姉川合戦 / 菊池寛
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信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の
た治郎大輔義敏にくっついた。そして謀計を廻らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉
そして謀計を廻らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時まで
となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、代々昵懇の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえ
と云うのであった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
て、信長を排撃せんとした。その主力は、越前の朝倉である。
違約を怒って、こんな表裏反覆の信長のことだから、越前よりの帰りがけには、きっと此の小谷城へも押し寄せて来るに違いない。そんな
二千の兵を出し、形式的に信長に対する加勢として越前に遣わし、只管信長に頼った方が、御家長久の策であると云っ
越前にいた信長は、長政反すると聞いたが、「縁者である上、江北
長政も、越前に使を派して朝倉の援兵を乞うた。然るに、義景自ら出張せず
越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったと云われて
の作である。行光は正宗の父である。ところが越前の気比神社に真柄の太刀の鞘だけがある。其の鞘には、小豆が
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信長のことだから、越前よりの帰りがけには、きっと此の小谷城へも押し寄せて来るに違いない。そんな危険な信長を頼むよりも、此方から
を得て、横山城を救わんとし、二十五日小谷城を出で、その東大寄山に陣を張った。翌二十八日には、三十
この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井
浅井勢は総敗軍になって小谷城へ引上げたが、磯野丹羽守は、木下秀吉、美濃三人衆等に囲まれ
姉川合戦の直後、信長が秀吉の策を用いて、すぐ小谷城を攻め落したならば、長政の妻のお市殿には、未だ長女のお茶々
つまり秀吉は、後年溺愛した淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、豊臣家
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東北、近江の北境に在る金糞岳に発した梓川が伊吹山の西に至って西に折れて流るる辺りを姉川と称する。尚西流して
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姉川は、琵琶湖の東北、近江の北境に在る金糞岳に発した梓川が伊吹山の西に至って西に折れて流るる辺りを姉川と
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九尺、厚さ六分、幅一寸六分あり、鎌倉の行光の作である。行光は正宗の父である。ところが越前の気比
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催して、岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った。しかし、浅井が出でて戦わぬので、引き上げ
人に許されしものながら、先年久政の勘当をうけて小谷を追出され、濃州に立越え稲葉伊予守に所縁あるを以て暫時か
蒙るべしとおもひ、稲葉には暇乞もせず、ひそかに小谷へ帰り、赤尾美作守、中島日向守に就て勘当免許あらんことを願ひし
其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井
も臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士が三千余人は居る。長政と共に退却した者
。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、
、「然らば立ち帰りて、浅井に忠節を尽せよ」とて、小谷へ帰した。忍人信長としては大出来である。
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琵琶湖の東北、近江の北境に在る金糞岳に発した梓川が伊吹山の西に至って西に折れて流るる辺りを姉川と称する。尚西流
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、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。
かくて、織田徳川軍は姉川を挾んで浅井朝倉軍と南北に対陣した。
――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来りしものは、その半数――
――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来りしもの約五千――
ある。それだけの小笠原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも亦格別であった。
下心に挾む所ありと雖も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。其時節与八郎家来渡辺金太夫、伊達与兵衛、
――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――
。尚西流して長浜の北で湖水へ入っている。姉川というのは、閻魔大王の姉の竜王が此の川に住んでいるから姉川
、閻魔大王の姉の竜王が此の川に住んでいるから姉川と云い初めたという伝説があるが、閻魔大王の姉に竜王があると
、それならばこちらから、逆撃しようと云うので、姉川の左岸に進出していたから、浅井朝倉軍が展開するのを見るや
稍後退した。朝倉勢、すわいくさに勝ちたるぞとて姉川を渡りて左岸に殺到したところ、徳川勢ひき寄せて、左右より之れを迎え撃っ
、左右より之れを迎え撃った。酒井忠次、榊原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたの
も左右に崩れ立ったので、越前勢漸く虎口を遁れて姉川を渉りて退く。真柄父子殿して退かんとする所に、徳川勢の
朝倉勢が姉川を越えて、徳川軍に迫った時は、相当激しかったのだろう。
可成の驍将達も一時は相当やられたらしい。一時は姉川から十町ばかりを退却したというから、信長の旗本も危険に瀕した
たわけである。徳川家に関係のある本には、姉川の勝利は神君の力であるというように書いてあるが、そういうひいき目
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『三州志』によると、加賀の白山神社の真柄の太刀と伝称し来るものあり、柄が三尺、刀身
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が、兵馬剛壮、之を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分とし
と知ると、周章して、這々の体で、間道を京都に引き上げた。此の時、木下藤吉郎承って殿りを勤めた。金ヶ崎殿軍
京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の
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信長やがて、岐阜に引き上げ、浅井征伐の大軍を起し六月十九日に発向して、浅井
信長は、六月十九日二万有余の大軍を催して、岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った
京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の大軍を
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酒井忠次、榊原康政、左に本多平八郎忠勝、内藤信重、大久保忠世、自分自身は旗本を率いて正面に陣した。