賤ヶ岳合戦 / 菊池寛

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地名一覧

武蔵野

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、盛政は富山に引き退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫氏政と合戦中であったが、忽ち媾和して

河内

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であった」と語った処が、その武者が主人の河内であることが判り、互に奇遇を嘆じたと云う話がある。中学の

小谷

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市の方と云って、信長の妹である。始め、小谷の城主浅井長政に嫁し、二男三女を挙げたが、後、織田対朝倉浅井

姉川

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挙げたが、後、織田対朝倉浅井の争いとなり、姉川に一敗した長政が、小谷城の露と消えた時、諭されて

安土城

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が後見と定って居たのであるが、秀吉は、安土城の修復を俟って、三法師丸を迎え入れようとした。然るに岐阜の信孝

、和を容れ、山崎に帰陣した。三法師丸は安土城に入れ、清洲の信雄を移り来らしめて後見となした。天正十年十二

畿内

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に留り、山崎宝寺に築城して居住し、宮廷に近づき畿内の諸大名と昵懇になり、政治に力を注いだから、天下の衆望は

筑前

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勝家に腹切らせんとの結構なるべし、何とて、敵を筑前と思いけん、今日の敵は盛政なり」と云った。

高松城

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あるが、当時、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは

伊勢

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明くれば天正十一年正月、秀吉、かの滝川一益を伊勢に討つべく、大軍を発した。秀吉としては天下の形勢日々に険悪

居る処に、勝家出馬の飛報を受け取ったのである。伊勢の諸城を厳重に監視せしめて置いて、秀吉は直ちに長浜に馳せ来っ

岐阜の信孝は、先に秀吉と媾和しながら、秀吉が伊勢に向ったと聞くと、忽ち約を変じて謀叛したので、秀吉の

亀山城

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分ち、塁を堅くして守って居た。秀吉自ら、亀山城に佐治新助を攻めたが、新助よく戦った後ついに屈して長島に退いた

岐阜城

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伝え聞いた附近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取巻かれて仕舞った。信孝の方でも、逸早く救援を

越前

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の周章は一方でなく、戦半ばにして、勝家は越前に、盛政は富山に引き退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野に於て

、勝家の方でも亦、秀吉の襲撃を恐れて、越前への帰途、垂井に留り躊躇する事数日に及んだ。だが、秀吉

勝家は越前に帰り着くと、直ちに養子伊賀守勝豊に山路将監、木下半右衛門等を添えて長浜

の候に近い今、戦争をやるのは不利である。越前は北国であるから、十一月初旬から翌年の三月頃までは雪が深い

なし、長岡(後の細川)与一郎忠興を水軍として越前の海岸を襲わしめると云う周到なる策戦ぶりである。さて充分の配備を為し

小谷城

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浅井の争いとなり、姉川に一敗した長政が、小谷城の露と消えた時、諭されて、兄信長の手に引取られた事

両国

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老功の勝家、此処で合戦の月日を延し、其間に美濃伊勢両国に於て、信孝、一益等をして勢揃なさしめ、秀吉を挾討ちの計略と見えた。

京都

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輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日子の刻

この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣惟任日向守光秀の反逆に依っ

て来た。柴田を初めとした諸将の代官なぞ、京都に来ているが、有名無実である。更に十月には独力信長の

高松

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あるが、当時、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達した

富山

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なく、戦半ばにして、勝家は越前に、盛政は富山に引き退いた。又滝川左近将監一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫

岐阜

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驚き怒るけれども、機先は既に制せられて居る形である。岐阜の信孝も、勝家の救なくては、如何ともし難いので、長秀を通じ

伝え聞いた附近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取巻かれて仕舞った。信孝の方でも、逸早く

を俟って、三法師丸を迎え入れようとした。然るに岐阜の信孝は、三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。秀吉を

約を変じて謀叛したので、秀吉の軍勢は再び岐阜を囲むことになったのである。勝家の陣へは、苦しくなった

わけである。つまり誘いの隙を見せたわけである。岐阜の信孝は、先に秀吉と媾和しながら、秀吉が伊勢に向ったと

思う壺に入ったわけである。氏家内膳正、堀尾茂助を岐阜の押えとして残し、自らは一柳直末、加藤光泰二騎を従える

信長の手に引取られた事がある。清洲会議頃まで岐阜に在って、三女と共に寂しく暮して居たが、信孝勝家と結ば

福島

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で空しく暮れて行った。翌十二日の未明、秀吉、福島市松、中山左伝二人を連れて足軽の風態で、盛政の陣所行市山

の為に討止められた。佐久間勝政も、飯之浦で福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内等の勇士が槍先を並べて

此時の合戦に、両加藤、糟屋、福島、片桐、平野、脇坂七人の働きは抜群であったので、秀吉

堀切

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である。柴田勝政は三千余騎で、賤ヶ岳の峰つづき堀切辺りで殿戦して居たが、兄盛政から再三の退軍を命ぜられ

蒲生

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蒲生氏郷記