小田原陣 / 菊池寛
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を示して居る。今、十国峠あたりから見ると、山中は湯河原なんかと丁度反対側の小集落だ。併しとに角、箱根山塊の一端だから「
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関東の北条
にとって、日本国中その勢いの及ばないのは唯関東の北条氏あるだけだ。尤も奥羽地方にも其の経略の手は延びないけれど
時でも、秀吉の頭を去らなかったのは此の関東経営であろう。だから、此のお目出度が終ると直ぐ、天正十六年五月
一体関東に於ける北条氏の地位は、伊勢新九郎(早雲)以来、氏綱、氏康、氏政
独り不可なりと反対し、箱根の天嶮に恃み、小田原及関東の諸城を固めて持久戦をする事を主張した。此は元来北条氏の
六月二十二日には、関東の強鎮八王寺城が上杉景勝、前田利家の急襲に逢って潰えて居る
これは有名な「関東の連小便」の由来だと云うが、どうだか。
思う。せめて氏直氏規の二人に、七八十万石をやって、関東に北条家を立てさせた方が家康を制肘する役に立ったので
秀吉に面倒をかけていないが、しかし、北条家が関東の大藩として残っていた方が、徳川の勢力が、あんなにも
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格だ。これを除けば、東日本に於て目ぼしいものは米沢城に在る独眼竜、伊達政宗位だけだ。北条氏は、箱根の天嶮で、
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行ったとあるから、兎に角強いものである。小田原陣直後奥州の辺土へ転封され、百万石の知行にあきたらず、たとえ二十万石でも
この陣中、奥州の政宗が初て御機嫌伺いに来たとき、大軍の手配を見せてやるとて
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考えてみて、駿府あたりに開府するより、広濶な江戸に清新な気を以て幕府を開いた方が、家康にとってどれ位
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遠州今切港や清水港に投錨して居るのだから、小田原城は丁度三面包囲を受ける形勢にある。
中にあって、十万七千の包囲軍はひしひしと犇き合って小田原城に迫って居る。
相模湾には水軍の諸将が警備の任につき、今や小田原城は完全な四面包囲を受けて居る。此の時北条方にとって憎む可き
説いて居る。そこで秀吉が実地検分してみると、小田原城を真下に見下して、本陣としては実に絶好の地だ。よいと
前面の杉林を切払って模擬城を築いた。一夜明けて小田原城から見ると、石坦を築き、白壁をつけた堂々たる敵営が聳えて居る
、長束正家なんかが共同でやった仕事だから、姑息な小田原城の将士の度肝を抜くことなんか、易々たるものだったと思う。
十四万八千人に上った。併し流石に天下の名城だけに、小田原城の宏大さは一寸近寄り難い。
小田原城の陥落
方面に散在して居る諸城は、相次いで陥落し、小田原城は愈々孤立無援の状態にある。
忍城の成田氏長の様な勇将もあったが、小田原城の士気は全く沮喪して仕舞った。
これより先の一日、秀吉は家康と石垣山から小田原城を俯瞰した。
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、城南湯本口には池田輝政、堀秀政等の大軍が石垣山から早川村に陣を布いて居る。その上、相模湾には水軍の諸将が
此れが有名な石垣山の一夜城であって、湯本行のバスの中なんかで、女車掌が必ず
六月二十六日、本普請にかかって居た石垣山の陣城が落成した。その結構の壮偉なるは大阪、聚楽に劣り
これより先の一日、秀吉は家康と石垣山から小田原城を俯瞰した。
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の無二の味方とでもなると思ったのだろうか。九州の島津に寛大でありながら、北条氏に少し苛酷である。尤も、島津は
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たことは想像出来るのである。だから先に秀吉が駿府城に迎えられた時、率直な秀吉は馬から下るやずかずかと進み、信雄、家康逆心ありと聞く
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、早くから北条氏には随分手を焼いて居る。つまり箱根と云う天然の要害に妨げられたからである。謙信など長駆して来て
とした。此の時松田憲秀独り不可なりと反対し、箱根の天嶮に恃み、小田原及関東の諸城を固めて持久戦をする事を主張し
四月五日、秀吉は本営を箱根から、湯本早雲寺に移した。山の中とはことかわり、溌溂たる陽春
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。斯くて二十七日には、家康や信雄に迎えられて沼津城に入って居る。
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氏政と連綿たる大老舗の格だ。これを除けば、東日本に於て目ぼしいものは米沢城に在る独眼竜、伊達政宗位だけだ。北条
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氏の向背が一度決すれば、他は問題ではない。箱根山を千成瓢箪の馬印が越せば、総て解決されるのである。
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の淀君を呼び寄せて居る。淀君が東下の途中、足柄の関で抑留した為、関守はその領地を没収された様な悲喜劇
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名君の誉ある父の氏康の心痛は思いやられる。氏康は川越の夜戦に十倍の敵を破り勇名を轟かした名将で、向う創のこと
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の陣城が落成した。その結構の壮偉なるは大阪、聚楽に劣り難しと、榊原康政は肥後の加藤清正に手紙で報告して
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月二十八日、秀吉は沼津を発して三島を過ぎ、長久保城に入って家康と軍議を凝らして居る。小田原攻撃の前哨戦は、先ず誰が
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、生れて始めて見るだけにひどく心を愉しませたらしい。清見寺から三保の松原を眺めて、
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盛った汁を各自の飯椀にかけるのだった。先日、京都の普茶料理を喰べながら、この逸話を思い出した。普茶料理に昔のおもかげ
のである。秀吉に上洛を迫られた時、忙しくて京都まで行って居られぬと断った。尤も氏政にしてみれば徳川家康
三月朔日、いよいよ秀吉の本隊も京都を出発した。随分大げさな出立をしたものとみえ、『多聞院
を引いたのは氏政だろう。首は氏照と一緒に、京都一条の戻橋で梟されて居るのである。
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着て伊達を競ったから、見物の庶民は三条河原から大津辺迄桟敷を掛けて見送ったと云う。
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だから、四万四千の寄手も相当に苦戦である。流石の福島正則みたいな向う見ずの大将も、一時、退却したくらいだ。実際
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そこも落されて、小田原に籠り、小田原落城後、武州金沢の称名寺にかくれていたが、秀吉之を呼び出し、「勝家の甥
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天正十八年二月七日、先鋒として蒲生氏郷が伊勢松坂城を出発した。続いて徳川家康、織田信雄は東海道
精鋭をすぐって、信雄と氏郷の陣を夜襲した。蒲生氏郷自ら長槍を揮って戦い、胸板の下に三四ヶ所鎗疵を受け、十
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酒匂川を渡って城東には徳川家康の兵三万人、城北荻窪村には羽柴秀次、秀勝の二万人、城西水之尾附近には宇喜多秀家の