島原の乱 / 菊池寛

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地名一覧

江戸

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侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。

を促す為、新に老中松平伊豆守信綱を上使に命じ既に江戸を発せしめたとの報がなされた。この報を受け取った板倉重昌は

始め幕命を受けて直ちに板倉重昌江戸を出発した時、柳生但馬守宗矩、折柄有馬玄頭邸で能楽を見物

、寄手の軍勢は数十万余にて候……(中略)江戸様よりの御詫に、切利支丹の百牲原に侍衆そこなはせ

深江

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、小浜、千々岩を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場の諸村に飛んだ。加津佐村の代官山内小右衛門、安井三郎右衛門両名は、

。加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜等十数ヶ村の

南有馬村

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島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と共に、

熊本藩

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隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、

の陣所を定めた。即ち北岡浜上り西南へ二百二十六間を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九間久留米

の母は法名をマルタと称し、四郎旗挙げに際して、熊本藩の手に捕われたのだが、母の為に臆するなく存分に働けと四郎

柳川

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形造り軍目付馬場利重を熊本勢へ、同牧野成純を柳川、久留米、島倉の営へ、榊原職允を佐賀の陣へ、林勝正を

但馬

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人、大矢野の甚兵衛、大矢野の三左衛門以下二千五百人、本渡の但馬、楠浦の弥兵衛以下二千人、上津浦の一郎兵衛、下津浦の治右衛門、島子の弥次

九州

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九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この

の事故日本全土を敵とするも懼るるに当らない。況んや九州の辺土をや。事成らばよし、成らずば一族天に昇るまでの事

の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命に従わないであろう。その為に軍陣は

充分に取寄せて諸軍に分った。二月初旬には、九州の諸大名も新手をもって来り会したから、信綱は令して諸軍の陣所

て出陣した水野日向守勝成は、「我若き時、九州に流浪して原城の名城なるを知る。神祖家康公が高天神城を攻め

有馬

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五千石の小名に過ぎない。恐らくは、細川の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命

に銃兵多いから、之を討てば味方に死傷が多かろう。有馬、立花の陣は地形狭くして馳駆するに利なく、結局特に鍋島、寺沢

薩摩

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天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、東西

島原城

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松倉重次は、江戸出府中の事であるから、留守の島原城は大騒ぎである。老臣岡本新兵衛は、士卒をして船で沿岸を偵察せ

島原城から繰出した討手の軍勢も散々に反撃を受けて、早々に退き籠城しなけれ

に押し降って襲撃放火し、その後、勢いに乗じて島原城を乗取るべしと定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処

島原藩

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を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九間久留米藩、次百九十三間佐賀藩、次四十間唐津藩、

伊豆

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智慧伊豆の謀略をもってしても、今は決戦する丈の道しか残されて

佐賀藩

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隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、国境以外は

川崎

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、馬に乗って重昌の後を追った。品川を駆け抜け川崎まで走りかけたが、ついに追い着く事が出来なかった。日も暮れて仕舞った

大阪

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「大阪の役に児子の功を樹てた事があったが、今日児孫の先登を

北有馬村

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島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と共に、熱烈な信者であった。彼等の父は嘗つて

加津佐村

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有江、堂崎、布津、深江、中木場の諸村に飛んだ。加津佐村の代官山内小右衛門、安井三郎右衛門両名は、信徒三十数名に襲われ、鳥銃の

高天神城

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に流浪して原城の名城なるを知る。神祖家康公が高天神城を攻めた時の如く、兵糧攻めに如くはない」

富岡城

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十一月十九日、寄手の軍は富岡城を攻めた。総軍一万二千分って五軍となす。加津佐の三郎兵衛、口野津の

島原

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放った。丁度この夏は干魃で烈日雲を照し、島原では深江村を始め時ならぬ桜が開いたりしたから、人民は容易

論議が各村庄屋の寄合の席で持ち出される。大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、宗徒等は此処に秘密のアジト

島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と

時に島原の領主松倉重次は、江戸出府中の事であるから、留守の島原城は

の武器を多く手に収めて居る。其上に元来が島原の人民は鳥銃製造の妙を得て居て、操作の名手も、少なくない

。間もなく四郎は警固の者四五十人と共に、島原の大江村に渡った。首謀者達は此処で相談した結果、先ず長崎

四郎時貞は不意に囲を解き、軍船海を圧して、島原に帰って行った。江戸幕府急を知って、征討の軍来る事近しと

さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に

の今日は江城に烏帽子の緒をしめ、今年の今日は島原に甲の緒をしむる。誠に移り変れる世のならひ早々打立候。

長崎

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幾多の信徒をつくった。当時海外折衝の要地であった長崎港を間近に控えた島原天草の地には勿論、苫屋苫屋の朝夕に

士の小姓となったが、十二三の頃辞して長崎に出て明人に雇われた。ある時一明人、四郎の風貌を観て

、勢いに乗じて島原城を乗取るべしと定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処ではない。将に、出動

つに分けて遣わし、日見峠、茂木峠に布陣して長崎を見下し、使をやって若し宗門に降らざる時は、一度に押し降っ

渡った。首謀者達は此処で相談した結果、先ず長崎附近へ人数一万二千余を二つに分けて遣わし、日見峠、茂木峠に

そこで、長崎進撃を差置いて、四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合し

初年信教の自由許され、カソリック教の宣教師が来朝し、長崎大浦の地に堂宇を建てて、朝夕の祈祷をしていると、どこ

熊本

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天性の英資は人々を驚嘆させた。幼にして熊本の一藩士の小姓となったが、十二三の頃辞して長崎

隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出した

率いて出府した。上使の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬忠郷、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟

並に、板倉重矩等は中軍を形造り軍目付馬場利重を熊本勢へ、同牧野成純を柳川、久留米、島倉の営へ、榊原職

の陣所を定めた。即ち北岡浜上り西南へ二百二十六間を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九

の母は法名をマルタと称し、四郎旗挙げに際して、熊本藩の手に捕われたのだが、母の為に臆するなく存分に働け

佐賀

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隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、国境

細川光利、久留米侯世子有馬忠郷、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。

純を柳川、久留米、島倉の営へ、榊原職允を佐賀の陣へ、林勝正を福岡唐津の軍へ、夫々遣わして、本営と

九間島原藩、次に十九間久留米藩、次百九十三間佐賀藩、次四十間唐津藩、次三百間は松平忠之兄弟、長蛇の陣

松山

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ず、軍使三度到って漸く帰陣した。大江口の松山に白旗多く見えるのを目懸けた鍋島勢も、白旗は単なる擬兵で

福岡

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営へ、榊原職允を佐賀の陣へ、林勝正を福岡唐津の軍へ、夫々遣わして、本営との連絡を厳重にした。

福島

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この職充は平常士を好んで、嘗つて加藤清正、福島正則等、国を除かれ家を断たれた時、その浪士数十人を

品川

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て出で、馬に乗って重昌の後を追った。品川を駆け抜け川崎まで走りかけたが、ついに追い着く事が出来なかった。日も

大塚

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開いた。前兵悉く城内へ行ったが、城の部将大塚四郎兵衛、相津左兵衛三千五百の人数で門を守って居るのと衝突した