田原坂合戦 / 菊池寛
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親王を征討総督に任ぜられた。山県参軍は二十五日に博多に着き、征討総督も川村参軍を従わせられて翌日に御着、本営を勝立
、北条氏、足利氏等の九州征略の際にも、博多はその根拠地となった程である。薩軍にして、若し早く此地を
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二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後中原に出るか
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が、荒寥としていたのは、西南戦争当時の薩摩の人心の情勢が今もなおほのかに残っている気がして、興味を
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、其余の兵力は悉くこの守線に動員した。田原坂は特に私学校の精鋭をして守らしめた。薩将また各自に守る処
越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が出来ない
編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略に大きな役割を果したのであった。不意の吶喊に薩軍の周章る
て吉次、半高の諸山に連り、その支脈は更に田原坂、白木に及んで居る。
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をして行って説諭させんとした。これは江戸城明け渡しの因縁に依って、それを逆に行こうと云うわけであったが、
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一、汽船にて直ちに東京或は大阪に入るか
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西郷降盛が兵を率いて鹿児島を発したときの軍容は次の通りである。
薩軍が鹿児島を発した日から南国には珍らしい大雪となって、連日紛々として
三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を窺った後、時機を見て中央に出る
、敵がその何れの策に出づるを顧みず、海陸より鹿児島を攻むるにありとした。更に地方の騒乱を防ぐ為に、
自分は、昭和五年に鹿児島へ行ったが、西郷隆盛以下薩軍の諸将の墓地が、壮大であるの
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、日の三国で新に徴集したもの、及、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族で来り投じたものが合せて一万人
を為して之に応じて、熊本に来て合した。熊本の城下に於てさえ、向背の議論が生ずる有様で、ついに池辺吉十郎等
は、各々数百名の党を為して之に応じて、熊本に来て合した。熊本の城下に於てさえ、向背の議論が生ずる
二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後中原に出るか
論じた。曰く「軍を三道に分って、一は熊本を囲み、一は豊前豊後に出でて沿海を制し、一は軍艦に乗じ
勅使として遣わされようと云う議さえあった。然るに熊本からの報によれば、二十日か二十一日をもって開戦となろうと
一旅団、三好少将の第二旅団、総兵四千ばかりに、熊本鎮圧、歩兵第十四運隊の凡そ二千余が加って居た。勿論これ
事になり、あらゆる準備を怠らなかった。これから有名な熊本籠城が始まるのである。二月十九日、大山県令から西郷の書を
熊本鎮台司令長官
福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城すべしと云う急電を受けるや、すぐ引返した。二十二日
あった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城すべしと云う急電を受けるや、
に代えて強行軍を続け、真暗になった午後六時に熊本に達する事が出来た。この強行軍の一部隊の如きは、疲労の為
、桐野は山鹿方面を、篠原は田原方面を、村田及熊本隊は木留方面に陣した。野出、太田尾、三ノ嶽、耳取の天険
官軍の追撃急であり、若しこの一戦に破れれば、熊本包囲の事も水泡に帰するので薩軍は余軍のうち二千余をもっ
二、臼砲一)は高瀬から伊倉、吉次越を越して熊本を目指すこととなった。官軍の追撃急であり、若しこの一戦に
始め、第十三連隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城するに決心した谷少将
。向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急撃した事もあるが、大勢は既に決し
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との声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の党を為して之に応じて、熊本
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たが、西南の急変を知るや、直ちに奏して東京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。而して自ら戦略を決定したが、
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は畝傍御参拝の為軍艦に召されて神戸に御着、京都にあらせられた。陸軍中将山県有朋は、陛下に供奉して西下して
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月末明治天皇は畝傍御参拝の為軍艦に召されて神戸に御着、京都にあらせられた。陸軍中将山県有朋は、陛下に供奉し
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二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後中原に出るか
豊前豊後に出でて沿海を制し、一は軍艦に乗じて長崎を襲う」と、云うのだ。処が桐野利秋が反対して、
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車馬を雇わざるを得ない程であった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城
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の報が東京に達すると、政府皆色を失った。大久保利通は、悒鬱の余り、終夜睡る事が出来なかったと云う。そして自ら
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私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府皆色を失った。大久保利通は、悒鬱の余り、
て居たが、西南の急変を知るや、直ちに奏して東京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。而して自ら戦略を決定した
一、汽船にて直ちに東京或は大阪に入るか
東京政府の狼狽は非常であった。三条実美、伊藤博文等は平和論を
当時東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者として、田原坂