、埴科、更科、水内、高井諸郡、葛尾城)
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て、一は北国街道から大田切、小田切の嶮を越えて善光寺に出で、一は間道倉富峠から飯山に出た。
半、軍旅の好期である。飯山に出でた謙信は、善光寺にも止らず、大胆不敵にも敵の堅城たる海津城の後方をグルリと
西条山ともかく)に向った。北国街道の一軍は、善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を南進し、海津城の
一軍は、善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を南進し、海津城の前面を悠々通って妻女山に到着した
、静粛に行進して途中敵兵之を遮らば切りやぶって善光寺へ向うと心得べし
は北国街道を北進して犀川を小市の渡にて渡り善光寺へと退却せしめた。甘粕隊は遠く南方小森に於て妻女山から
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に居たので、長尾氏と称した。先祖が、関東から上杉氏に随従して越後に来り、その重臣となり、上杉氏衰うる
の上杉氏の嗣となったのではなくして、関東管領山ノ内上杉家を継いだのである。即ち三十二歳の時、山ノ内憲政から
その責任上、永禄三年兵を関東平野に進め、関東の諸大名を威服し、永禄四年に北条氏康を小田原城に囲んで、
武田の脅威を受けていては、謙信上洛の志も関東経営の雄志も、伸すに由ないのである。今北信の諸豪が泣きついて来
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穴山隊も死力をつくして激戦した。この時越の本庄、安田、長尾隊は甲の両角、内藤隊と甲軍の右翼で接戦し、
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嶮を越えて善光寺に出で、一は間道倉富峠から飯山に出た。
時正に秋も半、軍旅の好期である。飯山に出でた謙信は、善光寺にも止らず、大胆不敵にも敵の堅城たる
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を賜り、晴信と称した。この年父信虎信州佐久の海ノ口城の平賀源心を攻めたが抜けず、囲を解いて帰るとき、信玄わずか
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に出で、十九歳にして長尾家を相続し、春日山城に拠り国内を鎮定し、威名を振った。
が延びた以上、越後何ぞ安からんである。信濃から春日山城までは、わずか十数里である。常に武田の脅威を受けていて
陣触に及び、姉婿長尾政景に一万の兵を托して、春日山城を守らしめ、自分は一万三千の兵を率いて、一は北国街道から大田切、
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(4)木曾義康(木曾谷、福島城〈福島〉)
(4)木曾義康(木曾谷、福島城〈福島〉)
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海津城の高坂昌信は、狼烟に依って急を甲府に伝え、別に騎馬の使を立てて、馬を替えつつ急報した
きくと南信の諸将に軍勢を催促しつつ、十八日に甲府を立ち、二十二日には上田に到着している。その兵を用うる
てあるから不安はない。晴信もし越後に入らば我亦甲府をつかんのみ」と言ってすましていた。九月九日謙信は重陽
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地形判断の妙を極めたものであるらしい。凡将ならば千曲川の左岸に陣取って、海津城にかかって行ったに違いないのである
(午前四時)に海津城を出で、広瀬に於て千曲川を渡り、山県は神明附近に西面して陣し、左水沢には武田信繁